番外編 小さないのちと追憶の夢

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 喫茶シルベの二階。つばさの部屋。
 ファイアローは両翼を折り畳んでくつろいでいた。
 否。大切に、大切にしていた。
 大切なものを翼で包み込み、抱えて、あたためていた。
 とくん。とくん。とくん。
 とても小さくて、触れると壊れてしまいそうな音。
 それでも、小さくても、確かに刻まれるそれ。命の音。
 ファイアローが大切に翼で包み込んで抱えているのは、大切な預かりもので。
 つばさからもお願いされているのだから、もはや、彼にとっては使命に匹敵する。

―――僕は君に会いたいよ?

 誰に向けられた言葉なのか。
 誰もいない部屋。静寂に包まれた部屋に、彼の言葉が落とされる。

―――みんなも君に会えるのを楽しみにしてるんだよ?

 そっと頭を垂れる。自身の頭を羽毛に埋めて、彼はふすうと息を一つこぼした。
 彼が抱えるそれ。彼の言葉に呼応するように、ふるりと一つふるえた。
 感じたふるえに笑みをこぼすと、彼はそっと目を閉じた。
 階下からがやがやと賑やかな音が聞こえ始める。
 喫茶シルベが開店したのだろうな。
 そう思いながら、静かに意識は沈んでいって。
 彼の意識が完全に沈んだ頃。
 彼の抱えたそれ、タマゴに、ぴしっと小さな音と共に亀裂が入った。



   ◇   ◆   ◇



 夢をみた。
 それはとても懐かしい夢で。



   ◇   ◆   ◇



 それは自分が幼い頃で。つばさと出会う、ずっと前の頃で。
 始まりの記憶。朧気な記憶の中で、自分が思い出せる範囲の一番古い記憶。
 熱に包まれ、ふわふわに触れた記憶。
 それが母親の感触だったのだと思う。
 孵ったばかりの雛だった自分は、まだ羽根は持っていなかった。
 外気に触れると身体を冷やしてしまうため、まだ親鳥の熱が必要だった。
 母親は自分を外気から護りながら、他のタマゴを懸命にあたためている様子で。
 自分はまだ朧な意識。目も開いてはいなかったから、感覚だけの記憶の中。
 タマゴは自分を含め、三つ程あったのだと思う。
 早くあなた達に会いたいわ。
 それがいつも聞こえていた母親の音。

   *

 それからしばらく。
 時間の感覚はまだなかったから、どれくらいかは定かではない。
 親鳥がえさを探して戻ってくる。
 それに懸命に嘴をあけて鳴く。
 えさを親からもらうことが出来なければ、生きていくことはできない。
 だから、懸命に鳴く。生きていくために鳴いた。
 いつからかその声の中に、別の声が混ざっていることに気付いた。
 ああ、孵ったのだなと思う
 それからだった。競い合うように鳴くようになった。
 だって。親鳥からえさをもらい、身体を大きくさせていかなければならない。
 そのために、相手よりも目立つように、気合いを入れて鳴いた。
 そのおかげか、相手よりも多くえさをもらえた記憶はある。

   *

 自分の羽根が生え揃った頃。
 妹よりも多くのえさをもらえた記憶はあった。
 あったのだけれども、それはどうやら自身で模造した記憶だったようで。
 この頃には、巣は雛達のすし詰めになっていた。
 すし詰めと言っても、自分と妹のヤヤコマ二羽だけなのだが。
 自分が巣の三分の一、妹が三分の二を埋めていて。
 この時点で体格差は一目瞭然だった。
 兄ちゃん、せまいよ。じとりと睨み付けてくる妹に。
 それは、君が大きくなったからだよ。と、不貞腐れて返す。
 記憶の中ではタマゴは三つだった。そのうちの二つが自分と妹。
 残りの一つはどうなったのか。当時はあまり気にもしていなかったが、今はこれが自然の理なのだろうと思う。
 すし詰めの巣。母親のヒノヤコマと父親のファイアローは、互いに見合って苦笑していた。
 すでに巣には親鳥の場所はなかった。
 そろそろか。そう呟いたのは父親。
 でも、まだこの子達は飛べないわ。心配気に言ったのは母親。
 巣を離れる時期が来たということ。
 その日から、父親による羽ばたきと飛ぶための特訓が始まった。
 巣を離れたとしても、しばらくは親鳥と共に過ごす。
 えさの探し方。身の護り方。いろいろと。
 生きていくための術を教えてもらうのだ。
 親鳥と共に過ごす期間というのは、様々なのだと思う。
 なるべく早い時期に親鳥と離れるもの。
 親鳥と共に過ごしながら、自らのパートナーを得て子を成すもの。
 そして、人という別の生き物と歩むことを選ぶもの。
 そして自分は、のちにその道を選ぶことになる。

   *

 ヤヤコマからヒノヤコマに進化した頃。
 自分と妹は巣立ち、つまり、親鳥から離れることを選んだ。
 それからしばらく。
 自分は妹と行動を共にしていた。
 行動を共にしていたというより、妹が勝手に着いてきていただけで。
 妹曰く。兄ちゃんだけじゃ、この厳しい世界は生きていけないよ。とのことで。
 こちらに向ける笑顔は、とても眩しかった。
 大きなお世話だ、と苛立ちを覚えたりもしたけれども。
 それでも、妹の言葉はまさにその通りだった。
 進化をしても縮まらなかった体格差。妹の方が一回りも身体が大きかったのだ。
 それだけではなかった。
 兄ちゃんの採ってくる木の実はいつも小さいよ。
 そう言いながら、笑顔を向けてくる妹は、採ってきた木の実を分けてもくれた。
 妹が採ってくる木の実は、いつだって自分が採ってくるものよりも、大きくて美味しかった。
 それが繰り返される日常。
 いつの間にか自分の心の奥底に、もやもやしたものが燻るようになっていた。
 それが何なのか。今なら分かる気がする。
 兄としての威厳。妹に面倒をみてもらっている惨めさ。
 いろんなものが混ざっていたんだ。

   *

 それからまたしばらく。
 たぶんここが、自分の分岐点だったのだと思う。
 住んでいた森。そこに嵐がやってきていた。
 妹と身を寄せ合って、木のうろで震えていた。
 昨日までは優しく笑っていた空が、一変して恐ろしい程に大雨を降らせて。
 風は機嫌を損ねて、狂ったように叩きつける。
 それに恐怖した森がざわざわと泣き叫ぶ。
 自分よりも一回りも大きな身体をした妹が、隣でかたかたと震えていた。
 身を寄せ合って触れる箇所から、気持ちが流れ込んでくるようだった。
 怖いんだ。妹が嵐に震えている。
 その事実に気付いたとき、素直に驚いた。
 だって、いつも笑顔の妹しか知らなかったから。
 妹はいつだって大きくて、強くて、眩しくて。それなのに。
 いま隣にいる妹は、小さくて、震えていて。
 あ。身を縮めて目を瞑るそこに。小さな粒を見つけた。
 そのとき初めて、妹が“妹”に思えた。
 同時に嬉しさが込み上げてきたのを、よく覚えている。
 自分だって嵐は怖い。音。気配。その全てが怖い。
 でも、隣で自分よりも震える存在があったら、一緒に震えてるなんて格好が悪いじゃないか。
 初めてできる“兄”が、本当に嬉しかったのだ。
 大丈夫だよ。そう呟いて、ぽっと心に灯りを灯す。
 それが熱を帯びて、身体を包む感覚が広がって。
 触れ合う箇所から隣へ熱が伝わる。
 自身が持つ特性“焔のからだ”。
 熱が伝わった瞬間は感触で分かった。
 かたかたと震えが、ぴたりと止まったから。
 ちらりと妹を見れば、そこに少しだけ膨れた妹がいた。その妹がぽつりと呟く。
 兄ちゃんが兄ちゃんみたいで何かやだ。
 それでも、妹は先ほどよりもぴたりと身を寄せて来たから。
 たぶん、嫌われたわけじゃないな、と少しだけ安心したところで。
 妹の言葉に少しだけ傷ついていた自分に驚いて、小さく笑った。
 それから互いの熱を感じながら、じっとしていた。じっとしていたのだ。
 けれども、そんなに長くはなかった。
 空が光った。音が轟いた。
 遠くだったようだけれども。
 悲鳴が聞こえた。それが近づいてくる気配がして。
 隣で妹が身を硬くした。続いて、うろから覗きこんできた一匹が言った。
 早く逃げろ。雷が落ちた。森が燃える。
 普段から仲良くしてくれている、ご近所さんのマッスグマおじさんだった。
 彼は口早に告げると、脱兎の如く逃げていく。
 うろから顔を出せば、舞う火の粉に熱が襲ってくる。
 早く逃げろ。おじさんの言葉がこだまする。
 妹を急かそうと振り返ったときには妹の姿はなくて。
 一瞬焦るも、妹の声でまた振り返った。
 兄ちゃん早くっ。急く妹の声。
 妹はすでにうろの淵に足をかけていた。
 先ほどまで“妹”だったものが、妹にもどった瞬間だった。
 今度は自分が不貞腐れながら、妹と共に外へ飛び出した。
 恐ろしい空。狂った風。泣き叫ぶ森。
 その中を必死に羽ばたいて、木と木の間を縫うように。妹のあとを追うように。必死だった。
 妹も必死だったのだと思う。
 だって、妹が抱えていたのは、己のそれだけじゃなくて。
 自分のそれも抱えようとしていたのだから。
 それを嫌でも感じてしまった。なんだ、やっぱり自分は“兄”にはなれない。なれないじゃないか。
 そう思ってしまったとき。瞳に妹が映った。
 そして、そのさらに向こう。妹の眼前に迫る何か。
 それを刹那的に理解したとき。自然と笑みをうかべたのを自覚する。
 最期に“兄”ができるなら、それもいいじゃないか。
 それからの行動は、自分でも驚くくらいに早かった。
 “でんこうせっか”で加速して。
 そのままの勢いで妹を突き飛ばして。
 地表を転がっていく妹を見つけて。
 早く逃げてっ。そう叫んで。
 顔を上げて、こちらを見上げる妹に
 兄ちゃんは大丈夫だから。そう笑ってみせた。
 それからすぐに、炎を纏った木が倒れて、押し倒されて、つぶされたまでは覚えている。
 ううん。濡れた瞳を向けて、“お兄ちゃん”と叫んだ妹の姿が最期だった。

   *

 空が笑っている。
 それが最初に思ったこと。
 機嫌をなおした風は、優しく黒焦げた地表を撫でていって。
 嬉しそうに焼け爛れた森はざわざわと唄う。
 なんだ、嵐は去って、炎は鎮まったんだ。
 そっと安堵をして、身を起こそうとして、息を詰めた。
 全身が痛くて、痛くて、声も出なかった。
 痛みの中で少しずつ思い出す。
 そうだ、妹を突き飛ばして、倒れてきた木に押しつぶされたんだ。
 痛みがあるということは、感覚は生きている。
 ということは、完全には潰されなかったということ。
 なんだ、中途半端じゃん。落胆の色が滲む。
 それを慰めようとしたのか、風が穏やかに吹き抜ける。
 身体を優しく撫でるそれが、ひりひりと身を痛みで焦がす。
 けれども、痛みは然程感じなかった。
 それに安堵して、必死に妹の姿を探した。
 探して、探して、探して。また安堵する。妹の姿がなかったから。
 妹はきっと逃げ切れたに違いない。だって、妹は大きくて、強くて、眩しくて。
 そこでふいに笑う。
 妹は知っていただろうか。
 文句を言ったこともあった。鬱陶しいと思ったこともあった。
 それでも、兄ちゃんと呼んで前を歩いてくれる存在が、とても頼りがいがあって。
 その大きな存在に、とても安心していたことを。
 けれども、もう、その存在はいないんだ。
 たぶん自分はもう、妹のもとに戻れることはない。
 だって、気を抜けば意識は遠退いていきそうで。
 全身は痛くて痛くて、痛いはずなのに、その感覚も遠くて。
 ここで自分は、きっと森の養分になるんだ。
 妹を恨んでいるわけではない。自分の行動を悔いているわけでもない。
 ただ。自分はさいごにきちんと“兄”になれたのかな。と、それだけだけが気になる。
 次がもしあったら、また妹に会えるかな。どんなカタチでもいいから。
 ううん、やっぱり今のままがいいな。
 また“兄”として、妹に会いたい。
 今度は前を向くんじゃなくて、振り返って妹に笑いたいから。
 ねえ、神さま。もし、いるのなら。自分はまだ生きたいかも。
 でも、ああ、もう。瞼が重くて。痛みも遠くに。
 そうして、まどろむように意識は落ちた。



 ただ、そのまどろみの中。
 大丈夫かと問いかける白の毛玉と、毛玉が呼んだ存在。
 それから、その存在がそっと優しく抱き上げてくれた感覚と、そのあたたかさは覚えている。
 ああ、もしかして神さまなの。
 そう、まどろみの中で思った。

   *

 次に目覚めたとき、最初に見たのは金だった。
 揺れる金と嬉しさに滲んだ橙。
 あ、お揃いだ。それが何だか嬉しかった。
 人の子の女の子だった。その子が手を伸ばしてきて。
 一瞬、身を硬くしたけれども、大切に撫でてくれた。
 その手の感触。とても心地よくて、そのまま身体を預けた。
 女の子は少し戸惑ったようだったけれども、ふわりと笑ってくれて。
 ぽっと灯りが灯る感触がした。



   ◇   ◆   ◇



―――むにゃ……!

 ぱちっと勢いよくファイアローのまぶたが持ち上がった。
 何度か瞬きを繰り返し、いつの間にか眠ってしまっていたことに気付く。

―――むうー……。もう少しみていたかったなあ。あそこからが、僕とつばさちゃんが紡ぐ

 ぴしっ。

―――物語の

 ぴしし。

―――はじ、ま、り

 ぴしっ。
 ちらりと懐を見やる。

―――なのに……え、ぴしっ……?

 そろりと翼を少しだけ広げて覗き見る。
 そこに在ったのは、タマゴじゃなくて、ふわりとした白の小さな毛玉で。

―――う、産んじゃった……

 思わずぽつりと言葉をこぼして、慌てて首を振った。

―――違う違う違う違う

 気持ちを落ち着けるため、息を吸って吐いてを繰り返す。
 そして、改めてそろりと覗き見る。
 可愛らしい、白の小さな毛玉。
 この子が持つ毛色は、通常のイーブイが持つそれとは異なるもので。

―――りんくん似なんだねえ

 どうやら父親に似たらしい。けれども。

―――可愛らしい雰囲気とかはふうさん似なのかなあ。ふふ、良かったね、お母さんに似て

 これは本心からもれでた言葉。
 慌てて口をつぐんだ。きょろりと辺りを見渡して、ほっと胸を撫で下ろす。
 彼はいないようだ。よかった。
 そして再び、白の小さな毛玉を見やって。

―――可愛いなあ……

 その可愛さに頬は緩んで、うっとりと見つめる。
 刹那。小さな毛玉のまぶたがふるえた。
 それがゆっくりと持ち上げられ。

―――!!

 る前に、そっと翼で包み隠した。
 最初に自分を見ては駄目だ。

―――イーブイに刷り込みがあるのか知らないけど、どうしよ、まずいよ

 きょろきょろと意味もなく辺りを見回す。
 当然だと分かってはいるのだけれども、ここにこの子の両親の姿はない。
 どうしよ、どうしよ。

―――この子のお母さんは、トレーナーと一緒に、少し離れた大きな街にお出かけでしょ?

 もう少し経ったら、トレーナーと共に長期の旅に出るらしくて。
 今はその準備のために、ここから少し離れた街へ買い物に行っている。

―――この子のお父さんは

 そこでファイアローは半目になる。

―――下の窓辺で呑気にお昼寝中かな?

 全く、いつ自分の子供が孵るか分からない状況なのに。
 そわそわするとか、何かこう、ないのだろうか。
 あまりに普段通り過ぎるものだから、少しだけ気持ちが苛立つ。
 それを誤魔化すため、ふるふると首をふった。
 それにしてもどうしようか。

―――どうしよ、どうしよ、どうしよ

 気が付いたら、無意識に声を出していたみたいで。
 喉から、くるるくるる、と情けない声が滑り出ていた。
 けれども、その声を聞き付けたらしい彼女が、階上へ上がってくる音が聞こえて。
 ファイアローの顔がぱあっと輝いた。

「イチ? どうしたの?」

 ひょっこりと顔を覗かせた拍子に、彼女の金の髪がさらりと揺れて。
 橙の瞳が不思議そうに瞬いた。

―――ああっ! つばさちゃんっ! 大変なのっ!! 大変なのっ!!

「何が?」

 首を傾げながら、ファイアローに歩み寄るつばさ。

―――タマゴが孵ったのっ!!

「えっ!」

 声を上げたつばさが、そろりとファイアローの翼を覗きこむ。
 そこで見つけた白の小さな毛玉。
 その毛玉がちらりとつばさを見やった。
 ぱちぱちと小さな瞳が瞬いて、きゅいっと小さく鳴く。
 その可愛さに思わず頬が緩んだ。

「か、かわゆいー……」

 つばさのそのだらしない表情に、ファイアローは少しだけむっとして。

―――りんくん呼んで来なくていいの?

 と、少しだけ不貞腐れた響きを含めて言葉を投げた。

「あ、そうだね。りんを呼んで来なくちゃ」

 ありがとう、イチ。
 そう最後に言うと、ファイアローを見向きもせず、つばさは階下へと向かってしまう。
 再びむっとして。

―――つばさちゃん冷たい……

 確かにこの子は可愛いけど、僕の方が可愛いんだからね。
 ぷくりと頬を膨らませた。



   *



 がさりと揺れる枝葉。
 そこに一羽の橙の隼の姿があった。
 その隼、ファイアローが見つめる先には喫茶シルベ。
 窓から部屋の様子が伺える。部屋では、一羽のファイアローが膨れているところで。
 枝葉にとまったファイアローは、一つくすりと笑って。
 兄ちゃん、元気そうでよかった。
 そうぽつりと呟いて、そのファイアローは両翼を広げると。
 力強く羽ばたいて、大空へと飛び立って行った。

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