人魚の血筋

しおりを挟みました
しおりが挟まっています。続きから読む場合はクリックしてください
読了時間目安:10分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

第九章の前半です。

●あらすじ
 キノガッサとの死闘の後、マニューラは夢を見ていた。それはまるで死後の世界にいるかのように感じられたが、彼女はやがて現実に引き戻される。そこにいたのは見知らぬ男・ヤレユータンだった。彼は政府に連盟していないレインリング自治区から来ており、彼女の導き手を名乗る。
 状況を飲み込めないマニューラに対し、彼は更に混乱をもたらす一言を付け加える――「お主はマナフィ家の末裔だ」




 私は今日、二回夢を見た。どちらも初めて見る夢だった。夢を見ない日はなかったが、これほどまでに奇妙で、恐ろしく、心休まる夢は今までになかったかもしれない。父の胸に穴が開けられる光景を毎日のように目にすると、私は怒りよりも寂しさを覚えるようになった。その夢の中では、私はいつまで経っても無力な子供であることを強いられてきたが、今の私は世界地図にも宇宙地図にさえも載っていない場所で、子供に還って眠ることを許されていた。

 そよ風が草木の間に揺れる音、背中の土は柔らかく、垢抜けず、温もりのある水のベールに覆われていた。風に吹かれてやってきたスミレの妖精が、私の鼻の周りで静かに踊っていた。

「ソーニャ」

 穏やかで、大好きな、懐かしい声だった。私は目を開けることにした。

 今にも青空が落ちてきそうだった。豊かな赤い鬣を持った黒い狐の、麗しく赤いルビーの瞳が、あの大空を半分だけ隠していた。

「ただいま」

 父は何も言わなかった。そして、かつてそうしてくれたように、爪の付いた左の掌で私の額を撫でていた。

「おい、目を覚ましたぞ」

「本当かよ、爺さん!」

「外で待っておれ。すぐに終わる」

 父の声はしわがれていた。喉の奥に木の実の欠片を詰まらせたような年寄りの声だった――それに、もう一つは懐かしさや趣深さといった心豊かな感情を抱くにはあまりにも安っぽく、騒がしい中年の鷹の声だった。父はまた幻を見せて、私をからかっているのだろうか。友達とは無縁だった私に、森に住み着いたナゾノクサの振りをして、話し相手になろうとしてくれたことを思い出した。あの時、私は最初から気付いていたが、今回もそうするべきだろうか。だが、私の脳は夢の文脈を追えなくなり、背中と左腕の鈍い痛みを思い出すと、乱暴にして迅速に、私の身体を現実の世界に引きずり戻したのだった。



 私は砦の兵舎にある貧相な石のベッドに寝かされていた。父の顔は老猿の丸顔に変わっていた。スミレの匂いは彼の身体から出ていた。額には四芒星の模様、のっぺりとした鼻と口、群青の外套を纏った白く大らかな体、淡く黄色の両目は白く濁り、この世の清濁全てを見てきたが、まだ私はこの世の何をも理解しきれていないと物語っていたかもしれなかった。かつて、人間は彼らの一族を森の賢者と呼んだが、我々もそう呼んだ。あるいは、こう呼ぶべきだろうか――ヤレユータンと。

「なるほど。この魔性の気、確かにあの末裔であるようだ。クインベル公と同じく、国を傾けているのだろうな、お主も」

 私には頭の中を整理する時間が必要だった。あの一夜はあまりにも唐突で、危機的で、荒唐無稽な一夜だったのだから――あるいは二夜か三夜だったかもしれないが――羊皮紙を取り出し、頭の中にいる別の私と会話でもして、議事録を作るべきかもしれなかった。

「混乱しておるようだが、心配はいらぬ。私は敵ではない。お主と同じ、人魚の魂を求めてここにやってきた。だが、どうやら先を越されたようだ」

「何の話か分からないわ」

 私がそう言うと、老いた賢者は、右手の裏からぬるりと五大家の冠を取り出して見せた。私が眠っている間に抜き取ったのか。盗賊から盗むとは、お堅い賢者にしては茶目が利いている。

「いい度胸ね」

 私は素早く左手を冠に伸ばしたが、ヤレユータンの方がわずかに早く、爪が空を切った。

「お主の物でもなかろう、盗賊よ」。彼はそう言うと私の額に冠を近づけた。

 再び、あの筆舌に尽くしがたい頭痛と吐き気が襲ってきた。だが、今度は頭痛と吐き気だけではなかった。私の脳裏には次々と、煮えたぎる溶岩、ジャングルの中の遺跡、機械だらけの小部屋――最後に、暗闇に立ち尽くす父の後ろ姿が閃いた。

「見えるか?人魚の魂が作り出した幻だ。お主の身体に宿ったのだ」

 ヤレユータンは手鏡を取り出して私の顔を見せた。額が蒼い海の光を放っていた。

「マニューラ・ソーニャ、お主はマナフィ家の末裔なのだ。だから、屋敷の夢に入り込むことが出来た」

 冠が額から遠ざけられると、苦痛は何事もなく消え失せ、額の発光も収まった。頭痛の余韻にもたげながら、私は彼の言葉に耳を疑っていた――私が何の末裔だと?

「儂は、ンジャマクのヤレユータンだ。レインリングのジュカイン・アムニス・ンジャマクの命により、お主の導き手を任されている」

 彼は未開封の封筒を私に手渡した。彼の手は震えていたが、恐怖のためではなかった。封蝋の印はセレビィの横顔を模し、目を閉じて微笑んでいた。手紙は恐ろしいほどの達筆を以って、直筆の署名と、レインリングまで来て欲しいとだけ書かれていた。

 ンジャマク家と言えば、モノーマ連邦の最南端に位置するレインリング自治区を治める豪族だ。その当代ジュカイン・アムニスは、旧革命軍のゲリラ部隊の総帥だったが、聖剣王朝解体後は連邦には加盟せず、エンブオーの顰蹙を買っていた。自治区までが動き出したということは、水面下の政争が泥沼の抗争になりかねない。私はその渦中の火種と化したようだった。私の一言によっては、灼熱の竜巻がモノーマ全土を再び席巻するかもしれない。もう誰もそんなことは望まない、あの暴君を除きさえすれば。私はこの老猿の話を聞くことにした――今のところは。

「導き手、と言ったのかしら。聞き間違いでなかったら、私が眠っている間に何が起きたのか、教えて下さる?」

 ヤレユータンは何も言わず、左脇に置いたマングローブの杖を床から拾い上げ、のそりと立ち上がると、私を手招きして、あの武器保管庫まで連れてきた――彼はほぼ盲目だったが、自宅にいるかのように迷いのない足取りだった――そこは私が覚えている以上に酷い荒れようだった。ガラスの破片や棚の破片が散乱し、うっかり足を傷つけないようにしなければならなかった。

「ムクホークはどこ?」

「砦の外に待たせている。何しろ、積もる話なのでな」

 私が叩きつけられた壁の近くには、あのキノガッサの老婆の成れの果てが床にうつ伏せになっていた。あの赤と黒の忌まわしい鎧は影も形もなくなっていた。そして、その尻尾の根元には、私が右手に持っていた入れ歯が深々と突き刺さり、首の左側面には鷹の両爪が深々と突き刺さった跡があった。私は油揚げをかっさらわれたらしい。ヤレユータンは尻尾に食い込んだ入れ歯を念動力(サイコキネシス)で取り外し、私の目の前に持ってきた。

「この義歯に見覚えはないか?これが老婆の尾に噛みついてくれはしまいかと考えたことはないか?」

 言われてみれば、そんなことも考えたかもしれない。私はそのように答えた。

「お主が動かしたのだ。正確に言えば、その頭に宿ったマナフィの魂がな」

 そう言って、彼は私に入れ歯を握らせた。私の脳漿はぶるぶると振動し、入れ歯が青白いもやを出して、手の中で膨張するのを感じた。金属の入れ歯は、私の手を離れ、浮遊し、飛竜・ボーマンダの血肉無き頭に変貌した。

「物体の記憶を形無き命に変える。それがマナフィエィ・ドゥシャの力、魂の錬成」

 ボーマンダの頭は、常に私と同じ方向を見ていた――正確には、私の視界はこの偽りの命と共有されていた。その時、私はこの暗殺者の身に何が起きたのかを本能で理解出来た。彼女の左隣に転がっていた製図台を見て「壊せ」と念じると、この形無き竜頭は、樫で出来た製図台に噛みかかって、紙屑を圧し潰すように粉砕してしまった――一瞬の遅れもなく、私の手足のように命令を遂行したのだ。

「マナフィ家の初代、アシレーヌ・エフレイン・グリーヴァス・ウル・マナフィは、その力で海神・カイオーガの形を海底から召喚してみせたそうだ」

 彼の話を聞きながら、私はピリピリとした頭痛を感じていた。

「その頭痛は、いわば呪いだ。珠に認められぬ者でなければ、力の代償に命を吸い取られる」

「説明が遅過ぎやしないかしら。どうして私がマナフィ家の末裔だと?」

「お主が夢の中へ珠玉を取って来たからだ。あの屋敷には、グレイシア・ロクリアの忘れ形見とその世話役だけが住んでおった。世話役は、屋敷を離れる前、ルカリオ・アウラスと共に、珠玉を隠したと言うておった。資格なき者には見つけられぬように、とな」

 この現代向けのおとぎ話に百歩譲って、私は単純な仮説を立てた。私がマナフィ家の末裔だとすれば、一体どちらがこの血統を継いだのだろうか。父は己の過去を話さなかったし、私自身も進んで詮索しようとは思わなかった。だが、母とどこで出会ったのかを彼に聞いた時、妙に決まりが悪くなって、口ごもったことは覚えている。

「マナフィ家の中に、私と同じ種族か、ゾロアークはいたかしら」

「どちらもおった。ゾロアークはグリーヴァス、マニューラはメンデモールの者だ」

「家に女しか生まれなかったのは本当?」

「男しか生まぬ血統を今までに見たことがあるか?」

「分家同士で結婚したことは?」

「そんなことは知らぬ。俗世の細々とした歴史にはきりがない。そして、大抵は覚える価値がない」

「その世話役は?生きているの?」

「レインリングに来るがいい。その時に教えてやろう。呪いの解き方もな」

「返事は、今ここで?」

 ヤレユータンは軽蔑的とも受け取れる微笑みを目元に浮かべて言った。

「己が賢いと思い込む者ほど、安易に駆け引きに持ち込みたがるのだな。疑うとは、己を疑うことだ。欺くとは、己を欺くことだ。それらは不治の病だ。悪い腫れ物のように、限りなく移り広がっていく」

「謎かけは苦手なの。はっきり言ってくれる?」

「返事など必要ない。レインリングはいつでもお主を歓迎するだろう」

 彼は私に背を向けて、厩の方にゆっくりと歩き出した。

「後悔するかもしれないわよ」

「死んでからでも遅くはあるまい」。彼は振り返らなかった。

ツイッターでRTやいいねをくれる方々には本当に感謝しています!
一日一投稿、続けていきます。

読了報告

 この作品を読了した記録ができるとともに、作者に読了したことを匿名で伝えます。

 ログインすると読了報告できます。

感想フォーム

 ログインすると感想を書くことができます。

感想