悔いは霊を呼ぶ③

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読了時間目安:7分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

●あらすじ
 マニューラはヤレユータンの霊と話し続けた。マニューラは多くのことを彼に聞きたがり、答えを求めたがったが、今は黙って彼の話に耳を傾けることにしていた。しかし、賢者の饒舌な舌は、彼女の抱える謎の領域に更なる謎を投げ入れる。
 だが、混乱する彼女の元へキモリ・アミュオがやってきて、言葉にならない不安を口にした時、彼女の正義にも変化が訪れ始める……
 ラボの外に出ると、私達はキモリ・アミュオの部屋に向かった。ヤレユータンの霊体は廊下の闇に溶け込んで見えなくなっており、それでいて背後からいきなり声を掛けるものだから、何度背中の毛が逆立ったかは数え切れなかった。私には多くの聞くべきことがあったが、今は彼に会話の主導権を明け渡した。

「長話を始めたいところだが、あまり時間がないものでな」とヤレユータンは次の話題を始めた。 「継承の儀式のことだ。修行が終わったら、お前の乳母に任せるつもりだった。彼女を覚えているか?」

 私は夢の屋敷で会った子供(即ち、幼少期の私だった少女)をなだめるムウマージの声を思い出していた。だが、彼女との思い出など全くない。幼い時に親元と兄弟から引きはがされた子猫が大人になって再会したとしても、それは感動の再会とはなりにくい。そうでなかったら、アミューゼイと私も幼馴染でいられたはずである。

「生きているの?」

「幽霊が『生きている』とは倒錯も甚だしいがな」。彼の声は静かに笑っていた。 

「リチノイにいるぞ。夢喰い師としてな」

 私は耳を疑った。潔癖症のエンブオーが彼女を見逃すはずがない。

「ありえないわ」と私は考えるより先に舌が動いていた。この両足は天井から落ちるソクノの光の真ん中で立ち止まった。

「どうしてリチノイなの?レインリングならまだ分かる。ここはエンブオーでも手が出せないから。でも、そんなのは殺されにでも行くようなものじゃない」

「光ある限り闇は消えぬ」と霊は思わせぶりに言って、廊下の暗黒から出ると私の影と同化した。そしてそのまま続けた。

「エンブオーの目が届かない場所もある。それはお前もよく知っておるだろう」

「繰り返すようだけど、ただの説明に詩的表現を混ぜられると拒否反応が出るのよね、私は。察しも良くないし。最初からはっきりと言ってくれないかしら」

「庇護者だよ」と霊は私の影からぬうっと出てくるなり、立壁のような平面的な姿を目の前にさらけ出した。 「我々にとっても意外な相手だったが」

「アウラスではないの?」

「ああ」

「それは誰?」

 時の流れが遅くなったかのように、ヤレユータンの霊は沈黙していた。ソクノの実が作る黄色く頼りない円錐形のライトアップはまるで、悲劇の舞台で真実の独白が始まりそうな雰囲気を生み出していた。やがて死者の告白は唐突に始まり、全く同時に終わることになった。

「――秘密警察バジリスク、初代長官」

 気がつくと、私は思考停止に陥っていたか、耳をどこかに置き忘れたに違いなかった。きっと考えることを止めたかったのだろう。謎を一つ解決しようとする度に、次の謎が降りかかってきた。思えば、ガルニエ号事件以来、問題は何一つ解決していなかった。

「何ですって?」。心神を喪失した患者のように、よだれが垂れ落ちそうな声で私は言った。

「インテレオン・ジュナール。ルカリオ・アウラスの右腕を落とした男だ」

「聞いてないわ、そんな話!」。私はヒステリックに叫んだ。傍から見れば、私は誰もいない暗い廊下で一匹叫んでいるように見えるはずである。ラボの外に出たのは正解だった。

「お姉さん、どうしたの?」

 背後から子供の声がした。キモリ・アミュオだった。私の全身は急に氷の軟膏の効果が切れたような気がした。

 私はゆっくりと背後を振り向いた。左向きに湾曲した廊下の影から、こちらを見ていた子供が二匹――一方は、床を引きずるほどの長い黒外套の下から、緑色の包帯を見せた肌白なトカゲの少年。もう一方は四六時中おとぼけた顔の、私の救世主だった。

「そこに誰かいるの?」
 私はすぐ目の前にいる霊と少年達の方を交互に見ながら言った。 「違うのよ。私はただ――」

「幽霊?」

 その言葉を聞いた瞬間、私の背中に冷たい雷撃が走った。見えるのか、と返そうとした瞬間、アミュオ少年の方が先に口を開いた。

「知ってるよ。マナフィ家の女の子って幽霊を呼べるんでしょ?本で読んだもの。もしかして、猿じいなの?」

 勘が鋭いのか、あどけない言葉の後ろに隠す知力で推論したのかは知らないが、少年はそう言った。ヤレユータンの霊は何も言わなかった。表情は読み取れなかったが、明らかに俯いていた。アミュオ少年もまた、子供離れした複雑な情感を目元に隠さなかった。大人がそのまま少年になったような、あるいはその逆か、少年修道士のような神秘的な気配を発散させていた。

「そうだとしたら、どうして欲しい?」

 私の傍にいる霊の顔が上がった。少年は、あのね、と言いながら外套の袖をぎゅっと握り締めた。

「僕、猿じいのことが大好きだった。時々、意地悪なことも言われたけど……人類史もね、科学も、外国語も、数学も、占いのやり方も、全部猿じいから教えてもらった。話が合うのは、この世界で猿じいだけだったんだ。外に出られない僕の世界は、半分くらいは猿じいのモノなんだ。だから、すごく不安だよ。寂しくて、怖くて、分からないんだ。だから、僕は……僕も……」

 キモリはそこで口を閉ざしてしまった。私はヤレユータンの方を見て言った。

「無理しないで。ここにいるから」

 キモリは顔を上げた。隣にいるヤドンの能天気な笑みが消え、その口が真一文字に結ばれたのが見えた。

「彼はずっとあなたを見守っている。あなたが彼を忘れない限り。いいえ、忘れるわけないわ。あなたの言葉は彼がくれたもの。目をつぶって、彼がくれた言葉の一つ一つを口にすれば、どんなに小さく囁いても、あの世の果てまで必ず届くものよ」

 私は牧師のようにそう言った。その時、私の体は自然と軽くなったような気がした。

「アーリアティ……」

 私はアミュオ少年の元に近づき、腰を落として言った。

「いつでも会えるわ。いつでもね」

 そう言うと、アミュオ少年は体をぶるぶると震わせながら私に抱きついてきた。

 そのまま目を閉じた時、私は生前のヤレユータンがキモリの背中を優しく抱きしめている光景が浮かんできた。それは決して妄想ではなかった。私は体を離し、二匹だけの世界にした。私はスピリチュアリズムやおとぎ話の類を信じずに生きようとしてきたが、それだけにロマンを誰よりも信じていた過去があったのかもしれない。

「ありがとう、お姉ちゃん……ありがとう、猿じい……」

 私の乳母や五大家の陰謀の話など今はどうでも良かった。私はしばらくの間、ソクノの光に照らされた二つの魂をそっと見守っていた――そのまま、朝を待ち続けるように。



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