第13話 “決戦前夜”

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 セキエイ高原で開かれた会議の襲撃事件から、あるいはアルトマーレでの奇襲から、一夜が明けた。エドウィンたち事件当事者が僅か2、3時間という短い間、死んだように眠っている時でも、世界は絶えず目まぐるしく動き続けていた。
 ひとまず、起こった事をかいつまんで紹介しよう。

 第一に、人間同士の争いは一旦幕を下ろした。長年ずっと組織間で続いていた抗争は、各々の戦いにどんな理由があったとしても脇にどかせる事になったのである。
 特に最も注目を集めたのは、ロケット団とシャドーだ。停戦協定を結ぶ条件として、シャドーは先の抗争による捕虜及びダークルギアの返還を要求し、ロケット団はこれを承諾。両者共に賠償金を請求しなかったのは、代わりに同盟資金の拠出をロケット団が他組織の倍程度負担する事で片が付いたからであった。
 第二に、戦艦の兵装に関する規制が一時的に撤廃される事となった。今までは最大でも5、6門程度までと決められていたのは、軍拡を進める組織への政府による牽制の意図があった。しかしポケモンの協力が得られなくなった今、人間達は自らの力のみで戦う事を余儀なくされてしまったのである。
 そして、第三は……。

 朝の日差しが窓からカーテンのように差し込む、リベンジャー号の艦長室。
 デスクワーク用の席から、エドウィンはそれを表しているタブレット端末にしかめっ面で目を通した後、深く息を吸い込んでからゆっくりと吐き出す。爽やかな朝に読むには、それは重過ぎる内容であった。

「報告書を読んだよ、それからこれも……何と言うべきか」

 こわばった姿勢で立つミュウツーに、エドウィンは無理やりにも微笑みかける。

「お互い大変だったな」
「それだけか? 言う事は、たったそれだけか?」

 ミュウツーは目を細めて、一歩前に出た。
 今にも超能力を発動させんばかりの言い寄り方には、エドウィンも深いため息を吐いて。

「他に何を言って欲しいんだ。耳障りの良い言葉を聞いて安心したいのか?」

 違う、とも、その通りだ、とも言い出しそうな口をキュッと閉じて、ミュウツーは落ち着きなく部屋の中を歩き回った。そんな彼に、エドウィンは続けて。

「君の精神状態について上に報告したところ、司令部も私と同じ意見だった。もはや君を作戦に組み込む事はできない」
「まるで裏切者扱いだな、俺は此処に来てから誰ひとりとして殺してなどいないというのに。むしろ俺はお前達の為にも戦った」
「だが敵と繋がった。ゲノセクトの思想と記憶を体感した。君は自分を我々の味方だと言うが、私に向けるその敵意に満ちた目を見ても結論は明らかだ!」

 鋭い口調を投げるエドウィンに、咄嗟に返す言葉が浮かばなかった。胸を射抜かれたような痛みが襲う。だが引き下がる事もできず、ミュウツーはテーブルに両手を突き、身を乗り出した。

「奴は、俺の父とも呼べるモチヅキ博士を殺した!」
「関係ない。君も心のどこかでは、モチヅキ博士が君を信頼し切れなかった事に憤りを感じていたんだ。でなければ、君がゲノセクトを殴る手を止める筈が無いからな」

 いいや、違う。
 ミュウツーは何度も首を振って、そうささやいた。しかし頭に浮かぶのは理屈の無い返事ばかりで、エドウィンを言い負かすだけの材料は出て来ない。代わりに、批判の言葉が口から飛び出した。

「この後お前はどうするつもりなんだ。ゲノセクトを、それに与するポケモン達ごと殺すのか?」
「必要とあらば」

 物思いに沈んだ表情から出てきたひと言に、ミュウツーは喜んで。

「お前達が始めた戦いだろう! 未だにお前達がポケモンを隷属させている価値観が全ての発端だ!」
「何が原因だったかなんて、もはや問題じゃない! 私もこの戦争には迷いを感じていたが、女性ミュウツーが築き上げた屍の山を見て吹っ切れたよ!」

 噛みつくように声を荒げるエドウィンは、更に一呼吸置いてから更に続ける。

「よく聞け、ミュウツー。変化を急げば必ず血が流れる。泰平の世であり続けるためには、価値観の問題は長い長い年月をかけて少しずつ修正していくしかない。ポケモン達が苦しんでいるのなら、それは必ず旅をしている子供たちの目に留まるだろう。世代が移り変わるにつれて、子供たちが価値観を正していくんだ。その変化のシステムに不満を抱き、焦って決起を起こせば、泥沼の争いに突入する事になる」
「全てはゲノセクトのせいだと?」

 ミュウツーの抑揚のない声に、エドウィンは小さく頷いた。

「奴は過去に淘汰され絶滅した、いわば遺物だ。3億年もの昔にハンターだった奴の価値観の中に、他種族との平和や協調は無い。同じゲノセクトに対して新たにそれらの価値観を教える事に成功した事例はあるが、今回のケースではもう遅すぎる」
「身勝手にも程があるだろう!」
「そうかもしれない。だが大勢の血が既に流れた、このまま何の手も打たずに銃を下ろしてしまっては、大勢を殺せばどんな主張でもまかり通ってしまうという悪例を残す事になるんだ! 第一、こちらが何を言っても奴らは虐殺をやめないだろう! 分からないか、もう手遅れなんだよ!」

 語るエドウィンは、揺るぎない決意を表してか、険しい表情で唇を固く結んでいた。
 分からない。ミュウツーは焦り、そわそわと落ち着きなく視線を泳がせる。彼の言っている事は正しいと頭では理解できる、しかしどうしてもそれに賛同しかねる天邪鬼な自分が同時に介在していた。
 なんとか落ち着こうと目を閉じる。次にゆっくりと目を開いた時、ミュウツーの決意も固まった。

「この先は更に血が流れるぞ、人間も、ポケモンも」

 力のない表情から零れた台詞は、エドウィンの懸念が的中した事を物語っていた。
 これで良かったのか。あるいは人間が悪い、人間が罪深いと、繰り返し何度も言って頭を下げれば、寂しげな顔を最後に残して部屋を出て行こうとする彼の背中を見ずに済んだのかもしれない。
 だが、エドウィンは首を横に振った。今の不安定な彼に嘘は言えない。言えば更に混乱し、踏み外しかかっている道から更に外れていく事だろう。
 返す言葉は、ひとつしかなかった。

「分かっている」

 部屋のドアが閉じて、頭を抱えるエドウィンと、テーブルには「辞表」の2文字が浮かぶタブレット端末が残った。





 マサラ港、改め、臨時マサラ軍事基地。
 セキエイ高原の襲撃を受けて、政府は軍の拠点を移す事となった。候補は他にも幾つかあったものの、まず他の軍事基地はどれも遠方に点在している事、既にセキエイ会議の為に戦艦を停泊させていたアクア団やシャドーがそこに留まっていた事もあり、新たな拠点として任命を受けた。
 先ほどまでたった数隻の海上艦だけが停泊していた港には、今や無数の海上艦や航空艦がひしめき合っている。所属を見ると、驚くなかれ、軍隊を持つ全ての組織がそこに集結していた。
 そこでの彼らの活動記録を少し覗いてみる事としよう。


――艦長日誌、エドウィン記録。
 ミュウツーとビクティニの辞表を受け、これを承認した。彼らとは長いようで短い付き合いだが仕方ない。彼らの今後の幸せを祈るばかりだ。
 異例の速さで行われた法改正により、我がリベンジャー号を含めたマサラ港に停泊中の同盟艦に、せわしなく人が行き交い始めた。対ポケモン光学兵器を搭載する為だ。
 計画では艦の動力規模によって変動するが、概ねひとつの艦につき15~20門を搭載予定である。リベンジャー号には膨大な余力があるが、おそらく侵略軍が動き出すまでにはその程度が限界だろう。
 ロケット団諜報部の予測では、ゲノセクトの攻撃は6日後。カロス攻撃計画もこの日を目途に練られている。
 できれば万全を期してかかりたかった。


――艦長日誌、エイハブ記録。
 兵装の突貫工事を始めて2日目、ここにきて我がモビーディック号に予想外のエンジントラブルが起きた。
 原因は艦内に侵入したピカチュウがコードを齧ったせいだ。おそらく侵略軍の一員だろう、今はうちの拘束室に監禁している。
 こちらに破壊工作を仕掛けてくる辺り、連中も人間が準備を進めている事に勘付いているようだ。大方エスパータイプ、特にあの女ミュウツーによるものだろうが、こっちに裏切者がいる可能性もある。
 世間では殆どが我ら同盟軍を指示する声で占めているが、中には直ちに武装解除すべきなんて言い出す輩も少なからずいる。人間の生き残りを賭けた戦いで人間を裏切る言動をするとは、嘆かわしい。奴らの為に命を落とす兵がいると思うと、はらわたが煮えくり返る思いだ。


――艦長日誌、ロナルド記録。
 本日、政府空軍の最新鋭艦ドレッドノート号がようやくマサラ港に着艦し、私の就任式を粛々と終えた。本来ならば来月完成のところ、作業を急がせた分いくつか不具合が生じているが、3日後のカロス攻撃作戦には間に合うだろう。
 各組織の提案を受け、それぞれの技術を結集させて敵の脅威に対する策が出来上がりつつある。特に脅威となり得る古代の大量破壊兵器、そしてジェネシス放射線兵器については即席の対応が困難だ。使われる前に倒したいが、できなければ、たった一発で死傷者は同盟軍の半数以上になる。
 各組織からの提案を、今は待つ他無い。


――艦長日誌、エドウィン記録。
 カロス攻撃の日まで、もう明後日に迫った。
 ジェネシス放射線兵器の対抗策として、ギンガ団の科学チームと我がリベンジャー号のエンジニアチームが合同で提案した案が採用された。
 彼ら曰く、リベンジャー号のポケモン能力コピー装置を改造し、粒子抑制装置として使うのだと言う。コピー装置は本来であればポケモンを檻に閉じ込め、活動を抑制する為に特殊なフィールドで覆う機能を持っている。これは正確にはポケモンの神経系に直接作用するものだ。
 ジェネシス放射線兵器は、粒子加速装置を経て外に拡散される。後の問題は、リベンジャー号の粒子抑制装置が勝つか、兵器の放射線が勝つかといった競争になるだろう。
 負ければすなわち、同盟軍の全滅を意味する。失敗は許されない。


 侵略軍、古代兵器の搭載完了まで残り1日。あるいは、同盟軍が攻撃を決行する日の前夜。
 夜明けの出航を控えて、その夜のマサラ港は殆ど静まり返っていた。まだ一部には兵装を整える作業にかかる乗組員もいたが、殆どは家族と連絡を取ったり、食堂に集って異なる組織同士で酒を酌み交わしたり、あるいは今や数少ないが、部屋でポケモンと過ごしたりする者ばかりだった。ポケモンは不確定要素になるため進軍の際には連れて行けないというお達し故の、最後の交流である。
 そんな中、エドウィンは艦長室に籠もって、デスクワークの為の椅子やテーブルから離れ、窓際の白いソファに深く腰を下ろしていた。手には厚い本、サイドテーブルには湯気の立つコーヒー。至福のひと時とも言えるところ、文字を追うその表情は硬く、エドウィンは何度も顔を手で擦った。
 中身はなんてことはない、最近出版されたばかりの冒険小説だ。人とポケモンが協力して未踏の地を冒険する話が、読んでいても遠い夢物語に思えてならなかった。

 ある時、ピコン、という電子音のドアチャイムが聴こえた。
 エドウィンはふと顔を上げて、「入れ」と返すと、開いたドアからのっそりと足を踏み入れてきたエイハブが目に留まった。

「あぁ、失礼した」

 慌てて本を閉じて立ち上がろうとするも、エイハブに「構わん」と手のひらを見せられた。

「報告に来ただけだ。お宅のエンジニアが作業を手伝ってくれてな、全兵器準備完了。なんとか間に合った」
「それは何よりだ」

 エドウィンがそう返す中、エイハブは芝生に腰を下ろすように落ち着いた素振りで向かいのソファに座った。報告に来ただけなんて嘘っぱちだ、と、エドウィンは心の中でどこか嬉しそうに呟いた。

「何を読んでいた?」

 と、エイハブ。
 エドウィンは表紙を確認しながら。

「スノーヴィックと探検隊、鏡像帝国の脅威編だ。知らないだろ」
「娘が夢中になっている小説シリーズの第4巻、知っているとも。そうか……もう発売日が過ぎていたのか」
「時が経つのは早いな」
「特にお前と一戦交えてから、まるで早送りのようだ。ふふん」

 鼻を鳴らしながら、子供じみた笑みを浮かべる。
 そんな彼を眺めてエドウィンは怪訝そうに。

「どうした、にやにや笑って」
「まさかお前と肩を並べる日が来ようとはな。一体誰がこれを予想できた? 昨日までわしは夢の中でもお前の首を絞めていたというのに」
「お互い味方だと分かればそんなものさ。たった1日でも状況は変わる」

 確かにな、とエイハブは頷いた。
 暫し部屋を見回して、彼は続ける。

「わしがポケモンの事を何と思っていると言ったか、覚えとるか?」
「兵器だと」

 あの襲撃の最中、彼との会話を思い起こしながらエドウィンは返した。
 彼は兵器としてポケモンを愛していると言った。自分の銃に名前を付けて大切にする事と同じだと。納得はしても賛同はできない、返すエドウィンの声は低かった。
 エイハブは「ううむ」と唸って。

「ダークポケモンがダーク化する前の姿を知っとるか? 聞くに堪えないような辛い経験を経て、心身共にボロボロになったポケモン達だ。もはや生きる意志も無いような死にぞこないを、シャドーはダークポケモンに変えて鍛え上げる」

 考えたことも無かったな。エドウィンは顎に手を当てて考え込んだ。

「復讐心を利用するためか?」
「それもある」

 エイハブは頷きながら続ける。

「だがそれよりも、利己的なまでの生きたいという欲求が、度重なる自己否定の蓋によって、溜まりに溜まったマグマのように魂の奥底に抑圧されているからだ。ダーク化した途端に、そういう奴ほど凄まじいダークオーラを放つ。だが暫くして勝利を重ね、自己肯定が芽生えると、総じて能力が弱くなっていく。終いには平均的な能力に落ち着いて、どこぞのトレーナーに奪われて、上手くいけばリライブだ」
「まるで自殺志願ポケモンの救済システムだな」
「つまりだな。お前さんはわしらシャドーを冷血漢だと考えてるようだが、確かに兵器としてダークポケモンを頼りにしていると同時に、リライブを経て幸せになっていくポケモンを遠目に見ているとだな……こう、何とも言えぬ達成感や、寂しさが湧き上がってくるものなんだ」

 そわそわと時折足を組み直しながら語るエイハブに、エドウィンは目を丸くした。
 ダークポケモンの軍隊を操る男にして、シャドーの威信を背負った指揮官。戦場に立てば力で敵を蹴散らしていくような戦いぶりを見せる、勇猛果敢な、悪く言えば蛮族のような戦士。彼に対するイメージは、そういうものだった。
 エドウィンは目を細めて。

「結局行き着くところは、シャドーもロケット団も変わらなかった訳か……でも何で最初からそう言わなかったんだ?」
「そう言っていたらお前さん、あの時ポケモンに銃を向ける事ができたか?」

 それもそうだ。エドウィンは苦笑いを浮かべて、肩をすくめた。





 時を少し遡る。エドウィンとエイハブが先の会話を交わす日より3日ほど前のこと。
 サザナミタウンに広がる入り江には人っ子一人、ポケモンさえ居ない。さざ波が寄せては返す音が、虚しく辺りに響き渡る。海原は大陸の山に沈む夕日に照らされ、波に合わせて激しく燃え上がっていた。
 ゲノセクトによるモチヅキ博士殺害の事件以降、この地は寂れてしまった。少なくとも犯人が判明した以上、ゲノセクトとの戦争が終わるまで誰も寄り付く事は無いだろう。この町の市長にとっては頭を抱えるような話も、ミュウツーとビクティニにとっては都合が良かった。
 既に現場検証も済ませた後であるお陰か、事件があったモチヅキ博士の家は、黄色い規制テープに囲まれているだけで、中には誰の気配も無い。
 ビクティニを肩に乗せたミュウツーは、それを難なく飛び越えて、長く離れた家に帰るべく玄関のドアを開けた。

 夕焼け色に染まった家の中は、短い間とはいえ砂浜に面した家で誰も掃除していない日が続いただけあって、床にはうっすらと埃が敷いている。そこに独特の足跡を残しながら、ミュウツーは玄関を過ぎて廊下を抜け、書類が散乱する博士の研究室に足を踏み入れた。
 見下ろせば、床に描かれた人型のチョークの跡が目に留まった。拭き取られずに残っている黒い血痕の跡がその周りを大きく囲んでいる。
 ここだ。ここで博士は殺された。ミュウツーはそう心の中で呟きながら、表情の変化なくそれをただ見つめていた。

「ティニ……?」

 これで良かったの?
 ビクティニは寂しげに鳴いて、そう訊ねた。
 きっと今までそれを問いかけるのを我慢していたに違いない。彼女は、人間が好きだった。たとえ前の主人に絶海の孤島に何百年も監禁されても、その能力を利用したいだけの輩に狙われても、変わらず人間が好きだった。
 今のミュウツーについて行く事は、彼らと距離を置く事と同義である。視界の端に捉えた彼女の表情は、エドウィンから離れる時と同じ顔をしていた。

「分からん、だが今のままで奴らと共に戦う事は到底できん」

 嘘は無い筈だ。自問自答しながら、ミュウツーは続ける。

「何も分からない事だらけだ。過去の怨念が頭にあった頃は、まだ世界がはっきりと見えていた気がしていたのにな……いや、ひょっとすると何も見えていなかっただけなのか」
「ティーニ」

 安心したよ、敵討ちはしないんだね。
 明るく鳴いた彼女に、ミュウツーは驚き、両眉を上げた。しかし自分を振り返って考えてみるうちに、段々と表情に陰が差していく。

「しようとした……だが、できなかった」
「クティ?」

 それは、どうして?
 ミュウツーは作業用のデスクに座りながら目を細める。

「咄嗟に奴を殴って、気付いた。俺の拳には何の怒りも籠もっていない。それどころか、俺は……何も感じていなかった」

 自分の両手を見つめて、ミュウツーは頭に仇である筈のゲノセクトを思い浮かべた。なのに、拳を握ってみても、握った以上の力は出ない。それが証拠となった。

「何も感じないんだよ、もはや俺の出生を知る唯一の、そして父とも呼べる人間が死んでも、怒りも悲しみも……何も感じなくなってしまった。俺は何だ? 憎悪と共に心さえ失った俺は、もはやただの……兵器でしかない」

 そう、俺は兵器だ。ポケモンを道具視する連中を、何ら否定できる根拠は無い。
 誰かの目的に従う事でしか動けない奴が、己を主張するなどおこがましい。簡単に扇動され、気付かぬうちに手足となって、まるで自分の行為が唯一の正義だと錯覚する。それが単に目的を持った誰かにとって利用価値のある手段でしかないとも知らずに、なんと間抜けな操り人形だろうか。
 いや、とミュウツーは自嘲気味に笑みを交えて心で呟いた。
 俺もそんな連中を嘲笑う事などできまい。俺ももはやただの操り人形、ゲノセクトの思惑通り、人間への敵意が捨てきれない。いっそ兵器として奴に手を貸すのも有りか……それが俺のアイデンティティーであるのなら。

「ティニ!」

 心はちゃんとあるよ!
 ビクティニは声を張り上げ、ミュウツーの肩を離れてその眼前に迫りながら続ける。
 痛みが大き過ぎて、今は何も感じられないだけ。それは何にもおかしい事じゃない。時が経って自然と受け入れられるようになってきたら、初めて怒りや悲しみが溢れてくるの!

 そう語る彼女は、怒っていた。
 思い直すよう説得を試みるようでも、ましてや今までの行動に対する態度でもない。これは、何だ。ミュウツーは眼前のビクティニに目を見開いて見つめたが、すぐに顔を背けてしまった。

「俺はどうすれば良い……仮にお前の言う通りだとしても、俺が何かを感じられるようになる頃には戦いは終わっている」
「クーティ」

 傍観する道もあるのを忘れないで。この戦いは、本当にボク達の戦い? 人間が間違った事をして、それに怒ったポケモン達がいて。でもボク達は、人間に何か酷い事をされた訳じゃない。

「ティニ?」

 君はゲノセクトの記憶を追体験したけれど、それだけで本当に人間を憎みきれる? アルトって人や、モチヅキのお爺ちゃんから受けた愛情は? 一度信頼が揺らいでしまったら、過去の全ては消えてなくなるの?

 ビクティニの言葉は、次々とミュウツーのニューロンを刺激していく。まるで古びた家屋の中に溜まっている淀んだ空気を晴らすため、窓を開けて新鮮な空気を取り入れたように、思考を濁らせるモヤモヤしたものが晴れていく。
 ミュウツーの中で何かが明確に変わった訳ではなかった。人間への敵意は相変わらず残っているし、自分が脅威になる事を心配したために揺らいだモチヅキ博士への信頼感は、変わらず揺らいだままである。
 だが、ひとつだけ些細な変化が起こった。

「俺は……俺、は……」

 喉を詰まらせたような息苦しさが込み上げてきて、上手く言葉を発せずに口が引きつり、顎が震えだした。
 複雑に絡み合う物事を冷静に見極める事はできない。しかしたったひとつの小さな目的が、確かにそこに芽生えたのだ。それを彼女に伝えるべく、震える声で呟くようにミュウツーは言った。

「博士に会って、それを確かめたかった」

 今や絶対に叶う事のない目的だとしても、ミュウツーはそれを手放す事はできなかった。

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