57杯目 兄と妹

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 降り続いていた雨があがった。
 空を隠していた雲の隙間から光が落ちて。
 枝葉に取り残された雫は、その光をきらりと弾く。
 まるで、何かの始まりを告げるかの如くに煌めく世界の中。
 新たな一歩を踏み出そうとする。



   *



 つばさが八つ当たりをする少し前。
 ようやく雨があがった頃。
 とててっ、と木の下から駆け出す影が一つ。
 影が駆ける衝動で草花に残る雫が地へ落ちた。

―――ちょっと、兄ちゃん??

 駆け出したのは妹ファイアロー。
 発した声はひそめるように小さかった。
 けれども、そこには確かな怒気がはらんでいて。
 彼女が駆けた先にいるのは、困惑気味に首を傾げた兄ファイアロー。
 詰め寄る彼女に、彼は思わず身体を仰け反らせた。

―――な、何……? ニア?

 そんな彼が発した声も、彼女につられて小さかった。

―――何じゃないからっ! あたちの居場所はあたちで決めるのっ!

 きろっと睨んでから、彼女は身を引く。

―――すばるさんにお願いしようとしてたでしょ?

―――う……。だって、すばるなら任せられると思って……

―――だってじゃないよ。勝手なことしないでっ!

 頬を膨らませる妹ファイアローに。
 しゅんと沈んだ面持ちの兄ファイアロー。

―――だって……やっとさ……

 もごもごと何か言葉を飲み込む彼に。

―――は?

 焦れた彼女が睨む。
 それに一瞬びくりとした彼だけれども。
 上目遣いで言葉をこぼす。

―――やっと、ニアに“お兄ちゃん”っぽいこと出来ると思ったんだもん

 そんな彼の言葉。
 妹ファイアローがきょとんと瞬く。

―――だって。ニアの“お兄ちゃん”なのに、全然“お兄ちゃん”出来てなかったもん。やっと、それが出来ると思ったんだもん

 落ち込んだように視線を落とす彼。

―――僕は“ダメなお兄ちゃん”だから、さ

 顔を上げて、情けなく笑う兄ファイアローに。
 妹ファイアローははっと目を見開いた。
 彼女が思い出すのは、まだ、兄と共にこの森で過ごしていた頃。
 兄ちゃんだけじゃ、この厳しい世界は生きていけないよ。
 そう言って、自分は兄と一緒にいた。
 “理由”がないと、傍にいられないと思ったから。
 でも、実際にそうだとも思っていたから。
 あの頃は自分の方が体格は大きかったし。
 採ってくる食べ物や獲物だって、自分の方が身も大きかったし。
 面倒を見てあげなくちゃ。そう、思っていた。
 けれども、そうではないとあの時に知った。分かった。
 森が炎に包まれた時。身を挺して自分を護ってくれたあの時。
 兄の中に在る強さを見た。知った。
 そして、思い知ったのだ。
 やっぱり、彼は自分の“兄”なのだと。だから。

―――兄ちゃんは、あたちの兄ちゃんだよ

 申し訳なさそうに彼女は笑う。

―――あたちがいないとダメだねって言ったのは

 だから、言葉にする。

―――兄ちゃんの、お兄ちゃんの傍にいていい“理由”が欲しかったからなの

 言葉にするのだ。

―――だから、その……

 少しだけ言いよどんで。

―――ごめんね

 “だめ”って思っててごめんね。
 全然“だめ”な兄ではなかった。
 やっぱり、兄は“兄”だった。

―――ごめんね、お兄ちゃん

 もう一度、申し訳なさそうに笑って。
 兄を真っ直ぐ見上げた。
 いつの間にか、自分よりも大きく成長していた彼。
 今では少しばかり見上げないとだめになってしまった。
 それが少しだけ嬉しくて、寂しい。
 広がったこの差は、自分の知らない兄の時間だから。

―――なに、それ

 彼からこぼれ落ちた言葉。
 そこに、怒気がはらんでいるのを感じ取った。

―――ねえ、ニア?

 兄の呼びかけに、妹ファイアローは思わずきゅっと目を閉じた。
 叱咤が飛んでくるような気がしたから。けれども。

―――傍にいたいって気持ちに、“理由”はいらないんだよ

 え。と、顔を上げる。

―――傍にいたいなら、それだけでいいんだ。だって、ニアは僕の“妹”で、僕はニアの“お兄ちゃん”なんだもん

 くしゃりと彼は笑った。

―――と言っても、僕もそれは気付いたばかりなんだけどね

 えへへ、と恥ずかしそうに声をもらす。

―――そう、だよね。うん。そうなんだよね

―――そうだよ

―――だから、あたちも自分の場所は自分で決めたいの

 もう一度、彼女は兄を見上げる。

―――兄ちゃんは自分で見つけたんだもん。それなら、あたちも自分で見つけたいの

 今度こそ、兄の隣にいたいから。
 そのためには、兄と同じ世界に踏み出さないと。
 けれどもそこは、兄と同じ場所ではだめだと思う。
 兄に用意された場所でもだめだとも思う。
 その場所は、自分で見つけなければ。
 そうじゃないと、頑張った兄の隣には立てない。
 そう。きっと、だめなのだと思う。

―――でも、ちょっと不安はあるの

 だって、自分の知らない世界だから。

―――だから、近くにいてもらってもいい?

 勇気が欲しい。一歩踏み出す勇気を。
 彼が傍に居てくれるだけで、それだけで充分だから。
 自分と兄との体格差。自分が少しだけ見上げないと、兄の顔が見れなくなった変化。
 それは、兄の頑張った時間。自分が知らない兄の降り積もった時間。
 そんな兄の隣に立つのならば。
 同じ条件がいいと思うのは、自分の勝手な対抗心。
 それでも、勇気が欲しいと思ったのは、その気持ちが勝ったのは、たぶん甘えだ。
 だって、やっぱり。自分は“妹”だから。
 刹那。さわりと風が吹いた。
 雨のにおいを運ぶそれ。
 少しだけ冷たい風の感触に、少しだけ身動いだ。

―――いいよ

 風に溶けるように、兄の声が聴こえた。

―――お兄ちゃんも一緒に居てあげるよ

 えへへ、と。
 彼は照れ臭そうに、けれども、嬉しそうに笑う。
 目を見開いた彼女は。

―――おにい、ちゃん……

 と、小さく呟いて。それから。

―――ありがとう

 と、また小さく呟いて。
 くしゃりと笑った。



   *   *   *


あと、残り4話。

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