Page 3 : 時

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 すいません、と軽く会釈したのちラーナーはあっさり少年達の横を通り抜け、何事もなかったかのように歩き始めた。ちらと横目で振り返ると、印象的な深緑が、同じように夏の濃厚な緑をした木々の下、木漏れ日に照らされて、不自然に自然と同化しているような風貌だった。
 変な人。随分暑苦しい格好をして。しかもポケモンを外に出している、確かポニータといったっけ、テレビか何かで見覚えがある。一瞬だけを思考を過ぎらせたラーナーだったが、すぐに忘れ去る。道端で邂逅した、それ以上もそれ以下もない全くの赤の他人同士で、深く干渉しあうことなどありはしない。
 彼女の軽い足音が、消えては出てきて、消えては出てくる。足元で刻まれていく乾いた砂地のリズム。行き先はとうに決まっているし、これまで何度も赴いたことがあるから道に迷うこともない。迷いなくだんだんと少年から遠ざかっていく。
 生温い風が正面からやってきて、後頭部で括られた長い栗色の髪が大きく靡いた。


 対照的に少年は、その場に立ち止まっていた。さっさと遠のくラーナーを振り返ったまま動こうとせずに、小さくなっていく背中を愕然と見つめている。その深緑の瞳は先程までの深い眠気をすっかり忘れて見開かれている。彼女を見た途端に跳ね上がった心臓は今も激しい鼓動を続けている。勘違いであるかもしれない。しかし彼の直感は鋭く閃き、呼び起こされた記憶と確信をもってラーナーの背を目で追っていた。
 惑うように元の道へ歩みを進め木陰から離れると強い日差しが突き刺さり、棒のように立っているだけでも汗が滲む。が、その汗も単に暑さから沸くだけではなかった。
 もう彼の瞳にラーナーの姿は映っていない。角の向こうに姿を消した。
 太陽を反射して、彼の帽子の上にある大きめの黒いゴーグルが太陽の眩さを受け光る。
「……今の人って」
 不意に零した呟きにポニータが振り返る。
 彼女は偶然道すがらすれ違っただけの赤の他人。それは彼にとっても何一つ間違いのないことだ。
 けれど。
 少年は舌を打った。ポニータは不思議そうに首を傾げる。そんな火馬の様子を視界の片端に入れた少年はポニータに視線を移すと白い首の毛並みを撫でて、視線を真正面から合わせる。
 何かを語るようにじっと。ただ、じっと見つめる。
 数秒、ずっとその状態のまま静止していた。そのうちに、ポニータはさっきの少年と同じようにラーナーの消えていった方角を見た。元々珠のようにくりんと光る大きな瞳が、更に開かれている。
 風が少年の髪を撫でるように揺らす。
「本当かどうかは分からない。だけど、顔も髪もよく似ている。それに、あのブレスレットは」そこで一度言葉を止めて、ポニータと顔を見合わせる。「どうするべきだと思う」
 ポニータは何も言わない。少年の問いかけは自分への問いかけでもあった。暫し悩んだ末、厳しい表情を崩し溜息をついた。
「寄り道するか」
 少々諦めたような声に、ポニータは頷き、しかし続けざまに堪えきれず欠伸をした。緊張した空気を和らげるのには充分だった。少年に忘れてかけていた眠気が戻ってきて目を伏せる。が、覗いている瞳は強い決意を宿していた。
 歩き始める。方向はラーナーの向かった方。本来の彼等の行き先は、当然全く逆の方向だ。しかし“赤の他人”を追いかけるように、少年とポニータは元来た道を辿っていくことにしたのだ。
 角を曲がる。が、ラーナーはもう既に見当たらない。
 不意に立ち止まる少年だったが、唇を噛みしめて目を閉じ、耳を立てる。少年の耳に多くの音の情報が飛び込んでくる。静かな集中力が一気に高まっていき、彼の周りの空気が急速に冷えていくように緊張の糸が周囲に張り巡らされ、広がっていく。
 隣に佇むポニータは穏やかな目で少年を見守っている。
 と、少年は再び瞼をそっと開ける。途端に、彼の周りの空気が何もなかったように正常に戻る。ピアノ線を張ったような鋭い緊張感が弛んだ。そして唐突に歩き出し、ポニータは遅れて追いかける。
 やがて砂地の道から独特の石の道路へと変わる。依然、周囲には誰もいない。川のせせらぎが彼方で流れている。涼しげで清流を思わせるような透明の音だ。近くに茂る林の青々しい木の葉が風に揺れ擦れ合い、音を立てる。自然の音と彼らが歩く音しか辺りには無い。
 荒々しい足取りは速い。
 そのうちに左右の分かれ道に出会う。正面には深そうな広葉樹の林が広がっていた。
 しかし彼は一瞬も迷う素振りを見せず、左には目も暮れずさっさと右の方へ歩みを進める。右はなだらかな上り坂で、林の中を整備したような山沿いを辿っていく。
 彼は正にラーナーの歩いていた道をなぞっていた。無論、彼は彼女の行き先を知らない。舗装された道に足跡が残っているはずもない。しかし彼には、解るのだ。
「……くそ」
 彼は苛立ちを露わに、また速度を上げた。
 空は相変わらず眩しいほどに蒼く、雲一つない日本晴れ。


 *


 彼女の手の中には、数えきれない位の沢山のシロツメクサがある。
 道中で咄嗟に草原から摘み取ったものだ。寝坊をした朝、あまりにも急いでいたために花についてすこんと抜け落ちていた。彼女は肝心なところでどこか抜けてしまうところがある。せめて昨日買っておけば良かったと後悔した。流石に何も用意しないのは悪いと思ったから、溢れんばかりの白い花々を摘んできたというわけだ。歩いてきた道沿いに群れるように咲き誇っていたその花を。
 軽い足取りである。光と影の織り成す朗らかな木漏れ日の中を歩いていく。
 石の舗装路を通過して、また一転してこまごまとした砂利が敷き詰められた道であるため、周辺に分かりやすく足音が響く。歩く道沿いに狭苦しく林立しているのは、紛れもなく墓石群だった。灰色の石が静かに並んでいる。それらは独特の雰囲気を醸し出し、形容しがたい重い沈黙を帯びている。ここに来るたび、ラーナーは異世界に迷い込んだような気分になる。この世でありながら、あの世に近い場所であるように感じられるのだった。
 ラーナーが来ているのは、ウォルタ市街の外れにある、比較的小さな墓地である。
 まだ朝が早いせいかそれともただの偶然か、ラーナーの他に人はいない。いると言えば朝に可愛らしく鳴く小鳥くらいなものだ。少し時間がずれると、年寄りを中心として数人が訪れ手を合わせている風景になるのだが、今は彼女一人。
 それはこの日であれば毎年のことだから、ラーナーは何も気にしていないけれど。
 油蝉の声が辺り一帯に響き渡る。聞くだけで暑苦しくさせるのはどんな時間帯に来ても同じだ。よく耳を澄ませてみれば油蝉の他にもミンミン蝉の鳴き声も遠くから聞こえてくる。
 墓地に入って数分、目的地に到着する。
 そこは山を切り崩したような墓地の中でも、奥まった場所だった。
「ふう」
 安心したようにしゃがみ込み、同時に柔らかな手つきでシロツメクサの花束を墓前に置く。その墓は他に比べると黒く、花々の白さとは対照的だった。
 と、思い出したように慌ててベージュのショルダーバッグの中を右手で探る。すぐに握られて出てきたのは花のモチーフが象られた懐中時計。金属製で所々が錆びていて、使い古したものであることが窺える。
 上部の竜頭部分を押せば、閉じた二枚貝が熱せられてぱっと開くように上蓋が開き、文字盤が姿を見せる。古したものでも働きぶりは現役である。秒針はかちかちと音をたてながら、粛々と時を刻んでいた。
 九時三十四分。じきに分針が七の文字を指そうとしているところだった。彼女の口から安堵の息が漏れ、柔和な喜びが顔に滲んだ。忙しない朝だったが、定刻に間に合ったようだ。
 そして改めて墓と向き合う。濃い灰褐色の石からできたその小さな二つの墓を。

 右の方には、リュード・クレアライト。
 左の方には、ニノ・クレアライト。
 そして両方に、ここに眠る、と彫られてある。

 ラーナーには秒針による時を刻む音が木が揺れる音よりも油蝉の声よりも何よりも大きく感じられた。
 程なくして、分針が七の文字を指した。 
 それを確認すると、綿を包むようにそっと手を合わせた。
 風がそよそよと吹いていた。暑いけれど柔らかな空気。時が止まったような静寂。瞼を閉じて祈るその表情は無心のようで、切実な気配が佇んでいた。
 その間もひたすらに淡々と時は過ぎていく。立ち止まることのない時間の中、ラーナーはずっと止まっていた。
 息が詰まりそうなくらいに、ずっと。 
 人の名が刻まれた石碑は何も言わない。何も動じない。
 なにも。














 ザッ

 暫し祈りを捧げていたラーナーが瞼を開いたそれと殆ど同時のタイミングにて、背後で砂利を踏む音がした。
 ほぼ無意識に彼女は振り返る、と同時に目の前の光景に眉を顰めた。
「……どうも」
 ぼそりと呟くように挨拶したのはラーナーではない。相手の方だ。苛立ちと戸惑いが混ざり合った低めの声。仏頂面を構えてラーナーを見つめている。
 彼女の目の前にいたのは、先程角でぶつかりかけた少年と、その連れのポニータだった。

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