告白

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『……ま、ここならいいか!! よし、おっけー!!』

『……分かった』

少し酒を控えたせいだろうか。彼の仕事は久々にスムーズに進んでいた。ようやく建築業者の選び直しが終わったのだ。もう煩わしい一切は存在しない。後は予算等を送りつければ、それで終わり。
本当に、それで終わりだ。

パソコンを開く。メールを書こうとキーボードを叩く。
自分の指を見下ろした。
随分、この指にも世話になった。初めは怖い怖いと思っていたこれも、慣れてしまうと便利なものだ。……バラしてしまったら、もうこれともお別れだろう。元より、人間の死体を何やかんやしてどうにか真似たものだ。あの時何を見ていたかなんてどだい正確に思い出せる訳でもなし、医学書だけの情報で一から作るのも無理がある。
指だけではない。腕もそうだ、脚もそうだ、眼もそうだ。どれもこれも、今日でお別れだ。

書き上げたメールを送信した。本当にこれで終わりだった。
もう、ここでするべき仕事はなかった。すぐにでも山に向かうこともできた。

『……』

しかし、マメパトが今日もやってくるだろう。血を捧げよ、と声を上げながら。それまでは、ここで待っていよう。外は寒い。
彼は椅子の背もたれに深く身を預けた。





「お疲れ様ですメタモンさん!!」

「ああ」

「面子の確認終わりました!! 当初の計画通り動けそうです!!」

彼は頷いた。マメパトは昨日もそうだったように鳩胸を張っていた。その様子だけ見るのなら、自信満々で微笑ましいのだが。

「で、橋の具合はどうですか?」

「……」

もう発注した。明日にでも造られ始めるだろう。
……そう言いかけて、口ごもった。マメパトは首を傾げている。気まずかった。

「ああっ!! ガントルさんに早く戻ってこいって言われてるんだった!! じゃあ、これで!!」

幸運にも、マメパトはすぐに空へと飛び上がった。路地裏を飛び出して、街の果てまで向かっていく。
彼はそれを見送って、見慣れた雑居ビルにまた入った。


待った。何故戻ってきた? デスクについた彼はすぐに自問自答した。何故ここに戻る必要があった? もう仕事は終わっている。マメパトの後を追ってここを去ることだって出来たはずだ。そうだ。第一、何故マメパトに仕事は終わったと言えなかった? 言ってしまえば帰らなければいけないなんて考えていたのか? 帰るべき場所はあそこなのに?
……いや、違う。もしかしたら、先ほど送ったメールの返事が来るかもしれない。もしそうだったら、確認しないといけない。だから、ここに戻ってこなければならなかったのだ。

『……』

彼は小さく頷いて、パソコンを起動した。
また、自分が嫌になった。彼自身、無理矢理ここに居残る理由を探していることに気がついていた。
まるで誰かを待っているみたいじゃないか。……誰か? まるで分かっていないような言い方だ。本当は分かりきっているくせに。

『お疲れ様でーす!!』

『おうグレース!! どうだった、例のハウスメーカーのあれは』

『なんか向こうが根負けしたみたいで取り止めになったみたいです、開発工事!! やりましたよ私!!』

ああ、その見慣れた誰かが入ってくる。見慣れた笑顔を携えて。
しまった、と彼は考えた。しかし同時に、そう思う己を冷ややかに見下してもいた。何がしまった、だ、本当は、理屈をこねにこねて、彼女の顔が見られるのを、待っていたくせに。

『ディットさんディットさん!! 私、やりましたよ!!』

『……お疲れ』

今、自分はどんな顔をしているだろう。彼は考える。いつも通りの顔でいられているだろうか。そうでなければならないのだ。計画を悟られてはならないのだから。

『俺も、丁度、終わったところだ』

『そうなんですか!! お疲れ様です!!』

目の前で人間が笑っている。いつも通りの、人懐こい顔だ。……いつも通りの。
彼の日常は、ここにあった。

彼はふと、自分の右手が所在なさげに浮かんでいることに気がついた。まだグレースの顔は近くにあった。
きっと、彼女が目の前にいるのも、今日が最後だ。彼は思いきって、その右手を彼女の頭にやってみた。ぽふ、と気の抜けた音がして、オレンの香水の匂いがした。彼女は一瞬呆気に取られた顔をしたが、その口元は緩んでいた。

『……』

『……へへっ』


突然、パソコンから音がした。画面に目をやれば、本当に建築業者からメールがきていた。
内容は簡潔だった。明日山に向かうから、担当者の方も付き添って欲しい、と。……人間の姿は、もうしばらく必要そうだった。それに安堵している己に気づいて、自嘲するように笑う。どれだけ遅延行為を繰り返したところで人間の世界に居場所なんてない。気づいているだろう?





結局、日没まで居てしまった。
雑居ビルを出て空を見上げれば、珍しく星がはっきりと見えた。一つ、大きなため息を吐き出した。例え山ではもう少し仕事があるにしろ、このビルに戻ることはないだろう。お別れだ。
名残惜しいと感じてしまう。作り物の後ろ髪が引かれるのを感じている。別れを言うこともできない。
壊してしまえば、楽になるのだろうか。
仕事場を見上げた。カーテンが閉じられていて、中は何も見えなかった。

『あの、ディットさん』

背中に声をかけられた。
……彼女は、一足先に出ていたはずだったが。

『……グレース』

振り向けば、同僚はほんの少ししおらしい様子で、片手に紙袋を提げていた。灰色の何かが顔を覗かせていた。彼女は紙袋に手を差し入れて、その灰色を引き上げる。

『コート、直し終わりました。お待たせしました』

『そう、か。……ありがとう』

それは、元々彼が使っていた灰色のコートだった。左腕の辺りにワインレッドがちらついている。
そうだった。彼は自分の袖を見た。この桜色のコートは、彼女からの借り物だった。もうこれを着ている理由もない。彼はコートを脱いで、グレースに差し出した。彼女はそれを受け取って、灰色のコートを彼に差し出す。正方形に折り畳まれてアイロンもかけられたそれからは、グレースと同じ匂いがした。
当然、彼はコートを広げる。修繕されたのだ、着なければ意味がない。そう思って。
ばさりとコートをはためかせれば。

ごと、と何かが落ちる音がした。

『──あ』

箱だった。飾り気のない茶色い箱に、取って付けたように赤いリボンがしてあった。
しまった、と思った。
しかし彼は、それを拾わないわけにはいかなかった。恐る恐る手を伸ばして、つまみ上げる。怖いくらいに軽くって、肝が冷える心地がした。昨晩で鳴りを潜めた胸の痛みが、また鼓動を打ち始める。

『……これ、は』

『開けてください』

彼は迷った。開けるべきではないと、頭の中で何かが叫んでいる。指先が震えていた。
それでも彼は、覚束ない指でリボンを解いた。目の前で不安げにしている彼女の顔を見てしまうと、そうする選択肢しか残ってはいなかった。無いはずの心臓がきりきりと震えている。今にも逃げ出してしまいそうなくらい。それでも、箱を開けた。

見失っていた彼の心は、箱の中に転がっていた。
どことなく不格好で、簡素なハート型のチョコレート。装飾の一つもなく、茶色以外の色もなく、包装もただのラップだった。

『──』

『……自炊、あまりしてなかったので。その、下手ですけど』

味は大丈夫だ、と彼女は付け足した。

『……今日、何の日か、知ってますよ……ね?』

『──ああ』

今日は、バレンタインデーだ。

何も言えなかった。口の中が乾くのを感じた。全身が軋むように痛み始める。

『女の子にここまでやらせといて、何か一言、ないんですか』

何も言えない。
何も言えない。
彼の言葉は空虚である。
彼は人ではないのだから。
彼は目の前の彼女を殺すのだから。
彼はこの人間社会を壊すためにいるのだから。
彼はそう覚悟したのだから。

それでも。
手放せない。
手の上の重い重い心を、掴んでしまって離せない。
脚が震えている。
唇が震えている。
言葉は紡げない。
目の前で、女はやれやれと首を振った。

『むう。根性なし。タマついてんですかディットさん』

『……悪い』

『まあいいですよ。明日でも、明後日でも。ディットさん、なんか疲れた顔してますもんね。今日は幸せを噛み締めながらゆっくり休んでください』

彼女は笑っていた。
█しいと思った。
それに気がつきたくなくて、ディットは彼女に背を向けた。




雪山を登る。一歩ずつ。
星が綺麗だったので、上を向きながら歩いた。二重に煌めく星々が憎らしくて、胸の痛みは収まらない。
コートのポケットの中には、手付かずのチョコレートが入っていた。

「おっ、久し振りだね」

前方から声がした。視線を下ろせば、少し前に見た少年の姿が立っている。黒い尻尾が生えていた。

「……ゾロアか」

まだここにいたのか。その言葉を飲み込む。ここに滞在し続けているということは、多分、このポケモンもまたレジスタンスに加わるのだろう。人間を殺し復讐を果たし大地を取り戻そうと声を上げるのだろう。
それは喜ぶべきことだった。

「コート変えたの?」

「元々、こっちだ」

ディットはまた山を登ろうと歩き始めた。帰るべき家まで、あと少しだった。
ゾロアはそれを見送りかけて、ふと鼻をひくつかせる。それから、ディットに駆け寄った。

「待って待って待って」

「……何だ」

「何か匂うよ?」

そう言いながらゾロアは、修繕されたての灰色のコートに鼻を近づける。そして、ポケットから茶色い箱を引き抜いた。

「……チョコレートじゃんこれ!!」

知っているのか。そう呟けば、ゾロアは当然のように頷いた。いや、このゾロアもまた人間の中で生きてきたのだから、それは知っていて当然のことだった。

「大丈夫? これポケモン向けのやつじゃないよ? 捨てとこっか?」

「俺の、胃は、丈夫だ」

そう言いながら、ゾロアから箱を取り上げた。ポケットにしまう。その後で、多少強引に引き抜いてしまったことに気がついて、ディットは少し肩を竦めた。
ゾロアは空になった自分の手をまじまじと眺めてから、目の前の人間っぽい顔を見つめる。口の端ににやりと笑みが浮かんでいた。

「……へー」

「何だ」

「何も?」

これ以上会話したくなかった。ディットはゾロアに背を向けて、また山道に向き直る。早く自分の部屋まで入ってしまいたかった。
だが、そうもいかなかった。
山の上から、コジョンドが降りてきていた。

「メタ!!」

登ってくる同胞に気づいた彼女は声を上げながら、ディットの元まで駆け寄った。そしてその顔を見上げる。星明かりを受けて、その瞳は輝いていた。

「……終わったんだな?」

「発注は、終了した」

「なら──」

「だが、まだ業者との、話し合いは、必要だ」

だからまだ人間の姿が必要だ。ディットがそう言えば、コジョンドは露骨に肩を落とした。身長すら少し縮んだようだった。そして視線を落とした彼女は、ディットの服装が変わっていることに気がついた。

「……服、戻ったのか」

「ああ」

コートから香る匂いに顔をしかめて、コジョンドはため息を一つした。彼女はこの匂いが嫌いだった。昔馴染みにいつも付きまとっているこの匂いが。
しかし、嫌っていたからか。
その匂いの中に混じる、別の何かにも気がついた。甘い香りが、コートから微かに漏れていた。

コジョンドはディットのコートに手を差し込んで、ポケットから少し顔を出していた茶色い箱を取り出そうとした。ゾロアにも同じ事をやられていたディットは、咄嗟に箱を手で庇った。
二つの手が弾きあって、こぼれた箱の中身が地面に落ちた。

「……それは?」

ハート型のチョコレート。
ディットはそれを拾い上げて、割れていなかったことに目を細めた。また箱にしまう。

「それは何だと聞いているんだ、メタ」

コジョンドは人間のようなその顔を見上げていた。ディットはそれに気づいていたが、彼女の質問に答える気分にはならなかった。どうせ、彼女はこれを知らないだろうから。
ディットは今度こそ山道を登り始める。ざくざくと砂利が音を立てた。早く横になりたかった。まだ胸は痛んでいた。


「……それが、チョコレートというやつなのか」

「……どうし、て」


振り向いた。
コジョンドはまだ、まっすぐにディットを見上げていた。

「ゾロアから聞いた。人間にはバレンタインなる習慣があると」

辺りを見回す。さっき会話したゾロアはもう何処かに行ってしまったようで、もう姿も見えない。

「愛する人にチョコレートだかいうものを送るのだと」

胸の痛みがますます激しくなった。知らず知らずの内に、片手でポケットを庇っていた。

「人間の習慣なんて、と思っていたが」

コジョンドが一歩近づいた。
反射的にディットは後ずさってしまって、砂利ががさりと音を立てた。
コジョンドが息を飲むのが、音で分かった。

「まさか、まさかだが」

「……」

「お前、まさかとは、まさかとは思うが、お前、人間にでもなったつもりなのか? 私達をあれだけ苦しめた? 人間を、お前、誰か人間のことを、好きに──」

「俺は」

彼女の言葉を、強く遮った。

「俺は、ここにいる」

それが全てだ。

「……そうだよな」

コジョンドは後ずさった。取って付けたように苦笑いして、首を振った。
例え人間の世界で何があったとしても。同胞はここにいる。任務を終えて、そしてその過程で得た人間としての全てをかなぐり捨てて、戻ってきてくれたのだ。だから、目の前のヒトガタは人間などではない。
恐れることなんてなにもない。

「そうだよな。ああ……私がどうかしていた」

「……」

「お前は、ポケモンだもんな。私と同じ。ああ、そうだ。お前はポケモンだ。人間じゃない。ここにいる。人間じゃない、人間じゃない──」





脱いだコートを、寝台の上に放り投げた。
ポケットの中の茶色い箱のせいか、コートはごと、と音を立てた。
自室に戻ってきたディットは、暖炉に隣室から取った火を移す。ぱちぱちと火花が舞って、部屋は薄明かりに包まれた。

コートの中に手を突き入れた。箱を引き抜く。
開けてみれば、まだ心はそこにあった。

「……」

ラップを剥く。砂糖の匂いが辺りに漂い始める。
ディットは少し躊躇って、それから、チョコレートのハートに齧りついた。
随分、甘かった。大分砂糖を入れたのだろう。そんなに甘党に思われていたのだろうか。……少し前に、彼女の前でコーヒーに砂糖を入れたのを思い出した。あのことを、覚えていたのだろうか。

気づけば、チョコレートは口の中ですっかり溶けてしまっていた。甘ったるいそれを飲み下して、ディットはまた一口チョコレートを齧る。
このチョコレートの、作り手のことが思い出される。ディットよりちょっと先輩で、でも立場的には同類で、ディットに敬意を払っていて、でも友達感覚でやってきた、可愛らしい人間のことが。

また一口。
彼女の声を思い出す。ちょっと気を抜いていると、どこかから飛んでくる、よく通る声。職場にいても、出歩いていても、いつも、その声がどこかから聞こえてくるんじゃないかと、そんな心地さえさせる声だった。まだ耳に残っている。

また一口。
彼女の顔を思い出す。可愛らしい顔だった。眺めていて飽きない顔だった。大抵は笑顔だったけれど、理不尽に怒り、酒を飲んで泣き、気持ち良さそうに眠る、彼女はそんな人間だった。その全部が、まだ頭に残っている。

また一口。
彼女の意思を思い出す。彼女は極端だった。だからこそ彼女はあの職場にいて、戦っていた。彼女は優しかった。その優しさは野生ポケモンにとっては手遅れだったし、他の人間にとっては迷惑だったけれど、確かに彼女は優しかった。今ディットの口を埋め尽くすくどいくらいの甘味も、確かに彼女の優しさだった。ディットはそれを知っていた。

また一口。
彼女の言葉を思い出す。敬語だけれど砕けた感じの、でも不快感はない、そんな言葉達を。彼女は強引で、愉快で、感傷的で、愛らしかった。

もう一口。
……ディットは、それが最後の一口であることに気がついた。チョコレートはもう一欠け分しか残っていない。
これで終わりだ。
一思いに口に入れて、舌の上で転がした。このチョコレートを寄越した時の、グレースの姿を思い出した。しおらしげだった彼女の姿。ディットを根性なしと笑った彼女の姿。
ああ。
愛しいと思った彼女の姿。

「……っ」

はじめて、涙をこぼした。
石の床に、一つ二つと染みが浮かぶ。

とうとう、自覚してしまった。今までずっと避けていたのに、今になって。
そうだ。
愛していた。
あの人間のことを。極端で、むちゃくちゃで、酒癖が悪くて、それでもずっと一緒にいたあの人間を。
……最悪だ。
彼女のことが、好きだったのだ。

漏れそうな嗚咽を、喉の中に押し留める。もう、チョコレートは残っていない。ディットはラップを暖炉に放り投げた。茶色い箱もそうしようかと思ったが、どうしても棄てがたくて、部屋の隅に押しやった。
代わりに、成人向け雑誌を暖炉の前まで持ってくる。服を脱いで、自分の体と、雑誌の中の人間を見比べた。腕。人間に似ていた。腹。人間に似ていた。脚。人間に似ていた。
それでも。
脚の付け根、股間の辺りに目を向ける。人間ならば、人間らしい部位が一つあるはずの場所。
ない。
ない。
ないのである。
そこには何もない。どうせ見られることはないからと、何もそこには作らなかった。ただのっぺりとした、人間に似た肌があるだけ。

結局、どう取り繕って、どれだけ人間っぽい年月を重ねても。それでもディットは人間ではない。どう足掻いても、一匹のメタモンなのだ。
人間を愛してしまっても、人間の世界にディットの居場所はどこにもないのだ。人間の世界が受け入れるのは人間であって、人間擬きのメタモンではない。誰も本当のディットを受け入れたりはしない。あそこには、いられない。
帰るべき場所はここだった。この薄明かりの中。このレジスタンスの中。本当の居場所は、ここだけだ。ディットだった者の未来は、人間の血の向こうにある。愛した者の未来を奪った、その先に。

……メタモンは泣いていた。
作り物の腕でいくら涙を拭っても、とめどなく、とめどなく、それは床を濡らしていた。

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