第9話 決意の代償

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ルーナメア(ラティアス♀):スターライトの艦長

タリサ(女性):不思議な雑貨屋さん

サン(少女):好奇心溢れる活発な女の子
ルトー(ルチャブル♂):サンの相棒だが…?
雷電(剣):仰々しく話す稲妻の剣

キズミ(男性):美青年にして警官
ウルスラ(ラルトス♀):キズミの相棒

マナ(マナフィ♂?):スターライトに搭載された人工知能ホログラムのひとつ

ミオ(女性):ルーナメアの友人で、地球連合艦隊の提督
 船底に突き刺さった三本の氷柱から、氷のケーブルが船に繋がっている。その先端は回路に根を張り、じわじわと、ひとりでに侵蝕を続けていた。
 ポリゴンたちは機関室を慌ただしく飛び回っている。侵されたシステムを切り離し、少しでも侵蝕を遅らせ、船の制御を取り戻すために。だが、どんな抵抗をしても氷に先回りされてしまう。まるで意思を持った生き物のように。

 医療室。
 マナフィはポリゴンから集めた情報を頭でまとめ上げ、報告した。
「侵蝕率三十二パーセント、なお上昇中。船の自己修復システムでは対抗できません」
「あの氷柱を壊したらいいんじゃないか?」キズミが言うと。
「とてもじゃないですが、推奨できません」マナフィが首を横に振った。「あれは船に刺さったナイフそのものです。不用意に引き抜けば、有機体なら出血多量で死に至るように、船のシステムに致命的なダメージが及ぶ恐れがあります」
「爆発したりしての」ルーナメアがぽつりと加えた。
 ウルスラはチラリとキズミを見上げた。
「キズミ様、先ほどの戦いで危うく氷柱を……」
「その先は考えたくない」ため息を吐いて、額に手を当てた。「じゃあ止める手立てはないのか」
「マナ」ルーナメアが顎に手を置いたまま尋ねた。「氷柱のシステムに侵入できないか? 大元の電源を止めれば、侵蝕も止まるはずじゃ」
「ポリゴンが氷柱をスキャンしました、あれは非常に複雑な出力装置です。莫大なエネルギーも蓄えています。一方で不可解なことに、主要演算機能は欠如していました」
「えんざん?」タリサが首を傾げると。
「有機体で言うところの、脳に相当する部位です」マナフィはさらに続けた。「おそらく亜空間を通じて、何者かが氷柱を遠隔操作しているのではないかと」
「たとえば神経リンク・インターフェース」ルーナメアが渋い顔で言った。「頭で考えるだけでコンピュータを操作できる。タリサとキズミの言ったことは正しいかもしれんな。この中の誰かに化けた敵が、わしらを間近で観察しながら、船を破壊しようとしておる可能性は十分ある」
 では誰が敵なのか。当然の疑問は頭に浮かぶものの、誰もそれを切り出すことができない。それは自らにも降りかかってくるからだ。そういうお前は、本物なのか。
 腕を組んだまま険しい顔を浮かべるルーナメア。とぼけた顔には出さないが、隙も見せないタリサ。困惑してキズミに寄りかかるウルスラ。そしてサンは、重苦しい雰囲気に堪えかねて、見えない何かを抱きかかえていた。おそらくは彼女の言う相棒、ルトーを。

 痺れを切らしたキズミが舌を打った。
「行動を検証しよう、それしかない」
「いつから?」ルーナメアが返した。「敵の可変細胞は完璧じゃ、偽物かどうかはもちろん、すり替わったタイミングを特定する方法もないぞ。そもそも最初から偽物だったかもしれん」
「その線は薄い。心を観察するのが目的なら、なるべく干渉しないことが前提だ。ここにいる皆の中で、お互いに干渉を避けようとした奴がいたか?」
 いないな。互いに顔を見合わせて思い返す。誰もが何かを抱えている。起きた問題について、必ず誰かと話し合ってきた。
 少しだけ皆の表情に綻びが見えたところで、キズミは「よし」と頷いた。
「そこで次の問題は、機会だ。氷柱が刺さる前に、氷のイミテーションがこの中の誰かと入れ替わるチャンスはあったか?」
「ありえません」マナフィが答えた。「外部環境要因を排除するため、船には常に隔離フィールドを張っていました。問題があれば必ず検知します」
「なら、入れ替わったのはその後で間違いなさそうだ」
「いいのか?」ルーナメアは訝しげに言った。「そうなると怪しいのは、氷柱に最も近かったキズミとウルスラ、そしてタリサじゃぞ?」
「逆もありうるだろ」キズミは細い目をさらに鋭く尖らせて返した。「グレイシアが陽動だったとすれば、遠くにいたルーナメアとサンがホシ(被疑者)だ」
 初めて疑いの目が向けられ、サンはビクリと震えた。
「あ、あたし違うからな! それにきっと、ルナ姉さんも!」
「どうして言い切れる?」
「それは、えっと……」
 氷のように冷たい視線を前に、サンはすっかり勢いをなくしてしまった。あとはモゴモゴと口を動かすばかりだが、キズミは微動だにしなかった。
 理屈は武器、か。タリサは黙ったまま、グレイシアから言われたことを思い返していた。この場では間違いなく武器となるだろう。それを幼い少女のサンにまで求めるのは、あまりにも酷だ。
「……まあまあ、少し落ち着こう!」やたら明るく振る舞い、タリサが言った。「皆きっと疲れているんじゃない? 最後に心が休まったのはいつのこと? ピリピリしても答えは出ないし、あと何時間か猶予があるなら――」
「二時間十四分です、修復作業に掛かる時間も含めると一時間三十四分ですが」マナフィが割って入った。
「少しぐらい休憩を挟んで、頭をすっきりさせては如何かな。あと……三十分ぐらい」
 異論は出なかった。キズミは「そうだな」とくたびれた息を吐き、ルーナメアも、張っていた肩を下ろした。


 *


 休憩に入り、十分が経つ。
 離れ離れになると疑念が増すため、一同揃って医療室にて軟禁状態に置かれた。が、誰もが感じている。たとえ同じ部屋にいても、互いの溝は明らかに深まった。
 キズミは窓際のテーブルで、冷水をピッチャーからコップに注いだ。これで四杯目になる。
「身体が冷えてしまいますわ」ウルスラが声を落として言った。
「少し頭を冷やしたい」
「でも……」
 止める間もなく、キズミは四杯目を一気に飲み干した。ウルスラは向かいの椅子に飛び乗った。
「……言いたいことは分かってる」
「まだ何も言っていませんわ」
「厳しすぎるって言いたいんだろ?」
「ですから、わたくしはまだ何も言っていません」
 そうだった。こっちから物を言ってばかりだな。キズミは「すまない」と返して、カップをもうひとつ取ってくると、水を注いでウルスラの前に置いた。
「聞くよ、なんでも」
「……疑っていらっしゃるのではないですか? わたくしのことを」
「どうしてそう思う、一度たりとも疑ったことはないのに」
「疑われても仕方のないことを、わたくしはしてしまいました。グレイシアと戦ったときです」
 確かに違和感はあった。『手助け』によるサポートを、今まで幾度となく受けてきたはずなのに、あのときだけは息が合っていなかった。
「まだ病み上がりだろ」
「もう何日も経ってますわ」
「じゃあ皆の前で、ウルスラのことを疑えって言うのか?」
「はい」ウルスラは水にも手をつけず、キズミのことを見上げて微笑んだ。「そうするべきなのです」
 分からない。彼女がどうしてそんなことを言うのか。
 どうしてそんなに怯えているのか。
 出された水を飲まない理由もそれに由来するのだろう、彼女は手元を後ろに回して隠していたが、肩は小刻みに震えていた。
「……なにを恐れている、なぜ自分を罰したがるんだ」
「怖いからですわ、キズミ様」ウルスラは声まで震わせていた。「わたくしは今までずっと、キズミ様のお側で、その心を感じてきました。けれどテレパシーを失った今、こうしてキズミ様の前にいて、そのお声に耳を傾けても、存在がとても遠くて、希薄に感じてしまうのです。わたくしには、当然のように触れてきた心が、今では感じられません……キズミ様は今、なにをお考えなのでしょうか。なにを感じられていらっしゃるのでしょうか。わたくしには知る術がありません。心が見えないということが、こんなにも恐ろしい事だとは知りませんでした」
 だから触れたいのか、相手の感情に。どんな形でもいい、むしろ強い刺激ほど欲してしまう。たとえそれが、敬愛する相手からの敵意だったとしても。分からないよりはずっと良い、と。
 キズミは空のコップを握り締めた。
「ウルスラ……お前が抱いている恐れは、人間なら誰にでも起こり得るものだ。誰しも相手の心を知りたいと思う、それが近しい相手なら尚更だ。けれど人間にテレパシーはない、どれだけ近づいても心は触れようのないものなんだ」
「でしたら、キズミ様はどうやって恐れを克服なされたのですか?」
「克服してない。俺だって過ちを重ねてばかりだ、乗り越える方法が見つかったら教えてくれ。結局のところ、テレパシーが使えない人間は、言葉と態度で気持ちを表すしかないんだろうな」
 今はこれだけしか言えないのがもどかしい。もしもウルスラにテレパシーが戻らなければ、俺と彼女の隔たりはさらに広がるかもしれない。
 だが、そうなったら俺たちの在り方を変えればいい。テレパシーがなくても通じ合える関係を、また作り直すんだ。
 キズミはウルスラの頬に手を添え、その柔らかい顔を優しく撫でた。
「だから今は、言葉で示そう。俺はお前を見捨てたりしない。見放せるものか。だから決して自分を傷つけるようなことはするな。俺には、お前が大事だ」
 ウルスラは彼の手に頭を預け、そっと目を閉じた。彼の心はまだ見えないままでも、言葉に乗せて届けてくれた。今はそれに浸っていたいと願い、小さく頷いた。

 その様子を、ルトーは離れた場所からジッと見つめていた。医療ベッドに座って怯えるサンの傍で、彼女をかくまうように腕を回しながら。何を思うでもなく、瞳に映す。
「なあ、ルトー」サンは膝に顔を埋めたまま呟いた。「あたしのこと、信じてくれるだろ? あたしは偽物なんかじゃないって」
 もちろんだとも。ルトーは微笑み頷いた。
 膝から顔を少しだけ上げて、相棒の表情を見たとき、サンは今にも壊れそうなほど儚い笑みを返した。
「あたしも信じてるよ、ルトーのこと。今までずっと傍にいてくれたんだから、当然だろ……これからもずっと一緒だよ」
 すがるように、ルトーの手を握り締めた。彼はそれに応えて、同じように握り返した。あったかくて、小さな手だったが、そこに確かな温もりを感じた。
 サンには、それが必要だった。

「なあ、少しいいか?」
 唐突に顔を覗いてきたマナフィが、慌てて「お取り込み中じゃなければ」と控えめに言った。
 サンは苦笑いして返した。
「なんかその口調、久々に聞いたな」
「仕方ねえだろ。艦長や他の客人に向かって無礼なこと言えるかよ」
「あたしには良いって?」
「友達だろ?」
「へへっ、まあね」サンは嬉しそうに鼻の下をこすって、続けた。「それで、なんかあたしに用?」
「……ちょっと聞きづらいんだけどさ、あの剣と話したことあるんだろ?」
「あの剣って、あの雷電?」
「その雷電」
 サンはあからさまに嫌な顔をして返した。
「どうだろ。確かにあいつ見てると、なんか腹の底がグルグルして、昔のことを思い出せそうになるんだよな……これってあたしが雷電を使ってたってこと、かな」
「多分な。そこでなんだが、雷電のご機嫌を取るにはどうすりゃいいと思う?」
 サンはさらに嫌そうな顔をした。
「……なんで?」
「氷柱を排除する方法が見つかりそうなんだが、時間がない。雷電の協力があれば、ひょっとしたら船を救えるかもしれねえんだ」
 嫌がらせ、ではなさそうだ。マナフィの顔つきは真剣そのもの。それを突き返せるほど、サンは冷淡ではなかった。


 *


「もう一度説明してくれ」
 キズミは荒げそうな声をできるだけ抑えて言った。
 とんでもない提案だ。正気を疑うほどに。それを承知の上と言わんばかりに、マナフィは再び説明を始めた。
「氷柱の侵蝕を無力化するため、広範囲の回路を通じてエネルギーサージを氷柱に送ります。上手くいけば、氷柱の動力源に点火することなく、機能をシャットダウンできるはずです。ただし回路は非常に精密で、電圧と電流を正確にコントロールしなければ、船に致命的なダメージが生じます」
「船のシステムは使えんのか」ルーナメアが渋い顔で尋ねると。
「既にかなりのシステムを乗っ取られ、各所でエラーが多発しています。船の機能はもちろん、ミラージュ・システムの処理能力にも。この状態で船のシステムに頼ることは推奨できません」
 そこで登場するのが、稲妻の剣【雷電】だ。放つ雷撃の量はもちろん、その質も重要だが、雷電は既に一度、船の転送システムを妨害するという高度な技を見せている。

「リスクは当然考慮しているんだよね?」タリサも穏やかではなさそうだ。
「もちろんです」マナフィは彼女に目をやって返した。「成功の見込みは非常に高い。このまま仲間同士で疑心暗鬼に陥るより、ずっと効果的な解決策です」
「そっちじゃない」キズミは眉間にシワを寄せて言った。「サンのことが心配なんだよ。雷電を使うってことは、奴の封印を解くってことだ。奴がサンに何をしたか忘れた訳じゃないだろ?」
「そうですわ」ウルスラも同調して頷いたが。「……キズミ様、雷電様は何をしたんですの?」
「テレパシーでサンのつらい記憶をほじくり返そうとした、何度もな」
「まあ、それは酷いです!」
「同感じゃ」
 ルーナメアは論外と言わんばかりに頷いた。とはいえ、渦中にあるサンは険しい顔で黙り込んだままだ。
「……サンよ、おぬしはどうしたい?」
 尋ねても、サンは即答しなかった。

「まさかバカなことを考えているんじゃないだろうな」キズミはサンに向かって言った。「さっきは俺が悪かった、少し言い過ぎたと反省している。だからといって、疑いを晴らすために自らを危険に晒すなんておかしいだろ」
「みんなだって同じじゃん!」サンは顔を上げて、きっぱりと言い返した。「タリサ姉さんは、町にいるみんなを守ってくれた。キズミ兄さんとウルスラは、船のために戦ってくれた。ルナ姉さんとマナは、あたしを励ましてくれた。でも、あたしは? みんなのために、あたしだって何かをしたいんだよ!」
 その言葉は、情熱に溢れていた。幼いゆえの無謀、しかし誰もそれを咎めることはできなかった。誰もが一度は通る道だ、それを挫こうとする大人に抱いた思いは今でも忘れない。
 キズミさえ返す言葉を失った。かわりに、ルーナメアは膝を折って、サンと同じ目線で問いかけた。
「雷電を解き放つことが、おぬしにとってどれほど危険なことか、改めて確かめる必要もなかろう。それを一番知っておるのはおぬし自身じゃ。それでもなお、雷電を解き放つというのか?」
「……覚悟してる」
 決意は固く、もはや何を言っても変えられるものではないだろう。そう悟ったルーナメアは、打ちひしがれるように目を閉じた。
「分かった……おぬしの覚悟を尊重しよう」反対しようとするタリサとキズミを手で制止しながら、ルーナメアは続けて言った。「ただし、これだけは胸に留めておくのじゃ。ここにいる皆は、誰も見返りを求めてはおらん。何かをしなければここにいてはならぬと考えておるのなら、その考えは今すぐ捨てよ。それができるなら、この作戦を承認する」
 しばらくサンは睨み合っていた。が、ほどなくフッと挑戦的な笑みを浮かべて。
「知ってるよ、だからあたしも力になりたいの」
 傍らでサンを見守っていたルトーも、力強く頷いた。


 *


 備えあれば憂いなし、転ばぬ先の杖、等々。準備を怠らないことの重要性を説いた言葉は数あるが、まさにその通りだろう。
 キズミは持てる限りの武器を取った。左右のホルスターに光線銃を差し、警棒は麻痺モードに設定。ルーナメアもライフルを抱え、タリサに至っては、珍しく人間の姿を説いてラティアスになっていた。
「なんでまた」ルーナメアが尋ねると。
「いざというとき、迷彩の維持に気を取られちゃ言い訳にもならないからね。ほら、あたし戦いに慣れてる訳じゃないしさ」
「なるほどのう」
 納得したところで、一同揃って第二貨物室の扉の前に立った。この頑丈な鋼鉄の扉の向こうに、雷電が封印されている。サンが先頭に立って、扉に手を置いた。
「……引き返すなら今のうちじゃぞ」ルーナメアが言っても。
「開けて」
 案の定、サンの反抗心をくすぐるだけだった。根負けだ。ルーナメアはドア横のパネルを操作して、大きな扉を開いた。
 広くて真っ暗な部屋に、次々と照明が灯る。その奥で、バリアーに覆われた一本の剣が台座に刺さっていた。剣身にまとう稲妻が、時折バリアーと衝突して火花を散らしている。
 サンは唾を呑んで、ルトーの手を強く握り締めた。
 自らを筆頭に、佇む剣に歩み寄っていく。一歩、また一歩と近づくごとに、あの雨の日の光景が鮮明になっていく。だが、今なら負けない自信がある。
 傍にはルトーがいる。それだけじゃなくて、みんなも一緒にいる。誰かがいてくれるだけで、こんなにも心は強くなれる。
「いいよ」
 サンが合図すると、マナフィは。
「雷電の隔離シールドを解除します」
 そう唱えてすぐ、剣を覆うバリアーが泡の弾けるように消えた。

 一瞬、奈落の底に落ちるような感覚が襲った。サンは森の中に立っていた。うっすらと虹を帯びた霧が漂い、少女を誘うように道が続いている。
 分かっている。これは雷電のテレパシーだ。前に来たときは、ただ声に従うことしかできなかった。でも今度は負けない。決心を胸に、サンは森の小道を歩き出した。
「……存外、早かったな」
 雷電の声がこだまする。
「自ら赴くとは殊勝なことよ。しかし今の汝は、なんと弱々しい。我が力を授かるに値しない、哀れな小娘に過ぎぬ」
「どうしてさ? 今までずっと、あたしを操ろうとしてきたくせに」
「汝の心に怒りはない。その残火すら、忌々しい希望とやらに塗り潰されている。だがそれだけではない……迷いだ」
「あたしはなにも迷ってねえ」
「我に偽りは通じぬ。語る言葉は慎重に選ぶが良い、無知なる少女よ。迷える子羊に力を授けるほど、我は慈悲を備えておらぬ」
 霧がどんどん深くなっていく。足下の道すら見失うほどに。サンは立ち止まって考えた。焦っているのを悟られまいと息を整えながら、一生懸命考えた。
 雷電は心を見抜いてくる。最初から分かってただろ、堂々と立ち向かうしかないってことぐらい。
「……どうすればいいの?」
「受け入れるのだ。汝がかつて抱いた絶望を、その燃え盛る怒りを。汝の底で眠る残火が、再び激しく栄える業火となれば、我は汝を認めよう」
「いやだ!」
「ではこのまま立ち去るがよい。我は汝が力を渇望するその時を、ここで待ち続けるとしよう」
「ほんとにそれでいいのかよ、あたしたちこのままだと船が爆発して死んじゃうってのに」
「ならば其れまでのこと。我を求める力なき者は幾らでも現れる、いつの世も絶望はおびただしい死の隣りにあるのだ」
 ダメだ、ダメだダメだダメだ!
 ここで雷電に見放されたら、あたしを信じてくれたルナ姉さんたちに顔向けできない。こいつを説得するってあたしが決めたんだ。
「分かった、絶望でも怒りでもなんでも受け入れる! だからお前の力を――」

 勢いで言ったことを、わずか一瞬で後悔した。
 雷鳴が轟き、稲光が夢と現実の境界を引き裂いた。脳裏でフラッシュする光景。冷たい雨が肌を打ち、世界を灰色に染めていく。
――あたしはそこにいた。

 何もない剥き出しの岩肌に、冷たい雨粒が叩きつける。崖の谷間には雷鳴がよく轟いた。
 どんどんと激しさを増す雨は、地面に溜まる赤い海を徐々に流していく。その中心で折り重なって倒れる一人の少女と一匹のポケモンを置き去りにして。

――いやだ、思い出したくない。でもやらなきゃ、皆が待ってるんだ……!

 その時、ぴくりと少女の瞼が痙攣した。ゆっくりと開かれた瞼から覗く翡翠の瞳は焦点が合わずぼんやりとしている。暫くそのまま放心していた彼女だったが、ふと自身の下敷きになっている存在に気づき上半身を持ち上げた。そこには――。

――見たくない!! 見たくない、見たくない、見たくない!

 そこには自慢の柔らかな羽毛を赤黒い液体で汚し、立派な肉体もぐちゃぐちゃに潰れた……だったものが存在した。

――違う! 嘘だ! ルトーはここにいる! あたしと手を繋いで、今も傍にいるんだ! ルトーは、ルトーは……!

 ルチャブルだったものが、存在した。

「思い出せ、討つべき仇敵を。汝が果たすべき復讐の物語を」
「いやだ……」
「汝の家族は殺されたのだ。ゴミのように、なんの価値もないものとして」
「ちがう……」
「偽りの夢を捨て、今こそ目を覚ますのだ。我が剣を掴み、その身に稲妻の力を宿すがよい!」
「だったら!! あたしが今まで一緒にいたルトーは……!!」
 大粒の涙を零す目を見開いて、サンは呆然と霧の空を見上げた。

 ああ、そうだ。あたしはずっと気づいていた。ルトーが本当はそこにいないってことを。ただ居心地のいい夢に甘えて、そこにいると信じ続けてきた。ルトーが死んだなんて嘘だ、あっちの方が悪い夢だったんだ、と。
 ごめんよ、ルトー。あたしは逃げていたんだ。お前のための復讐から。それが辛くて、悲しくて、本当は初めて雷電の声を聞いたときから気づいていたのに。
 誰がお前の命を奪ったのか、それはまだ思い出せない。けれどこの道の先に進めば、仇と再び巡り会えることだけは分かる。あたしは必ず戻るんだ。必ず戻って、お前の命を奪った奴らを皆殺しにしてやる!!!

――ぁぁあああああ!!!

 少女は断末魔と共に、その手に稲妻の剣を掴んだ。幻剣【三鳥天司・雷電】の剣身から迸る稲妻は、穏やかだった森をことごとく焼き払い、大樹を砕いて駆け抜けた。

 ルーナメアは自らの浅慮を心底後悔した。以前にも雷電は医療室を吹き飛ばしたことがあった。そのときの威力が上限だと思い込んでいた。
 ところが目前の少女が叫びながら剣を掴んだ瞬間、雷鳴が耳を劈き、音の衝撃だけで貨物室のコンテナを容易に吹き飛ばした。無数の稲妻が激しく迸り、あらゆるものを破壊した。照明、コンテナ、頑強な壁、その電流は回路に乗って船中を駆け巡った。
 一方の氷柱は、回路の侵蝕を続けていた。パキパキと広がる氷結。そこへ流れてきた放電が、氷を砕き、みるみる押し返していくではないか。ケーブルを通じて感電した氷柱は、その不気味な輝きを徐々に失い、やがて枯れるようにケーブルが崩れていった。
「侵蝕が止まりました、成功です」
 マナフィの報告は、誰の耳にも届いていなかった。ようやく激しい放電が収まったものの、サンが無事だとは到底思えない。
 いや、むしろ無事である方が最悪の結果かもしれない。稲妻を帯びた剣を手に、佇む少女の姿は、先ほどのそれとは一変していた。
「おぬし……大丈夫、なのか?」
 ルーナメアはおそるおそる尋ねた。
 呼びかけに対し、サンは何気なく振り返って、無邪気に笑った。
「ほらね、大丈夫!」

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