本作は、2014年に開催された『覆面作家企画3』に参加した際の拙作に修正を加えた再掲載作品となります。
私は、君を待っている。
今日が、約束の日だった。
大海を抱く水平線上に浮かぶのは、雲間に形を崩された夕日。白波を起こす海原に走るのは、波間にのまれた一筋の光。
斜陽を嫌った私の影は、背後から迷いなく伸び出でて、意思を持って逃げるように砂浜を貫いた。西日を浴びて翠に染まる、東の山肌の頂にまで、私の淡くて黒い姿が届きそうになるほどに。
光り輝く砂浜に流れ着いた、大きな一枚の貝殻に右手を添えた。静かに忍び寄った波が、その手を冷たい潮水で纏わせた。波と岸の境界線が止まり、南北の岬の果てまでにその白線が続いた。そして去る波が、私の手首を静かに引き裂くようにして流れた。
波は、貝殻を私の五本の指から引き離し、母なる海へと連れ帰った。潮から浮かび上がった指先からは、光る水滴がこぼれ落ちた。凍えた風の流動が、手に腕に身体中に、そして空っぽの心に沁み入った。
凍てつく潮風は、私の細い首筋を鋭く撫でた。肩から垂れ下がる髪が、風の中に舞った。夕日は、遠い海と空の果てに消え入った。空気が凛と澄んだ。赤く紅く、青く蒼く、手の届きそうにない空の彩りは、やがてその色彩を失っていくことだろう。
私は、待っている。
今日が、君との約束の日だからだ。
ーー 君に至る海 ーー
私と君は、朝日が最も早くに昇ると語り継がれている孤島に生まれた。同じ年ごろの子どもは、私たち以外にこの島にはいなかった。
二時間もあれば徒歩で一周できる島の中央には、標高約四百メートル程度の休火山があり、山のなだらかな山腹には様々なきのみを結ぶ樹木が生育し、余りあるほどにその恵を享受することができた。
島の人口は五十にも満たない。女たちは山に入り、きのみを採る。男たちは、小舟で沖に向かい、海の生物を捕る。私は大人たちに混じって、きのみを拾い集めた。君も大人たちに混じって、海に漕ぎ出でた。
それ以外に私たちがすることはなかった。気が向いたら、君は私の腕を引っ張って、二人で島を探検した。あるときは、色とりどりの果実の森を分け入り、甘い香りに誘われた小動物を捕まえ、またあるときは、紺碧に輝く海に潜って、魚たちとともに泳いだ。
そんな日々が、私たちにとっては世界のすべてであり、他に求めることは何もなかった。
ある日のこと、漁に出た男たちが、沖合で遭難船を救助した。船には珍妙な生き物と異国の船乗りたちが、疲れ切った顔で乗っていたという。見たことのない装飾を身に付け、見たことのない生物を連れた漂流の民に、島民はきのみを振る舞い、焚火を囲んで歌い踊ってもてなした。
日の沈む方角にある大陸から来たという漂流民は、上機嫌で自身たちの素性を謡い語った。島の大人たちは、それを法螺話でも聞くかのように、酒を飲んではげらげらと笑って相槌を打っていた。
でも、君だけは、目を輝かせてその話を聞き入っていた。
宴の後、君は異邦人にあれやこれやと矢継ぎ早に問い掛けた。その質問攻めに、屈強な異人の男は、丁寧に応え続けた。彼らがやって来たという西にある大陸のこと、そこに存在するそれぞれの特色ある国々のこと、そしてポケモンと呼ばれる生物のこと。
炎の揺れる明かりに照らされた、君の横顔は、私が今までに見たことのない真剣な顔つきだった。
もしかすると君は、彼らについて行ってしまうのではないかと思い、急に胸が締め付けられる心地がして、私は自分自身に驚いた。
一年前。
春の海に、君は見せたいものがあると言って、私を連れだした。
水深が深くなる沖合までゆったりと泳いだ。島の浜辺が遠くになったところで君が口笛を吹くと、近くで小さな影が浮かび上がった。しばらくしてその姿を波間から見せた。
「俺のポケモンだよ」
君が指差す先、青色の背中をのぞかせて、波にゆらゆらと揺れている。君が言うには、漂流民が話したことが本当なら、この子はたまくじらポケモンのホエルコというらしい。
「さわってみろよ」と君が言う。
ゆっくりと近づいて、しっとりと濡れた青い表皮におずおずと触れる。手からは海水の冷たさが、けれどもこの子の奥底から湧き出るような、不思議な温かみが感じられた。そして恐るおそる撫でてみると、弾力があってしっかりとした表皮だということがよくわかった。恐怖は消え去り、私は思わず笑みをこぼした。
そんな私の様子を見てか、今度は「乗ってみろよ」と君は言う。
この子の大きな背中には大人でも乗れるだろう。しかしそうは言っても、水に浮かぶ毬に乗るようなものだった。足が海底に着かないために、試行錯誤しても、波に揺れるこの子に上手く乗ることができない。
「どうすれば乗せてくれるの?」と、私はホエルコに尋ねてみる。
けれども返事はなかった。君が言うには、この子は寡黙な性格らしい。
ならばと、勢いをつけ腹這いになって乗ろうとしたが、この子の背中を滑って、頭から海に落っこちた。白い泡が私の周囲を躍った。目を開くと眼下には紺碧の海底が広がっていた。思いのほか深く潜ってしまったようだ。浮力に任せて姿勢を整えた。海面がきらきらと光っていた。海に浸かる君の足が滑らかにリズムを刻んでいた。その筋肉質でいて繊細な身体に一瞬見惚れた。
君が海中に顔を覗かせた。口が動いて、何かを言ったことがわかった。その顔が思いのほか苦しそうだったことに私は驚いた。君が手を伸ばした。私も手を伸ばす。ドルフィンキックで水を蹴って浮上すると、君が私の手を握って引っ張りあげた。
風の音と潮の香りが、私の乏しい感覚に飛び込んできた。太陽の光が海面に乱反射して視界を真っ白にした。大きく口を開けて、肺の奥底まで爽やかな空気を吸い込んだ。陽光のきらめきの中、君がけたけたと笑っていた。あの苦しそうな表情を見せることはなかった。
私は頬を膨らませて「どうやって乗ればいいの」と聞いた。
その言葉を待っていたとばかりに、君が得意げな様子でパートナーにいとも簡単に飛び乗って、白い歯を見せた。そんな彼の顔を狙ったかのように、ホエルコが噴気孔から潮を噴き出した。小馬鹿したのか、それとも愛情表現なのかはわからなかった。
私はくすくすと笑ってしまった。そんな私の濡れた髪を、君が照れ笑いながらわしゃわしゃと掻き乱した。いつものことだ、嫌いじゃない。しばらくの間ホエルコに背中を預け、君の指先の動きと風と波の音を愉しんだ。
「なあ」
ふと、私の黒髪を弄る君の手が止まった。ホエルコに乗る君を見上げると、今にも泣き出しそうな顔がそこにあった。
「どうしたの?」とは言わなかった。
ホエルコが軽く潜り、私も背中に乗せた。寡黙だが、人の感情を敏感に察知するようだ。私と君。小さな鯨の上で背中合わせ。しばしの沈黙のあとに君が口を開いた。
「こいつに乗って、この海をわたって、大陸に行く。行って、まだ見たことのない世界を知りたい」
振り返ると、君は水平線の向こうまでをも見通すように、目を細めていた。
君がこの小さな島から出て行きたがっていたことは、わかっていた。そしてこの島には未来がないこともわかっていたことだった。
「できるよ。絶対に」
君を留めることも、君と一緒に行くことも、私にはできなかった。私は、君の後押しをすることしかできない。
「止めないのか」
君の不安そうな表情を見るのが、つらかった。
「帰ってくるって、信じているから」私は、はっきりと答えた。
君が微笑んだ。苦しげな表情を隠すようにして、何か一言。
潮騒が、君のその言葉をかき消した。
「一年後の今日、戻ってくる」君が、まっすぐに私を見つめて言った。
「ずっと、待っているからね」私は、大きく頷いて答えた。
沈む夕日が標であるかのように、君はポケモンに乗って、西の大地に向けて旅立った。私はその後姿をいつまでも見つめていた。
君がいなくなってから、私の中の何かがぽっかりと空いた。その何かを求めるように、思い出すように、毎日、西の浜辺に座っては君の帰りを待った。
ただ、一年後に君が帰って来ると言った約束だけが、何よりもの支えであった。
もうすぐ約束の日が終わる。
もう少しだけ、君を待とう。
我が家へと続く、浜辺に残された私の足跡は、すでに海波がかき消した。
空と海の境界線が融解した。満月が雲の群れに遮られ、散り散りになった星々の僅かな煌めきだけを残して、世界は黒に染まった。海鳴りの響きだけが私の耳に届いた。
花柄模様があしらわれた白いワンピースは、海水に濡れた。裾が波に揺れ、私の足に冷たく重くまとわりついた。
潮が満ちた。美しい海浜は残りわずか。私の身体はもう海に浸かっていた。凍えた身体は私自身のいうことをきかず、ただ波に肩を揺さぶられ続けた。それでも、目を閉じて、君の姿を思い浮かべる。
そうだ、もう少しだけ待とう。
今日が終わる、その時まで。
風と波がざわめいて、瞳を開いた。
満月が雲をかき分けて、夜空にその形を覗かせた。月光を浴びて青く透き通った海にその月影が映った。月影は、ひとつの影を海面に浮かび上がらせた。
シルエットはこちらに向かって動き出した。それは少しずつ大きくなって海面を唸らせた。まるで私に向かってくるようで、私は胸中に激しい衝動を覚え、咄嗟に沖へ向かって駆けだした。押し寄せる波が私の邪魔をした。足が地に着かなくなり、海中へと誘われる。悪魔が私の足を引っ張る心地がした。海底に引きずり込まれないように、必死になって水をかいた。しかし、両足が思うように動かなかった。身体が硬直し、力が入らず、海の下に招き入れられた。
何も聞こえない海の中。沈むだけの身体にすべてを託して、差し込んだ月光のゆらめきをただただ眺めていた。
その差し込んだ月の光の先に、私は、君を見た。
君は微笑みを浮かべて手を差し伸べていた。私も手を伸ばす。
しかし、君は儚くも泡となって消え失せた。
君は帰って来ないのだ。今まで考えることを避け続けてきた、最悪の答えが頭をよぎった。私は、声にならない悲鳴を上げた。誰にも届かぬ私の叫びは、海中を伝わることなく頭の中で反響するだけだった。そしていよいよ意識が遠のいた。
その沈みゆく感覚の中で、何かに優しく背中を押されたことを、私は覚えていた。
風の流れを素肌に感じた。潮の香りを鼻腔で感じた。目を開き、煌々と輝く満月と、宙から吊るされた星々を見た。感覚が急速に蘇った。背中を何かに預けていた。柔らかく、温かく、私の身体を包み込むように。
身体を起こしてはじめて気づく。 私は、大海原を進む大きなおおきな鯨の上にいた。私が起き上がったことに気づいたのか、噴気孔から潮を天まで届く勢いで噴き上げた。
月明かりに照らされて表皮が青く輝いていた。触れた手を離さないように、そっと撫でた。
「あなたは私を何処へ連れていくの?」
私の問いかけに返事はなかった。背後の東の空は明るみはじめていた。
この子はきっと、君の元へと連れて行ってくれる。
そう確信した。
まもなく朝日が昇る。
本作は、2014年に開催された『覆面作家企画3』に参加した際の拙作に修正を加えた再掲載作品となります。課題は【海】か【きのみ】でしたか。基本的に読後感を重視しています。お読みいただいた方に限りのない感謝を。