◇3
『お嬢、どうしやした。お体の具合でも』
隣を歩く大柄なポケモン、レントラーが、気遣わしげにこちらを見た。
彼が気遣ったのは、自分を腕に抱いている少女だ。ロコンも腕の中で身をよじり、彼の視線を辿るように少女の顔を見上げる。
ロコンやレントラーたちの“声”は他の人間には聞こえていない。
けれど少女はそっと周囲に意識を巡らし、こちらを気にする者が近くにいないか確認する。
本当はわかっている。周囲が興味を抱くとしても、すれ違うほんの一時だけだ。通り過ぎればこちらのことなどすぐに忘れ、意識は他へ移っていく。
わかっているのに。それでも少女は彼女自身が、そして一緒にいるロコンたちが、少しでも異物として認識されることを怖れている。
ロコンには、それが痛々しい。
「ううん、大丈夫。ありがとう、トラさん」
近くに誰もいないことを確認してから、少女は力ない笑顔で返事をする。
ただ仲間と会話するだけ。それだけのことに、こんなに気を遣わなくてはならない。どうにかしたいと願っても、ロコンにはその力がない。
『ダメねっ! ダメダメ、ぜんっぜんダメっ! お嬢、しっかりしなよっ! そうやってモジモジコソコソウッジウジじてる方が、よっぽど目立つってもんなのよっ!』
レントラーの頭の上で、体よりも大きなしっぽを持つ小柄なポケモン、パチリスがぴょんぴょん跳ねてまくしたてる。
確かに彼女の言う通り、堂々としていなければかえって人目を引くだけだ。けど、それができるならこうして悩んだりしないだろう。たまらずロコンは口を挟む。
『もー、あんまりごちゃごちゃ言わないでー! しょーがないの、まだニンゲンの町、慣れてないんだからー!』
「いいの、コロ。グリさん、ごめんね。気を付けるね」
痛みを仕舞い込むように微笑む少女に、パチリスもつい黙る。ここぞとばかりにロコンがあかんべしてやると、パチリスはすかさず睨み返してきた。あとで覚えてろと目が言っている。負けずにロコンはもう一度舌を出してやった。
それから少しは静かだったが、間もなくパチリスはむずむずし始めた。トレーナーである金髪に似て、パチリスは気が短い。堰はあっさり決壊する。
『それにしてもさっ! あいつらぜんっぜん現れないよねっ! いつになったらこの町来るのよっ! 今日? 明日? ていうか来ない? アタイ待ちくたびれて、ビリビリ溜まっちゃってるよっ!』
『うるさいぞグリ公。騒ぐなら降りろ、耳障りだ』
『なにさトヤラキっ! このこのっ! こうしてやるっ! えいえいっ!』
パチリスはレントラーのたてがみに潜り込み、微弱に電気を発しながらわしゃわしゃとかきまわす。レントラーはたてがみにうるさく、自分の電気で毎朝欠かさず整えている。パリッとキマっていたセットを乱され、レントラーは忌々しそうに唸り声を響かせた。
少女はそんなやりとりに苦笑しながら、しかしふっと表情を曇らせる。
少女が何を考えてるのかロコンにはわかる。けれど、わかるだけだ。その憂いを晴らす力は、ロコンにはない。
だから、せめて。少女がなんと答えるのかはわかっていても、気遣わずにはいられない。
『だいじょうぶー? ちょっと休もっか』
「ううん、平気。ありがとう、コロ」
そう力なく微笑み、少女は優しく撫でてくれる。
いつもそうだ。少女はすぐに無理をする。微笑んでくれる。ロコンはそんな少女が大好きで、だからその微笑みが嫌いだった。隠すことなんかできないくせに。甘えてくれたなら、いくらでも助けてあげたいのに。
ロコンはいつでも少女の味方だ。そして少女もロコンのことを、何より大切に想ってくれる。わかっているから、すれ違う。
パチリスの言った「あいつら」。少女が考えているのはその事だ。
出会ってしまってからずっと、少女は彼らのことを気にかけている。
彼らとの出会いが、少女をこんなに苦しめている。
だから、できるならもう二度と。
彼らと少女が関わることを、ロコンは望まない。
けれど、そういうわけにはいかないのだ。
ロコンに難しいことはわからない。けれど必ず、彼らとはまた遭遇する。
ならば自分は、どんなことでもやってやる。
どうかせめて、少しでも。
少女が悲しまなくていいように。
◆4
全身を受け止めてくれる、柔らかな感触。ついそのままそれに甘えそうになって――はっとした。
それがベッドの上だと気付くのに、少しだけ時間がかかった。
柔らかいのに不思議とあまり暑くないマットレスに、季節に合わせた薄手のブランケット。
ツバキは目を擦って、ゆっくりと体を起こす。ベッドの木枠が、ぎしりと鳴った。
ベッドは丸太を切り出して組まれたもののようで、どことなく島の家を思い出す。そのことに少し胸がきゅっとして、ツバキは首を振って懐かしさから逃れる。それから、ぐるりと部屋を見回してみた。
壁はベッド同様に、少々不揃いな丸太を組んで作られている。まるで大きな手のひらに包まれるような、気持ちを安心させるログハウスだった。
数台のベッドと、小さなポケモン用と思われる、ブランケットが敷かれた籠。どうやらここは寝室らしい。
その内装の雰囲気に、今度はポケモンセンターの寝室が浮かぶ。
ポケモンセンターのようで、そうでない場所――まさか、またあの黒服たちが?
嫌な予感がしてツバキがベッドを降りようとした直後、ぴょこんと体の上に飛び乗ってくるものがあった。
「わっ、シロ?」
きゅん、とシロは小さく鳴いて、嬉しそうにしっぽを振る。どうやら目が覚めるのを待っていてくれたらしい。
シロが無事ということは、彼らの襲撃を受けたわけではないのだろうか。
眠気の抜けきらない思考を回して、ツバキはこの状況に思いを巡らす。
「あっ、ハク! ハクのケガは? それにみんなはどこ? シロ、知ってる?」
シロが小さく頷いて、ぴょこんとベッドを跳び降りる。
後に続いて立ち上がろうとしたところで、がちゃ、と音を立ててドアが開いた。
「あら。目が覚めたんだね。よかった」
その声には聴き覚えがあった。
風が囁くような、柔らかくて優しい声。森で意識が落ちる前、最後に聞こえてきた声だ。
入ってきたのは、少し小柄な女性だった。
若干垂れ目がちながらぱっちりとした二重。左の目元には泣きぼくろ。柔らかそうな髪を首の横で束ね、肩から流している。ゆったりした服装に、シンプルなデザインのエプロン。歳は二十歳を過ぎたくらいだろうか。
相手に警戒心を抱かせない穏やかな印象だが、状況だけにツバキは少々困惑する。そんなツバキに、女性は柔らかく微笑んだ。
「ごめんね。目覚めて知らないところにいたら、びっくりするよね。大丈夫、ここは、わたしの家なの。あなたと一緒にいた子たちも、みんなここにいるよ。だから安心して」
そう言って女性はツバキに近づき、腰を屈めて顔を覗き込む。突然のことにツバキはどぎまぎしたが、「うん、顔色もいいし、大丈夫ね」と女性が微笑み、自分を心配してくれたのだと気付く。シロを軽く撫でてから、女性は姿勢を戻した。
「ツバキちゃん、だよね。それにシロちゃん。ごめんね、ユウトくんから、先に名前聞いちゃった。わたしはアイハ。ヤマトヤ・アイハっていいます。よろしくね」
「あ、うん。よろしく……」
とりあえず警戒の必要はなさそうだが、まだ状況が呑み込みきれない。
ツバキは思考を巡らせて、気を失う前のことを考える。そしてようやく、ひとつの結論に思い至る。
「あ、もしかして……助けてくれた?」
女性は一瞬きょとんとして、しかしすぐに柔らかく微笑み、小さく首を傾ける。
「そうだね、そうなるかな。なにがあったか、思い出した?」
「うん。えっと、そう、なんか、音が聞こえたんだ。そしたらなんだか、眠くなっちゃって」
女性は少しだけ可笑しそうにくすくすと笑うと、「ついて来て」と言って部屋を出る。
ツバキは一度、シロと顔を見合わせた。どうもシロも何か知っているようで、女性と同じように小さく笑っている。
ツバキはちょっと口を尖らせて、しかしすぐに立ち上がり、女性の後に続いた。
「あ、ハク!」
案内された先でベッドに横たわるハクをみつけ、ツバキは慌てて駆け寄った。傍らに立って、そっとハクの大きな手を取る。
幸いハクは元気そうで、首を回してツバキに笑顔をみせてくれた。
ハクの傍にはなぜだかクロとネネまで丸くなり、仲良く寝息を立てている。
ハクがケガした箇所には包帯が巻いてあったが、その範囲は思っていたほど広くない。
早くも傷が治ってきている?
そのことに思い至ると同時に、ふと気が付いた。
この部屋は、先ほどの部屋とどこか違う。
なにが、とはっきりわかるものではないが、なんとなく雰囲気というか、「空気」が。
とても澄んでいて淀みがなく、ここにいるだけで元気が湧いてくるようだ。
ツバキはハクの手を握ったまま、部屋の中を見回してみる。
やはり丸太で作られたログハウスなのだが、内装が少し特殊だった。
壁に接している大きな机。薬品らしい小瓶や容器が並んでいる棚。ハクが寝ているのは、大型のポケモン用らしい、頑丈そうなベッド。
ふと、ツバキは気付く。
そうだ、ミタキタウンでみた、ポケモンセンターの診察室によく似ている。
ベッドの傍らにはポケモンが一匹、すました顔で座っている。シロやクロによく似た体形で、耳やしっぽが葉っぱのような形をしていた。
よく見ると、その後ろに隠れるようにもう一匹、小さなポケモンもいた。ピンク色をした玉のような姿で、頭に葉っぱが生えている。恥ずかしがり屋なのか、ツバキが見ていることに気付くと慌てたように引っ込んでしまった。
「見るのは初めてかな。こっちはリーフィア、小さい子はチェリンボっていうポケモンだよ。ふたりとも、わたしの仕事を手伝ってくれてるの」
女性――アイハがそう言って、しゃがんでリーフィアの背中を撫で、チェリンボをそっと抱き上げる。
隠れていたチェリンボの全身が見えて、ツバキはふと違和感を覚えた。
頭から生えた、二枚の葉っぱ。その裏に隠れるように、植物のタネのようなものがぶら下がっている。
あれはなんだろう。もともと、こういうポケモンなのだろうか。
「名前はミツバとフタバっていうの。ふたりとも、ごあいさつした?」
アイハに呼ばれ、ミツバ――リーフィアがツバキの方を見る。それからすました表情のまま、行儀よさそうに「くん」と鳴いた。
一方チェリンボのフタバは、上目づかいでツバキを見ながら、おずおずとアイハの腕に隠れようとする。
「ごめんね、フタバはこの通り照れ屋さんで。ちょっと事情があって、自信をなくしてるの。許してあげてね」
「あ、うん。あたしツバキ。よろしくね」
ツバキが微笑みかけると、フタバはじっとツバキを見つめ、小さくこくんと頷いた。ミツバはやはりすましたまま、どこか優雅に佇んでいる。
性格的にはずいぶん違うが、この二匹が手伝っていることとはなんだろう。
聞いてみることにして、ツバキはアイハに向き直る。
「あの、アイハさんの仕事って?」
「ああ、んっとね。わたしはここで、薬を作って売ってるの。森で採れる木の実や薬草とかを使ってね。それとポケモンの診療所もやってて、ミツバたちに手伝ってもらうのは主にそっちかな」
「ポケモンの、お医者さんってこと?」
「うん、まあね。といってもここには大した設備もないし、ポケモンセンターみたいな大がかりな治療はできないから、応急処置して休ませるくらい。わたしも専門は薬作りだしね」
そう言ってアイハは、少し申し訳なさそうに微笑む。
「このフタバは、“いやしのはどう”と“アロマセラピー”っていう技が使えてね、それでポケモンの傷や症状を、少しだけど癒したりできるの。ミツバは“くさぶえ”で興奮してるポケモンを落ち着かせたり、それからリーフィアには空気をきれいにする力もあってね。だからミツバが傍にいると、ポケモンの回復が早まったりするんだよ。この子達がいるから、こうしてポケモンの治療ができる。ここで診療所ができるのは、この子達のおかげね」
そう言ってアイハはチェリンボ――フタバの頭を撫でる。フタバは照れくさそうにもじもじと縮こまり、ミツバもどこか誇らしそうな表情だった。
なるほど、ここの空気が澄んでいるのは、リーフィアであるミツバがいてくれるからか。
ハクの傷がこんなに早く治っているのも、アイハの処置と二匹の力があってこそ。
ツバキは改めて、彼女たちに感謝する。
「あれ、そういえばアイハさん、さっき“くさぶえ”って言ったよね。もしかして、あたしたちを助けてくれた時のって」
「うん、そう。ミツバの技でリングマたちを落ち着かせたの。あなたたちにも効いちゃって、ツバキちゃんが眠っちゃったのはちょっと失敗だったかな」
「え、もしかして、寝てたのってあたしだけ?」
ツバキは慌てて、シロやハクの方を見る。さっきシロが笑っていたのは、そういうことだったのか。
「きっと疲れてたんだね。それか、なにか思い詰めていたか。あの後ハクくんの応急手当をして、歩けるようになってから、ツバキちゃんはユウトくんがおんぶして連れてきてくれたんだよ」
ツバキは急に恥ずかしくなって、俯く。なんだかちょっと、顔が熱い。
確かにあの時はどうしようもなく、気持ちはいっぱいいっぱいで。だからあの音が聞こえてきた時、すごく安心して。
これでは自分だけがものすごく単純みたいだ。
これはばかにされる。後で絶対ばかにされる。きっとユウトとかクゥあたりに。
「あの、アイハさん。そういえば、その、ユウトとクゥは……?」
「ユウトくんは、仕事を手伝ってくれてるの。そんなのいいよって言ったんだけど、お礼がしたいって言ってくれて、甘えちゃった。クゥくんも一緒かな。ちょっと力仕事も頼んじゃったし。クゥくんは小さいのに力持ちだね」
「そう、なんだ」
ユウトらしいと思ったけれど、クゥまで手伝っているというのは少し意外だった。
クゥは基本的に、見知らぬ相手を信用しない。
ツバキのことは信じてくれているようだし、もうユウトにも慣れている。シロたちともそれなりにうまくやれているようで、そのあたりの心配は最近特にしていなかった。
けれどゴクトー島でもミタキタウンでも、一緒に修業するポケモンたちにもトレーナーにも、必要以上に近づこうとはしなかった。
そんなクゥが、ユウトと一緒に見知らぬ場所で、仕事の手伝いをするなんて。
クゥも少しずつ、馴染もうとしてくれているのかもしれない。
戦うことだけじゃなく、「一緒に」旅をしていくことに。
けど一方で、ユウトのことが気になった。
ユウトは、ちょっとおかしかった。
山で迷って、言い争いになった時。
ツバキだってムキになった。けれど、ユウトは。
なんとなくいつもの彼ではないような気がした。
まるで、溜め込んでいたものが溢れ出したような。
ふと顔を上げると、シロとハクが心配そうにこっちを見ていた。
いつの間にか、考え込んでしまっていたことに気がつく。
心のおもりを振り落とすように、ツバキは首を振った。
それからふたりに「大丈夫」と言おうとして、口を開きかけた時。
後ろで、ドアの開く音がした。
「あの、アイハさん。こいつ、ヨツバの食事なんですけど――」
振り返ったとたんに、目が合った。
ユウトが、緑色のポケモンを抱いて立っている。
ツバキはとっさに、つい顔を俯けてしまう。ユウトも気まずそうに、少し目を逸らした。
一緒に入ってきたクゥが、ツバキとユウトを見比べて、気に食わなそうに顔をしかめる。
「ごめんねユウト君、ありがとう。ヨツバのごはんはわたしがやるから、ちょっと休んで」
ふたりの様子に気を遣ってくれたらしい。アイハはフタバを降ろし、ユウトの腕からそっとポケモンを受け取る。それから気遣うようにふたりを見て、そっとドアを閉めた。
部屋から急に音が消え、気まずい沈黙が支配する。
相変わらずすまし顔で佇むミツバの隣で、フタバがおろおろとふたりの様子を窺っている。
ツバキは、どうしていいかわからなかった。話したいことは、ある。けれど、なんて口を開けばいいのか。
普段が普段だけに、ツバキはこうした沈黙に慣れていない。居心地の悪さにむずむずしてくる。
俯いたまま視線をさまよわせていると、ふとフタバと目が合った。びく、とフタバが少し怯み、それでも目を逸らさずにツバキを見つめ返してくれる。
そんなフタバを見ていたら、なんとなく勇気が出たような気がした。
「あの、さ、ユウト」
ツバキが口を開くと、ユウトも目を合わせてくれる。
話しかけたはいいものの、何を言えばいいのだろう。ツバキは慌てて言葉を探す。
「あの、えっと……。そうだ、さっきのポケモン、ヨツバだっけ。あれ、初めて見た」
そんな話題でよかったのかとも思ったが、後に引くこともできない。
幸いユウトは悩むことなく、自然に応えを返してくれる。
「珍しいポケモンらしいから。フシギダネっていうんだって」
「ふしぎだね? ふしぎ、だね?」
「背中にタネを背負ってたろ。だからフシギダネ。進化するとあれが開いて、蕾と四枚の葉っぱになるんだ。だからヨツバだって」
「あ、そう、なんだ」
ユウトの口調は、いつも通りだ。特に怒ったりとか、そういう風ではない。
そのことに少し安堵して、ツバキはまた話し出す。
「えっと、あれ、ハクのケガ。すぐ直りそうで、よかったよね。すごいね。けっこう思いっきり、やられちゃったような気がしたけど」
「ああ。アイハさんたちのおかげだ。なんでもなさそうにしてるけど、すごいよ。あの人も、フタバやミツバも」
ユウトの言葉を理解したのか、フタバが照れたような表情になる。ころころと表情を変えるフタバは可愛らしくて、なんだか見ていると元気になる。
「ツバキは聞いた? ここがどこだか」
「え? ううん、聞いてない」
「ここ、マルーノシティのすぐ側なんだ。町の北側で、森の入り口にあたるらしい」
その答えにツバキは驚く。眠っている間に、そんなところまで来ていたのか。
さっきの気恥ずかしさがぶり返すような気がしたが、幸いユウトはそこに言及はしなかった。
マルーノシティは、シラナミ地方でいちばんの都会と呼ばれる町だ。
南は海に面して港があり、他の町や地方からの船が出入りしている。そこから様々なモノや大勢の人が出入りして、そのため南部を中心に、市場や大型商店、企業ビルなどが広がっている。
しかし一方で町の周辺、特に北から東西にかけては、一面を森が囲んでいる。
ミタキ山麓からマルーノシティ周辺、さらにその先のモリトタウンまで、シラナミ本島南部を覆う巨大な森。
通称「シラヒの森」。
「ホントに危ないところだった。『シラヒの森深部』っていったら、三大魔境のひとつだよ。おれたちは山を下りながら、いつの間にかそんなところまで迷い込んでたんだ」
シラナミ地方にはまだ人間が到達しない、未開の土地がある。そして人間が足を踏み入れた内でも、立ち入りを咎められる危険な場所も多い。
シラナミ地方において「深部」や「奥」と言えば、基本的にはシラナミ本島の中心部を指す。
実際に見た者はほとんどいない、本島中央の湖。
それをぐるりと囲むようにそびえる、突き立った刃とさえ形容できるほどに、険しい岩壁。
それらに近づくほどに、シラナミ地方の「深部」と呼ばれる。
そして湖と岩壁に近いほど、生息しているポケモンは強靭で獰猛になるともいわれる。
その岩壁の目前まで、シラヒの森は広がっている。
その気になれば歩いてでも、岩壁の前まで到達できる。ただし奥に行くほど森は複雑に生い茂り、無事に帰れる保証など誰にもできない。
それが「シラナミ三大魔境」のひとつ、「シラヒの森深部」だった。
「思えばあのリングマたちの異様さも、深部のポケモンだったからなんだ。実際はそこまで岩壁の傍まで行ってたわけじゃないらしいけど……それでも、そんなところに入り込んで、無事でいられた。奇跡みたいなもんだよ」
「そんなに、危なかったんだ……。あれ、でもじゃあ、アイハさんたちは?」
「あの人は、ここで森を護ってるんだって。よくはわからないけど、そういう家系らしい。薬の材料にするきのみや薬草を集めながら、ああして時々ミツバと一緒に森を見回ってるんだって」
「え、そんなに危険なのに?」
「だからすごいんだ。アイハさんも、ミツバも。ただ戦うとか、打ち負かすとかそういうんじゃない。もっと違った力が、アイハさんにはあるんだと思う」
ユウトはどこか、遠い目をしてそう語る。まるでその力に憧れを抱いているように。
ユウトがそういう風に誰かを見るのは珍しい。アイハとミツバはそんなにも強いということだろうか。
「もしかしたらアイハさん、ジムリーダーとか、それくらい強かったりするのかなあ」
何の気なしに、ツバキはそう呟く。
悪気などは一切なかった。
しかしそれが、ユウトの何かに触れてしまった。
「だから、そういうんじゃないって言ってるだろ。ただ戦うとか、そんなのじゃない。なんでそう、トレーナーとかバトルの方に考えるんだよ」
そのやり取りが、結果としては引き金だった。
ツバキとしてはただ、なんとなく出ただけの言葉だった。ツバキにとって強い人物像として浮かんだのが、ジムリーダーだったというだけ。なのになぜそれでユウトが怒り出すのか、ツバキにはわからない。
思えばユウトは前からそうだ。
島で暮らしていた時から、ポケモントレーナーにはあまりいい印象を持っていないようだった。
たまにみせてもらえたテレビでは、ポケモンバトルの中継があった。ツバキはそれが好きで、シロたちと真似をしたりもしていた。
けれどユウトはそういった遊びも、付き合ってはくれるものの、どこか乗り気じゃなさそうだった。
けれど最近は、ユウトにそういう様子はなかった。ツバキがトレーナーになったことで、理解を示してくれたと思っていたのに。
「そんな、怒んなくたっていいじゃんか。ユウトこそ、なんでそうやって嫌がるの? トレーナーとか、バトルとか」
「別に、嫌がってるわけじゃない」
「嫌がってるじゃんか。なんで? さっきだってそうだよ。森の中で。戦うのはあたしじゃないとか、言ってたよね」
「…………っ」
「あたし、なんか間違ったことしてる? そりゃさっきは危なかったし。あたしが勝手に戦おうとして、状況悪くしちゃったのはダメだったと思うけど。でも、そんなさ、なんか変だよ。今さらどうして。何がそんなに気に入らないの?」
ユウトは、すぐには答えない。
険しい表情をして、口を引き結んで。
言葉を探しているというより、言おうかどうかを迷っているみたいだった。
それがツバキを苛立たせる。
ユウトはいつもそうだ。
色々小言は言うくせに。肝心なこと、ユウトが本当に思っていることは、なかなか話そうとしてくれない。
ツバキはそれが気に入らない。
「黙んないでよ。言いたいことがあるなら、言えばいいじゃん。あたしわかんないよ。言ってくれなきゃわかんない」
ユウトの表情が、歪む。
ツバキに対して閉ざされていた、ユウトの心。その扉に歪みが生じて、感情が漏れ出しかけている。抑える力が、弱まっていく。
「…………じゃあ、さ」
扉が、開く。
とっさにツバキは、少しだけ怖くなった。
けれど今さら、引き下がれない。
ツバキは動揺を悟られないよう、できるだけ表情を変えずにユウトの言葉を待つ。
「本当に、悪かったって思ってる?」
「え?」
何を、とは聞き返せなかった。
虚を突かれて、動揺が表に出そうになるのが怖い。
「森でのこと。何が悪かったって思ってる?」
「何が、って……」
「勝手に戦おうとした。そうだよな。それで、傷ついたのは誰だ?」
ツバキは、言い返せない。ユウトの剣幕以上に、なにかものすごく、突かれたくないところを刺されたようで。
「ハクが怪我をしたのはなんでだ。シロたちまで戦わなきゃいけなくなったのは。知ってるよな。シロは戦うのは好きじゃない」
「そ、そんなの、だって」
「そりゃ仕方ないさ。旅してる以上、戦わなきゃ身を守れないときだってある。だけど、あの時はそうしなくたってよかった。最小限の牽制だけして、逃げればよかった。誰も傷つかない方法だってあっただろ」
そんなことわかってる。そう思ったけれど、言えなかった。
だって、実際にハクは怪我をした。
自分が戦おうとしたせいで、取り返しのつかないことになってもおかしくなかった。
ツバキは、唇を噛む。
「ツバキはそれでいいかもしれない。でも、戦うのはツバキじゃないんだ。怪我をするのも、嫌いなはずの戦いをするのも、ツバキじゃない。クゥと出会ってからだよな。ツバキはなにかっていえばすぐ戦いに持ち込もうとする。ポケモンバトルやジム戦を始めたのだって、ツバキが勝手に決めたことだろ」
「勝手に、って」
「勝手じゃないか。クゥはそれでよかったんだろ。けどシロは? ツバキは、シロに一度でも聞いたか? バトルがやりたいかって。嫌じゃないのかって。聞けるわけない。だって、答えなんかわかってる。それでもシロは付き合ってくれる。ツバキが決めて、指示すれば、みんなそれに従うんだ。それってどうなんだよ。おかしくないのか」
「だって、そんなの。ポケモントレーナーって、そうじゃんか」
「そうだよ。トレーナーってそういうものだ。だからどうなんだよ。それが間違ってないって、誰が決めたんだ。みんなやってる。だったらいいのか。どうして誰も、おかしいって思わないんだよ!」
ユウトが声を荒らげる。
それは、溜め込んでいたものが溢れたようで。
ツバキは、考えたこともなかった。
ユウトが、そんなふうに思っていたなんて。そんなことを考えて、口には出せずにいたなんて。
ずっと、そんな気持ちを抱えていたのか。
ツバキがポケモンバトルを始めてから、ずっと。
すぐ隣で、何度も、幾度となくツバキたちが戦うのを見て。その度に、気持ちを痛めていたのだとしたら。
自分はそんなことに、少しも気が付かないまま。何も知らずに、ユウトを傷つけ続けていたのか。
いや、本当に知らなかったか。気付いてなかったと言えるのか。
本当は、わかってたんじゃないのか。
ユウトがポケモンバトルが好きじゃないのは、ずっと知ってたことじゃないか。
ただそれを、どうしてだかわからないからと、なんとなく放っておいてただけだ。
触れるのが怖くて。否定されるのが嫌で。ユウトが何も言わないことに、甘えてきただけじゃないのか。
「でも、でもあたし、そんなつもりじゃ」
ツバキはそこで、言葉に詰まる。否定しきれない。知らなかったなんて言い訳、できるはずがない。
ユウトの視線に、胸が痛む。ユウトが言わなかっただけじゃない。自分が聞かなかったんだ。その事実は槍のように、胸を突き刺す。
「ポケモンバトルって楽しいのか。ポケモンが戦って、傷つけ合って。それを後ろから見てるのって、おもしろいのかよ」
「違う」
「おれだって必要なら戦うさ。そのためにみんなの力も借りる。けどツバキがやってるのはそうじゃないだろ。必要じゃない。けどおもしろいんだろ。だからシロの気持ちだって無視できるんだろ」
「違うよ、そんなの、そんなんじゃない」
「今は、あのハンターを追ってるよな。けど、それは誰のためだよ。ネコヤマさんのため。エレンのため。ホントにそれだけ? 戦いたいんだろ。負けたから。自分の気持ちを晴らしたいんだろ。強くなったって、力をひけらかしたいだけじゃないのか」
「違うもん! 違う、あたしはただ」
「それで、また傷つくんだ。またみんなが怪我をする。相手はハンターだ。怪我だけじゃ済まないかもしれない。何をされるかわからない。それでも戦うんだろ。クゥも、ハクも。シロだって。ツバキのために戦うんだ。何が違うんだよ。そうやって、おもしろがって、みんな言いなりになって傷つくんだろ!」
「きゅん!」と、言葉を遮るような声が響いた。シロが、ユウトにすがりつくようにして首を振っている。やめて。もうやめて。そう言っているかのようで。
ユウトは息をのんで、口をつぐむ。
言い過ぎた。そう気が付いた時には、もう手遅れで。
「違う……違うよ。あたし、そんなつもりじゃなかったもん。違う、そんなの、違うっ……!」
わからなかった。
違う、違うと、うわ言のように言葉はもれる。
けれどもう、何が違うのか、何が言いたいのか、ツバキにはわからなくなっていた。
耐えられなかった。考えたこともなかった。考えないようにしていた。
突きつけられた言葉。その全てが、心の中を滅茶苦茶に逆巻く。
それは心のどこかに、小枝に引っ掛かった落ち葉のように、隠れていたのかもしれない不安。
姿を見せたその正体に、押しつぶされそうになっていた。
もう、この場にとどまっていることが息苦しくて。膝が崩れ落ちて、そのまま泣きじゃくってしまいそうで、それが怖くて。ここでそんな姿をみせたら、もう立ち上がれなくなりそうで。
ツバキは、逃げ出した。足がもつれそうになって、それでも無理矢理踏み出して。
ユウトも、シロも、クゥもハクも、クロもネネも。
誰の顔も見られないまま、逃げ出すことしか、できなかった。