少女の朝飯を作った後、俺は急いで車に乗って会社を目指した。
会社に向かう最中、普段なら適当に音楽を流すのだが、今日は時間に余裕が無いせいかそんな気分になれなかった。
とはいえ、毎朝出勤で慣れたこの道は安定するだけでは退屈たった。
音楽を聴く気分にはなれないが、その代わりに、昨日少女が話していた内容をなんとなく思い出すことにした。
浜辺の海を眺めながら、少女は言っていた。
『ジラーチは千年に一度だけ目を覚まし、みんなの願いを叶えるんだ』
ある日、少女は山奥で自らをジラーチと名乗る不思議な生き物に出会ったのだという。
ジラーチとは、どんな願いでも叶える不思議な力を持った生き物で、少女はそこで自分がジラーチになる事を願った。
『_____そうして、私はジラーチになったのだ』
少女曰くジラーチとは、小さくて、黄色くて、不思議で、可愛い生き物らしい。
その上、人間の言葉を理解し話すことが出来ている。
はたして、この世界でそんな事が出来る生物が、人間以外にいるのだろうか?
それにアイツがそのジラーチという生き物になったのなら、なぜ今人間の姿なんだ。
真剣に話してくれた少女には悪いが、こんな話を信られる訳がない。
とは言え、あれだけ真面目に語っていたんだ。
少女の言っていたジラーチとやらについて調べれば、アイツについて少しは理解を深められるかもしれない。
「______ジラーチか」
そういえば、昨日この言葉を他にも誰かから聞いたような気がする。
はて、一体誰から聞いたんだったっけ?
昨日出会った人物なんてたかが知れてるので、少し考えればすぐ思い出せそうだったのだが残念、会社に着いてしまった。
この事はまた後で考えることにしよう。
車から降り、事務所への階段を登った。
一段、一段、段差を登る足取りはいつもより重かった。
階段を登り終えると、正面には観音開きの扉がある。
ここが事務所の入り口だ。
もう何度引いたか分からない扉を開き、俺はゆっくりと事務所に入った。
一瞬、室内の空気が重くなった気がするが何食わぬ顔でデスクを目指した。
さり気なく周囲を見渡すが、自分以外の全員はもう仕事に取り掛かっているようだった。
それもその筈、既に俺は30分以上遅刻している。
遅刻なんてもう何年もしていなかったので、地味にショックだった。
アイツの朝飯を作ってなければギリギリ間に合っていただろうが、飯が必要なことを失念していた俺も悪い。
まあこの会社で俺の遅刻に文句が言える人間なんて今となっては社長か所長くらいだろうし、そんなに気にする事はないさ。
デスクに着き、PCの電源を入れる。
隣の席のミナミは何やら真剣に画面を見つめ、誰かと電話をしているようだった。
電源が入るまで暇なので、机に溜まった書類を何となく眺めていると隣で電話対応しているミナミの声が耳に入った。
「はい、分かりましたー。ちょっと探してみますね‥‥はい、ありがとうございます。では、失礼いたします」
ミナミは電話越しに頭を下げ、ゆっくりと受話器を下ろした。
一昨日の件があってから、ミナミの電話対応はよくなってきたと思う。
別に以前も態度が悪いとかそう言う訳ではなかったのだが、声に元気が無く、返事も歯切れが悪いのでお客からの印象はあまり良くなかった。
本人の性格の問題もあるだろうし、俺も何度か指摘している。
まあ仕事は真面目にこなしているし、シャイな性格を無理やり直せと言うのも無理があるかと、正直半ば諦めていた。
それがこの数日で、劇的に良くなってきている。
本人の中で何かあったのだろうが、本当に大したものだ。
最初からもっと頑張れよという意見もあるかもしれないが、教育を任されている身としては中々感慨深いものがある。
「あ、シノミヤさん。おはようございます」
ミナミは俺に気づくと、にっこりと微笑んだ。
「おう、おはよう」
ミナミは簡潔に挨拶をしただけだったが、そのやけにニヤついた表情から察するに、恐らく俺の遅刻を面白がっているのだろう。
結構仕事が溜まっていたので、挨拶だけで済まそうと思っていたが、ふとミナミがしていた電話のことが気になった。
「今の電話、もしかして俺のお客さんか?」
「はい、イシダさんからでしたよ」
「ふーん、そうか」
イシダさんというのは隣町にある町工場の社長で、ウチにはよく工場で使う消耗品を頼んでくれる、いわゆるお得意様というやつだ。
工場の規模はそんなに大きく無いのだが、あそこには腕の立つ技術者が多くこの近辺ではかなり名が知れている。
実は、ウチからイシダさんに依頼を掛けることの方が多かったりする。
あそこの工場からは基本的に決まった物しか注文されないので、向こうから連絡があることなんて滅多に無い上、しかも、社長から直接の電話だ。
「イシダさんから直接なんて珍しいな。なんかの依頼か?」
ミナミは素早く頷いた。
「そうなんです。さっきメールで図面を貰ったんですけど、なんかこの図面の製品を作れる業者を急ぎで探して欲しいみたいで…」
そう言うとミナミはモニタから少し遠ざかり、俺に図面を見るよう促した。
「どれどれ____え、なんじゃこれ!?」
モニタに映し出された図面は、一瞥しただけでは何が何だか分からないとても複雑な構造をしていた。
「ごめんなさい私これ、さっぱり分からなくて…」
「難しすぎて、俺でも全部は理解出来ないな」
この図面はどうも球体を作るようなのだが、素材やサイズのなど指定がかなり細かく、その上球体の内部にはかなり複雑な電子路を組み込まなくてはいけないようだ。
俺でも知らない用語が多すぎて、球体構造のざっくりとした部分しか理解出来ない。
これを作れる業者を、急ぎで探して欲しいだって!?
イシダさんの工場で作れないものが、ウチの他の取引先につくれる訳がないだろう!
「この図面について、イシダさん何か教えてくれなかったか?」
「それが、イシダさんも別の業者から依頼されたようで、かなり頭を抱えてるみたいなんですよ」
「まじかぁ…」
なんてこった。
週末だとういうのに、とんでもなく厄介な案件を押し付けられてしまった。
しかしイシダさんもこんな面倒な案件普段なら断りそうなものなのに、一体どうして引き受けてしまったのだろうか。
依頼側が有名な大手だとか、支払いがかなり良いいとか何かしら理由があるのだろうが、だとしても無理が過ぎる。
しかし、その無理を通してくれるのがウチの会社もとい、俺だと信頼してこの図面を送ってくれたのだろう。
期待には必ず応えるのが、人情というものだろう。
まあ俺も普段ならこんなの即座に断ってしまうのだが、一昨日の件があるので流石に何もせずに断る訳にはいかない。
そう、一昨日ミナミが怒らせて俺が謝りに行ったお客さんが、このイシダさんなのである。
流石に一通り業者に聞いてみてからでは無いと、断る訳にはいかないだろう。
しかし、ただでさえ仕事が溜まっていると言うのに、こんなの探していたら時間がいくらあっても足りない。
早く帰らないと、家で”アイツ”が待っている。
遅くなれば何も言われるか分からない。
「くそ…めんどくさすぎるぞ」
考えなければならない事が多すぎて、心の声が思わず漏れてしまう。
「…すいません」
ミナミが申し訳なさそうに頭を下げる。
「ミナミは何も悪くないさ」
ミナミは深く頭を下げすぎたせいで、後頭部で束ねられたポニーテールが顔面に打ち付けられていた。
その格好が少し愉快で思わず笑いそうになるが、その時ふと、ミナミのヘアゴムに付いた黄色いキャラクターと目があった。
そういえば昨日ミナミと会話していた時に、このキャラクターについて何が話したような気がする。
「なあ、ミナミ」
「は、はいっ!」
怒られると思っているのか、ミナミはびくりと体を跳ね上がらせる。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだが」
何故だろうか、何か重要なことを思い出したような、世紀の発見をしたような、とにかく気分が高揚して身体中が熱くなった。
「な、なんでしょうか?」
「お前のそのゴムに付いたキャラクターって…」
「ああ、これですか」
俺に怒られない事が分かってほっとしたのかミナミはいつもの調子に戻り、そして髪に付いたその黄色いキャラクターを撫でてみせた。
「______この子、ジラーチって言うんです。って、これ昨日も言いましたよね!?」