10年後の春

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作者:フィッターR
読了時間目安:29分
 道端に積もる落ち葉を掻き分けて、ふきのとうが顔を出している。
 ああ、今年もこの町に春がやってきたのだな。ひび割れたアスファルトの路面を歩きながら、スイクンは下り坂の先へ目をやった。
 坂の下に立ち並ぶ家々。その先に広がる広大な海と、その先から登る朝日。その美しい光景を、ヒトよりもずっと長い時を生きていたスイクンは、おそらくヒトよりもずっと少ない回数しか見ていない。
 きっと今も、この景色をもう一度見たいと願っているヒトは大勢いるだろう。そんな景色を今、スイクンはただひとりで眺めている。自分がヒトからこの町を奪ってしまったようにも思えて、ばつが悪かった。
 ヒトがほとんど通らなくなって久しいアスファルトの道を踏みしめながら、スイクンは坂道を下っていく。その先にある、ヒトが消えたヒトの町へと向かって。


 あれから、もう10年になるのか。



一.学校



 ヒトの町の中をこんなにも堂々と歩くことができる日が来ることになるとは、かつてのスイクンは夢にも思っていなかった。
 ヒトはスイクンの物珍しさ、長寿さ、そして他のポケモンが持たない、水にまつわる神秘の力を畏れ、敬ってきた。そんなスイクンの力を手に収めんと試みた悪人もいた。それゆえに、スイクンはヒトの近くで生きていながら、ヒトの町の中で生きることができなかったのだ。
 とはいえ、こうなってしまってはもうここも『ヒトの町』と呼ぶことは適切ではないかもしれない。田畑は草藪に変わり、家々は消え去り、道行く住人は影も形もない。残っているのは舗装の傷みが進んでいる道路と、まだ取り壊されていない、壊れかけた僅かな建物くらいのものだ。
 かつては家々と田畑が並んでいた一面の枯野を横目に、スイクンは足早に歩みを進める。ヒトがいなくなってしまったこの町の、最後の住人となってしまった友人のもとへ。
 川を渡り丘を登った先に、ここではもはや残り少なくなってしまった建物が残っている。
 ここは、かつてこの地に暮らしていたヒトの子どもたちが通っていた学校の名残りだ。都会に移り住むヒトが増えてからはこの地の子どもも随分減ってしまっていたが、それでもここは毎日にぎやかな子どもたちの声が響いていた。まだ当分は、その声を聞くことができるだろうなとスイクンも無邪気に考えていた。10年前のあの日までは。


「……誰かと思えばスイクンさんじゃないか! おかえり! 大変だっただろう?」
 開け放たれた体育館の扉をくぐると、大輪の花が出迎えてくれた。この学校だった場所をねぐらにしているフシギバナだ。
「この町の外を色々見に行ったんだったよね。どうだった? なにかいいモノは見れたかい?」
 子どものようにはしゃぐフシギバナを見ていて、スイクンは後ろめたかった。
「あいもかわらず、といったところだ。疫病が流行っているという話を町のポケモンから聞いたが、その割には賑やかな祭りのようなものも見たよ」
「祭り? こんな時期にやる祭りなんてあったかな……どんなだったんだい?」
 フシギバナは首を傾げる。
「けたたましい音を立てる自動車の群れに挟まれて、松明を掲げたヒトが走っていたんだ。加持祈祷の類かとは思うが……あんなものは初めて見た」
「ははは、気楽なもんだねえ」
 見たままのことをスイクンが伝えると、フシギバナは笑みを浮かべた。喜びよりも、あきれのほうが前に出た笑いだった。
「まあ、にぎやかなのも駅前だけの話だ。町には相変わらず人気はなかったよ。なにせそう遠くないところまで、ヒトに気づかれずに近寄れるくらいだったからな。
 ついに町にヒトが帰ってきたのかと最初は思ったが……その祭りが終わった後に、残る人間はいなかった」
 話が終わらないうちに、フシギバナの顔からはあきれた微笑みさえも消えていく。こうなってしまうことは予想はついていたが、現実になってしまうとやはりスイクンの心は痛むのだった。裏切られることは万にひとつもないとは分かっていても、裏切られてほしい予想というものは誰もが持っているものだ。スイクンもフシギバナも、そんな予想を抱えていて、そして同じ時に、同じように裏切られなかったのだ。
 もはや運動靴が足音を立てることも、ボールが跳ねまわることもない体育館に、静寂がしばし走る。
「……なるほどね。駅前でそうなら、ここの町のことなんかは推して知るべし、ってわけだ」
 ため息とともに、静寂を破ったのはフシギバナだった。
「みんなもう、ここのことなんか忘れちまったのかなあ……」
 懐かしげな目で、フシギバナはガラスの割れた窓を見上げていた。


 ついてきなよ、とフシギバナに促されてスイクンが足を踏み入れたのは、かつては教室として使われていた部屋のひとつだった。
 かつてヒトが使っていたであろう本や道具が、まだいくらか残っている。だが窓は割れ、壁も傷みが進んでいる部屋の中で、それらのものも朽ちて原型を失いつつある。
 フシギバナは、すでにあちこちが錆びて崩れかけている鉄の戸棚の扉を開けて、その中から一枚の紙を取り出した。
「あれからもう10年になるのか。早いもんだね……」
 フシギバナはそう呟きながら、蔓のムチを伸ばして紙切れをこちらに差し出す。
 差し出された紙切れは写真だった。棚の中に大事にしまわれていたおかげか、この写真は部屋の中のものほど朽ちてはいない。
 写っているものはまだはっきりと見える。10人いるかいないかのヒトの子どもと、大人がふたり。真ん中にいるしゃがんだ大人の手前には、ちょこんと座ったフシギダネの姿が写っている。
 スイクンとフシギバナとの付き合いは10年より少し短いくらいだが、スイクンがこんなものを見せられたのはこれが初めてだった。そういえばこのフシギダネ、出会った頃の彼にそっくりだ。
「このフシギダネはきみなのか」
「そうだよ。あの年にこの学校を卒業したみんなとの記念写真だ。撮ったのは10年前の今日、から……確か、2週間前くらいだったかな。もうそのへんもうろ覚えさ。なにせあの日のことが強烈すぎてね……」
 フシギバナはまた悲しそうな笑みを浮かべている。そんな彼にかけてやるべき言葉を、スイクンは見出すことができなかった。
「大きな地震があって、町のみんながこの学校へ逃げてきて……写真に写ってる先生に抱えられながら、津波にみんなの家が押し流されていくのを呆然と見てたっけな。
 でもまあ、おれなんてまだいいほうさ。ここに来たみんなは大事な家も、大事な家族も……一瞬で、海にさらわれちまったんだからさ」
 窓の外、空に目をやりながらフシギバナはゆっくりと語りだす。その目は、空よりもはるか遠い場所、すでにこの世界から失われてしまった場所を見ているようで。
「いつもは校庭の小屋でひとりで寝てたのが、この日に限ってはたくさんのヒトと一緒に校舎で寝たよ。不謹慎な話だが、ちょっと楽しかったなあ。
 でも次の日になったら、ヒトはあわてて逃げ出していってしまった。壊れた発電所からヤバいものが出てくるって騒ぎながらな。子どもたちはすぐ戻ってくるって言ってたが……ひとりも来ないまんま、もう10年だ」
 写真を持つフシギバナの蔓が、わずかに震えていた。



「……探しに行こうとは、思わないのか」
 なにか声をかけようと思って、スイクンの口から出てきたのはそんな陳腐な言葉だった。
「探しにって、なにを?」
「ここにいた人たちだよ」
 もったいぶった返事にスイクンが返すと、面白いことを言うんだね、とフシギダネはため息交じりに言った。
「……スイクンさん、長生きしてるあんたにとっちゃ取るに足らない時間かもしんないけどさ……ヒトにとって、10年って歳月はそう短いもんじゃあないぜ。
 ここにいた小さな子どもたちだって、今ごろはもう立派な青年だ。おれもフシギバナになっちまったし、今もし出会えたとしても、お互い相手を相手だと気づけないかもしれねえ」
 写真を携えた蔓を、フシギバナはするすると引っ込めていく。
「この学校がいつまでここにあるのかはわかんねえけど、ここにこの学校がある限り、俺はここにいるつもりだよ。
 裏山のポケモンたちが遊びに来てくれるから寂しくはないし、なによりここを離れちまったら、この学校に寂しい思いをさせちまいそうでな」
 戸棚の扉を、フシギバナは開く。錆びた金属がこすれてきしむ音が、すこし耳障りだった。
「……学校に、かい」
 スイクンは一言問うた。
「ああ。ここに置き去りにされたもの同士、相棒みたいなもんだからな。一緒に待つさ。誰かがこの町に戻ってくるか、あるいは、どっちかが消えちまうまで……な」
 写真をしまい、扉を閉めるフシギバナ。振り返ってスイクンを見つめる彼の瞳は、決意が溢れて光を放っていた。


 フシギバナに見送られ、スイクンは学校を後にする。
 これだけの込み入った話をフシギバナから聞いたのも、これが初めてかもしれない。スイクンは思った。まだ小さなフシギダネだった彼を閉じ込められてしまっていた小屋から助け出して以来、何度も彼の許へ通ってはいたのだが。
 10年間。この長くて短い歳月の中で、彼はどんな想いを抱き、どう変わっていったのだろうか。そんな思いがスイクンの心をよぎる。
 この歳月が変えてしまったものは、自分が思っていたよりももっと根深いものなのかもしれない。そう考えながら、スイクンは次の目的地へ歩みを進めていた。



二.発電所



 学校の裏山を登り、林の中を通り抜けてスイクンが目当ての場所に着いたころには、日は南の空高くに登っていた。
 裏山の上にある、送電線の鉄塔のふもと。時折点検のためにヒトが来ていることがあるが、今は誰の姿もない。
 林に覆われている裏山の上で、ここだけは木々が途切れている。おかげで、ここからはよく見えるのだ。この町のヒトの暮らしを豊かに変え、そしてこの町のヒトの住処を奪った発電所の姿が。


「やあスイクンさん。帰ってたんすね」
 ばさばさ、という羽音と共に、スイクンの頭上から声が降ってきた。
「また人里を見に行ってたんすか? 相変わらずですね。あたしたちに頼んでくれたっていいのに」
 こちらが振り返る間もなく矢継ぎ早に言葉を被せてくるおしゃべりな空飛ぶポケモン、となれば、スイクンには心当たりがあった。
「僕はできるかぎり自分の目で、今のヒトの姿を見たいんだよピジョンくん。彼ら彼女らが今何を考え、何をしようとしているのか……ひとづてではとらえきれないことも多いからね」
 スイクンが見上げた先には、果たして思った通りの姿が見えた。舞い降りる琥珀色の鳥、このあたりに住んでいるお転婆のピジョンだ。
「そうは言っても、スイクンさんは人里に出るだけで人目を集めちゃうタイプじゃないっすか。あたしたちのほうがもっと近くでヒトを見れますよ。つかまんないように気を付けなきゃいけないけど……」
 鉄塔を囲む鉄柵の上に止まって、ピジョンは長いとさかを誇らしげに振った。やれやれ、この様子ではまだ苦労が絶えないだろうな……と、ピジョンの両親に想いを馳せながら、スイクンはため息を吐く。
「親御さんが心配するだろう。無茶をするのもほどほどにしておくんだぞ」
「心配ないっすよ。流石に本当にヤバいところに近寄って行ったりはしないですから。例えば――」
 老婆心を見せてもどこ吹く風、涼しい顔のまま、ピジョンは顔を横へと向ける。
「あの発電所とかね」
 ピジョンが顔を向けた先は、北の方角。この場所から一望できる、10年前から動いていないあの発電所の方角だ。
 なかなかどうして食えない子だ、とスイクンは思った。


「……10年前って、あのへんももっと今とは違ったんすか」
 ところどころが壊れたままなのがここから見てもわかる発電所を見据えながら言葉を続けるピジョンの声は、それまでの無邪気さをはらんだ声とは全く別人の声のように聞こえた。フシギバナと同じように、彼女も相変わらずのようでいて変わっている。
 ただフシギバナと違うのは、ピジョンはあの日のことを直接知ってはいないということだ。彼女が生まれたのは6年前。地震が起こり、発電所が壊れ、町から人が消えた10年前のあの日には、まだ彼女は影も形もなかった。
「僕も、もうよく覚えていないんだ。こんなことになるまで、ヒトの作ったこの建物をちゃんと見たことがなかったものでね。今思えば、もっと見ておくべきだったのかもしれないが……」
 ピジョンに語りながら、スイクンは忘れそうになっていた感情がまた湧き出してくるのを感じていた。
 後悔。あの日から何度も感じたことだ。こんなことになるなら、もっとしておくべきことがあったはずなのに。
「この発電所ができたとき、ヒトの科学文明はとてつもないものだと思ったものだ。太陽の炎を地べたに引きずり降ろして、その力で電気を作る。ライコウが一生かかっても出し切れないような電気を、これひとつで半永久的に賄えるなんて……僕には想像もつかない力だ」
「太陽の炎、ねえ」
「この発電所が出来たおかげで、寂れていた町は豊かになった。私のところへ足を運んでくれるヒトは減ったが、それでも、彼らがそれで豊かな暮らしができるならそれでいい……そう思っていたよ。その時は」
 ピジョンのため息が聞こえた。言ったスイクン自身でさえ、今となっては聞いて呆れてしまうような考えだ。発電所が作られた時代どころか壊れた時さえ知らない、すべてが終わったあとに残された結果しか知らないピジョンにしてみれば、なおさらスイクンの考えはお笑い草に聞こえただろう。
「……スイクンさん知ってます? ヒトの作ったおとぎ話に、蝋で固めた翼で空を飛んだニンゲンが、太陽に近づきすぎて翼を溶かしちゃって、落っこちて死んじまった――ってのがあるんすよ」
 おもむろに語りだすピジョン。こういったヒトの暮らしの中の細々したことを、彼女はよく話す。自分自身よりヒトをもっと近くで見ているだけのことはあるな、とスイクンは前々から思っていた。
「聞いたことはあるね」
「……アレも、そういうことだったんでしょうね。太陽の炎を簡単に地べたに引きずり下ろすような真似して、結局それが溶けて吹っ飛んで、すべてがおじゃん。ま、あたしには同情する義理なんかない話っすけどね」
 同情する義理なんかない――いざ面と向かって言われてみると、スイクンの心は深い傷をえぐられたように痛んだ。ヒトと共生する生き方を知らないピジョンは、ヒトに対してそれ以外の感情は抱きようがない――そんなことは百も承知で、覚悟はしていたつもりではいたのだが。
「……10年前、ぶっ壊れたあの発電所の様子を見に行って、それから苦しみながら死んでいったおじさんやおばさんがいるんすよ。壊れたところから垂れ流されてる毒にやられて。
 今だって、それが止まったわけじゃないんでしょ。だから、あの発電所の建物は壊れたままだし、ヒトは逃げたきり帰ってこない。自分のポケモンを置き去りにしてても」
 ……フシギバナのことか。
 ピジョンの声は、静かな怒りに満ちていた。彼女も大きくなって、見える世界が広くなってきたのだろう。そして今、彼女は自分のためではなく、他者のために怒っている。
 フシギバナ自身はあの場に残ることを受け入れていて、怒っている様子もないことを知ったばかりなだけに、スイクンはやるせなかった。フシギバナの言葉を根拠にピジョンの怒りを否定するのは簡単だ。だが、自分に見せたフシギバナのその態度が本心からのものだという根拠もない。
「……ねえ、知ってますか」
 言葉に詰まるスイクンを尻目に、ピジョンは言葉を続ける。
「あの発電所に10年間溜めてた水をこれから海に流そう、って、ヒトの奴らが決めたらしいっすよ。その水には発電所の毒がいっぱい詰まってて、海に流したら今度は海じゅうに毒が広まってしまうって」
「……誰から聞いたんだ?」
 スイクンは語気を荒げた。にわかには信じがたい。あの日から10年も起った今になって、海じゅうに広まってしまうような毒をヒトが海へ流すなんて、冗談にしても出来の悪い話だ。
「人里のポケモンから。結構お偉いヒトに飼われてる、ひとを疑うことも知らないようなポケモンっすよ。嘘つくようなヤツじゃない」
 嵐の前、徐々に強くなっていく風のように、ピジョンの言葉ににじみ出る怒りが強くなっていくのがわかる。彼女が見据える先、空を自由に飛べるポケモンでさえ、近づくことさえ叶わない場所を作り出してしまったものへの怒り。
 その怒りはどこへ向けられているのだろう。発電所を作ったヒトか、それを受け入れたヒトか、あるいは――
「……あなたはどう思ってるんすか。スイクンさん」
 —―そんなヒトをただ傍観していた、スイクンのようなポケモンか。あるいはそれらすべてなのかもしれない。
「……僕はヒトと共に長く生きてきたからね。信じたくはないよ。ヒトがそんなことをしようとしてるなんて」
「相変わらずひとがいいっすね。スイクンさんは」
 ピジョンは発電所の先の海を見つめながら言う。彼女の言葉が誉め言葉ではないということを、スイクンはその顔から読み取っていた。
 もしあの地震が、津波が起きていなかったら、ピジョンはどんな娘になっていただろうか。そんな考えが、スイクンの頭の中に浮かんで消えていく。
「流されるっていう毒の水、スイクンさんの力でなんとかならないんすか。スイクンは、汚れた水を浄化できるんでしょ?」
「……海じゅうに広がってしまうくらいなら、さすがに多すぎるな。砂浜の砂粒の数を数えるようなものだよ」
 他人事のような答えしか返せない自分自身が、スイクンは疎ましかった。
「不公平っすよ。ヒトはあたしたちのことを簡単に滅茶苦茶にしてしまえるのに、あたしたちはなんにもできないなんて」
 ピジョンの吐いた言葉が、スイクンの心に重くのしかかる。いっそ力不足な自分をなじってくれれば、まだ楽だったかもしれない。
 ポケモンたちの抱く感情は、どこまでも駆けていける足があっても、自由に飛べる翼があっても、ヒトに直接届くことはない。近づくことのできないあの発電所のように、ヒトとポケモンの間は大きく隔てられているのだ。
 ほんの10年前まですぐ近くにいたはずなのに、ヒトは今やどこまでも遠い存在になってしまった。そしてピジョンは、かつてヒトが我々に近い場所にいたことを知らない世代だ。だからなのだろうか。彼女が怒りの感情にさいなまれながらも、ヒトの世界に近づこうとするのは。
 そのことを、スイクンはピジョンに訊ねようとした。しかし、そう思った時には、すでに鉄柵の上にピジョンの姿はなかった。
 ピジョンは既に、春空の中を遠ざかっていく琥珀色の点になっていた。あいさつもなしに去ってしまうとは、かなり嫌われてしまったかもしれない。
 彼女が本心を明かしてくれるのはだいぶ先になるだろうな。何年も先か、或いは永遠に来ない未来か。
 自嘲しながら、スイクンは遠ざかっていくピジョンの姿が見えなくなるまで、空を見つめ続けていた。



三.墓地



 スイクンが裏山の林の中をあてもなく歩き回り続けているうちに、日は西の空へ大きく傾いていた。
 ピジョンと話してからというものの、スイクンは誰とも話したいという気分が起きなくなってしまっていた。林のポケモンに何度か声をかけられはしたが、すべて適当にはぐらかしてその場を去った。ほんの少しの間この地を離れていただけなのに、ヒトが消えてから10年目に入った、というだけで、世界の全てが書き換わってしまったように感じられてしまっていた。自分の居場所が、もうどこにもなくなってしまったようで。
 もういちどこの土地を離れてみようか……という考えが頭に浮かんだところで、スイクンは林の外へ飛び出していた。
 冬の間に降り積もる落ち葉や枯れ草が綺麗に片付けられている。ヒトか、それに近しいものの手が加わった場所だ。見上げると、綺麗な箱型に切り出された石が、規則正しく並べられているのが見える。そしてその間を、なにかがゆるゆると動き回っている。
 一見ヒトのようだが、ヒトと違って脚がない。体躯もヒトよりだいぶ大きいし、なにより顔のど真ん中で真っ赤に光るたったひとつの目は、ヒトが持っているはずもないものだ。
「おお、誰かと思えばスイクンか。久しぶりだね」
 ひとつ目の生き物が、こちらに話しかけてきた。
「ああ、ヨノワール。本当に久しぶりだ。何年も会ってなかったみたいな気分だよ」
 何時間かぶりに、スイクンはすらりと言葉を話すことができた。やはり昔馴染みが相手ともなれば、多少は話しやすくもなるものだ。
「浮かない顔をしてるね。町の外で見たのは、あまりいいモノじゃなかったとみえる」
 目だけしかない顔の目を少しだけしかめながら、ヨノワールは言う。
「……まあ、休んでいきなよ。長旅で疲れてるだろう」
 無理に話をしようとしないヨノワールの気遣いも、今はなんだか重荷に感じられる。でも、昔馴染みの好意を無下にするような気力も今のスイクンにはない。
 スイクンは無言でうなずいて、踵を返してふよふよと歩いていくヨノワールの後を歩いて行った。


「あいかわらず精が出るね。君のおかげで、この寺の墓地だけは今も人がいるみたいにきれいだ」
 本堂の軒下に腰を下ろすと、スイクンにも話をするだけの元気が戻ってきた。
 ヨノワールはスイクンの隣で、砂利の隙間に顔をのぞかせている雑草の芽を摘んでいる。消えてしまったのはヒトだけで、それ以外の生き物たちは相も変わらず、いつもどおりの春を迎えている。スイクンは恨めしい気分だった。
「まあ、もう10年もこればっかりをやってるからね。あとはお堂の直し方も分かればいいんだが……」
 答えながら、ヨノワールは本堂に目をやる。朝に立ち寄った学校と同じように、ガラス窓は割れてしまっている。10年前までは瓦が敷き詰められていた屋根も、瓦の数を随分と減らしてしまったままだ。
 この寺は、スイクンにとっても思い入れの深い場所だ。ここは仏のみならず、スイクンに対しても畏敬の念を持っていたヒトが、スイクンに祈りをささげるための場所でもあったからだ。ここの歴代の住職は、基本的にヒトに近寄れないスイクンに近しかった数少ないヒトでもあった。
 そんな住職とも、もう10年間顔を合わせていない。直す術を知らないポケモンしか住まわなくなってしまったこの寺も、次第に壊れ、朽ちようとしている。
 ここの軒先で休むことができるのも、あと何年だろうか。スイクンはため息をついた。


「ヨノワール、きみは、いつまでここの墓守りを続けるんだ」
「そりゃあ、ここにヒトが戻ってくるまでさ。ここに眠ってるヒトの魂たちに、今寄り添ってあげられるのは私だけだからね」
 スイクンの問いに、ヨノワールは並ぶ墓石を眺めながら答える。ヨノワールによって綺麗に保たれているこの墓地にも、もうヨノワールとスイクン以外に訪れるものはいない。
「……そういうスイクンこそ、この町を出てしまおうとは考えないのか?
 年明けにここを離れて、人里をずっと歩き回ってから帰ってくるくらいなら、いっそここを離れて別の場所で暮らしたっていいだろうに。スイクンを慕うヒトなら、ここ以外にもたくさんいるだろうしな」
 そんなヨノワールが、逆にスイクンに問いかける。スイクンにとっては、その提案も魅力的に感じられた。ヒトと共に生きたい、と言うだけなら、それもいいだろう。だが、自分はそんなことができるようなポケモンでもない、ということは、スイクン自身がよくわかっている。
「……ここを離れている間、いろいろなところへ行った。北へも南へも。そしてそこで生きるポケモン達に聞いて回っていたんだ。10年前に、地震と発電所の事故で捨てられてしまったヒトの町を知っているか、ヒトはそのことを覚えているのか、とね」
 この町を一時離れた、その理由でさえ、この町のためだった。この町を完全に捨ててよそへ移り住むことができるような自分なら、とっくの昔にここを捨てている。
「なるほど、それで、望んだ答えはどこにもなかった、というわけだ」
 さすがヨノワール、察しがいいな――と思いながら、スイクンは言葉を続ける。
「……ああ。本当はもっと遠くへも行ってみようと思ってはいたんだ。でもね。
 駅前で、賑やかな祭りを一時だけやって、それでどこかへ行ってしまったヒトの群れを見た。それを見たら……さすがに心が折れそうになってね」
 昼に話したピジョンのように、スイクンの言葉は次第に感情の風を纏い始めていた。だがその感情は、ピジョンのような怒りではない。
「……僕は、ずっとこの町でヒトたちと生きていたかった。でも……ヒトはどうやら、それを望んではいないらしい。だから、祭りをやるだけやってそのまま行ってしまうようなことをするんだ。
 ヒトはきっと……もう、必要としていないんだろうな。この町も、僕のことも。壊れた発電所と、そいつが垂れ流す毒と一緒に、何もかも投げ捨てて、目をそらして、忘れて生きていたいんだよ。きっとね」
 スイクンの声が震え、目からは涙があふれだす。何もかもが悲しかった。ヒトの非情さも、自分自身の無力さも、世界の無情さも。
 旅をして、ここへ戻って、フシギバナやピジョンと対話して、ようやく自分が心のうちに抱いていたものの姿を理解できたのかもしれない。スイクンはそう思っていた。
「……ヒトの世界のことは、ヒトにしか決めることはできないからな。結局、私たちポケモンにできるのは祈るだけという事なんだろう。捨てたくない、忘れたくない、目をそらしてはいけない、と考えるヒトがいて、彼らの手で世界が動いてくれることを祈る。それだけしか、ね」
 スイクンの肩に手を置いて、ヨノワールは語り掛ける。その優しささえ、今のスイクンには鋭く突き刺さる棘のように感じられた。
「……なんだか皮肉だ。たくさんのヒトの祈りを集めてきた僕が、今はヒトに祈ることしかできないなんて」
 涙をぬぐいながら、スイクンはヒトのことを思い出していた。
 日照りが続いたとき、10年前よりもっと前に、大きな津波が町を襲ったとき、ヒトはいつも、スイクンに祈りをささげていた。スイクン自身にできることは限られていたし、救えない命に至らなさを感じることもあったが、それでも自分がヒトに頼られていることは、スイクンにとっての誇りだった。
 そんな誇りは、もはや影も形もない。スイクンを畏れ、頼ってくれるヒトは消え、自分は至らない存在だと自責する感情だけが取り残されている。
 ヨノワールは、それ以上言葉をかけなかった。どんな言葉をかけてくれるよりも、何も言わないでいてくれることを選んでくれるヨノワールの思いやりが、スイクンにとってはなによりありがたかった。


 それからしばらく、ふたりは黙って空を見ていた。
 海が広がるその上の東の空は、既に夜のとばりが下りようとしている。夜の冷たさをはらんだ海風が、泣き腫らしたスイクンの目にしみた。
「……やっぱり、僕はここから離れない。離れられないよ」
 風に向かって、スイクンはつぶやく。自分の意思を、この土地に静かに刻み込むかのように。
「やっぱり僕は、ここで生きていたい。ここでヒトとスイクンが――ヒトとポケモンが、共に生きていたってことを僕くらいは覚えて、示していたい。ヒトがそれを忘れてしまっても、そうすることを望んでいなくても」
 旅をして、その先のポケモンたちから望んだ答えは得ることができなかった。でも、それを通して、自分がどうしてこの町に残り続けたいと願っているのか、それを見つけることができた。
「……なら、私も墓守は続けないとな。お前さんに負けてはいられない」
 ヨノワールはスイクンの肩を叩く。目がひとつしかない顔はあまり豊かな表情は出てこないが、ヨノワールの顔は激励の笑みをたたえているかのように、スイクンにははっきりと見えた。
「ありがとう、ヨノワール」
 ヨノワールに答えながら、スイクンはまだ明るい西の空へ向き直る。眩しい夕日が、山の端にまさに沈んでいこうとしている。
 この町もきっと、沈んでいく夕日のようなものなのだろう。役目を終え、消えていくもの。それでも、生きとし生けるものにとって、日が沈む前にあった1日がなかったことになるわけではない。繰り返す日々の中のある1日のように、この町のことも忘れずにいるものはいる。それが、自分たちなのだ。


「今から10年経ったら、ここはどうなっているだろう?」
 夕日に向かって、スイクンは静かに呟く。
 ゆるやかに吹き抜けていく風が、墓地の片隅に顔を出していたふきのとうを、かすかに揺らしていた。

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