目が覚める。
瞼を開くと、視界に映りこんだのは見慣れた天井の景色だった。
もう朝か。
カーテンの隙間から眩しい朝日が差し込み、外からは鳥の鳴き声が聞こえてくる。
寝起きでぼんやりする頭でははっきりと思い出せないが、昨日はとても疲れたことだけは覚えている。
疲労のせいか体の節々が痛く、だるくて起き上がる気がしなかった。
もう少し若ければこの程度の疲労なんて事はなかったのだが、いよいよ俺もいい年頃だ。
ぼちぼち身の振り方を考えたほうが良いのかもしれない。
さて、いつまでもここで寝ているわけにもいかない。
そろそろ仕事の支度をしなければ。
とりあえず今の時間を知りるために、スマホが欲しかった。
恐らく今日もベッドの何処かに転がっているのだろう。
手探りで探そうと左手を動かすのだが、背中の感触がいつもと違うことに気がついた。
背中にあるものが、いつもの柔らかいベッドではなく何かとてつもなく固い。
そう言えば毎朝見る天井も、いつもより高い気がする。
嫌な予感がする。
恐る恐る首を傾けると俺の横にはベッドがあった。
なんと、俺は床の上で寝ていたのだ。
一体何故俺は床で寝たのだろう?
体が痛いのは硬い床で寝たせいだったのか。
痛む体を労りながらゆっくり起き上がると、ベッド上に青いタオルケットが隅の方に転がっていた。
手を置くとまだ少し暖かかったので、俺はついさっきまでベッドの上で寝ていたのだろう。
昨夜は非常に疲れていたこともあり、きっと、かなり寝相が悪かった。
そして、俺は1人で寝るには十分すぎる広さのセミダブルのベッドから転落し、痛さの余り目覚めたのだ。
「そんな訳あるか!」
目覚めた時、俺は仰向けになっていた。
ということはベッドから仰向けに落ちていったということになる。
ベッドの方から逃げなければ、そんな落下の仕方にはならない筈だ。
……段々と、思い出してきたぞ。
「なあ、これはどうすれば流れてくれるんだ?」
廊下の奥から女の子の声が聞こえて来た。
俺はこのアパートに一人暮らししているので、この家で自分以外の誰かの声がするなんて本来、絶対にあり得ない。
「まさか…」
廊下から、ぺたり、ぺたりと、足音が近づいてくる。
「おい無視をするな。声が聞こえたから、起きているのは分かっておるのだぞ」
その女の子声は年相応だったが、話し方は落ち着がありとても大人びており、そして、とてつもなく偉そうだった。
昨日の出来事が次々と走馬灯のように浮かび上がった。
俺は昨日、少女を海に連れて行った後_____
「おいっ!なぜ返事をしないんだっ!」
廊下から黄色髪の少女が姿を現す。
寝癖のついた長い髪を激しく揺らし、少女は俺を睨みつける。
「やっぱり起きているではないか!」
そうだ、俺はこいつを泊めてやったんだった。
あの後、陽も沈みかけだったので家まで送ってやろうと思い、少女に家の場所を聞いたのだが、
『お前は私を海に連れていくと約束した。さっき見せたのは、お前が見せたかった海では無いのだろう?なら私がその”太平洋”とやらを拝むまで、私はお前の家に住まう道理がある』
少女はそう言い放つと、俺のアパートに着くまで何も話さなかった。
一体、どこの世界にそんなデタラメな道理があるというのだ。
少女が海へ行きたい理由も、家に帰りたくない理由も、そもそもこいつの名前すら知らないのだが、それでもこんな幼い子供を夜の町に置き去りにする訳にもいかなかった。
「いい加減、その間抜けた面で私を見るのを辞めろ!」
少女の声が部屋中に響き渡る。
はっと我に返り少女を見ると、少女は怒りで震えていた。
「なぜ無視をするんだッ!!!」
落雷のような凄まじい怒鳴り声が、部屋中に響き渡った。
「おい、あんまり大きな声をだすなよ」
少女が大声を出してから、隣の部屋からゴソゴソと物音が聞こえ始めた。
早いとここいつを静かにさせないと、隣人トラブルに発展しかねない。
しかし、少女がそんなこと気にする筈もなく再び大声で怒鳴り出す。
「お前の耳は一体どうなっておるのだ。私はさっきからお前に話しかけていんだぞ、何度も何度も何度もだっ!なあ、返事の一つくらいしたらどうなんだ!?」
「返事なら今してるだろっ!」
「だから、最初から返事をしておけという話だ!」
確かに返事をしなかった俺が悪いだろうが、何もそこまで怒る必要ないじゃないか。
一体どうして朝からこんな目に遭わなければならないのだ。
全く、朝から最悪の気分だ。
少女は俺に怒鳴りたいのか謝らせたいのか知らないが、とにかく早くこいつを黙らせないと隣人からクレームを入れられるだろう。
____ここは俺が折れるしかない。
「わかったわかった、悪かったよ!ちょっと考え事をしてたんだ。別にわざと無視した訳じゃない」
「……お前の足りない脳みそで、一体何を考えることがあるのだ?」
「……」
「私の貴重な時間を、消耗してしまったではないか」
「……」
「全く、次は気をつけるんだぞ」
「……分かったよ」
そう呟くと、少女は俺に背を向けた。
少女が思ったよりあっさり引いてくれたので助かった。
あともう一言何か言われていたら、次は俺の方が怒鳴り散らしていたところだ。
「ついてこい」
そう言いうと少女は廊下の方は歩き出す。
「いいか?今、私は困っているのだ。出来ればこの問題を1秒でも早く解決したい」
そういえばさっき廊下からこっちにくる時に、少女は何か言っていたっけ。
面倒だったので無視しようかとも考えたが、また喧嘩になりそうだったので仕方なくついて行くことにした。
仕方なく、床で寝たせいでまだ痛む体を無理やり起こした。
これから仕事だってのに、いらん体力を使わせやがって……
少女はぺたりぺたりと廊下を歩き、やがてトイレの前で立ち止まった。
「なんだ、トイレがどうかしたのか」
「ここで用を足したのだが、どうすれば流れてくれるのだ」
「はぁ?」
一気に全身から力が抜ける。
まさか、そんなくだらない事で俺は朝から怒鳴られたのか。
「なんでだ、昨日教えたろ」
「忘れたんだよ。もう一度教えてくれ」
「壁にあるボタンを押すか、銀色のレバーを引くんだよ」
「うむ、やはりそうだったか。よくやった、もう戻って良いぞ」
そして少女は何故かウキウキでトイレに入っていった。
「____はぁ」
魂が抜けていくような、深いため息が漏れた。
まだ目覚めて数分しか経っていないというのに、半日分くらい体力を消耗したような感覚だ。
無駄に体力と時間を消耗してしまった。
時間を見るともう7時半だ。
そろそろ準備しないと、会社に遅刻してしまう。
急いでスーツに着替えていると、廊下からまたもやぺたぺたと足音が鳴った。
「おい」
振り返ると、少女と目が合った。
「今度はなんだよ」
もう一々対応してやれるほど時間がなかったので、俺は着替えながら返事をした。
「一体なぜお前は着替えておるのだ。確かその格好は、仕事をする時に着るのであろう?」
「これから仕事をしにいくんだから、当たり前だろ」
「なんだと?今日は私を”太平洋”とやらに連れて行ってくれると言っていたではないか」
「それは明日の話だ。悪いが、今日は家で留守番しててくれ」
昨日と一昨日と、俺はこいつに時間を使ったせいでかなり仕事が溜まっていたので、今日仕事を片付けてしまわないと、最悪明日も出勤する羽目になってしまう。
「むぅ…分かった」
連れて行けと駄々を捏ねるか冷や冷やしていたが、杞憂だったようだ。
正直、こいつを家に1人にさせるのは不安でしかないのだが、背に腹は変えられない。
「頼むから、大人しくしててくれよ」
もう時間がなかったので、まだ何か言いたそうにしている少女を通り過ぎて玄関に向かった。
「おい、待て」
案の定、少女に声を掛けられる。
大きなため息を吐き俺は少女へ振り向いた。
「今度はなんだよ」
「……」
しかし、少女は何も言わなかった。
「こっちも時間がないんだ。用があるなら手短にしてくれ」
「……った」
「なんだって?」
少女は何か小さな声で呟くが、よく聞き取れない。
「もっと大きな声で言ってくれ」
「…がへった」
「聞こえないぞ」
「だから、腹が減ったと言っておるのだ!お前、仕事に行くのは良いが、まさか私に朝ご飯を振る舞わずに出て行くつもりか?」
少女はお腹に手を当て俺を睨みつけると、一言言い放った。
「愚か者めが」
「……」
普段朝ご飯を食べないので完全に失念していた。
俺は少女の朝ご飯を作ってやり、急いで家を飛び出した。