第11話 「森の診療所」 (1)

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◇1


「ああん、もお!」

 町の中心部よりやや離れた住宅街、ある小奇麗なマンションの一室。よく冷えたアイスティをお供に気分よく作業していた金髪の耳に、耳障りな野太い裏声が入ってきた。金髪の女性は危うくお茶を吹き出しかけて、慌てて飲み込む。

「てめえマカオ、いきなり気色悪い声出すんじゃねえよ!」
「だってえ。まあたポケギアの調子が悪いのよお。これいろいろ改造しすぎなんじゃないのお?」

 くねくねしながら不平を言う大男にも、ルージュラはやたらとフリルのついたエプロンを揺らし、ティーポットとカップを運んでいく。大男の好みは、温めたモーモーミルクで淹れた濃いミルクティだ。金髪に淹れたアイスティには、程よく冷やしたヤチェの実の果汁を加えてある。主人たちの好みを熟知しているルージュラは、いつも通り器用に髪の毛を操って優雅に給仕をこなしていく。

「てめえがああしろこうしろってごちゃごちゃ注文つけっから、余計な機能増やしてややこしくなってんだろうが! あたしのせいにするんじゃねえよ!」
「もお、いちいち怒鳴んないでちょうだいな。ご近所迷惑でしょお?」

 大男は子をたしなめる母親のようにそう言うと、「ありがと」とルージュラが差し出した髪からカップを受け取る。金髪は何か言いたそうにぐぐぐと唸っていたが、やがて大きなため息をつくと、ずかずかと大男の傍までやってきてポケギアを取り上げる。

「ちょっと貸してみろ」
「あら、直してくれるのお? やっぱりヒナちゃんは頼りになるわねえ」
「黙れ。ちゃん付けで呼ぶな」

 金髪は不機嫌そうに音を立てて座り込み、がちゃがちゃとポケギアをいじり始める。大男はサングラス越しにルージュラと顔を見合わせ、ふふふと楽しそうに微笑む。
 大男のチームでは、この金髪がメカニックだ。金髪は電気ポケモンの使い手であると同時に機械知識に長け、機器の製作や改造もひとりでこなす技術を持つ。一方で大男は機械など使えればいいものとしか思っていないし、もうひとりの少女に至っては問題外だ。

「そういや、他のポケモン共はどこ行ったんだよ。さっきから妙に静かだけど」
「あの子と一緒に偵察に行ってもらってるわ。じきに戻ってくるんじゃないかしら」
「はあ? んだよ、トラやグリがいねえんじゃメカの充電ができねえだろうが」

 確かに部屋を見回しても、台所でエプロンを揺らすルージュラ以外にポケモンの姿はない。
 金髪は手製の電圧変換機を横目で見る。彼女のポケモンの電気を使って、作戦に使用する機器を充電するために作った装置だ。ここしばらくメカ頼みの作戦がないので出番は減っているところだが、それでもいざというときのため金髪は整備を欠かしていない。

「マジで全員ついてったのかよ? 過保護だな」
「まあねえ。けどこの町はあの子、人が多くて苦手でしょう。戻って来れなくなっても困るし」

 大男の言い様に、金髪は呆れる。けれど、事実だ。実際あの少女はこの町で迷ったこともあれば、人ごみに酔って倒れかけたこともある。それをポケモンに助けてもらっているというのだから、どちらがトレーナーだかわかったものじゃない。いや、そもそもあの少女はトレーナーではないのだったか。

 金髪は、手だけはポケギアと格闘しながらため息をつく。まったく、あんな能力でもなければ、絶対にあの少女はこんなところにいるべきではない。こんな、自分たちのような人間と一緒に。
 とはいえあの人見知りが、会社を離れ人の町で暮らしていけるとも思えないが。
 いっそ森の中とかで、ポケモンと共に生きていく方が似合いだ。

 仲間である少女のそんな姿を思い浮かべながら、金髪は作業を続ける。



◆2


「ねえー、ちょっと休もうよお」

 ミタキタウンは山の中腹にある村だ。だから次のマルーノシティへ向かうには、山道を下る必要がある。
 ツバキたちふたりと五匹は、今朝ミタキタウンに別れを告げ、次の目的地へと歩き出した。
 ――はずだったのだが。

「本当なら、もうとっくに山を下りててもいい頃なんだぞ。ツバキが余計なこと言い出したから迷ってるのに、何言ってるんだよ」
「だって、旅立ちの朝だもん、ちゃんと食べとかなきゃって思うじゃんかあ」
「だからって山歩きの前に何杯もおかわりする奴があるか。クロじゃないんだから」

 ツバキは「うううー」と唸りながら、ふらふらとお腹を抱えている。
 まったく、いつ野生のポケモンに出くわすかもわからないというのに。
 なんて呑気なんだろうとユウトは呆れる。

 本来ならミタキタウンからマルーノシティへは、比較的安全な道を下って行けるはずだった。村の住人やジムに挑戦しにくるトレーナーたちが使う山道で、ゆえにポケモンたちもあまり近づいてこない。そこを下れば迷わずマルーノシティへ辿り着けたはずなのに。

 全ては、出発前のツバキの一言がいけなかった。

「ねえ、どうせならさ、もっと険しい道とかないの? トレーニングしながら行ける感じの」
「ええ? なんでわざわざそんなところ行きたがるっすか? 早くマルーノシティに行きたかったはずじゃ」
「だってさ、町に着いたら、またあのハンターと戦うかもしれないんだよ。確かにみんな強くなったし、ハクのケガも治ったけどさ。でも、どうせならもっと、少しでも強くなっといたほうがいいでしょ。あいつ、すっごい強かったもん。もう負けるわけにいかないんだよ」

 その言葉に、クゥが乗り気になってしまった。ケットシティでハンターと対峙したあの時。為す術もなく、手も足も出せずにいたことは、クゥにとっても忘れ得ない屈辱だった。
 タイチは最後まで危ないと忠告してくれていたのだが、ツバキは「山なんだから、下に歩けばいつか下りられるよ!」と全く聞こうとしなかった。
 この時点でユウトは、嫌な予感がして仕方がなかった。けれどこうなったツバキを止められないことも、彼はよくわかってしまっていた。

 結局ツバキとクゥに押し切られる形でタイチが教えてくれたのは、普段誰も使わない、麓まで通じている保証もないという獣道。道を見失うまでに、一時間はかからなかった。

「やっぱり普通の道にしとけばよかった」

 今さらどうにもならないと知りつつユウトがぼやく。
 すでに傾斜は緩んでいて、山を降りているのは確かだろう。しかし周囲は依然森の景色で、人の通る道らしきものにはいつまで経ってもぶつからない。
 
 ツバキと旅をするという時点で、平穏にとはいかないと覚悟はしていた。けれど思い返せば恐ろしいことに、船任せの海路を除いて、これまで何のトラブルもなく町から町へ移動できたことが一度もない。

 移動といえば、ハクには翼がある。もしその翼でハクが飛ぶことが出来たなら、上空から道を探すことも、なんなら乗って移動することもできたかもしれない。
 けれどそれは、残念ながら敵わない。

 カイリューは本来、16時間で地球を一周してしまうといわれるほどに高速で飛べるポケモンだ。その進化前の種であるミニリュウやハクリューにも、翼はないが空中を泳ぐように移動できるものがいる。
 ポケモンの技には、“たつまき”や“かぜおこし”といった風や空気を操るものがある。タイチが言うには、翼のないポケモンたちはそういった能力を応用して浮遊し、カイリューも自身の巨体を持ち上げるため、翼だけでなくその力も利用しているのではということだった。

 ところがハクは、ミニリュウの頃空中を泳ぐ術は身に付けておらず、今は“たつまき”も使えない。その上早急過ぎる進化の影響か、急に生えた翼を自身の意思で動かすことすらままならない。
 技を取り戻すだけでなく飛行も今後の課題であり、それまでハクの翼に頼った移動はできないのだ。

「もうだめ、ギブ……」

 当のトラブルメーカーはといえば、この調子だ。今度こそハンターを捕まえると意気込んでいた、今朝の元気はどこへやら。
 クゥも先頭に立って周囲を警戒しつつ、時折ツバキを振り返ってはあまりの情けなさに呆れている。いつもクゥの不機嫌をなだめようとするシロも、さすがにフォローしきれないようだ。
 そんな中ずっとツバキを気遣うようにおろおろしていたハクが、ぽんと胸を叩いてツバキに背中を向ける。どうやらおんぶしてあげると言いたいらしい。

「ハク、ありがとう……! あたしの味方はあなただけっ!」

 背中に抱きつくようにおぶさるツバキに、ハクは照れたような笑顔を浮かべる。ハクとしては、困っているツバキのために自分が力になれたことが、ただ嬉しいのだ。それを見てクゥは一層呆れたように首を振る。

 ユウトはそんな仲間たちの姿を見て、考える。

 もとより好戦的で、戦うこと自体に意義を見出しているクゥ。
 どちらかといえば温和で、それでも自分を変えるために強さを求めたハク。
 けれど、本来戦いや荒事は好まず、常に仲間たちのことを気遣っているシロは。
 そして、彼らを率いて戦う立場にあるはずの、ツバキはどうなのか。

「こんなことで、よくハンターと戦うとか言ってるよな」

 ぽつ、とユウトが呟く。
 ハクの背に甘えるように身を預けていたツバキは、その言葉に顔を上げた。

「それはそれじゃんか。戦うよ。そのために鍛えてきたんだもん」
「鍛えられたのはシロたちだろ。それじゃ自分が何かしたみたいだ」
「あたしだって、考えながら指示したりしたもん。タイチに技教わったりもしたよ」
「それでも、戦うのはシロたちだ」

 ツバキがぐっと、言葉に詰まる。
 それでも、言われっぱなしで黙っていられるツバキではない。 

「それは。だって、そんなの」
「ハンターと戦う。そう言ってるのはツバキだ。そのツバキの一言で、シロたちは戦うんだ」
「なに、急に。わかってるよそんなの。わかってるから、あたしだって」

 ツバキは反論の言葉を探している。
 そんなツバキに、ユウトは厳しい表情を向ける。
 シロもハクも、ふたりの様子に戸惑っている。ユウトとクロの頭上でネネも、不安そうに縮こまる。

 なんだろう。自分は、なにを言おうとしているのだろう。
 やめた方がいい。
 ユウトの心に、躊躇いがよぎる。それでも、苛立った気持ちは静まらない。急流を下るような感情のままに、言葉を任せてしまいそうになる。 

「本当にわかってる? そんな呑気な格好で。そりゃいいんだろうけど。だって戦うのはツバキじゃない」
「どうして。なんでそんなこと言うの。だったらどうするの。エレンは。おじいさんは。誰が助けるの?」

 ハンターに捕まったままの、エネコロロのエレン。
 それを今も心配しているであろう、ネコヤマの気持ち。
 忘れていない。
 だからこそハンターの行方を追うため、今も町に向かっている。そのはずだ。

「だけどなにも、直接戦うだけが方法じゃない。そのために、知らせれば動いてくれる人たちだっているんじゃないのか」

 例えばジムリーダー。実際に、ゴクトー島ではジムリーダーであるアズミに危機を救われている。
 これから向かうマルーノシティや他の町にも、ジムリーダーはいる。彼らになら、事情を話せば協力は得られるはずだ。

「それじゃあたしたちは何もしないの? お願いして、それだけ? そんなの無責任だよ。そんなのって違う」
「それなら、勝てるのか? 戦って、本当に捕まえられるのか? 自分で戦うわけでもないのに。それで敵わなかったら、同じことだろ!」
「だけど! そんなの!」

 そうやって、騒いでいたのがいけなかったのかもしれない。
 突如近くで茂みが音を立て、シロがぴくんと反応した。クロもぱちっと目を開ける。

 クロの頭上でネイティのネネは、気が付いていた。
 壁の技を得意とするネネは、周囲の空間把握に長ける。
 けれど、言いだすことができなかった。
 ツバキとユウトの剣幕に、割って入ることができなかったから。

 シロは気付くことができなかった。
 エーフィであるシロは、本来危機回避に長けたポケモンだ。全身の細かな体毛は空気の流れを感じ取り、異変を敏感に察知する。
 けれど今は、ツバキとユウトの言い争いに気を取られてしまっていた。
 そのために、ここまでの接近を許してしまった。そして気づいた時には、手遅れだった。

 ツバキとユウトも、すぐに気付いた。
 すぐ傍まで、巨大なポケモンが迫ってきていることに。

 それは、森や山で出会うのを避けるべきポケモンの代表。人間の大人よりも体は大きく、力は太い木の幹を軽々へし折るほどに強い。嗅覚に優れ、気に入った木の実のなる木には爪で傷跡を残すほどに、縄張り意識が強い。
 とうみんポケモン、リングマ。
 旅人が襲われる事故が後を絶たない、山の暴れん坊だ。

 ユウトは言い争いのことなどすぐに忘れ、身構えた。
 ユウトたちの住んでいた島にも、少数ながらリングマがいた。だからくれぐれも注意するようにと、幼い頃から言われてきている。
 リングマの縄張りは、木の爪痕に注意していればわかる。だから島やこれまでの旅ではそうそう出会うことはなかったが、今は完全に油断していた。考え事や口論に夢中で、周囲への注意などまるで忘れてしまっていた。

 しかもこのリングマ、なにかが違う。
 リングマを間近で見た経験など何度もないが、雰囲気というか迫力が、どこかそこらのポケモンとは異なっている。
 体もおそらくは平均より大きい。ハクはカイリューとしては子どもで小柄だが、それでもハクの二回りほどは大きいのではないか。硬そうな毛並みはあちこち乱れ、体に目立つ傷もある。特に目元から頬にかけての顔の傷が、その迫力を際立たせていた。

 戦うべき相手ではない。ユウトは即座に、そう判断した。
 おそらく縄張りに踏み込まれたことに怒っているであろうリングマをいかにして鎮め、この場を無事に逃れるか。そのことにユウトの思考は集中する。しかし。

「おい、ツバキ! なにやってんだ!」
「大丈夫だよ。これくらい、追い払えるもん」

 いつの間にかツバキはハクの背から降りて、彼女の前にはハクとクゥが構えている。明らかな戦いの姿勢。ユウトはとっさに言葉が出ず、しかしすぐにツバキを止めようと声をかける。

「待てよ! リングマがどういうポケモンかくらい知ってるだろ。それにこいつ、なんかまずい。安易に戦おうとするな」
「じゃあ、逃げられるの」

 ツバキは振り向かないまま、言葉を返す。
 その背中をユウトは知っている。言い出したら決して引き下がらない、強情の塊。

「それに、これくらいどうにかできなきゃ、ハンターとなんか戦えないよ」
「ツバキ、まだそんなこと」
「まだって何? あたし一度も、やめるなんて言ってない」

 こうなったツバキがユウトの言うことなど聞かないのは、よくわかっている。けれど、いいのか。このまま戦って、本当に大丈夫なのか。ユウトの背中を嫌な汗が伝う。
 シロが不安そうに、ユウトの顔を見る。相手がこれまでのポケモンとどこか違うのは、シロも感じているようだった。そしてシロの不安は、よく当たる。

 ――グルルルルルルゥ。

 リングマが低く唸る。リングマは完全にこちらを害敵と認めている。一触即発。そしてそれを、ツバキが破る。

「クゥ、いわくだきっ!」

 クゥが踏み込み、リングマも応戦の構えをとる。クゥは素早く距離を詰め、体格差を補うために跳躍する。それは体格に恵まれないクゥにとって常套の戦法だったが、迎撃するリングマにとっては十分すぎる隙だった。

「クゥっ!?」

 繰り出されたリングマの腕はクゥの拳が届く前に、その体を軽々と弾き飛ばす。払われるように真横へ弾かれたクゥは、近くの木の幹へと勢いよく叩きつけられた。衝撃で肺の空気が絞り出され、クゥが咳き込む。
 けれどツバキには、そんなクゥの心配をしている暇などなかった。
 リングマが更なる害敵の排除をしようと、今度はハクに襲い掛かる。その気迫に、ハクはとっさに怯んでしまった。無防備なまま、剥き出された爪に息を飲むことしかできない。

「ハクっ! 防いで!」

 その言葉で、とっさにハクは腕を交差させて防御する。直後、重ねた腕に衝撃と裂傷の痛みが走った。カイリューであるハクの頑丈なウロコは、しかし攻撃を受けきることなく引き裂かれ舞い散る。だがそれで攻撃が終わるはずもなかった。
 間髪入れずに下から突き上げるような拳がハクの防御を崩し、振り上げた腕をそのまま振り下ろす爪の一撃が、ハクの胸から腹に袈裟掛けの傷を与える。その痛みにハクはよろけ、倒れる寸前でしっぽを支えにして踏みとどまる。けれど倒れなかったことが逆に、さらなる追撃を呼んだ。リングマが再び太い腕を振り上げる。

「ネネ! リフレクター!」

 とっさにユウトが声を張り上げ、ネネの瞳が光を放つ。寸でのところでリングマとハクの間に出現した“壁”が、リングマの爪とぶつかり音を立てる。

「クロ、サイコキネシス! シロ、でんこうせっか!」

 リングマが体勢を直す前に、ユウトは牽制をかけるべく声を上げる。クロの眼が光り、リングマの動きを縛る。そのがら空きになった腹部めがけ、シロが高速で体当たりする。それはリングマを僅かにも押し戻すことすら叶わず、ダメージはまるで見受けられない。

「シロ、すぐに下がれ! ネネ、リフレクター!」

 反撃しようとリングマが腕を振り上げる前にシロは飛び退き、再び“リフレクター”がリングマの進撃を阻む。思い通りに動けないことでリングマは苛立っているのが、その場で腕を振り上げ唸り声を上げる。

 倒すことはできそうにない。けれど足止めして凌ぐだけならば。ユウトは考える。
 クゥはすでに立ち上がっているが、ハクは傷を抑えてうずくまっていて、ツバキもハクに寄り添い声をかけている。
 今すぐに離脱するのは難しい。せめてもう少しの間リングマを抑えることができれば。
 ユウトがそう考え、次の手を打とうとしていたその時。

 ――グルオオオオオ!
 ――ルゴオオオオオ。

 複数の唸り声が、別々の方向から聞こえてきた。
 まさか。
 そう思ってそれぞれの方向を見、ユウトは今度こそ顔を青くした。

 さらに二体。おそらくは騒ぎを聞きつけて異変を確かめに来たのだろう、別のリングマが近づいてきているところだった。一体は少々小柄ながら一層荒々しい雰囲気を持ち、もう一体はいくらか落ち着いて見えるが体格は始めのリングマを上回る。

 リングマたちに三方を囲まれる形になり、逃げを打つにはあまりに困難な状況だ。しかし一体だけでこれほど苦戦しているのに、三体同時に撃退するなどできるはずもない。
 幸い後から来た二体は未だ様子を窺っているようで、はじめの一体も新たな来訪者にわずかながら頭の血を下ろした様子だ。
 けれど、極めて危険な状況であることに変わりはない。
 ツバキが、ハクに手を添えながらもリングマたちを睨みつける。立ち上がったクゥが、再びツバキの前に立つ。

「おい、ツバキ、まさかまだ」
「やるしかないよ。戦わなきゃ」

 リングマたちを見据えたまま、ツバキは口を開く。けれどその言葉には、もう先ほどまでの勢いがなくなっていた。額からは汗が伝い、その瞳には恐怖が見える。クゥが敵わず、ハクが傷つき、苦しみ。それを目の前にして、ツバキも強気を保っていられなくなりつつある。

 ツバキには、自信があった。
 それは、強くなったという自信。
 前よりも力をつけ、誰が相手でも簡単には負けなくなったと思っていた。

 ミタキタウンで、ハクと出会い。共に修業し、進化を経験した。その力で、ギリギリとはいえ、初めての勝利を掴んだ。
 三ノ滝にいる間、クゥやシロとも技の訓練を欠かさなかった。
 新しい仲間。初めての勝利。順調に思えた修業。
 それらは確実に、ツバキの中で何かを満たした。

 だから、勝てると思った。
 ハンターにだって、もう負けないと。
 こんなところで野生のポケモンなどに、負けるはずがないと。
 心に芽生えた新たな自信は、ちっぽけな驕りを生み出していた。
 実力以上を驕った錯覚。それは自信ではなく、過信だった。

 ツバキは歯を食いしばった。気を抜いたら涙が出そうで、必死にこらえた。
 自分のせいだ。こんな状況を招いたことも。ハクが隣で苦しんでるのも。
 なのに自分には、この窮地を脱することも、ハクの痛みを和らげることも、なにもできない。

 恐怖に体は震え出し、目元が滲んで、どうすればいいのかまるでわからず。
 それでも、俯いてしまったら本当に全てが終わってしまいそうで。それだけは怖くて、ツバキは顔を上げていた。
 
 ふと、音が聞こえた。

 それは、心をなぞるような。
 逆巻いた心を、そっと解きほぐすような。

 それが不思議な、一定のメロディをもつ音だと気付いた時には、既に異変が起こっていた。
 リングマたちが、どこかツバキたちとは違う何かを見ているような、遠い目をしている。その身に纏う空気には先ほどまでの荒々しさが消えつつあって、まるでメロディに激情を洗い流されてしまったかのよう。
 やがてメロディは曲調を変える。より耳に、心に、鮮明な流れとなって入り込んでくる。
 それは全身から力を奪っていくような、どこか眠気さえ起こさせるような。
 思考が、ゆっくりと、閉じ始めている。

 そして静寂を求めた心に、ふと風が囁くような声が入ってきた。

「さあ、あなたたち。もう大丈夫だから、お帰りなさい。ここには、敵なんていないの。だから、お帰り――」

 ああ、これは自分に向けられた声じゃない。
 そう気付いたら、急に声が遠くなったような気がして。
 再びメロディに、心が奪われていくようで――。

「ねえ、あなたたち。ねえ、起きて」

 今度は自分に向けられたものらしい心地いい声に、ゆっくりと意識が戻りかけて。
 けれどそれは波のように再び押し戻されて、メロディに身を任せるのが気持ち良くて――。

 意識を保てていたのは、そこまでだった。



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