黒泥が如く

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『うーん、ここはちょっと予算オーバーじゃないかい?』

『……そう、か』

突き返された書類を受け取った彼は、もう文句も言わずにすごすごと自分のデスクに帰っていった。
休日から三日経つが、彼の様子が目に見えて疲れているというのは職場内でも密かに囁かれていることだった。曰く、疲れた顔をしている、だの、目元が変わった、だの、顔色がおかしい、だの。そんな感じだ。
彼にもそれは解っていた。鏡を見る度に同じ事を思っている。メンテナンスは怠っていないはずなのだが。朝に彼が崩れた目尻を修正しても、昼過ぎにはまた戻ってしまっている。大分由々しき事態であった。今はまだ疲労という扱いで済んでいるが、うっかりメタモン顔に戻ってしまったら恐ろしいことになるだろう。一度少しずつ解して、作り直した方が良いのだろうか。

『なあディット、やっぱり君疲れてるんじゃないのかい。今日はもう帰るか?』

『……大丈夫、だ』

『仕事熱心なのはいいことなんだけれども。けれども、ほら、何事もやりすぎはよくないよ。お前が倒れたら私がグレースにどつかれることになる』

グレース。……そうだ、グレースがいないうちに、仕事を済ませてしまいたいのだ。彼はまたパソコンを睨んだ。
彼女は今、三日連続であのハウスメーカーの本部に突撃し続けている。愚直というか非効率というか、正直彼にとってはそんな風にしか思えないのだが、だが今はそれでよかった。
彼女の顔を見たくなかった。どうしてかは、はっきりと言葉にできないが。

三日連続といえば。
そろそろか、と彼はのそりと立ち上がった。窓際に寄って耳を澄ませる。

「血を捧げよ!! 血を捧げよ!!」

そんな声が、聞こえてきた。


「ああ、北向きの方の道路ですが、山側の確認終わりました!! 異常ありません!!」

「……そうか」

鳩胸をいっぱいに張って報告するマメパトに、彼は淡々とそう返した。
山の上では、いよいよ橋が出来るのも近いということで、作戦に使用する道路に異常がないかを確認しているようだった。もしあったら修繕できるのは彼しかいない。だから必然、異常があるにしろないにしろ、マメパトは彼に報告しにくるのだった。

「東向きの方も山側森側共に問題なしでしたし、これは幸先が良いですよね!! メタモンさん!!」

「……そうだな」

「後点検するのは北向き道路の森側だけです!! それが終われば、次は実際の襲撃の面子確認ですかね。いやぁもうすぐですね!!」

マメパトは楽しげに震えていた。武者震いというやつなのだろう。彼はその腕に掴まっている鳥を眺めながら、ぼんやりそんなことを考えた。
はっきりものを考えたい気分ではなかった。

「ところで、橋の建築にはまだ取りかからないのか、とリーダーが言ってましたけど」

「もう、すぐだ。すぐ、だ」

「じゃ、もう少し待ってろって言っときますね。では!! また明日!!」

そしてマメパトは飛んで行く。それを見送りながら、彼は喉を鳴らして言語を切り替えた。





『スクリュードライバーを、頼む』

「お客さん昨日もこれ頼んだろ」

いつものバーのいつもの席に座って、彼はコートを脱いでいた。目の前ではそこはかとなく呆れ顔をしたレディアンがオレンの実を搾っている。
店には彼以外の客はいなかった。……それを確認してから入店したのだから、彼にとっては当然だった。

『あんた、何かあったのか? スクリュードライバーなんて度の強いやつ頼んで』

『早く、酔える』

『やっぱり何かあったのか。ガールフレンドのあの子かい?』

『違う』

店主の出してきたプレッツェルに手をつけながら、彼はテレビを見上げていた。画面は丁度ポケモンバトルを映していて、ドサイドンとダイオウドウが闘っていた。
レディアンはため息混じりに、搾ったオレンとウォッカを混ぜ合わせたものを彼に差し出した。彼はグラスをひっ掴んで、一気に飲み干す。

『もう、一杯』

頭がぐらぐらと揺さぶられる心地がした。プレッツェルに手を伸ばしたはずが、灰皿に指を突っ込んでいた。

『なああんた、やけ酒はいかんよ。せっかくあんな可愛い子と脈アリなんだ、体は大事にしなきゃ』

店主はそう言いながら、オレンに手をかけるレディアンを制した。それから自分でグラスを手に取り、おいしい水を注いで、その上に薄くウイスキーを浮かべる。

『今日は、これで終わりだ』

そう言った。
彼は差し出されたグラスを取って、口に含んだ。一口目は強いウイスキーを感じたが、すぐに水で薄まっていく。不満を込めた横目で店主を見たら、もう店を閉める準備をしていた。


───


あまり酔えなかったせいだろうか、昨晩は嫌な夢を見た。確か、ひたすら血の海の浅瀬を走る夢だった気がする。何かに追われていたのだったか。……彼はトイレの鏡と向かい合って自分の顔をメンテナンスしながら、今朝がたまで見ていた悪夢の内容を思い浮かべようと試みていた。正直、上手く出てこない。ただそれでも、足首を浸す血の生暖かさと、鼻の曲がりそうな臭いは、頭の中にこびりついていた。
トイレを出て職場に戻れば、もう大体の面子は揃っていた。上司もいつもの席に座っている。彼は後は、あの上司に許可を貰える建築業者を探し出すだけでいいのだ。

『ああ、ディット』

すれ違い様に、その上司から声をかけられた。脚を止める。

『悪いね、何か今日もグレース向こうで突っ張ってるってさ』

『別に』

それだけなら、と再び歩いた。
デスクに座りパソコンを立ち上げる。確か昨日目星をつけていたあの業者は、先に図面を見せなければならないんだったか。
彼は橋の設計図を表示した。画面の中の白黒のそれは、相変わらず完璧な構造だった。ウィークポイントを攻撃すれば橋の片側が落ち、山の斜面に従って橋は曲がり、その湾曲に耐えられずに橋のもう片方が外れる。そうすれば、橋は街まで滑って、転がって、落ちていく。それでいいのだ。

橋は潰す。街を潰す。まずジムを、トレーナーごと。そしてポケモンセンターを、施設ごと。その過程で。

『……』

この仕事場も潰れるだろう。当然、ここにいる上司同僚を伴って。そうでなければいけないのだ。
そしてその混乱に乗じて、ポケモン達は反逆する。空から、そして二本の道路から。煮えたぎる怒りは一人の生存者も許さない。トレーナーという後ろ楯を持たない野生にとって、人間を凌駕しうるのはこのタイミングだけだ。だからこそ、何としてでも全滅を狙うだろう。店に入り物資を潰し、ライフラインを停止させ、家々の壁を食い破って赤子だろうと殺すだろう。
それが復讐だと。それをされてきたのだと。高らかに権利を唱えながら。人の血を浴びて笑い、仲間の血を浴びて奮起するのだろう。

引き金を作っているのは、間違いなく彼だった。

『……』

『おい、ディット?』

コジョンドの顔が思い浮かぶ。彼女は待っている。彼が仕事を成し遂げて、帰還するのを待っている。復讐を心に決め、仲間を一つに纏め上げ、時が来るのを待っている。
彼女は成功するだろう。いくらかの犠牲を伴って。そして人間を打ち倒し、取り戻した大地に、彼女は堂々凱旋する。昔のように笑いながら。……彼女の元が、きっと、彼の帰るべき場所なのだ。それが、野生ポケモンとしての彼の喜びなのだ。

ああ、しかし。
それでも。
今のままがいいと、思ってしまうのは何故なのだろう。

『……おいディット!! 机!! 机!!』

……その声にはっとする。手元を見れば、知らず知らずに作っていた握り拳が、ほんのりとデスクにめり込んでいた。慌てて両手を上げれば、机の天板はみしりと言った。
いけない。気づかないうちに、大分力が籠ってしまっていたらしい。

『……悪い』

『いや、構わないさ。そいつも古いしね。にしてもディット、お前腕力凄いんだな』

『……』

首を竦めて、誤魔化すように苦笑いしながら、彼はまたパソコンの画面を見た。

余計なことを考えている場合ではない。彼は大袈裟に首を振って、胸一杯の不快感を黙らせる。この頃、ずっとこうだ。まるで冷静でいられない。どこかに普段の心を忘れてきてしまったのだろうか。





「北向きの道路、異常ありませんでした!!」

「そうか」

人目を避けようと入り込んだ路地裏で。マメパトは今日もまた、彼の右腕でその鳩胸を期待に震わせていた。
計画は順調だ。今日で襲撃のルート確認は終了したらしい。明日は参加する面子を確定させるのだろう。レジスタンスは皆、橋が出来上がるのを待っている。目の前のマメパトがそうであるように。

ふと、気になった。

「ああ」

「何でしょう?」

「あれを、どう思、う?」

路地裏から大通りに視線をやって、歩いている人間達を顎で示した。彼にとっては見慣れた風景だ。仕事に勤しむ者、家路を急ぐ者、ポケモンと共に歩く者。いつも通りの、いつもの人間。

「どう思うって、まあ、怖いですよねぇ」

マメパトはそう言う。

「だってあれ、いつ山に入ってくるか分かったもんじゃありませんもん。あんな残酷な仕打ちを出来るのに、今はあんな風に平然としてる。何考えてるのか分かったもんじゃありません」

とんでもなく残酷な生き物ですよ、とマメパトは続けた。ポケモンを殺しておきながら、それに感動すらしないと。当たり前のように殺してくると。それが怖いと。
違う、と言いかけて、慌てて飲み込んだ。
野生の仲間達にとっては、人間はそういう風にしか見えないのだから。

「メタモンさんもそう思いますよね?」

「……そう、だな」

「うんうん。いやぁ尊敬しますよ。人間の中で生活するなんて、普通気が狂っちゃいますって」

……それから二言三言交わして、彼はマメパトを空へと飛ばした。去っていく羽音を聞きながら、彼はマメパトの言葉を反芻する。
人間の中で生活していたら気が狂ってしまう。
なるほど。

「……ん"ん"っ』

確かにその通りだ。


『また、外の空気を吸ってきたのかい』

『まあ』

ビルの中に戻れば、上司は彼を呼び止めた。どうやら彼に用があるようで、上司は彼の隣まで歩み寄る。それから切り出した。

『実はだ、俺、この前上に呼ばれてたろ。人事異動があってね、向こうで働くことになったんだ』

休みになったあの日のことか。彼は小さく頷く。もうそんな季節か、と納得して、また少し自己嫌悪した。
上司はそんな彼の内心には気づかない。気づくべくもない。話を続けて、上司は彼に提案した。

『そこでだディット。君、この事務所のリーダーになってくれないかい』

昇進の誘いだった。
咄嗟に、彼は周囲を見回した。この事務所には、彼よりも長く働いている人間が大勢いる。しかし目に映るその誰もが、彼に微笑んでいた。

『他の皆は了承済みだ。君が一番働いてるからね』

『……いや』

断りかけて、しかし、断りきれない。
周りが信頼してくれている。それを、嬉しいと思ってしまった。誘いを断るのを、惜しいと思ってしまった。
壊さなければならない職場なのに。

言葉が詰まって、もう何も言えなかった。上司は話を終えたようで、自分の席に戻っていく。

『まあ、すぐにそうなるってわけでもない。しばらくしたらまたじっくり話す時も来るだろう。今は、仕事に集中してくれ。呼び止めて悪かったね』





『新作あるんだが、どうだい』

『スクリュードライバー』

「またかよ」

レディアンは小さく悪態をついた。少し悪いと思ったが、実際そういう気分ではなかった。
彼はいつものバーのいつもの席で、灰皿に映る己の顔を眺めていた。見慣れてしまった人間の顔だ。それなりに仕事をして、それなりに付き合いもある、ごく普通の、人間の顔。
とても復讐者のそれではない。ただの人間の顔がそこにある。そうであってはならないはずだ。

『まあまあそうつれないこと言うなよあんたらしくない。ほら、奢るから。ちゃんと酔えるから』

『……わかった』

「よしきた」

レディアンは軽く羽をぱたつかせて、手近に置いていたキーの実を半分に切った。それを握り潰してシェイカーに果汁を注いでいく。同時に、何か見知らぬリキュールの瓶に手をかけている様子だった。
店主はレディアンを横目に少し考えてから、シュカの実を彼の肘の横に差し出した。

『なああんた。一体何があったんだ。随分疲れた顔をしてるじゃないか』

『……そうだな』

否定しない。全くその通りだ。今まで一緒にやってきたはずの平常心が何処かに家出してしまったようで、彼はどうしようもなく不安で、不快で、孤独だった。
だが相談してすっきりするなんてことは彼には許されていない。何しろ彼の目的は結局、目の前の顔見知りの殺害でもあるのだから。そうしなければならないのだ。

『まあ、誰にだって人に言えないことの二つ三つあるだろう。人間なんだから。でもまあ、なんだ、酒に逃げるのは良くない。この店で人死にが出ちゃ困る』

『だろう、な』

レディアンはシェイカーを振り終えたらしかった。グラスに濁った紫色のカクテルが注がれていく。

「出来たぞ」

『出来たらしいな』

そして、グラスは彼に届けられた。

『キーとウタンのカクテルだ。名前は……そうだな、街路灯だ。街路灯でどうだろう』

『ダサいと思うぞ』

「右に同じく」

『んー……まあ、取り敢えず、飲めよ』

言われるまでもない。彼はグラスを傾けた。
……変な味がした。いや、不味いという訳ではない。ただ、甘味と酸味ベースの中に辛味と渋味も鎮座していて、どれを味わうべきなのかよくわからないのだ。
しかし不思議と気分は落ち着いた。胸の痛みが引いた気がする。一体何が……ああ、キーの果汁を使っているからか。彼は一人納得して、グラスを置いて、背もたれに身を預けた。

『どうだ?』

『確かに、悪くない』

シュカの実を齧る。ふと、次にこれを食べられるのは何時だろうか、なんて考える。野生の仲間の元で、こいつにありつける日は来るだろうか。

人生の帰路に立たされている。彼は実感した。
いや、人間じゃないのだから、人生という言葉はおかしいのだが。

『……今日はもういい』

『もういいのかい』

『ああ。今晩は、普通に眠れそうだ』


ベッドに座る。窓の外から星は見えない。
桜色のコートをハンガーに掛けて、彼は眼を閉じた。
やらなければならないことがある。
待っている者がいる。
期待している者がいる。

コジョンドの顔を思い浮かべた。はっきりと思い出せることに安堵した。まだ、彼は彼女達の味方でいられるのだ。
成すべきことを成そう。そうするべきだ。
人間に復讐を。彼女の謳った復讐を。
例え、痛みを伴うとしても。

『……』

結局、彼は人間ではないのだから。

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