夜に溺れる

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作者:ジェード
読了時間目安:14分
 思わず溜め息が漏れるような、鮮やかに晴れたミッドナイトブルーの空。恐ろしいほど深い蒼は、見ているとなんだか窒息しそうだった。こちらの気など全く介さずというような、深い蒼に染まった空は淡々と裾を広げている。
 深々と澄んだ冷たい空気に、疎らに散りばめられた銀の星屑達。それらは確かに幻想的と言って差し支えなかった。
 蒼穹に、一筋の白線が色褪せていく。流れ星。それは、一時の輝きが魅せる美しさ。やがて消えゆく脆く儚い優美。だとしたら、僕らの関係も見る人が見たら美しいのかもね。

「こんな夢幻的な景色を君が知ってるだなんて、驚いたよ。宝石と悪戯にしか目がないと思ってたのに。あ、でも君の場合は目が宝石だから違うのか」

 目が宝石のポケモン、ヤミラミは僕の隣で黙って空を見上げていた。悪戯好きで、僕に意地悪をよくする。悪戯な笑顔を僕は痛いほどによく見ては、目に焼き付けてきた。
 そんな彼が沈黙に伏し、こんなにも真剣な眼をしているのを見るのは初めてかもしれない。しかし、それは彼と僕との親交の証だと勝手に受け取っておこう。

「僕はね、君のその悪そうな笑顔が好きだった。だからついつい、運命を先送りにしてしまったんだ。もうその笑顔が見れないとは、ちょっと残念だけど、仕方ない」

 彼は僕を見ていた。結晶状の瞳は、ミッドナイトブルーと銀、それから僕を幽かに反射していた。硬質な光が闇夜によく映える。いつにも増して、真剣で誠実な眼差しだった。僕はなんだかむず痒い感覚を覚えて、誤魔化すように微笑む。

「もう、お別れなんだね」

 僕は、今まで奥底に沈めていた淋しさを、僅かに声に乗せて言った。何も後悔なんてないんだ。何も心残りなんてないんだ。これでいい。それが何より自然な、元ある運命だったのだから。
 僕は彼と出会った時の事を朧に思い出していた。
 それは、月明かりの薄らと差す、幻燈の洞窟でのこと。





 出会ったのは崩れて狭い、しかし稀に宝石の採れるという、珍しい小さな洞窟だった。
 彼を初めて一目見たときは、そりゃもう焦ったよ。だって天敵だもん。ヤミラミって。彼からすれば、あ、ラッキーって感じかもしれないけどさ。彼は僕を見ると、垂らした涎をじゅるりと飲み込んだのをよく覚えている。
 僕は、戦うのは苦手だからひたすら逃げたよ。でも鈍足だからすぐに追いつかれてさ。今では、飄々としているように見えるかもしれないけれど、あの時は本当に汗が止まらないし、動悸も激しかったのをよく覚えている。
 それくらい、追い詰められて焦っていたんだ。
 でも僕も、このまま黙って倒される訳にはいかない。一か八か、あるわざを使ったんだ。僕とヤミラミじゃ、経験値の差もあって、あちらの方が素早い。まともにやり合っても、タイプ相性は有利だけど、先に消耗してしまうだろう。だから使ったんだ。『スキルスワップ』を。
 案の定、彼の特性は“いたずらごころ”だった。正直、他の特性ならどうしようかと思っちゃった。この行動に、ヤミラミはすごく驚いてた。いかにも弱そうな、僕が反撃してきた挙句、自慢の特性を奪われたらそうもなるかもね。
 これで、僕は変化わざを先制で撃てる。いばるでも使って混乱させて逃げるつもりでいたんだけど。
 わざを使おうとして、僕はようやく気がついた。しまった、ヤミラミはあく・ゴーストタイプ。あくタイプのポケモンにいたずらごころは通用しない。
 言っちゃなんだけど、間抜けだよね。知識で頭でっかちになってたんだ。笑い話にでもしないとやってられないよ。
 これで僕は何も出来ない。為す術もなく、このヤミラミに貪り食らわれるんだ。
 そうして、短い今生に思いを馳せていた時だった。

「面白えな、お前」

 僕は、その一言にひどく驚いてしまった。彼は口元に手を当てて、悪戯に笑っていた。それが、僕の初めて見た、そして、これから何度も目にする彼の笑顔だった。





「なんだか溺れそうじゃない? この星の海にさ」

 それくらいに広大で、果てしなく明媚であった。底知れぬ耽美さであった。
 人間から美しいと言われるらしい僕の体の石なんて取るに足らない。いや、比べ物にならないと言うべきか。こんなちっぽけな光、無いに等しいだろうな。

「あの星、一つ一つにも名前と意味があるんだって。知ってた? 物好きだよね。人間って」
「そうかもな」

 彼は、逡巡するように僕を見ると、素っ気なく言った。彼にしては珍しく、まるで興味なんてないみたいな反応をされてしまった。おかしくないかい? この星空を見せてきたのは君じゃないか。
 ヤミラミの結晶体の瞳には、爛々と星空が映り込んでいた。僕は、無意識にそれに見とれてしまう。冷たい風が、穏やかに夜を運んでいた。 
 星に言葉があるんなら、僕の瞳に映るこの恒星にも、人間の勝手な想像から付けられた、何か相応しい言葉があるんだろう。何だろう。「離別」とかだったりするのかな。いや、人間のことだからもっと夢想的で詩的な言葉を与えてそうだ。「貴方を忘れない」とかかな。僕が今付けるとするならね。きっと、そんな偶然はないとは思うけれど。
 花にも、宝石にも言葉があると言う。
 無数に夜空に散る惑星一つ一つに名前を付けるだけでも結構なことなのに、花にも石にもあるだなんて。人間は傲慢だ。森羅万象に言の葉を与えないと、気が済まないのだろうか。それらに共通するのは、美しいってことだ。美しいものを愛でて、醜いものは記憶の海に捨ておく。非常に直情的だ。
 でもきっと、それでいてある意味優しいんだろう。本来なら一瞬で消えゆく物々に、“美しい”という価値を付随し、その儚さを堪能している。
 そして、その物々がこの世から霧散した後も、言葉と共に人々の記憶に残り続ける。何故そうするのかというと、それはやはり、彼らが寿命の長い生き物だから、自分たちとは違う短命の美しさと危なげな脆さに、惹かれるんだろう。そう考えていて思ったけれど、やっぱり傲慢だ。
 しかし、僕だって何も変わらない。だって、こうして僕とはまるで違うヤミラミに惹かれているんだから。人間もポケモンも何も変わらない。ないものねだりで他人の芝生は青く見える。
 ヤミラミの話に戻ろうか。彼は、悪童と言って差し支えないんじゃないだろうか。いつも僕に意地悪をしてくる。ふいうちで叩かれたと思ったら、次にはもうみがわりだったりする。あくタイプらしい、ずる賢くて意地悪なポケモンなんだ。そんな応酬を、僕らは出会ってから何度も繰り返してきた。
 でも、不思議と不愉快さは感じていなかった。それは、僕も多少なりともやり返していたのもあるのかもしれないが。僕の反撃を、ヤミラミは寧ろ嬉嬉として受けていた節があった。
 僕がさっきみたいに話す、彼からすれば難しいだろう話も、別世界を見るように聞き入っていた。きっと半分も理解は出来ていないだろうけれど。
 僕たち鉱物の話。神の話。大陸の話。人間とポケモンの話。たくさんの話を僕は彼に聞かせてきた。きっと彼もまた、自分とはまるで違う、思想家で小難しい僕に興味を惹かれていたのだと思う。そう考えると、僕と彼は正反対で似たもの同士だ。
 遺伝子は自身とは違うDNAを持つ個体に強く惹かれるという。僕らは異性ではないけれど、それと似たものなのかもしれない。磁石のN極とS極に例えた方が良かっただろうか。だとしたら、互いに惹かれあったのは偶然というより必然だったのかもしれないな。

「なあ、メレシー」

 久しく呼ばれた僕の名前に、思わず振り返る。彼はらしくもなく、肩を落として俯いていた。小さくなった背中が悄々と影を落としていた。
 夜風が僕らの間を割って靡く。

「なに?」
「本当に、やらなきゃいけないのか」

 彼の声は強ばって震えていた。凍てつく氷山で孤立した時のようなか細さだった。全く、彼らしくない。

「うん。僕からのお願いだって、言ったじゃないか」
「そうか。願い、なんだな。本当に、お前の願いなんだな!?」

 僕は微笑んで頷くと、彼に掴まれる。そして、恫喝するように揺さぶられて確認された。
 怖い怖い。全く、自分があくタイプってこと忘れてるんじゃないかな。
 しかし、それ以上に彼に違和感を覚えて、じっと見据える。すると、月の光を帯びた雫が滴った。やはり僕の思った通り、その瞳は潤んでいたようだ。

「なんで、泣いてるのさ」

 彼は、ヤミラミは、がっくりと項垂れてクリスタルの瞳から大粒の涙を吐いていた。
 それを見ていた僕は不思議と微笑んでいた。何故だかそっと笑みが零れてきた。こんなところでも対になるだなんて。運命だなんて、と人は呼ぶのかもしれないな。

「……だってよ、普通無理だろ! せっかくこうして出来たダチを」

 彼の涙を帯びた悲痛な声は、段々と弱くなっていき、ついには消え入りそうにこう呟いた。

「食らう、なんて」

 静寂の夜に、染み入るような小さな声だった。夜には色んなものが溶けていってしまう。全てが宵闇に侵食されてしまう。僕のちっぽけな思想も。彼の底なしの悲哀も。
 それでも、僕は夜が嫌いじゃなかった。

「いいじゃないか。そんな運命があったって」

 僕の口にした“運命”という単語を聞くと、彼は舌打ちした。
 薄々感じていたけど、彼は僕が語る運命論だけはあまり興味を示さなかった。きっと、彼は運命に薄ら慄いているのだろう。それは理解できなくもない。誰しも、よく分からないものは怖いからね。

「お前は、やっぱり死にたいのか? 辛くて仕方ないのか? オレに隠れて、何か悩みに悩んでたりするのか?」

 ヤミラミは、僕に縋り付くように問うてきた。実際、僕がしようとしていることは、彼からすれば天地もひっくり返る仰天の行為どころか、その発想すらないと言ったところか。
 というか、多分それが“普通”って奴なんだろう。生き物は生に縋るのがあるべき姿、自然なんだろうから。
 “普通”、僕はこの言葉があんまり好きじゃない。普通は自覚した途端に無に帰すからだ。どうして皆、こんなにも曖昧で変容性に富んだ価値観に依存するのだろう。やはり、集団生活を遺伝子に刷り込まれた者は、異端を畏れる宿命なのだろうか。

「いいや」
「じゃあ、どうしてだよ……!」

 彼は振り絞るように叫んでいた。その必死さに胸が痛むと同時に、少し呆れている自分がいた。
 多分、ヤミラミは僕以外のメレシーなら、躊躇なく食うだろう。僕を食らわないのは、それはこれまで蓄積した信頼とか情動とか、本能的なものとは関係ないものが阻害するからだ。
 これを説明したところで、彼は納得しないだろうが。

「僕が、“美しい”と思ったからだ」

 別に僕は、絶望の果てに自殺願望を抱いてる訳じゃない。だったら、勝手にガバイトの巣にでも行けばいい。
 ただ、花や宝石や星が美しいのなら、それを儚いとする終焉。死だって、美しいはずだ。そう思っているだけだ。
 僕は元々、あの時ヤミラミに食われて死にゆく運命だったのだ。それを、よく分からない内的要因が、捻じ曲げてしまっただけに過ぎない。
 自然な形のままが一番美しいと僕は思う。人間が懸命に研磨したダイヤモンドよりも、洞窟で仄かに光を放つ原石の方が、美しいと僕は思う。

「やっぱりお前、頭がおかしいんじゃないか?」
「そうとも言うかもね」

 否定はしない。それを、頭がおかしいとも奇抜とも破天荒とも形容できるだろうから。僕が異端であることなんて、とっくに自覚済みだ。異端を自覚した異端は、本当に異端足り得るのか、という疑問はあるが。
 だからこそ、群れを離れ、こうして天敵たる、ヤミラミと一緒にいるんだろう。
 そんな、ポンコツ哲学者な僕に付き合ってくれていた彼にはやはり感謝しかない。そんな優しいヤミラミに、最後で最大の我儘を通そうとしている僕は、なんていうか、やはり大物だな。

「ただの僕の我儘なんだ。そして、それは唯一の友人の君にしか頼めない」

 僕は、心底に響くような澄んだ声で言った。
 ヤミラミの肩越しに、深黒に聳える山々の輪郭に沿うように星々が散っているのが見える。なだらかな、自然な曲線に目を惹かれた。

「お願いだよ、ヤミラミ」

 僕の目の前で石のように固まっているヤミラミ。よく愉悦に歪む口元は、今は固く一の字になっている。
 やがて、諦めたかのようなため息が漏れた。息が薄らと白くなり視認できる。

「お前は、頑固だからな」

 僕は彼の優しさに、心遣いに微笑んだ。ありがとう。君のことは忘れない、だなんて勝手なことは言えないけれど。
 きっと、君のおかげで僕の命も美しいものに昇華できるはずだ。
 晴れた満天の星空は、さらに深い蒼を湛えていた。それは相変わらず、僕の小さな宝石や命では、太刀打ちならない煌びやかさを放っているように、厭になるほど皮肉めいて見えた。





 一匹の、ポケモンがいた。孤独に陰を落とし、枯れ果てるまで涙を流した。月は無表情に彼を照明し続ける。
 透明な六角の結晶の瞳から湖を作って、そして静かにそのポケモンは佇んでいた。意志を感じる、固く握った手には、何やら白群の色めいた結晶の欠片がある。

「俺は忘れねえ、から」

 それは、悲哀に打ちひしがれるポケモンが、漸く放てた一言だった。自らに刻みつけるような、悲痛を纏う一言であった。
 その瞳に乱反射するのは、果てしない蒼穹。この世界を抱擁する、紺碧の空。
 微睡む空に、次々と白線切って消えゆく銀の星。それは、思わず息を呑み、その美しさに溺れてしまいそうな、絶佳の夜であった。

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