老人と蓮

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作者:ジェード
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 長く生きるにつれて、何事も慣れるものであります。私とて、知人友人の葬儀に出席するのも、そうでありました。十を越えたくらいで数えるのを止め、回数と反して減っていく同窓を、侘しく思っていたのです。喪服を卸す事に、何の慌ただしさもなくなって、長生きをした者同士で「スーツを着ると仕事していた頃を思い出す」という思い出話を咲かせる程でした。
 唯一、そのような心持ちでなかったのは、長年伴侶として連れ添った、妻の葬式であります。





 日当たりの良い庭には、静やかな青緑をした蓮池が、あぶくを吹くかのような大量の藻を出して、青臭い匂いのまま放置されていました。私の妻が、生前には自分の子供かのように手入れしていた、蓮池でありました。いくつかあった鉢植えも倒れ、そのまま乾いた風土と化しているくらいです。
 妻は世話好きな人でした。子がいない我々夫妻の物寂しさを忘れたいかのように、広い庭を自分の好きなように彩っていました。私が定年退職してからは、時折「お爺さん、今日も頂きましたよ。綺麗でしょう」と紅色の蓮の花を、花入れに入れて私に見せていました。彼女にとっては、実際に子供のようなものだったのでしょう。毎日、手を泥まみれにしながらも、甲斐甲斐しく世話していたのを憶えております。
 淋しいというには月並みで、寂寞というには、いささか軽薄な。そのような気持ちを日々抱えておりました。彼女を見送ってから数ヶ月。手塩に掛けた蓮池がみだりに放置されているのは、私の心模様を現してるかのようで見ていて悲惨でありました。このまま、永遠に手入れされない蓮池と共に、漠然と余生を過ごすこと。あの池が枯れていく様が、私には他人事ではなく、不安が纏うのです。
 私が、そのような虚しさを携えた画角にて、毎日あの蓮池を眺めていると。ある日、一つの大きな蓮の葉が、ゆたりと水を滑るかのように流れてきました。
「すぼ」
 野生のハスボーでした。
 私に挨拶するかのように、口からぴゅうっと水しぶきを出すと。流れのない濁った青緑の水の中を、時折、空色の体を覗かせながら漂っていました。
 今となっては珍しい、新しい出会いというものであります。この老いぼれた私には、もう若い人も何も好き好んで寄りはしないだろう。そのような考えが、隅に根を張っていましたから、一抹の卑屈さと共に私は声を発したのです。
「ばあさんなら、友達になれたろうな」
 ハスボーは、老人の独り言に耳を傾ける気もあるはずなく。近くの蓮の花に身を寄せていました。
「すぼすぼ」
 白い花弁は、何層かに重なり、手を広げたかのように水辺に浮かんでいます。滑るように、ゆっくりとハスボーが花の合間に流れ着くのでした。船を港に着けるようにも見えて、何だか微笑ましく思ったのを覚えております。
「すぼ、すぼぼ」
 何をするでもなく、その水面にて映る私とハスボー自身。それらを、じいっとハスボーは見ていました。流れもせせらぎもない、不変的な水辺。風音のみが聞こえる、個と個の空間でした。私とハスボーのみが、そこに点在しているかのような。それほどまでに、閑静な有様であったのです。
「お前さんも、この池が好きなのか」
 こう語りかけている時には、既にこのハスボーに同士の気を感じていたのでしょう。それとは別に、妻が大事にしていた蓮の花達が、このまま野ざらしにされるのは忍びないとも思っていました。そのような理由から、私は妻の後追いの形で蓮池の管理をし始めたのです。私の浅薄な思いつきも、彼女はわかっていたのかもしれません。遺品整理にて出てきたノートの一冊には、手書きで蓮池の管理方法が記されていました。
 『ハス坊 レポート』という題でした。ハス坊という、そういう名前だと、おそらく彼女は勘違いしていたと思われます。
「ばあさん、ハスボーってのは種族名だよ」
 私の独り言には、少しばかりの感傷の混じった喜びが詰まっていました。その日から、私による蓮池の跡継ぎが始まっていくのでした。あの人に気に入ってもらえるような、そんな蓮池に戻せたら。そのような希望もあり、ノートとシャベルを生活に添える日々に変わっていったのです。





 私が蓮池の手入れをし始めて、真っ先に気がついたことがあります。それは、植物は人間の手を借りずとも、実に力強く生きているということです。
 池にはすっかり、粘り気の強い藻が湧いて、網のように広がっていました。しかし、そんなことは関係ないかのように、蓮の花は皿のような花弁を広げていたので驚きです。植物の世話というのは、案外寂しさを埋める為の、人間のエゴだったのかもしれません。
「今は、自分だけの池じゃないからな」
 重たく、泥を纏う蓮根を掘り出す私は、言い聞かせるようでした。日差しがじりじりと肌を灼き、被った麦わら帽子の合間から、汗が滴るのを感じるのでした。『ハス坊 レポート』にあった、水の入れ替えと植え付けです。
 妻が好んでいた、紅い蓮の花は今は池にありませんでした。白い花よりも大きな種で、取り寄せてみると、思った以上の重量に驚きました。あの人が、健やかに老衰という形で息を引き取ったのは、この運動量が必要だったからかもしれません。「お爺さんも、気に入ると思いますよ」と私に時折、白い花よりも特別なように、見せていたのが印象的です。
 紅い蓮の株を泥に埋めると。日に分けて、少しずつ池に水を行き渡せます。始めは泥と混ざった汚水が、時間が経つにつれて、緑を湛えた涼やかな青色に戻っていく様を見ていました。
 手を入れてみると、深さと共に生来の冷たさを芯で感じるのです。陽の当たる部分は粘り気のある温かさでした。私はあのハス坊が、ぷかぷかとひたすらに浮かぶ気分が、初めて分かりました。底に沈む泥土は、柔らかく重たい。おそらく、植物にとっては布団のような存在でしょう。このような気づきは、園芸に関わって初めて知ることでありました。


「すぼっ」
 ハス坊と二度目の対面を果たしたのは、水の入れ替えを終えた翌日でありました。黄色のくちばしを尖らせて、元の姿になりつつある蓮池を、端から端まで眺めていました。私からすれば、ちょっとした感心の意すら感じる、そのようなご意見番にも見えました。
「よう、ハス坊。ナナシのみでも食べるかい?」
 震える指にきのみを挟み、ぎこちない手つきで、私がきのみを一口大に切って浮かべてやります。点々と池に浮かぶ、黄色のきのみ。ハス坊のお気に入りらしいそれは、あやつの目線を釘付けにしていました。
「ぼすぼす」
 今まで呑気に浮かんだ蓮頭は、生物本能を取り戻したかの俊敏さで、食い付きました。しゃくしゃくと、固いきのみを噛み砕く音が小気味よいです。実に短い足にて、水面下では激しく動かしているのだというのが、私には不思議な事実でありました。
「す、ぼぼぼ……」
 放物線を描く「みずでっぽう」。熟しきって酸っぱかったようです。ハス坊は、以前に会った時よりも、活き活きとしていました。感情豊かに振舞っておりました。大きな葉の頭をふるふると震わせ、つぶらな瞳をぎゅっと瞑っています。
「気に入ったら、またお前の友達を連れてきてくれんかね」
 蓮の葉に乗り上げ、動かずじっと日向を浴びるハス坊に私は話しかけていました。妻に嫉妬するならば、ハス坊だけでなく、その友達とも仲が良かったことでしょうか。彼女の『ハス坊 レポート』には、その子との交流記録も書いてあったからです。
 器状の頭に、ガラス玉にも似た水滴を載せて。太陽を燦々と浴びては、光を帯びた雫が、青緑の池に反射光を散らしています。静かな水面はそのまま、ゆらゆらと風に揺れるハス坊を映していました。いつ見ても全く変わらない、そのような呑気な顔つきでありました。


 ハス坊は、晴れた日に私と会話するようになりました。会話だと思っているのは、私の一方的な寂しさ故かもしれませんが、それでも私は何処かで晴れの日を待ち望んでいました。
「お前は雨が好きじゃないのか?」
 私が最もらしく問いかけても、ハス坊は池に浮かび続けます。自分の気が向いた時のみ、私の方を向いては物欲しそうにしていました。そういう時には、必ずくちばしを半分だけ水面から出して、尖らせていたので私にも分かりやすいのでした。
「これがいいのかね」
 ホースリールを蛇口に繋げ、私が放射状にたくさんの水を降り注いでやると。ハス坊は、短い前足を水面から上げて、蓮の花を揺らすまで喜びました。何度も水面を荒げ、気の赴くままに池を滑るように泳いでいました。
 私が植えた、紅い蓮の花もほとんどは順調に池に馴染んだようでした。今は黄緑色のつぼみとして、楽しみを募らせるように膨らんでいます。ハス坊も気にかかるようで、来る度につんつんとくちばしでつついて、その様子を確認していました。
「咲くのが楽しみだな、ハス坊」
 私とハス坊は、紅や薄桃に染まりゆくつぼみを楽しみにしていました。青々と葉を広げた蓮に加えて、新たな彩りが蓮池に加わるのを、夢見ていたのです。





 その日のハス坊は、いつもと違う顔つきでした。と言っても、おそらく分かってくれるのは私の妻くらいのものです。
「すぼ!」
 ちょっとだけ元気な声で、誰かを呼ぶように鳴いてみると。蓮の葉に隠れていた、紫の触覚が姿を現しました。
「うぱ」
 野生のウパーでした。
 ハス坊よりも元気なウパーは、何度も私を見て庭を確認すると。池に浮かぶ蓮の葉達を、足場にして元気よく跳ねていきました。無邪気なその様子を、ひたすら私は眺めては、笑みをこぼすばかりです。
「お前が友達だね。ズリのみが好きなんだろう?」
「うーぱ!」
 非常に素直な元気にて答えます。前よりも手馴れた要領で、きのみを池に浮かべてやります。赤ピンクの粒をひとつ一つ頬に貯めていくウパーに、ナナシのみをゆっくり噛み砕くハス坊。その姿は、まさしく『ハス坊 レポート』にあった妻の記述でありました。
 そして喜ばしいことに、一番陽の当たる場所の紅い蓮の花がいくつか咲いておりました。花弁は萼に近いほど白くなりゆき、雄しべの黄色が映えている美しさであります。残りもつぼみが色付き、開花が近いことを知らせておりました。静謐なる色彩美で、今日も池の脇役を演じています。
 膿んだような緑の池も、すっかりと元の深い青緑に戻っていました。ハス坊の頭の葉に乗り、遊覧船のようにくつろぐウパー。白い花弁がいくつか浮かび、舟のようにすべっていく。水面には半透明な鮮やかさで、青空と山々が映り込んでいる。その様子をらんらんとした瞳にて、ウパーは目に収めていました。
「すぼ」
 またゆっくりと舟を漕ぐようにして、水面を流れてきたハス坊。しかし、その様子は普段とは違いました。くちばしには、赤みがかった蓮の花が携えられていたからです。
「ハス坊、それは私にかい」
「すぼ」
 あの小生意気なハス坊は、初めてにっこりと笑っていました。そして、私の血管の浮き出た腕に押し付けるかのように、蓮の花を手放します。
「本当に、私にかい」
「すぼぼ!」
 池に映る老人は、困惑を描いた眉をしていました。渡された紅い蓮の花を持ってみると、やはり妻が私に花入れとして渡してきた記憶が蘇ります。彼女は、「頂いた」なんて言っていました。そして、白い花は飾りはせず。それは、最初こそはハス坊とあの人の友好の証に思えましたし、実際に私自身がハス坊らに認められた証なのでしょう。
 しかし、『ハス坊 レポート』の存在とハス坊に関する記述の数々は。紅い蓮の花だけを私に見せてきたのは。そして、この蓮池の手入れの全てを遺したのは。まるで、寂しい誰かを癒す為に見えて、なりませんでした。孤独な老人を思った、大掛かりな優しさにしか、今は見えませんでした。
 胸の奥が、すっと凍えては溶けていくような。白んだ思考と褪せた記憶が、色彩を取り戻したかのように溢れてきました。
「全く、お節介なばあさんだよ。お前もそう思うだろう?」
 池に映る老人は、しばらくウパーがぱしゃぱしゃと上げた水しぶきによって、波紋で歪み見えなくなると。次には、見慣れぬ笑顔にて、自ら池に込み上げた感情を落としておりました。
 握った茎は冷たく。水を撥ねる花弁はみずみずしい色で咲いていました。私の思いなど余所に、生を切り取られた力強い美しさです。これから、死に緩やかに近づいていく私とは、対比的な。
 そのような生きる美しさを、凛々しく物語ってもいるようでありました。

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