44杯目 よやく

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 茶イーブイを膝上に乗せて、つばさは困惑していた。
 テーブル席に座るつばさの対面には、朝方やって来て戻って行ったはずのグレイシア。
 この状況は何だろうか。それが、今のつばさを支配する思考。
 互いに見合うだけで、どちらも行動を起こそうとはしない。
 誰かに助けを求めようと背後の気配を探るも、ブラッキーは何やら取り込み中のようで。
 すばるはすばるで、ファイアローに話があるからと、喫茶シルベを出て行ってしまった。
 つばさなら大丈夫。彼は最後にそう言っていたが、全然大丈夫ではない。
 この状況をどう打破すればよいのか。
 幸いなのはるいがいないこと。
 彼女達が出て行った数時間後だ。グレイシアだけが戻って来た。
 もちろん、つばさはポケモンの言葉は分からないし、彼女はブラッキーのシンクロの影響下にはない。
 どのような意図があるのか。それが分からない以上、警戒するしかなくて。
 けれども、ブラッキーが用件を訊いてくれた。
 曰く、茶イーブイの様子を見に来ただけだそうで、普段通りにしていてくれて構わない。
 と、言葉少なに語ったらしい。
 そして、今のこの状況に繋がるわけで。
 さすがに何かおもてなしをと思ったが、このグレイシアは本当に大人しく様子を見ているだけ。
 表情も変化がないので意思も読み取れない。
 さあ、困った。そう思った頃に、茶イーブイが膝に乗ってきた。
 その時初めて、グレイシアの表現が動いた気がした。少しだけ目を見張ったのだ。
 そしたら、茶イーブイが前足を机に乗せて身を乗り出した。
 覗きこむようにグレイシアを見つめる。

「…………」

 グレイシアがつばさへ視線を投じた。
 その時初めて、つばさは彼女の瞳に感情の色が滲んだのを見た。
 ああ、そうか。そうだよね。
 何かがつばさの胸中にすとんと落ちて、納得してしまう。
 そっと茶イーブイを抱き上げて、つばさの隣へ下ろす。
 すっと立ち上がって、グレイシアへ目配せをすると、そのまま静かにその場を離れた。



   *



 突然、つばさの膝上から下ろされてしまった。
 不思議に思って見上げると、つばさは小さく笑んで、その場を離れて行く。
 最後にふわりと頭を一撫でしてくれた、そのあたたかさが残っている。
 周りの音がやけに遠くに感じた。

カフェちゃん、……だっけ?

 声をかけてきたのは、机を挟んで対面する彼女。確か、グレイシアと呼ばれる種族だったはず。
 彼女の言葉にゆっくりと頷く。
 少しだけ緊張して、動きがぎこちない自覚はある。

そんなに……緊張、しないで

 ふふっと笑む彼女。
 こちらに向けられる蒼の瞳は透き通って、とてもきれいだなと思った。
 水面に映るように、その瞳に自分の姿が映る。
 随分と硬い面持ちをしていた。そう感じたら、何だか恥ずかしくなって。

―――お、おねえさんが、すごくびじんさんだから。だから、きんちょうしちゃうの

 咄嗟にそんな言葉が飛び出す。
 飛び出してから、自分は何を言っているのだと。

―――あ、いや、そうじゃなくて。あ、おねえさんがびじんさんじゃないってことじゃなくて、ね

 焦って、さらに飛び出した言葉に焦る。

―――びじんさんもびじんさんだし、びじんさんはもうびじんさんで

 ああああ。自分は何を言っているのだ。
 混乱した思考はぐるぐると。

―――つまり、おねえさんはちょうぜつびじんさんってことで

 ぐるぐると、ぐるぐると。
 視界もぐるぐると回り始めて、ふらりと身体は傾ぐ。
 あれ。そう思った頃には、椅子を踏み外していた。
 落ちると直感し、ぎゅっと目を瞑る。けれども。

大丈夫?

 優しい声に目を開けた。
 どこも身体は痛くない。それに気付いて、声の方を向く。
 そしたら、眼前には彼女の顔。蒼の瞳が心配そうに自分を覗きこんでいた。
 透き通る蒼。やはり、静かな水面を連想する。
 そこではたと気付く。自分が彼女の背に被さっていることに。

―――ご、ごめんなさいっ

 慌てて退こうとする。が。

いいの……。カフェちゃんに、ケガがなくて……よかった

 退こうとした身体を、彼女の前足によって捕らえられて。息が詰まる。
 そのまま彼女に抱え込まれる状態になる。
 懐に抱えられ、抜け出そうとしばらくもがいた。
 けれども、緩むことのない彼女の力。すぐに諦めの気持ちが沸いた。
 なぜなのか。安堵の気持ちの方が大きかった。
 彼女と触れ合う。とくん、とくん。聴こえる音に耳を傾ける。
 これは何の音だろう。これは生きる者が刻む音。鼓動。
 では、誰の鼓動だろう。自分のものか、彼女のものか。それは分からなかった。
 けれども、触れ合う箇所から伝わる鼓動の動き。これは彼女のものだと分かる。
 とくん、とくん。
 感じる。何を。鼓動を。
 感じる。何を。呼吸を。
 感じる。何を。体温を。
 感じる。何を。全部を。
 その全てが、なぜだろうか。とても、落ち着くのだ。
 彼女の全てを、この瞬間で覚えてしまおうと思った。覚えていたいと思った。
 それを感じたのか、彼女は自分を抱える力を強めた。
 それを感じれば、ふいに目頭が熱くなった気がして。

ねえ……カフェちゃん……?

 くぐもった声が身体に響いて届く。
 なあに。もぞもぞと動くと。

…………いま、幸せ……?

 遠慮がちな言葉が続いた。
 瞬間。熱くなった目頭から、熱いものが溢れだした。

―――…………うんっ

 一生懸命に絞り出した声で、遠慮がちなその声に応える。

―――ボク、ここのみんな、だいすきだよ

 抱えられる中。
 もぞもぞと動いて、何とか彼女の方を向いた。
 動いた反動で熱いものがこぼれ落ちる。
 くしゃりと笑う。そしたら、彼女の蒼の瞳は大きく見開かれて。濡れるその瞳は揺れて。
 あ。透き通る泉。光を弾いて揺れる水面。そのものだ。そう、思った。
 その蒼の瞳が笑った。濡れたままの瞳が笑った。

…………そう

 一言。優しく、その一言を紡いで。
 彼女は額を額に当ててきた。触れた箇所が少しだけ冷たいと思った。
 けれども、その感じた冷たさも好きだった。
 それから暫く。ずっと。ずっとはずっと。
 奥のテーブル席。その机の下。仄かな暗さの机の下で。
 ずっと。長い時間、ずっと。
 どのくらいだったのかは、覚えてはいないけれども。
 ずっと。だったのは覚えている。



   ◇   ◆   ◇



 喫茶シルベの扉を押し開ける。
 足元をするりと通って外へ出たのはグレイシア。
 ぱたん、と扉を閉めると、彼女はつばさを振り返って見上げた。
 見上げる瞳が礼を言っている気がして、つばさも静かに笑んで頷いた。
 腕に抱いていた茶イーブイを降ろす。
 けれども、グレイシアは彼にはふわりと笑うだけで。
 座する彼の足が浮き上がろうとした頃には、くるりと向きを変えて背を向けてしまう。
 そのまま彼女は、すたすた歩いていく。その方角はポケモンセンターだ。
 ああ、そうか。彼女は自分のトレーナーの元へ帰るのだな。
 つばさは静かにそう思って。
 傍らで座するままの茶イーブイへ視線を落とす。
 彼はずっと、彼女の背を見つめている。
 その横顔の感情の色は、つばさには読めなかった。
 まだ幼いと思っていた。それでも、彼と出会ってから季節は一巡している。
 彼の横顔が少しだけ、幼子のそれには見えなかった。
 それに対する嬉しさと、少しだけの寂しさを覚えながら。

「カフェ、戻ろっか」

 彼に声をかける。
 戻ろう。彼と過ごしてきた場所に。
 戻ろう。彼とこれからも過ごす場所に。
 戻ろう。彼の場所に。皆の場所に。
 つばさの声に顔を上げて。

―――うんっ!

 茶イーブイは元気に頷いた。
 つばさが扉を押し開けたら、勢いついた茶イーブイが駆け込むところで。
 元気一杯だな。と、つばさが感じた瞬間。
 こっちーんっ。星が散った。
 ころころと後方へ転がった茶イーブイを、つばさら慌てて屈んで抱き起こす。
 抱き起こしたのだが、そこへ白の毛玉が飛び付いて、押し倒して。

「ラテっ!」

 つばさが制止の声を発するも、名を呼んだときには、もう。
 茶イーブイの上へのしかかる形になっていた白イーブイ。
 はっはっと短く息を弾ませる彼女に、目をぱちくりと瞬かせる茶イーブイ。

―――ラテ、おもったの

 白イーブイは弾む息を整えることもせず、少しだけ興奮気味に言葉を紡ぐ。

―――もし、カフェが、カフェがね。ラテたちとはかぞくじゃないって、おもってたらね

 そこで白イーブイは、一旦言葉を切る。
 一つ大きく息を吸って、吐いて。呼吸を落ち着かせてから。

―――ラテが、ラテがね、カフェのかぞくになるっ!

 えへっ、とそこで笑う。

―――……へ?

 間が抜けた声がもれたのは茶イーブイで。

「ラテ」

 思わず声が出たのはつばさだった。
 つばさはひょいっと白イーブイを抱き上げて。

「言葉の意味は分かってるのかな?」

 と問えば、なあに、と首を傾げる彼女だから。
 ああ、これは分かってはいないな、と思った。

―――パパとママね

 彼女なりに理由を教えてくれるらしい。

―――ラテがいるから、かぞくっていってたの。つながりなんだって

 眉間にしわを寄せて、少しだけ難しいを顔をする。

―――でもね、それがなんなのか。それはまだわかんないんだけど

 えっへん。彼女は誇らしげに胸を張った。

―――ラテはカフェのかぞくになるのっ!そう、きめたのっ!

 結論はやはり。自分がそう決めたからそれでいいんだ。それただ一つで。
 つばさは小さく笑う。苦笑に近いものかもしれない。
 けれども、彼女はそれでいいと思った。きちんと軸が定まっているのなら、それで。
 だから、これはつまり。

「プロポーズ、になるのかもね」

 ぽつりと呟く。

―――うみぼーず??

 つばさの言葉を反復する白イーブイ。
 けれども、彼女にはきちんと届かなかったようで。

―――??

 何度か左右に、こてん、こてん、と首を傾げる。
 彼女の愛らしい行動に頬が緩み、思わず抱き締める。
 すると、抱え込んだ毛玉がもがいた。今は抱き締められる気分ではなかったらしい。
 もがいて、もがいて。そして出来た隙間から這い出て、飛び出して。
 ふるふると身を振るわせて、開放された、すっきりした顔で茶イーブイに駆け寄る。
 衝撃からまだ抜け出せていないのか、茶イーブイはまだ後ろに倒れたままだった。
 傍まで駆け寄った白イーブイが覗きこむ。
 何してるの、と呆れたような顔で覗きこんでくるものだから。
 茶イーブイは眉間にしわを寄せる。
 誰のせいだ、誰の。そう思うと、むかむかした気持ちが沸いてきて。

―――ていっ!

 その体勢のまま、思い切り頭を起こして身体も起こす。
 もちろん、白イーブイは覗きこんだ体勢のままだったので。
 ごっちーんっ。再度、星が散る。
 額を前足で抑える茶イーブイに。
 今度は白イーブイが後方へ転がった。
 だが、彼女はすぐにむくりと起き上がる。そして、起き上がりと一緒に。

―――いったあーいっ!

 そんな言葉も起き上がってきた。
 頬を膨らませ、ぷりぷりと怒っているという意思表示も忘れてはいない。
 対して茶イーブイは、当然でしょ、とすました顔で。

―――それはそうだよ。いたいようにって、いきおいをつけたんだから

 と、額を抑えながら答える。
 その答えがおもしろくなかったようで、むうっとさらに白イーブイは膨れて。
 いいもんっと、そっぽを向く。そんな彼女に。

―――ねえ

 茶イーブイは、少しだけ色を変えた声で呼び掛ける。
 白イーブイの片耳がぴょこんと跳ねた。

―――さっきのことばだけど、さ

 ちらり。彼女は目だけを彼へ向ける。

―――いまよりもおおきくなって、そのときもおなじきもちでいてくれたら

 彼女が振り向く。

―――また、いってくれる?

 俯いたままだったから、彼の方からは彼女の表情は分からない。それでも。

―――ラテのきもちは

 言葉を発する、その彼女の顔は笑っている。そう思う。

―――ずっと、かわらないよ

 ほら、彼女の言葉に顔を上げれば。

―――だって、ずっとまえからもそうだもんっ

 やっぱり彼女は笑っていた。

―――だから、やくそくするよ。カフェがそうしたいなら、ラテ、やくそくするよ

 笑みを深くして、彼女はその約束を声に乗せる。

―――おおきくなったら、またいってあげる。よやくっていうんだよね?

 彼女が滲んで見えて、目尻に熱いものがたまる。これはきっと。

―――よやくは、ちがうとおもうけどね

 彼女の言葉に返しながら。
 きっと、先ほどぶつけた額の痛みのせいだ。
 痛みのうすれた額を、前足でさすりながらそう思った。

―――でも、うん。やくそく

 くしゃりと茶イーブイは笑った。



   *



 少しだけ大きくなった幼子を眺めながら、外壁にもたれたつばさ。
 ゆっくりと空を見上げる。
 つばさに届くのは幼子が交わす小さな約束。
 幼心に交わす約束だ。もしかしたら、淡い思い出として、朧な記憶に溶けてしまうのかもしれない。
 それでも、きっとそうはならないのだろうなと。不思議と確信できる何かがある気がした。

「そういえば」

 ふいにぽつりと呟いて、橙の瞳が瞬いた。

「イチとすばるは、どこまで行っちゃったんだろ」

 彼と話がある。そう言ってすばるは、外へ出たファイアローを追いかけて出て行ってしまった。
 周りの道を見渡しても、帰ってくるような影はない。
 はあ、と一つ息がもれた。
 もめていなければいいけどな。
 そう、静かに思った。

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