悔いは霊を呼ぶ②

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読了時間目安:7分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

●あらすじ
 死んだはずのヤレユータンが霊となって現れた。だが、その声はマニューラにのみ聞こえていた。賢者の霊は自らに降りかかった災難に嘆くこともなく、安らかに昔話をし始める。

 幽霊は私が口を開く前に質問の台詞を奪っていた。 「儂は幻ではない。聞きたそうな顔をしておるから先に言っておくがな」

 私は呼吸することも瞬きすることも忘れて、本棚の前にたたずむ黒いシルエットにふらふらと引き寄せられた。木椅子から立ち上がった時、実験台の上から何かを落としたような気がしたが、その見知らぬ物体への興味は一瞬にして視界の外へとはじき出された。

「どうなってるの?」。我ながら実に間抜けな口調だった。

「私の魂はゴースに呼ばれたのだ。幽霊が霊媒をした、とでも言えば分かるか」

 霊となったヤレユータンの顔は生前以上にのっぺりとして見えた。陰影もコントラストもない影法師の輪郭は、ラボの光を浴びてめらめらと陽炎のように揺れていた。その実体のない体は完全な暗黒で出来ており、向こうにある望遠鏡と窓を見ることは出来なかった。

「聞きたいことが山ほどある」。私は深呼吸して元の調子に直して言った。 「でも、今はあなたに話題を選ばせる方が賢明かもね」

「最初からその調子で接すれば儂も苦労せんで済んだのだがな。だが、もう済んだことだ。今度こそ、黙って聞いてくれるな?」

「あんた……そこで何をしとるんじゃ?」、ジュプトル・アミューゼイは右の二腕に涙を拭いて立ち上がった。 「何で本棚と話しとる?」

 この状況を正確に説明することはとても難しかった。見えない幽霊と話していると言われたら誰でも困惑する。酷い時には誤解され、軽蔑の眼差しを浴びせられるだろう。私はひたすらに黙っていた。

「可哀そうに、アミューゼイ。儂の声はもう届かぬようだ」、ヤレユータンの霊はいつの間にかジュプトルの傍に立って彼の顔を眺めていた。

 霊はアミューゼイの左肩に右手を差し出したが、手はすり抜けてしまった。アミューゼイもまた、世話役の霊に触れられているとはいざ知らず、私にばかり注意を向けていた。霊の表情は陰に隠れていて見えなかった。

「もう覚えてはいまいが、お前達は初対面ではないのだ」と霊は儚げに言って、アミューゼイに背を向けた。

「二十一年前のことだ。あの日は酷い夕嵐だった。ルカリオ・アウラスと、ゾロアーク・セイセル、そして年端もゆかぬ黒い雪イタチの子がここへやってきた」

 霊は後ろ腰に両手を結び、生前もそうしたように机の周りを彷徨った。

「その三匹は逃避行の最中だった。五大家の遺産を隠すために、モノーマのありとあらゆる場所を駆け巡った。ここがお前達親子の旅の終着点だったが、アウラスだけは逃げ続けた。セレビス・ジズニの力で森の一角を魔物に変えた後、奴は冠を持ってどこかへ消え去った。その子の父親は『ディアンシーの叡智』を相続し、アウラスの代わりにエンブオーの魔の手から子供を守ったのだ。彼女の本当の父親、グレイシア・ロクリアが黄金郷の秘密を守り通せるようにな」

 私は話を聞いていたが、まるで何も感じなかった。私は母親どころか、父親にすら会ったことがなかったらしい。霊は抑揚づいた口調でそのまま続けた。

「ゾロアーク・セイセルは幻影の妖力とディアンシーの叡智の力で、この街に追手を一匹も入れなかった。脅威が去ると、奴はお前を隠す場所を探しに旅に出た。二週間して、奴は手頃な森をスペルダとリチノイの境に見つけた。年中肌寒く、雨が多いが、時が止まったかのように穏やかなその森は、リチノイの言葉で『ツァモドレニ』と呼ばれた」

「ソーニャ、何で返事くらい出来んのじゃ!」

「静かにして!」

 私がぴしゃりと言うと、アミューゼイは体を一震いさせて黙った。

 まもなくして、霊のため息が聞こえてきた。 「相変わらずだな、お前達も」。それは幾分かの呆れと笑いが含まれた、皮肉なため息だった。

「キモリ・アミューゼイとその子供は同い年でな。奥手だったが、賢く、意志の強いその子に、女っ気のあるアミューゼイは惚れておった。彼女の父親が帰って来るまでの一週間しか顔を合わせなかったが、とても仲が良くなった。覚えておるか、アミューゼイ?お前は去り際の彼女に向かって、いつか結婚しようと言ったのだぞ」

 アミューゼイの耳には霊のからかいが届かず、彼はただ私に向かって怯えた女のような目を向けるばかりだった。一方で、私は彼との思い出がなかったので気恥ずかしさはなかった。その代わりに感じたのは、寂しさと虚無感が混ぜこぜになった、僅かばかりの気の落ち込みである。

「だが、どういうわけかその子は私欲を貪り、罪に罪を重ねる盗賊となっておった――ましてやエンブオー・バロームの女になど!儂がつらく当たったのはそれもあるのだ」。霊は苦虫を噛み潰した顔をしていたに違いなかった。

 私は試薬の染みが茶色く残る床に目を向けて言った。 「私も言い過ぎたわ。ごめんなさい」

 アミューゼイと霊の両方に向けた謝罪は、どちらからも返事がなかった。私が誰かに素直に謝ったのは本当に久々だった。私は謝り方が分からなかった。相当下手だったに違いない。

「いいよ、もう」

 アミューゼイの声だった。私は目をゆっくりと上げた。彼の目と声には静かな失望の色が隠されていた。

「こっちは仕事がある。疲れたんじゃろ。もう寝たらええ」

 幼馴染だった男に冷たく言われても、私は何も感じなかった。何も感じなかったが、そんな自分を酷く悔いたのは生まれて初めてだった。自分には心がないのだと思ったが、半分はそれで正解だと確信していた。

「外に出よう。ここは眩し過ぎる」とヤレユータンは言った。

 私の足は重くなっていた。ジュプトルが私に顔を向けることはなかった。

 扉に手を掛けた時、私はジュプトルの方に振り向いた。彼は泣き腫らした両目をこすり、鼻をすすりながら仕事を続けていた。その両目をよく見ると、私がラボに入ってきた時と変わらなかった。私がここへ来る間も、彼は息子と同じくらいに涙を流したのだろう。私は冷たく光る鋼鉄の扉を開いた。

「気にするな。気分など所詮は風任せよ。儂もお前のことが嫌いだったが、今ではどうということもない。脳が無ければ、怒りさえも感じないからか?いいや」と霊は穏やかに言った。



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