過去は甘くて切なくて

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作者:鶴我 零
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読了時間目安:5分
お忘れ物のないようご注意ください、というアナウンスが降りる駅が近づいていることを知らせる。
長旅のお供にと買ったアップルパイはもう半分も残っていない。
旅人に向けて売り出されたアップルパイは車内でも食べやすいサイズで、あちこちで話題になっていただけあってとても美味しい。それでも申し訳ないことに少し物足りないのだ。

父は考え方が少し昔の人寄りなせいか、台所に極力立ち入ろうとしなかった。紅茶ですら自分で淹れなかった。
そんな父が唯一台所に居座るのがアップルパイを作る時だけだった。
週末の夜に父がバターと小麦粉を取り出して混ぜ合わせ始めたらワクワクが止まらなかった。一晩寝かされるパイ生地に思いを馳せ、ふっくらと焼き上がる様を夢に見るのだ。
そして次の日、りんごが刻まれ煮込まれたあたりでお客様が来るのだ。
コツン、と窓を叩く小さな音。
コンポートの匂いにつられてやってくるのは1匹のカジッチュだった。
初めて来たときは招き入れてもいいか悩みに悩み窓を挟んで睨み合っていたが、母のいらっしゃいの一言であっさりと招き入れられたのだった。
それから父がアップルパイを焼く日は決まってカジッチュが顔を出すようになった。
母が入れた紅茶に、少し甘めの焼き立てアップルパイ。そして小さなお客様。
懐かしい光景はいつも暖かかった。

旅がもたらす郷愁のせいか、昔の味を思い出しながらアップルパイを食べ終える。ちょうど次が降りる駅だった。
手早く荷物をまとめて降車し、そこからさらに移動してやっと地元に到着する。朝早くに出発したのにもうすっかり夕暮れ時だ。遠くに見える懐かしの家が橙色に染まっている。
きっと気持ちのせいだろう、記憶よりも時間をかけて玄関前にたどり着いた。もうりんごのコンポートの匂いはしない家。
インターフォンを鳴らさないと開くことのできない扉の前に立ち竦んでしまう。
そんなときだった、聞き覚えのある小さな鳴き声が背後から聞こえた。
まさかと振り返るとそこにはカジッチュがいた。
「もしかして、いつもうちに来ていた……?」
そう問いかけると体を揺らしながら嬉しそうに答える。
「はは、もうアップルパイはないのにな」
健気とは言わないんだぞそれは、なんて思ってしまうが、再会の喜びに膝をつき手を差し出す。
すると飛びついてきたから抱き上げてやった。しばらくじゃれついて、すり寄ってくるカジッチュを撫でてやる。
そうしていると、カジッチュが肩にかけていた鞄を気にしてそちらに体を向ける。
どうしたのだろうと暫く様子を見ていると、一つ思い当たるものがあった。
長旅のお供に買ったとき、一緒に購入したものだ。
カジッチュを片手に乗せてもう片方の手で鞄の中を漁る。底の方で確かな重量を感じさせるそれを手に取りカジッチュに見せてやった。
カジッチュよりも少し小さくて、つやつやしていてまん丸い。
真っ赤なりんご。
アップルパイと一緒に買ったのだ。どうしようもないのに手に取ってしまったのだ。
だからあげるよ、と差し出すと掌の上でカジッチュが飛び跳ねた。
跳ねるカジッチュに慌ててバランスを取りながらもりんごを齧っていくのを見守る。
こうやって美味しく食べてもらった方がりんごも本望だろう……なんて考えていたらカジッチュの体が光り始めた。
何が起こってるのか全くわからないまま呆けた顔でただ見ていると、光はどんどん大きくなり、一際強く輝いた。
反射的に目を閉じ、光が収まったのを薄目で恐る恐る確認する。
もう片手だけでは抱えられない、先程よりも確かな重量感。
そしてりんごのような赤い姿ではなく……
「あ、アップルパイ……??」
そうとしか形容できないような特徴の姿になっていた。
見知った姿から全く違う姿形への変化。
ポケモンに詳しくなくても知識として記憶の中にある。
「まさか、進化したのか……」
両掌の上でぷりゅぷりゅと喜んでる風な元カジッチュとは対照的に情報が処理しきれず立ち尽くしてしまう。
そうしていたらいつの間にかいつの間にか玄関扉は開いていて、柔らかい眼差しで母がこちらを見ていた。
「おかえりなさい」
その一言でここまでの道のりで冷たく沈んだ気持ちが軽くなる。
「あら、あなたカジッチュ……?進化したのかしら?あなたもおかえりなさい」
あとでお名前調べないとねと笑う母に、自然と一緒に声が出た。
「ただいま」
元カジッチュと扉をくぐる。
昔みたいな紅茶と甘い匂いが胸いっぱいに広がった。

また、暖かいひと時が始まる。


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