滴る水が、わずかな光を拾いながら洞窟の輪郭を表す。天井に張りついたいくつもの軌跡は、一つの終着点で大きく重たい水滴を作り出し岩の床を叩いた。
静寂の洞窟のなか、耳をそばだてる二匹のポケモン。水滴が地面を打ち小さな音が反響した直後、ソレは声をあげた。
「あぁ~? 何だい? さっきから……」
声が壁にぶつかっては反射して幾重にも飛び回る。狭い空間に行き渡った音は二匹に全方位から圧力をかけ、そのまま握り潰してしまいそうなほど力強かった。
その時、真っ先に思い出したのはある都市伝説。── この洞窟には迷いこんだ子どもを食べてしまう恐ろしいポケモンが棲みついている ──
という嘘くさいもの。
ミミロルはそんなものを信じるほうがバカだと思っていたが、どうやら本当だったらしい。
「誰だい……!? このあたしを起こしやがったのはぁ!?」
酷く掠れた声は早起きした朝の町でよく目にする穏やかな老婆のものに少し似ている気がした。
だが聞くだけで、無性に不安が掻き立てられるこの感覚は他のなにかには例えられないものだった。
おそるおそる声の聞こえた方に目を向ける。
さっきまで誰もいなかったはずのそこに、確かになにかがいる。
帽子を被ったような形の紫色のポケモン……声を聞いて想像していたよりも小さかった。
── 後で知ることになるそのポケモンの名前は"ムウマージ"という。 ──
「おやおや……小さなガキじゃあないか。こんなコドモが迷いこむなんていつぶりかねぇ?」
姿を現した声の主は、フラフラと座っていない首を揺らしながらこちらに近づいてくる。
「ダメだろう? こんなところに来ちゃあ」
「す、すみません……。リオルが来たいって言うから……」
「え!? なんで!?」
「だから、すぐ出ていきますから……! その……」
とっさに最低な嘘をついたミミロルの命乞いもむなしく、ヤツは不気味に笑って少しずつ距離を縮めてきていた。ミミロルもそのぶんだけジリジリと後ろに下がる。しかしリオルだけはその場で体を震わせて動けないままだった。
「リオル! しっかりして!」
「は、はいぃっ!」
「アンタたち、パパとママに教わらなかったのかい? この洞窟には近づいちゃあいけないって……」
その言葉に続けるように都市伝説の詳細を思い返す。
── その洞窟の奥に棲む"ヤツ"を見てしまったら最後。ヤツは逃げまどう子どもたちをどこまでも追い続け、やがて疲れはてた子どもたちは捕まり、むしゃむしゃと食べられてしまう。 ──
「リオル! 逃げるよ!」
汗ばんだ手でリオルの腕を掴み、洞窟の外へと急いで引き返す。
「おやおや、もう行ってしまうのかい? 寂しいじゃあないか!」
「き、来たぁ!」
「ヒィ~ボク美味しくないよ! 食べないでください!」
息がつまりそうになる重低音の包囲からやっとのことで抜け出す。開放された音は静寂に散りとけていく。
ヤツから逃げて洞窟を飛び出した時、あたりはすっかり暗くなっていた。洞窟の外は巨大な森に覆われていて、ミミロルはリオルについてくるように促して走る。
「そうだミミロル! さっきの"きあいだま"で足止めできないかな!?」
「この状況で立ち止まれって言うの!?」
まずヤツに普通の攻撃が効くかどうかすらわからない。そんななかで逃げる足を止めるのは自殺に等しい行為である。
だが地面に茂った草に隠れてしまうほど小さな二匹の足では、そう遠くまで逃げられないのも事実だった。
「……わかった。やってみる!」
振り返って先ほどと同じように両手を構える。焦っていたためか完成した"きあいだま"は先ほどよりは少し小さく見えた。
"きあいだま"から外した目線が口を開けた洞窟の真っ黒な口内に吸い込まれていく。
「いっけぇーっ!!」
勢いよく発射された"きあいだま"は大きく上にそれ、洞窟の入口の上の部分に当たって消えてしまった。
「そんな……!」
そのあっけないようすに一瞬固まってハッとする。
"きあいだま" が外れた。
昨日までならいつも通りのことのはずが、さっき一度成功しただけですっかり"きあいだま"をマスターした気になっていた。失敗するなんて考えもしなかった。
急に地面に強く引きつけられ、今すぐにその場に沈み落ちそうな気持ちになる。
「ミミロル!」
リオルが驚いたような声をあげる。それは教えを乞おうとしていたミミロルへの失望か……。
そう思ったとき、黒い痕の箇所から壁にヒビが広がっていく。攻撃が命中した衝撃で壁が崩れ、洞窟の入口があっという間に瓦礫で塞がれた。
「ミミロルの狙いはこれだったんだね!」
「えっ……?」
「入口を壊してとじ込めるなんて、流石ミミロル!!」
思わぬ結果にホッとするミミロルだが、隣で大きくガッツポーズして称賛するリオルにはなんも言えない複雑な気持ちにさせられた。
洞窟に閉じ込めたとはいえ、最初なにもないところから突然現れたことを考えると、まだ安心はできない。
すぐに踵を返してリオルを引っぱる。
「ほら、今のうちにここから離れなきゃ!」
「そういえばミミロル! どこに逃げるつもり!? 町まで結構遠いけど……!」
「説明はあと! とにかく今はついてきて!」
「待ぁてぇ!」
走り出した背後でまた重苦しい声が響き、思わず体がビクッと跳ねる。悪い予感は的中した。振り返ったそこには、瓦礫のなかからすり抜けてくるヤツの姿。
「もう来た……!」
ミミロルとリオルを見つけるなり、口の両端が裂けそうな笑みを浮かべて動き始める。急速に接近するヤツから逃げるため、大慌てで目の前に広がる森へ飛び込んだ。
いくら透明になったりすり抜けることができても、視界を切って追う相手を見失ってしまえば追ってこれない。
といっても当時のミミロルたちにそんなことを考える余裕など無かったが、視界の悪い夜の森はまさに逃走にはもってこいだった。
密度高く伸びきった草に身を隠しながら、生い茂った木々の隙間に小さな体を滑り込ませながら、森のなかを逃げ回る。
「ねぇミミロル、噂じゃ『どこまで逃げても追ってくる』って言ってた……。ボクら、食べられちゃうのかなぁ~……」
「や、やめて! そんなこと言う暇があるなら走って!」
走り続けたことで体力も疲弊し、心身ともに弱っている二匹の頭上では、月の位置がほんの少し下にズレていた。
とっくにヤツの声は聞こえなくなっており、響くのは草を掻き分ける音と荒いミミロルたちの呼吸だけ。
足を前に出すだけでもやっとなほど消耗していたが、もし今止まればヤツに捕まり食べられてしまうかもしれない。
どれだけ離れても、そんな不安が背中にとりついて離れずに二匹の足を突き動かした。
そして、ようやく終わりのない逃走にゴールが見える。
「はぁ……はぁ……!」
「見えた……っ!! もうすこし!!」
ミミロルの目がとらえたそれこそが、リオルの手を引いて目指していた場所だった。
── この森を空から俯瞰したとき、広い緑の屋根のなかで山一つがスッポリ埋まるほど巨大な湖があるのがわかる ──
二匹の視界に入ったのはその大きな湖が見せる美しく透き通ったエメラルドグリーン。
そしてその湖の中央には生命の樹と呼ばれるいかにも荘厳な雰囲気の大木が佇んでいた。
「わぁ! スッゴー……!」
「はぁっ、はぁっ……感動してる場合じゃないでしょ……!」
「あ、たしかに! でもどうするの!? もう逃げ場がない!」
リオルの言う通り、目の前には巨大な湖。もう逃げることはできない。
「いや……もう、逃げなくていい……」
ミミロルがリオルを連れて、助かりたい一心で逃げてきた湖。
そこはミミロルにとって ″助けてくれるポケモン″ がいる場所。
「誰か! 聞こえる!?」
岸から身を乗り出し、湖のなかの彼女たちへ叫ぶ。
「いるんでしょ!? お願い! 出てきて!」
「助けて!ハクリュー!!」
叫んだ声は水面に大げさな波を起こす。
渾身の一声で力を出しきったミミロルは、危うくそのまま湖に落ちかけたところをリオルに支えられた。
「はぁ……はぁ……!」
「ハクリューって?」
「そのポケモンに助けてもらうの。私の友だち」
「でも誰も全然出てこないけど……」
「大丈夫」
疲れきったようすで座り込むミミロル。
耳をすませば、湖の中から微かに水を切る音が近づいてくるのがわかった。
しかし、水面はまるでそれに気づいていないように微動だにしない。
ミミロルの叫び声を聞くだけで慌てふためく繊細な湖を、"彼女"は一切揺らすことなくかけ昇ってくる。
そして静寂の膜を張った水面が突き破られた時。宝石のように輝く水飛沫とともにハクリューは現れた。
「来た!!」
「わぁ……きれーなポケモン……!」
「ミミロル! 無事!?」
登場した彼女の姿は気高く美しい。湖の中心に立つ巨木を背景に、エメラルドグリーンの雫を身にまとう。
「うん! なんとか無事……!」
彼女こそが"ハクリュー"。ここに住んでいる強くて頼りになるポケモンである。そしてなにより、ミミロルの数少ない友だちだ。
「聞いてハクリュー!」
ミミロルはここに来るまでにあったことを伝える。
洞窟から追われてここまで逃げてきたこと。目には見えなくても、透明になってまだ近くにいるかもしれないこと。
「洞窟で襲われて、透明になれる……? そのポケモンってもしかして、紫色のお婆さんだった?」
「え? うん。紫色でお婆さんみたいな声だったと思う……。知ってるの?」
「なるほど。そういうことね……ふふっ」
「なっ、なんで笑ってるの……!?」
ミミロルはクスクスと笑いをこらえるハクリューに、バカにされたような気がしてムッとする。二匹は必死の思いでここまで逃げてきたというのだから当然だ。
「ハクリュー、私は真面目に言ってるの……!」
「そうね、ごめんなさい。でももう大丈夫だから安心して」
「な、なんでそんなことわかるの?」
「だって洞窟の都市伝説って、デマだもの」
「え……!?」
あまりにサラっと聞かされた言葉に一瞬思考が止まる。そしてその言葉をつまらせながら飲み込むと、ミミロルの胸に再びムカムカと苛立ちが蔓延していく。
「う、嘘つかないでよ……!」
「本当よ。 そのお婆さんはムウマージさんといって、あなたたちみたいに洞窟に来た子どもを驚かせて遊んでるの」
「そ、そんな……! じゃあ私、なにして……」
あまりに拍子抜けの事実を信じたくなくて、なにか言い返そうとするミミロル。だがとくになにか思い付くわけでもなく。
「なにを必死こいて逃げていたんだろう」と、滞った怒りが自身への情けなさに変わっていった。
「ふふっ、ごめんね。ミミロル」
「や、やめてよ……なんで、謝るの……」
ハクリューは謝りながら長い体の尾でミミロルの頭を撫でる。その優しい目に心を見透かされているようで、勝手に騙されて怒っていたことが恥ずかしくなってくる。
そのようすを横で見ていたリオルが、突然大きなため息をついて尻餅をついた。
「なぁんだ! よかったっ! なんか安心したら急に疲れてきたよ……」
「そういえば気になってたんだけど、キミは?」
「はじめまして! ボクはリオル! 」
「リオル君ね。私はハクリュー、よろしくね」
ミミロルが頭に尻尾を乗せられたまま拗ねている隣で、リオルたちは自己紹介をすませどんどん話を進めていく。
「ミミロルとはどういう関係なの? ボーイフレンド?」
「違うよ。ミミロルはボクの師匠なんだ!」
「師匠!? なにそれ!?」
目を見開いてミミロルを見ると、ミミロルもまたリオルの方を向いて愕然としていた。
「じゃあ、その話は後で詳しく教えてもらおうかしら……?」
ハクリューに見つめられたミミロルは、触れてほしくなさそうに目をそらすだけ。
「まぁいいや。ところで洞窟から逃げてきたのなら、かなり疲れてるんじゃない?」
「うん。ミミロルにも振り回されて、もうヘトヘト……」
「私のせいにしないでよ」
「やっぱりそうよね……。リオル君は、帰りはどうするの? もうずいぶん夜中だけど」
「あっ!!」
「そういえば」とリオルが声をあげる。
元々帰るつもりがなかったミミロルはともかく、普通の子どもはとっくに家に帰らないといけない時間だった。
「もし今から帰るなら、私が家まで送ろうか? 町まで遠いし、一匹だと危ないと思うから」
「あれ? それじゃあミミロルはどうするの?」
「私は、ハクリューの家に泊めてもらうの」
「えっ!? いいなー! ハクリューさん! 僕も泊まりたい!!」
「なんでそうなるの……」
「いいよ。じゃあリオル君も一緒に行こうか」
「えぇっ!?」
露骨に嫌そうな顔をするミミロル。
彼女にとってハクリューの家 ── というよりハクリューのすむ村 ── は秘密基地のような場所であるため、できれば他のポケモンに入られたくはなかった。
その一方でハクリューは嫌な顔をするどころか、むしろ嬉しそうに快く受け入れる。
リオルが家に帰ろうという気を一切見せないことが気になったが、質問することはしなかった。
「ところでこの辺りは森しかないけど、ハクリューさんの家ってどこにあるの?」
「この湖の下だよ」
「え? 下?」
湖の下。それを聞いて首をかしげているリオルにミミロルが。
「湖の真ん中あたりに大きな木があるでしょ。"生命の樹"って名前なんだけど」
彼女が指をさしたのは、広大な湖の中央に佇む大樹 ── 通称 "生命の樹" ──。
"生命の樹"には、この世界が作られたとき一番最初に生まれた存在。という大層な伝説がある。
しかし、それをまんざらでもないと思わせるほどに威風堂々とした装い。それは何度も訪れているミミロルですら、見るたびに身震いを起こすほどだった。
「この湖の底は"生命の樹"の根っこでできているの」
「それって、どういうこと?」
「生命の樹が張り巡らせた根っこが地面で、その上に湖ができたってこと」
そしてその下には、樹の根を屋根として大きな地下空間が広がっている。そこにできた集落にハクリューはすんでいるのだ。
「へ、へぇー……! そんなことあるんだぁ……」
「まぁ、実際見てみた方が早いか」
「うん! 見てみたい!」
ミミロルとリオルの会話を聞き終えて、ハクリューがニッコリと笑う。
「決まりね。それじゃあ二匹とも私の背中に乗って」
「ハクリューさんに乗って?」
「中に入るには空を飛ばないといけないの」
リオルが先に乗り、ミミロルもその後ろに続く。ハクリューの肌は綺麗な青と白でツルツルとした手触りが心地良い。
長い草で隠されていた足を抜き、ハクリューに跨がる。すると少しだけ視野が広がり大人になった気分になる。
森の草木は夜の眠りに落ちていた……。
二匹が乗ったことを確認したあと、ハクリューの体がうねうねと準備運動を始める。
「ハクリュー、大丈夫? 重くない? 」
「えぇ、平気!」
「ド、ドキドキしてきたぁ……!」
「さぁ行くよ! しっかり掴まってて!」
「ん!」
「うんっ!」
「それじゃあ! 出発!!」
出発の合図。
それと同時にミミロルの体が持つ綿毛が、リオルの後頭部から垂れたフサが、ふわりと浮き上がった。
草花がなびき、なぎ倒されていく。
早く、大きくなる鼓動。草原から森全体まで、合図の声を中心に鼓動の波が広がっていった。
草花をざわつかせ、枝葉は手を叩く。
自然の音が湖から森の向こうまで響き渡る。
次の瞬間、体全体にかかった風圧とそれを切り裂く音。
草原に身を潜めていた落ち葉たちが一斉に舞い上がる。湖は派手にしぶきをあげて、エメラルドグリーンの星空を作り出した。
振り返れば、地上がみるみるうちに離れていく。
「あははっ、最高……!」
無邪気に笑うミミロルの前で、振り落とされないよう必死にしがみつくリオル。
「リオル! 目閉じてちゃもったいないって!」
「そんなこと言われても~!」
あらゆるものが暗闇のなかにとけ込み、消えていく夜の世界。
そんな中で、エメラルドグリーンに煌めく艶やかな海がその存在を強く示した。