56杯目 待ってたのに

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 さあー。さあー。
 雲からこぼれ落ちた雨の音。
 雨粒達が草木を打ち鳴らす。
 木の下に影が二つ。
 ぽっぽっ。
 枝葉から滴ったそれが、雨をしのぐそれへ落ちた音。
 つうと雨粒が伝えば。
 それを鬱陶しそうに羽根をばたつかせて振り払う。
 それももう、幾度目だろうか。
 一つ分の距離を置いて座るもう一つは。
 ただ、ぼんやりと枝葉を見上げて。
 その隙間から覗く空へと、何となく視線を向けていた。

「雨、やまねーなあ……」

 ぼんやりとこぼした言葉。

―――そうだねえ……

 空を見上げていた桔梗色の瞳。
 それが驚いたように小さく見開かれて。
 ぱっと横へ向けられた。

―――何か……?

 幾度目の羽根のばたつかせ。
 枝葉からの滴りが鬱陶しい。

「いや、応えがあるとは思わなかったから」

 さあー。さあー。
 雨粒達が草木を打ち鳴らす。
 気まずくなったすばるがファイアローから視線を外した。
 行き場を失った視線は彷徨って。彷徨って。
 結局は元に戻って、枝葉から覗く空を見上げた。
 灰色の空。それでも、そんなに雲は厚くなさそうだ。
 きっと、雨もそれほど長くは続かないだろう。
 雨は周りの音を隠してしまうから。
 まるで、世界から切り離されてしまったようで。
 ちょっとした不安、寂しさ。そんなものが降り積もってしまう。
 そんな中で、そっと息をもらした頃。

―――ねえ

 それは、ひどく鮮明に聴こえた。ような、気がした。

「んー?」

 間延びした返事に。ゆっくりと振り向く。
 振り向いた先に、ファイアローの真剣な瞳を見つけた。

―――一つ、訊いていい?

「何を?」

―――すばるはこの先さ、どう在りたいの?

「どう、在りたい……?」

 ファイアローの問いかけに、すばるは眉根を寄せる。

―――つばさちゃんと、どう在りたいのかってこと

 少しだけ強めな声音。真剣なそれが垣間見えた。
 けれども。予想してなかったその問い。
 どう在りたいとは、つまり。繋がり、カタチのことだろうか。
 すばるは飲み込んだ唾が気管にはいる。
 ごほごほっ、とむせて咳き込むすばるに構わず、ファイアローは急かすように続きを促した。

―――ねえ、これもちゃんと答えてよっ

「…………ちょ、まてっ……」

 片手を持ち上げ、掌をファイアローへかざして制する。
 呼吸を整えようと努めるも、咳の衝動は治まってはくれない。
 堪えきれずに、ごほごほっ、と苦しそうに咳き込む。
 そんな彼を、ファイアローはじっと静かに待った。
 時々枝葉から滴り伝う雨粒を鬱陶しそうに払いながら。
 ざあー。ざあー。
 雲からこぼれ落ちた雨粒達。
 気が付けば、枝葉を打ち鳴らす音が変わっていた。
 勢いの増したそれ。
 枝葉から滴り伝う雨粒も、その間隔を短くするものだから。
 ファイアローが羽根をばたつかせる回数も増えていく。
 幾度目の羽根のばたつき。そろそろ不機嫌になってきた彼は。
 ちらりと自分の隣を見やって。睨んで。唸って。
 くるるぅー。小さく、一鳴き。
 そっと立ち上がって、隣を詰めた。そこはすばるの隣。
 そうした頃。ようやくすばるも落ち着いたようで。
 距離を詰めたファイアローを思わず見やった。

「…………」

―――…………

 互いに顔を見合って。沈黙には、沈黙で返す。
 ざあー。ざあー。
 一人と一羽。落ちた沈黙に雨音が降り積もる。
 先に視線を外したはファイアローだった。

―――どうせ見つめ合うなら、すばるじゃなくてつばさちゃんがいいな

 その言葉が妙に楽しくて。
 すばるは、ふはっ、と笑いをもらした。
 それが積もり続けた雨音を吹き飛ばす。

「俺だって、見つめ合うならつばさがいい」

 笑いが混ざった声でそう返す。
 すばるはくつくつと、ひとしきり笑ったあと。
 真剣な響きを持った声で言葉を続けた。

「つばさの隣にいるのは、常に自分で在りたいとは思ってる」

 ぴくりと反応したファイアローが、ゆっくりとすばるを見やる。

「それがどんなカタチに落ち着くのかは、わかんねーけどな」

 少しだけ苦笑するすばる。

―――それ、どう意味?

 すばるを見つめるファイアローの瞳に険が宿る。
 返答によっては容赦しないよ。
 と、威圧も兼ねて鋭い嘴の準備も忘れない。
 だが、すばるはそれに臆する様子はなかった。
 ちらりと一度だけ視線を向けるだけで、あとはぼんやりと枝葉を眺める。

「だって俺、まだあいつに気持ち伝えてねーし。俺も、あいつから何も聞いてねーし」

―――え……? そうなの?

 ファイアローが首をひねる。

―――え、でも、つばさちゃんが好きなのって

 と言いかけて、慌ててそれを閉ざす。
 この先は言葉にしてはいけない。カタチにしてはいけない。
 そう、どこかで告げる声がした。

「確かにな」

 すばるが視線を落とす。

「お互いに知っている気持ちは在る。けどな、それはお互いに“知らない”気持ちでもあるんだ」

―――?

 首を傾げるファイアローを向いて、すばるは力なく笑う。

「その気持ちをカタチにしてねーからな。お互いに」

 桔梗色の瞳がゆれる。
 その奥で見え隠れするのは。

「たぶん」

 髪をかきあげて、見えない空を仰いだ。

「関係を壊したくなかったんだ」

 手で目元を覆って、瞑目。
 近くもなければ、遠くもない距離。
 これ以上近付くのは怖くて、だからといって離れるのは嫌で。
 そんなゆれる気持ちの中で、一つの気持ちを見つけた。
 手離したくない。そう思っていることに。
 それに気付いて、皮肉気に笑ったのを覚えている。
 別に彼女は自分のものではないのに。
 手離したくない、だと。いつから彼女は自分の――。
 そこまで考えて、考えるのをやめた。
 結局自分は、確かな繋がりを欲していた、ということ。

「別に俺、執着とかないと思ってたんだけどなあ……」

 半ば投げ遣りな言葉。
 小さな呟きをもらして、目元を手で覆ったまま俯く。
 ふう、と重い息を吐き出して。

「…………その先も夢みてる」

 ぽろりと落とした言葉。
 それは、とてもとても小さな声で。
 彼女となら、そんな未来も思い描ける。
 自分で落とした、そんな言葉。その意味に。
 はっと気付いてから。
 頬に熱を感じて、何だか疼く気持ちが在った。
 そのすばるの隣。嬉しそうに頬をゆるめて身動ぐ存在。

―――そっか。それならいいんだ

 言葉が聴こえて、ぴくりとすばるの肩がふるえた。
 目元を覆った手。指の間から、ファイアローへ視線だけを向けた。

―――すばらならいいよ

「何が?」

―――僕とだと、一+一はずっと二のままだけど

 そこでファイアローはへへっと笑う。
 眉根を寄せたすばるが顔を上げて、訝しげに桔梗色の瞳を瞬かせる。

―――すばるとなら、一+一は三になるもかもだもんね

 えへへぇー。そんな声が聴こえてきそうなくらいの笑顔。
 そんなファイアローを見て、すばるは呑気に感じた。
 何か嬉しそうだなあ、こいつ。と。
 桔梗色の瞳に呆れのような色が滲んで。
 それに気付いたファイアローが瞬時に膨れた。

―――何? 僕の言葉の意味分からないの?

 ぷくっとさらに膨れた。
 瞬くは桔梗色。
 そして、ゆっくりと言葉がすばるに染み込んで行く。
 確かな繋がりとは。まあ、そういうことで。
 それは繋がりが名を変えることになるわけで。
 さらに、ファイアローの言葉は。
 確かな繋がりの、そのカタチを。
 たぶん、それを指している。
 すばるの中でファイアローの言葉が反響する。
 繋がりが名を変えることは、今のその、在るカタチを変えることにも。
 なる、かも、しれないわけで。
 結論に辿り着いた時。桔梗色の瞳に熱がこもった。
 瞬間。ファイアローがへへっと笑った。

―――やっと伝わった

 満足気な彼。
 対してすばるは、頬を朱に染めて口をへの字にする。
 そして、照れ臭そうにして彼から視線を外した。

「まあ、別にさ――」

 ぶつぶつと言葉を並べるすばる。
 その声は小さくて、隣のファイアローにも拾えなかったけれども。
 くしゃくしゃと髪を掻き回す様は、照れ隠しのような気がして。
 ファイアローはそっと小さく笑った。
 そして、瞬き一つでそれらを引っ込める。
 すっ、とファイアローの顔から笑みが消える。
 彼の気持ちは分かった。
 ならば、自分も決めたことがある。
 彼の中で、その“カタチ”が確かに在るのならば。
 それならば、彼になら託せる。
 自分の大切なそれを託せる。そして、のちにそうなるのならば。

―――ねえ、すばる

 その一言。先程と打って変わったその声音。
 すばるの手がぴたりと止まった。
 ファイアローがまとう雰囲気も、その色が変わったのを肌で感じて。

「――どうした?」

 すばるの表情も真剣なものになる。

―――うん。すばるにお願いがあるんだ

「…………お願い?」

―――あのね、実は……

 と、言葉を発しかけて。
 ファイアローはそこで押し黙る。
 一転を見つめたまま。

「イチ?」

 微動だにしない。
 首を傾げたすばるは、彼の視線が自分を通り過ぎていることに気付いて。
 つられるようにして振り返ったその先。
 別の木の下。同じように雨宿りをしている一羽のファイアローを見つけた。

「あの娘は……」

 思わず呟く。二度出会った。
 一度目は頭をぶつけて。二度目は助けてくれた。
 妙な縁だなと思った。一緒に過ごした時間も、接した時間もとても少ないのに。
 何故か、彼女の姿は焼き付いたようにして。
 褪せることも、朧になることもなくて。
 妙な縁だな、と思った。

―――ニア

 ざあー。ざあー。
 枝葉を打ち鳴らす雨粒の音が響く中。
 そのファイアローから発せられた言葉は、妙な鮮明差を持って響き渡った。
 ぽたり、と。確かな重さを持ったそれは。
 まるで、水面に落ちた雫のように。
 波紋を伴って、すばるの中に染み込んで行く。

「なあ、イチ。あの娘は――」

 お前の何なのか。と、問おうとして。

―――僕の妹だよ

 すぐにその答えが返ってきた。
 それでも、ファイアローの視線はずっと彼女に向けられたままで。
 そんな彼の視線の先。
 彼女はただ、首を横に数回振っているだけだった。
 何かを否定しているようにも思える。
 不意に彼女の視線がすばるに向けられた。
 視線が絡み合ったのはほんの一瞬で。
 すぐに彼女の方からそらされてしまった。
 けれども、すばるの桔梗色の瞳は。
 それから暫く、彼女の方を向いていた。
 雨粒が枝葉を打ち鳴らす音が、やけに響いていた。



 それが、その日の昼頃のこと。



   ◇   ◆   ◇



 その日の夕方。
 喫茶シルベの一階。カウンター席。
 突っ伏したつばさが、長く重い息を吐き出した。
 いつもと同じ一日だった。
 時間になったから店を開けて。
 お客さんとお喋りを楽しんで。
 注文されたメニューを作って、お出しして。
 また、お客さんとお喋りを楽しんで。
 時間になったから店を閉めた。
 いつもと同じ一日だった。
 ただ、違うとすれば。
 いつも賑わう中で、いつの間にか中心になっている毛玉の存在がなくて。
 仕事を手伝ってくれる彼の存在がなくて。
 そして、いつもは窓辺で寝そべるだけの存在。
 その彼が、珍しく仕事を手伝ってくれたことだけ。
 たった、それだけ。それだけだ。

「心配だったし、不安だったし、今も現在進行形で心配だし、不安だし、しかも連絡ないし」

 ぐくもった声がもれる。

「それでも、その中で“いつも”を過ごせたのってすごくない? 私って頑張ったよね?」

 誰に問いかけたでもない問い。
 顔を上げて、軽く目をこする。

「別にじわって視界が滲んだわけじゃなくて、目にごみが入っただけだから」

 椅子ごと振り返った先。
 からんからん、とドアベルを響かせて。
 外から中へ入ってきたブラッキーがいた。

《――ああ》

 彼はちょうど、ドアに掲げている看板を引っくり返してきたところだった。
 “OPEN”から“CLAUSE”へ。

《連絡は?》

 ブラッキーの問いに、つばさは黙って首を横に振る。

《そうか》

 彼が俯く。視線を落とした視界の端で、つばさの足が動いた。
 顔を上げて動きを追えば、彼女は店内の奥へと向かう。
 そのまま、一番奥の窓辺に腰かけて。
 そこはいつも、ブラッキーが寝そべる定位置で。
 こつんと頭を窓へ預けて、そのまま寄りかかる。
 そんな彼女へブラッキーは歩み寄り、音もなく、跳躍一つで窓辺へ飛び上がった。
 一人と一匹は、意味もなくぼんやりと外へ視線を投じて。
 街灯がぽつぽつと光を灯し始める様を眺める。
 伸びる街灯の影が、日の落ち始めを告げる。
 もう、そんな時間帯なのか。
 つばさが吐息をもらす。
 外を眺めて、初めて日の傾きを知った。
 それくらい、その日は“いつも”を必死に取り繕った。
 だって、待つと決めたから。でも。それでも。

「雨、もうやんだね」

 そっと、つばさの手が窓に触れる。
 外側にある窓の水滴。雨の落し物。
 それをなぞるように、手が窓を撫でる。

《ああ、そうだな》

 応えの声。
 ブラッキーがちらりとつばさを盗み見る。
 そこには別に、何の感情もなくて。
 ただ、橙の瞳がぼんやりと外を向いているだけだった。
 灯り始めた街灯の光。それが窓の水滴を突き抜けて。
 彼女の橙の瞳をきらきらと煌めかせる。
 彼女が吐息をもらす度に。彼女が寄りかかる窓を曇らす。
 日が傾き、沈む頃合。店内も薄闇に包まれ始めていて。
 店内の明かりを点けなければ。
 そのまま彼女は、闇に溶けてしまうような気さえした。

「…………?」

 つばさが身動いだ。
 橙の瞳がブラッキーへ向けられる。
 ぼおっと青白くつばさの顔を照らすのは。

「りん……?」

 自身の輪模様を発光させたブラッキーで。
 辺りを優しく静かに照らす。それはとても、月に似ていた。
 淡く明滅を繰り返す度、呼応するように光もゆれた。

《暗くなるからな》

 金の瞳がつばさを見上げる。
 薄闇に溶けそうだった部分も明るく照らすそれ。
 光がゆらめく度に、彼女の陰影もゆれた。
 つばさの瞳が動く。
 窓の水滴。街の街灯とブラッキーの光。
 その二つを吸い込んで煌めく水滴は、何だかとても綺麗だった。
 その動きにつられて、ブラッキーの瞳も動いた。

「イチは大丈夫だと思うの」

 うわ言のようにつばさは呟く。

「炎タイプだし、特性もあるし」

 ただ、と。そこで言葉は途切れる。
 ふいにつばさの視線が店内へ向けられる。
 店内に残る雨の気配。
 昼間に訪れた客が運び込んだ雨の気配だ。
 もう、薄れたと思ったそれ。けれども。
 まだ、色濃く残っている気がした。

「カフェラテ達は大丈夫かな。あの子達、寒さで震えてたりしてないよね?」

 無意識に片腕を抱いた。
 連絡がないということは、まだ見つかっていないということで。
 日が沈むということは、気温も低くなるということで。
 両足を窓辺に乗せて、両腕で抱える。
 こつん、と。後頭部を窓にぶつけて、窓越しに空を仰いだ。
 反転した視界の空は、橙から藍色へと染まり始めていて。
 遠くでヤミカラスの声がした。日没を告げる声。
 ははっ、と。つばさは乾いた笑いを口からもらして。

「ごめん。弱音、吐いた」

 抱えた両足。膝に顎を乗せて呟いた。
 青白いゆらめく光が、つばさの横顔を照らす。
 力ない表情に見えるのは、たぶん、ゆらめく光で浮かぶ陰影だけではない気がした。
 そんなつばさの横で身を丸めたブラッキー。
 とすんとすん、と。優しく尾が彼女を叩く。

《気にするな。俺が聞いてやる》

 交差させた前足。頭を乗せたブラッキーが、視線だけを彼女へ向ける。
 そこに橙の瞳も向けられていて。
 金と橙の。両者の視線が絡まった。

「…………りんは、強いね。私も、動じない強さが欲しい」

《――――》

 金の瞳が震えた。

《――俺も、強くはない》

 その瞳は、切なく細められる。

《護れなかった。届かなかった。だから、俺は強くない》

 だが。
 ブラッキーが頭を持ち上げて、空を見上げた。
 見上げた先で、瞬き始めた一番星を見つけた。

《だが、お前が一緒なら強くなれる。そんな気がする》

 金の瞳がつばさの方を向けば。
 青白くゆらめくその瞳の中に、つばさの顔が映った。
 それがくしゃりと歪む。

「あんたの、そういうとこがずるいよ」

 ゆれる橙の瞳は。
 青白くゆらめくもののせいか。
 または、街の街灯のせいか。
 もしかしたら、その両方か。別のものか。
 全ての明かりを吸い込んだ水滴。
 窓越しに届くその煌めきの中。
 瞳をゆらめかせる彼女は。
 泣きそうな顔で笑っていた。

《つば――》

 ブラッキーが名を呼ぼうとした時。
 店内に小さな振動の音が響いた。
 しんっと落ちた茜の沈黙。それを裂くように響く。
 一人と一匹の視線が同時に音の方へ向いた。
 視線の先。カウンター。そこで揺れ動く、つばさのスマートフォン。
 刹那的な動作でつばさが動いた。
 カウンターへ駆け寄り、瞬時にスマートフォンを手にする。
 画面に表示された相手を確認して、迷うことなく応答ボタンをタップ。
 スマートフォンを耳に当てたのと、彼女が声を発したのはほぼ同時。

「すばるっ! 見つかったの?!」

 高揚した声音。
 電話向こうの声は少しだけ驚いたようで。

『つばさ、ちょっと落ち着け』

「あ、ああ、ごめん」

 少しだけ深呼吸したつばさは、そのままカウンター席の椅子へと座る。
 窓辺から飛び降りたブラッキーも、その隣の椅子へと飛び乗った。

「あの、それでカフェラテ達は?」

『ん、ああ。大丈夫、元気過ぎるくれーだよ』

「そっか、良かった……」

 思わず瞳を潤ませたつばさは、隣のブラッキーにも目配せする。
 目に見えて彼もほっと安堵したのが分かった。
 つばさもそっと胸を撫で下ろす。
 安堵したら、何かが緩んで目頭が熱くなった。
 じわりと視界が滲んでしまう。
 それに気付いたブラッキーが。

《もう、泣いてもいいぞ?》

 と、口の端にからかうような笑みを乗せる。

「……っ。――まだ、泣かないもんっ」

 すんっと鼻を鳴らして答える。
 にやっと笑うのはブラッキーで。
 つばさは眉間にしわを刻んで軽く睨んだ。
 そのやり取りを不思議に思った電話向こう。

『つばさ?』

「う、ううんっ。何でもないっ」

 慌てて目元をぐしぐしとこする。だが。

『わりーな、連絡すんのすっかり忘れちまってて』

 電話向こうのその言葉で、つばさはぴたりと動きを止めた。

「え」

 これは思わずこぼれた声。
 つばさの変化にブラッキーの雰囲気が硬くなる。

『こっちも、その、いろいろあってな』

 電話向こうの言葉は歯切れが悪かった。
 すばるの方でも何かがあったのだろうか。

「すば――」

 それを訊ねようとしたとき。
 つばさの声を遮って。
 たぶん、つばさの声には気付いてなかったのだろうな、と。
 あとからつばさは思ったのだけれども。

『だから、すっかり忘れちまってた。ははっ』

「――――」

 つばさの声を遮って、電話向こうから発せられた声は。
 そんな、笑いを含んだ声で。
 一気に、否、急激につばさの周囲の温度が下がった。
 ように、ブラッキーは感じ、思わず身を硬くする。

「何? 笑うの?」

『は?』

「そりゃ、すばるにも何か事情があったと思うけどさ」

『おい、なにを』

「私がどんな気持ちで、ずっっっっと待ってたか知らないでしょ?」

『おーい』

「それでも私、すばるがここにいろって言うから待ってた。ずっと待ってた」

 震える声音に、電話向こうが押し黙った。

「待つって決めたから、“いつも”通りに待ってたのに」

『…………あのさ、つばさ。その』

「それなのに」

 橙の瞳に光が宿った。
 それは、鋭いものをはらんでいるようで。

《おい。落ち着け、つばさ》

 傍らで様子を伺っていたブラッキーが、思わず声をかけてしまう程には。

「すばるの、ぶうわああかああっ!!」

 鋭くて。
 怒鳴り声に近いつばさの声。
 感情的なそれに、ばか、という言葉が崩れる。
 傍らのブラッキーも、その声の驚きと衝撃で思わず身を竦めた。
 が、すぐに立ち直って彼女を宥めようと動く。

《つばさ》

 少しばかり非難を含めた声音。
 いくらなんでもそれは。

《それは、やつ――》

 八つ当たりだろう。そう言いかけたけれども。
 はあはあと息の荒いつばさは、一つ、呼吸を整えると。

「ああ、そうだ。これ、ただの八つ当たりだから気にしないでね?」

 と、電話向こうに告げる。

《あ、落ち着いてた》

 ぽろりとこぼすブラッキーに。
 じゃあ、と。やたらとにこやかに通話を終えたつばさ。
 そんな彼女はブラッキーへと振り向くと。

「ねえ、りん」

 ふふっと笑った。随分とすっきりしたような表情に。
 ブラッキーは冷や汗が噴き出したことを自覚する。

「ちょっと、夜の散歩に付き合ってよ」

 首を傾げて、つばさは笑みを深くする。

「頭を冷やしたいの」

《……………………ああ》

 ブラッキーに、拒否権はなかった。

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