心スケッチ

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作者:早蕨
読了時間目安:33分
 雲一つない空の下、水色のベレー帽を被るドーブルが森の中を歩いていた。
 葉と葉の間からカーテンのような陽射しが差し込むところを、尻尾の先が水色のドーブルがそれを指揮棒のようにふりながら歩く様は、とてもご機嫌そう。
 向かう先はいつも通り、山の麓にあるイワヤマトンネル。そこが、ドーブルが毎日絵を描いている場所だった。
 ベレー帽を被り、斜めにバッグをかけて、今日もまた絵の修行に向かうのだ。
 バッグの中に潜むは、絵の具セット一式。たくさんの色に彩られ、幸せそうなパレッドや筆を潤す筆洗。なくてはならない絵の具。ドーブルにとったら、水色の色が出せる尻尾と同じくらい大切なもの。昔の主人からもらった、それは大切なものだった。
「ブルーーッ」
 いつもいつも、同じ場所。森から抜け、イワヤマトンネルの出入り口から少し横にずれたその場所が、ドーブルの定位置。ついたらまず、筆洗に水を汲む。近くに湧き水があるので、ドーブルはそれを汲みに行く。とっても綺麗な水なので、ついでに喉も潤していくのも日課だ。それが終わり戻ってくると、今度はパレッドの準備。開けると、昨日つかった絵の具の残りがまだたくさん残っていた。最後に筆をもって、準備完了。ベレー帽をキリリと被りなおし、お絵かきドーブルの誕生だ。
 カンバスは、ない。トンネルの中に描くもよし、木に描くもよし、山の麓に転がっている大きな石に描くもよし。ドーブルにとったら世界の全てがカンバスであり、カンバスでない場所はなかった。
 言ってしまえば気まぐれでいろんな場所に絵をかいているわけで、今日はそのまま地面に描くことにする。地面は、世界で一番大きなカンバスだ。どんなに大きい絵でも描くことが出来る。一度、イワヤマトンネルの出入り口付近を自分の自画像で一杯にして、ニュースに取り上げられたこともあった。自分の絵をたくさんの人が見に来ることに、森の木の陰からドーブルは誇らしげに見ていたものだ。
「あ、君が噂の落書きドーブルだね?」
「ブル?」
 いざ! と筆を地面につけたところで、爽やか青年に話しかけられてしまった。
 今日は二日ぶりのお客さんだ。一度大きくニュースで取り上げられてしまったときは、たくさんの人が面白がった。落書きドーブルという変な通り名(ドーブルからしたら自慢の自画像だった)をつけられたドーブルを見に来る人は、たくさんいた。やがてそれも収まり、今ではこうしてたまに人が来るくらいだ。
「君のうで、聞いてるよ。凄い上手なんだってね。ボクのも一枚頼むよ」
 そう言って、青年はドーブルにスケッチブックを渡す。でも、それをすぐにいいですよと受け取るドーブル先生ではない。じっと生年を顔を見つめ、自分が描きたいと思えば受け取る。描きたいと思わなければ受け取らない。
「どう? 描いてくれる?」
 どうやらドーブルは描く気になったようで、男からスケッチブックを受け取った。
「描いてくれるの? じゃあ、これ、先払いね」
 そう言って、青年はドーブルの前にカゴを置く。
 ドーブルの大好物。リンゴだ。
「じゃあ、しばらくしたらここに来るからね」
「ブルーー」
 去っていく青年を尻尾を振って見送る。ドーブルは座って絵をかけるところを探した。キョロキョロと、首をふる。丁度木陰になっているいい木があったので、そこでドーブルは描くことにした。
 受け取ったスケッチブックとリンゴを持って歩き木に背を預け、どっかりと座る。横に置かれたりんごの入ったカゴを見て、ドーブルはまだ朝食をとっていないことを思い出す。筆を取る前に、まずは腹ごしらえだ。
 ペロンと三つのリンゴを食べて、早速ドーブルは絵にとりかかる。描くものは、先程の青年の顔。じーーっと見ていたのは、顔を覚えるためでもあったのだ。お気に入りの筆を取って、サッサッサっと、慣れた手つきで絵を描いていく。結局、絵は三時間ほどで完成した。似ている似ていないはあまり関係ない。ポケモンが描いた、というだけで価値があるらしい。
 絵が完成すれば、後は青年を待つだけ。ドーブルは、それが終わったらどこかへお昼でもとりにいこうかな、などと思っていた。
「絵、出来た?」
 うとうとと木に寄りかかって寝てしまっていたドーブルは、青年の声で目を覚ました。絵は、ドーブルの目の前に置かれていて、完成していたことは一目瞭然。ドーブルはとりあえず今のお昼寝を邪魔されたことが嫌で、再び目を瞑り、尻尾で絵を指した。
「あ、出来たんだね? じゃあ、もらっていくよ。お礼にこのスケッチブックはあげるから、自由に使ってくれよ」
 ドーブルは最後まで目を開けなかったが、音で青年がスケッチブックの絵を一枚破って、歩いて去っていくのがわかった。青年が去ってしばらくして目を開けて見てみると、そこには言っていたスケッチブックと、またまた三つのリンゴが置いてある。あの青年がまた置いていってくれたのだろう。これで昼をとりに行く手間が省けた。ドーブルはご機嫌そうに、昼食のリンゴへと手を伸ばした。


   ◆      ◆


  落書きドーブルに関して語ることは、少ない。普通に生まれて普通にドーブルの群れで育ち、成長して、トレーナーに拾われ、育てられ、捨てられた。それだけだ。他と違うことがあったといえば、絵の具をもらったという点だけだった。前の主人がドーブルなら絵の具を持って絵をかけるだろう、という勝手な推測から絵の具を持たされ、ドーブルはそれを見事に使いこなした。主人に絵の具と一緒に捨てられた今や、絵の具はドーブルの相棒と化していた。
 ポケモンとしてある程度鍛えられたいたおかげで、周りのポケモンから襲われても太刀打ちできる。今では毎日食っちゃ絵を描いて食っちゃ絵を描いてたまに絵描きの仕事する、そんな自由な毎日をドーブルは送っていた。
 とはいえ前の主人に捨てられて、悲しくないといえばそれは嘘になる。前の主人を忘れられずにか、ドーブルは人の絵を描くことが多かった。絵描きの仕事をしているのも、前の主人が迎えにきてくれるのを待つ意味も少なからずこめられているのかもしれない。あのとき過ごした時間は、まだドーブルの中に鮮明に残っていたから。

 そんな落書きドーブルは、先程もらったリンゴをまたペロンと食べ終え、お腹一杯の幸せに満たされていた。ニュースに取り上げられ、とてつもなく人が来てたくさんの食料を置いていった頃に比べると、今では随分少なくなったものだが、三日に一度くらいで来てくれる分には丁度いい。一時期、ドーブルは食料があまりにもありすぎて困ってしまい、腐らせるのもなんだからと山に住んでいるマンキーの群れにおすそ分けしたことがあったくらい、本当にたくさんあったのだ。
 それが今では、こうして一度に食べきれる量の食料がもらえる上に、大好きな絵が描けて一石二鳥。落書きドーブルと呼ばれるのも悪くない。そんな風に、ドーブルは思っていた。
 昼食も食べ終え、午後はどこで絵を描こうと考えていたドーブルだったが、余りにポカポカした陽気が気持ちよくてそのままうとうとしてしまう。絵を描く意欲はあるのだが、気にどっかりともたれかかった体は重くて動かず、目蓋も重い。ちょうど木陰で暑さも丁度よく、そこはお昼寝には絶好の場所だった。明日、また描こう。と、ドーブルはどこかでそう呟き、とうとう眠気に勝てなくなったのか、そのまま木にだれてベレー帽を顔に被せて眠ってしまった。
 絵も描かずにトンネルの入り口付近で午後をお昼寝で過ごしてしまうというのは、野生のポケモンからしたら意外と危険だ。自分より何倍も大きなポケモンに襲われるかもわからないし、絵の具セットを盗まれてしまうかもしれないし、トレーナーにうっかり捕まってしまうことさえある。前の主人から捨てられて大分時間が経ったとはいえ、ドーブルはまだ他のトレーナーのポケモンになる気はなかった。今はこうして自由な時間に自由に絵を描いて過ごしていたいと、そう思っているのだ。
 もちろん人間が優しくしてくれるのはわかっている。しかし、だからと言ってドーブルが負った傷が癒えることはないのだ。
「あの。ちょっといいかしら?」
 ほとんど眠りかけていたところに、また声をかけられた。本日二人目のお客さん。一日に二人もくることは、珍しい。声は、女の子の声だった。か細く、凄く幼げな声。キュルキュルと、タイヤが回るような音も聞こえる。
「ブルー……」
 不機嫌そうな声を出し、ドーブルはうとうとしたまま尻尾を動かすと、地面に×印を描く。お昼寝中につき起こさないで下さい。そんなドーブルのサインを知ってか知らずか、女の子は続ける。
「少しだけ、起きてもらえる? あなたにお願いがあるの」
 そのまま少女の言葉を無視したドーブルだったが、しばらくしてもずっと自分の前にいるのがわかった。一度気にしてしまうと気になって寝てもいられないため、ドーブルは仕方なく目を開いてみる。
 目の前にいたのは、車椅子に乗ったどこかのお嬢様と、それを押す執事のような男だった。ドーブルがそう思うのももっともで、少女はふわっととしたスカートにカーディガン。執事のほうは黒いスーツで、見た目だけみれば執事とお嬢様だ。
「起きてもらえた? ありがとう」
 ドーブルは眠気眼な目をこすり、立ち上がる。
「あなたが、絵の上手なドーブルね? あなたの絵、見たよ。凄い上手で、私ビックリしたわ」
 とても上品に、緩やかに顔を綻ばせ少女は言った。落書きドーブルから入るのではなく普通に呼んでもらえた上、正直に真正面から褒められたことに、ドーブルは少しだけ嬉しくなった。
「あなたの描く絵を、私はもっと見たいわ。お願い、できるかしら」
 いつものように、じーーっとドーブルは少女を見つめる。物腰も低く、ドーブルと対等に喋ってくれて、かといって卑屈な感じではなくどこか上品さを漂わせた少女。うっすら微笑んだその顔も、陳腐な言葉だが端整で美しいと言える。
 ドーブルは肯定を表すように、少女に頷いて見せた。
「描いてくれるの? わあ! ありがとう」
 少女は本当に嬉しそうに微笑んで、両手を顔の前で合わせる。
 ドーブルは余りに嬉しそうな顔をする少女を見て、なんだか自分までも嬉しくなった気になって、木にどっかりとまたよりかかる。気分がいいので、今日はいつもより早く良く描けそう。ドーブルはそんな気がしていた。天気はいいし、お腹は一杯だし、スケッチブックはもらったし、いいこと尽くめだ。
「あなたの隣で、描いているところを見ていてもいい? ……パーカー。今はいいわ。下がって」
「し、しかしお嬢様……」
「いいと言っているでしょう。下がりなさい」
「……はっ」
 少女がそう言うと、執事の男は恭しく一礼し、この場を去っていった。やっぱり、もの凄いお嬢様らしい。
「ねえ、いいよね? 見てても」
 断る理由は、なかった。


   ◆       ◆


 少女は、ひたすらにドーブルが絵を描くのをみつめていた。本当にドー直子の絵が好きなようで、ドーブルの一回一回の筆さばきも見逃すようなことはなかった。ドーブルは周りに人が居ようが居まいが、集中してしまえば関係ないため、少女の視線にも気にすることなく描き続ける。そんな二人の様子を、二人には見えないところから執事のパーカーが見つめている。
「ドー、ブル」
「完成?」
 ドーブルはコクッ、と首肯する。
「……この絵、私がもらってもいいかしら。あなたがいいと言うのなら、是非ともお部屋に飾りたいのだけれど」
 少女のその言葉に、ドーブルはポカンとしてしまう。
 今までの人たちは、ドーブルに絵をかかせお礼を置いていくと、さもその絵が自分のものになったと思い破って持って行ってしまっていた。しかし、少女は違った。ドーブルが描いた絵は、ドーブルが自分の最大限の力を使って描いたいわば自分の分身であり、所有しているのはドーブルだということをしっかりと理解していた。お礼は悪魔でも絵を描いてもらうためのお礼であって、その絵を勝手に持っていいというわけではない。間違っても、軽々しくしていいものではないのだ。
「だめ、かしら」
 ドーブルはその言葉で我に帰った。ブンブンと首を横にふり、スケッチブックごと少女に渡す。
「いや、駄目よ。そんなスケッチブックごとなんて。それはあなたの物なんだから。私は、あなたの描いた絵がいただければ、それで満足だわ」
 ゆっくりとスケッチブックを押し返しながら、少女は言った。
 出来上がったばかりの絵。車椅子に座っている、少女の絵。まだ絵の具が乾ききってはいない。ドーブルは描きあげた達成感に満たされながら、フウ、っと木によりかかる。
「……私、あなたが羨ましいわ」
 少女はそんなドーブルを見て突然語りだす。その少女からは想像出来なかった、羨望の眼差しだった。
「自由に大地を歩けるあなたも、自由な場所に絵を描けるあなたも、自由に気の向くままに絵を描けるあなたも、どのあなたも皆羨ましい。私は、あなたのようになりたい……」
 卑しいとも思えるくらい少女の声は落ち込み、羨望の眼差しをドーブルへと向け続けた。
「でもね、私こんな自分が嫌いなの。嫌で嫌でたまらないわ。父も、母も、パーカーも、私が生まれつき歩けないばかりに凄く迷惑をかけているのに、たくさんの愛をくれているの。でも私はそんな皆の愛を無碍にするような、誰かになりたいとか、こんな自分が嫌だとか、思ってしまうのよ?」
 それは、悲痛な叫びだった。少女はきっと、ずっと悩んでいるのだろう。生まれついた足の悪さを憎み他人になりたいと思ってしまうことが、どれだけ愛を注いでくれた周りの人に失礼かということに。
「こんな私が、どうして治るというの? 手術をしたところで、どうせ治らないわ。神様は、きっとこんな無礼な私を許さない。許すはずがないわ」
 ワッ、少女は両手を顔で覆い泣き出した。少女にとって、自分の悩みを打ち明けられたのは初めてのことだった。周りにいるのは皆自分に愛を注いでくれている人たちだから、ずっと話すわけにはいかなかったのだ。
「ブルー……」
 誰かを羨んでしまうことくらい、誰にでもあることだ。恥ずかしいことでも卑しいことでもなんでもない。それにきっと、少女の両親は少女がただ生きているだけで嬉しいはずだ。愛を注ぐ相手がいることが重要なのだ。大好きだった前の主人を失ってしまってから、ドーブルもそれに気付いていた。一緒にいれば、損得なんか関係なく楽しかったことに。
 ドーブルは筆をとり、スケッチブックの次のページに新しい絵を描いていく。少し落ち着いてきた少女は、ドーブルがまた何かを描いていることに気付いた。
「……何を、描いているの?」
 ドーブルは無言で絵を描きあげる。ささっと、五分ほどだった。
「……それは、ネリネの花?」
「ブルッ」
 ドーブルは頷く。スケッチブックから先程描いた絵と、今描いた絵を破り少女へと渡す。少女はそれを受け取り、二つの絵を見て微笑んだ。ドーブルの意図することが、理解できたのだろう。
「そっか。あなた、励ましてくれてるのね?」
 少しだけ、ほんの少しだけ、少女の顔が晴れる。
「ありがとう。とっても優しいのね、あなた」
 少女は涙を顔に浮かべながらも、大事そうに絵をもって、ドーブルに微笑みかけた。ドーブルも、その笑みに応えるように微笑み返す。久しぶりにいい絵を描いた。ドーブルはそんな気持ちになっていた。

 ドーブルにとって、少女は久々の人間の友達だった。今まで、いろんな人間がドーブルに会いに来て連れて行こうとする者も多くいたが、もう一度会ってみたいと思う人間は久しぶりだった。
 あれからドーブルは、ひたすらにあの少女のことが気になっている。足は大丈夫なのだろうか。また泣いてはいないだろうか。もし自分なら、絵を描いて悩みを聞くくらいならしてあげられるのに。ドーブルは、前のご主人以外の人間にこんなことを思う自分にビックリしていた。最近では寂しいと思うこともなくなり、あの少女にまた来てほしい、と思う気持ちの方が強くなっているくらいだ。
 あの日以来、少女は数日置きくらいにドーブルのところに来ている。大抵絵を描いているのを見ているか、少女が自分の話をするばかりだが、ドーブルは少女と過ごす時間が楽しくてたまらなかった。あの少女を励ましてあげたいという気持ちと同時に、あの少女と居たい、と思う気持ちがどんどん大きくなっていった。
 そして、丁度二週間ほど経ったある日、少女はまたドーブルのところへやってきた。
「こんにちは、ドーブル」
「ブルーー」
 いつものように、執事に車椅子を押され、少女はやってきた。
 座りながらも日傘を持つ姿は、様になっている。執事の方も相変わらず無言で、少女に「下がって」と言われればその通り下がり、いつも通り見守っていた。
「見て見て、今日は私も絵を描いて来たのよ」
 この二週間でわかったことなのだが、少女自身も、絵を描くことが好きだった。「いつも窓から見える風景や、家の中の風景しか描けないの」などと言ってはいたが、これまでにドーブルが見た風景画は全部違った風景画だった。中でも家の中に果樹園があることに、ドーブルは驚いていた。
 木下の木陰に二人は並び、少女はドーブルに自分の絵を見せる。今日は、風景画ではなかった。
「どう? 風景意外はあまり描いたことがないから上手ではないかもしれないけれど」
 それは、ドーブルだった。ベレー帽を被り、パレッドと筆を持ちながらカンバスに向かっている絵。少女はスケッチブックからその絵を破くと、ドーブルにそれを手渡した。
「あなたにあげるわ。この前のお礼よ。一生懸命描いたから、もらってくれると嬉しいのだけど」
「ブルッ!」
 ドーブルは迷わず受け取って、その絵を間近で眺める。絵を描いている自分の姿が、そこには描かれている。とても楽しそうに、そこでは自分が絵を描いていた。自分を誰かに描かれたことはなかったから、ドーブルはそれが珍しく見え、嬉しく感じていた。この少女が、自分のために自分を描いてくれたのだ。
「どう? 気に入ってもらえたかしら」
 コクンコクン、とドーブルは頷いて見せる。
 少女はうっすらと笑みを浮かべ
「良かった。大事にしてもらえると、嬉しいわ」
 と言った。きっと、今日から数週間は、ドーブルはこの絵を抱いて眠ることだろう。少女の魂のこもった、この絵を抱いて。
「それでね、今日は、あなたに大事なお話があるの」
 突然かしこまり、少女はドーブルを見据える。その目は、今まで一番真剣な目だった。上品な柔らかさも含まれない、強い意志の含まれた、そんな目だ。
「私ね、手術を受けようと思うの。足を、この足を治すために。……もちろん、治る自信なんて私にはない。こんな私が治るわけないって、今でも思ってるわ。でも、あなたがいるなら、あなたがいるなら私は頑張れるかもしれない」
 そこまで言って、少女は止まる。ドーブルの両手をとって、キュっと、小さな力で握り締める。
「だから、もし私が治って歩けるようになったら、一緒に旅に出てくれないかしら。世界中を回って、世界中の絵を描くの。描きたい絵を、描きたいようにね。私には、あなたが必要なの」
 それは、少女が語っていたこと。「私、世界中の絵を描いて旅をするのが夢なの」と、言っていた。その旅に、ドーブルが必要だと言ってくれている。
 そして、それは前の主人と出来なかったこと。旅に行くはずが、主人がいなくなってしまったため出来なかったことだ。
「あなたって、実は私の初めての友達なのよ? 今まで、こんな歩けないお嬢様には、誰一人近づいてくれなかったから」
 前の主人との未練は、ここで断ち切る。この少女と一緒に旅に出ることによって、自分をリセットしよう。きっと、出来る。ドーブルの心は、決まっていた。
 ドーブルは少女から手を離し、手を広げる。少女にも手を広げるよう、促す。水色に尻尾で二人の手を染め、スケッチブックを開く。そこまで来て、どうやら少女も気付いたようだ。
「本当、人間のことを良く知っているのね」
 二人は同時に、ペタンとスケッチブックに手形を作った。私はその旅に着いて行きますという、誓いの印。
「じゃあ、私に着いてきてくれるのね?」
 コクンと、ドーブルは首肯する。
 ドーブルが首肯するのを見ると、途端に少女は満面の笑みを浮かべ、ドーブルを抱き上げた。
「ありがとう! 本当に、ありがとう!」
 そのまま、ギュっと抱きしめる。少女の温もりが、忘れたはずの温もりが、ドーブルに伝わってくる。誰かと繋がっていられると感じられる温かさ、それはとっても幸せな暖かさだ。
 しばらくドーブルをギューっと抱きしめていた少女だったが、やがて気が済んだのかドーブルを下ろすと
「パーカー! パーカーはどこ!? すぐに来て!」
 少女が呼ぶと、パーカーはものの数秒で飛んできた。いつからそこに居たんだというくらいに、突然と現れる。
「はっ。なんでしょうか、お嬢様」
「帰ったら医者を手配して頂戴。私、手術を受けるわ。絶対にこの足、治してやるんだから」
「かしこまりました。すぐに手配します」
 まるで少女がそう言い出すのを悟っていたかのように、執事は顔色一つ帰ることなく、むしろ少しだけ嬉しそうに微笑んで恭しく一礼した。
「ではお嬢様、今日はもうお帰りになられるのですか?」
「ああ、もう少し待ってもらえるかしら」
 少女はそう言って、またドーブルの方を見つめる。
「私が手術を終えてここに戻ってくるまで、あなた、待っていてくれるかしら」
 コクンと、ドーブルは頷く。迷いなど、とうにない。
「じゃあ、私がここに帰って来るときには、もう一枚絵をプレゼントするわ。あなたと私の旅の、最初の一枚よ」
 最初の一枚。それを聞いただけでも、ドーブルはもうワクワクしていた。世界に飛び立つ、最初の一枚。それはさぞかし、素晴らしい絵なのだろう。
「では、今日はこれで失礼するわ。又会う日を、楽しみに」
 そう言って、少女は執事に車椅子を押されて去っていく。「又会う日を、楽しみに」。それは、二週間ほど前にドーブルが描いた、ネリネの花言葉だった。


    ◆      ◆


  ドーブルの中には、もうあの少女と旅をすることしか頭に入っていなかった。どんなところに行くのだろう。何を見るのだろう。そんなわかりもしないことを何度も予想して楽しんだ。
 もちろん、ドーブルは毎日自分自身が描かれている絵を抱きかかえて眠った。大事に汚さないように優しくだきしめて、あの少女の顔を思い出しながら眠る。そんなことが、ドーブルの日課となっていた。
 手術をしてしっかり歩けるようになるまでだから、すぐではないだろう。もしかしたら三週間、いや、一ヶ月、もしくはそれ以上かかるのかもしれない。でも、少女は「又会う日を、楽しみに」と言っていた。ドーブルは、その言葉を信じて疑わない。
 少女と誓いを立てたあの日から五日、いつもの木の木陰で、ドーブルは少女が再び会うときに絵をプレゼントしてくれると言っていたのを思い出した。何を描くのだろうか、と予想をし始めると、ドーブルはいいことを思いついたようにクスクスと笑い、早速作業に取り掛かった。
「ブーールーー」
 ご機嫌な声を出しながら、スケッチブックを取り出し、絵の具を準備する。ドーブルの出来ることと言えば、絵を描くことだけ。よって、いいことを思いついたとはすなわち、自分も絵を描いてビックリさせようということなのだ。
 ドーブルが得意なのは人物画。少女の絵は、もう見なくても描けるほどになっていた。迷うことなく筆を使い、スケッチブックを彩っていく。ゆっくりと時間をかけて、描く。これも、自分と少女の旅の最初の一枚なのだから。
 ドーブルは少女と再び会ったとき自分の描いた絵を渡し、少女が喜ぶ顔を想像した。笑いが、止まらなかった。嬉しくて、たまらなかった。

 きっと自分は少女のことが好きなんだ。ドーブルは、今になってそんなことにも気付いた。


    ◆      ◆


 ドーブルの絵はうまい。それはもう、人間の絵と遜色ないほどに。ドーブルの生活の中心は絵であり、絵を中心に回っている。絵を描かない日はないし、絵のことを考えない日はない。
 そんな、一度は時の人となったドーブルを知るものは多い。絵を描いて生きている者や、絵を知っている者にとっては、その価値を知っている。
 だからこそ今でもドーブルには客が来るのだし、あの少女も元はと言えばそんな噂を聞きつけてドーブルのところへやってきたのかもしれない。ドーブルの絵のうまさを、価値を聞きつけて客が来る。ということは、ドーブルの絵を狙う者がいてもおかしくはない。例えば、ドーブルの絵がお金になるのだとしたら。それはもう人間からしたら、ドーブルをさらう立派な理由となるだろう。
 そんなことを知ってか知らずか、ドーブルは五日間で絵を完成させた。ベレー帽を被った自分と、足の治った少女が、一緒に手をつないで旅をしている絵だ。絵を描いているところを描かずに歩いて旅をしているところを描いたのは、ただドーブルがあの少女と旅をしたいだけなのかもしれない。寂しかった自分を、受け止めて欲しかったのかもしれない。
 ドーブルはまだスケッチブックからその絵をまだ破かず、あの少女からもらった絵をスケッチブックの中へと一緒に挟んで抱きかかえた。すでに夜も大分深まってきている。そろそろ寝よう。ドーブルはそう思って、木に寄りかかり目を閉じた。

 とっぷりと夜は深まり時刻が丁度零時を回ったころ、ドーブルはガサガサ、という物音と足音で目を覚ました。何者かが、草むらをかきわけてドーブルに近づこうとしている。何か嫌な感じを、ドーブルは肌で感じていた。
「いた! いたぞ! 捕まえろ!」
 草むらをかきわけていた数人の男の先頭が、ドーブルに向かって叫んだ。三人の男たちは腰についたモンスターボールを投げ、ポケモンを出す。二足歩行のとかげポケモン、リザード。驚異のスピードで相手を切り刻むストライク。巨大な蜂、スピアー。
「ブ、ブル!」
 一気に目の覚めたドーブルは、一目散に逃げ出す。まともに戦ったって三対一では勝ち目がないのに、絵の具セットを入れたカバンやスケッチブックを持ったままじゃあ、なおさら勝てない。それに、今このスケッチブックを汚されることはドーブルは絶対にされたくなかった。
 たくさんの木があったり、木の根が出っぱってて走りにくいこの森の中なら、ドーブルだって逃げ切るだけなら出来るかもしれない。
「おい、逃げたぞ、追え! ポケモンのくせにわしより絵の才能があるとは許せん! 絵だけ奪ったら殺せ!」
 そんなことを聞かされては、ドーブルは絶対に捕まれない。今捕まったら、全てが駄目になってしまう。あの少女の喜ぶ顔も、もう見れなくなってしまう。ドーブルは一心不乱に走る。
「ストライク! スピードスター!」
 ストライクから無数の星型の物体が放たれ、ドーブルを襲う。当然かわすことは出来ず背中にクリーンヒット。前に吹っ飛んでしまうものの、スケッチブックだけは抱きかかえて守った。
 ストライクに続くように、リザードとスピアーがドーブルへと飛び掛る。待ってましたとばかりに、ドーブルは尻尾を思いっきりふり、スピードスターを二匹へとお見舞いする。二匹はそのままドーブルの目の前でもろにスピードスターをくらうと、後ろへと吹っ飛んでいった。
 ドーブルが咄嗟に使ったのは、「スケッチ」。相手の技を自分の物にして使う技だ。ストライクがスピードスターを使ったのを感じ、すぐさまそれを真似て使ったのだ。
 二匹が吹っ飛び相手が一瞬怯んだ隙に、ドーブルは起き上がって走り出した。今だって、あの少女は頑張っているのだろう。絶対に、捕まることは許されない。
「追え! さっさと捕まえろ!」
 またも三匹が襲ってくる。ドーブルの足では、逃げるには限界があった。いろいろ荷物を持ったままじゃ、すぐに追いつかれてしまう。
「今だ! どくばり!」
「リザード! きりさく!」
 後ろを振り向く暇もなく、スピアーが放った毒針がドーブルへと突き刺さり、リザードの鋭い爪がドーブルの体を深く抉った。
 そのまま滑るように草むらの中にドーブルは倒れこむ。体は抉られ、毒針がささり、もはや動ける状態ではない。それでもやはり、ドーブルはスケッチブックだけは抱きかかえ、守った。
 もうすでに、手にはスケッチブックだけだった。ベレー帽も、絵の具セットも、どこかに落としてしまったらしい。
「まったく、てこずらせやがって」
 男の中の一人は無惨な姿になったドーブルには目もくれず、持っていたスケッチブックを奪い取ろうとする。だが、ドーブルはそれをしっかりと抱きかかえ、離さない。このスケッチブックは、ただのスケッチブックではない。あの少女の想いと自分の想いがつまった大事な絵。自分とあの少女の旅の最初の一枚が入っているのだ。
「ん? なんだこいつ。離せ!」
 男は無理矢理奪おうとするが、やはりドーブルは離さない。
「仕方ない。やっちまえ、お前ら」
 三体のポケモンが、一気にドーブルを襲う。抵抗は、出来ない。ただ、刺され弾かれ投げ飛ばされ何をされても、ドーブルはスケッチブックだけを抱きかかえて守った。大好きなあの少女の絵は、守りたかった。
 それからしばらくして、すでにドーブルは意識が朦朧としていた。体からの出血の量もあるかもしれないが、さっきのスピアーの毒が完全に体に周ったらしい。感じるのは、スケッチブックの感触のみ。
 少女と過ごした時間、誓いを交わしたあの日のことが、一瞬ドーブルの頭をよぎる。もう駄目だと諦めかけるドーブルに、その記憶だけが、ドーブルを踏ん張らせた。ここで諦めてはあの少女と旅をすることは出来ない。ドーブルは、必死に必死に、スケッチブックを守り続けた。
 刺され引き裂かれ投げられ、たたきつけられる。そんなことをもう何度繰り返されただろうか。
「とどめだ!」
 男の叫び声だけが一瞬聞こえ、最後のスケッチブックの感触を感じると、ドーブルは意識を失った。


    ◆    ◆


  ドーブルが意識を取り戻したとき、すでに周りは明るかった。自分が草むらの上にうつ伏せになっていることだけかろうじてわかって、後はなにもわからない。スケッチブックは……すでになかった。当然、昨夜の男たちが持っていってしまったのだろう。ドーブルは、自分が涙を流していることに気付いた。少女の想いの詰まった絵と、自分想いの詰まった絵は、奪われてしまった。もう、何も残っていない。
 ドーブルは血だらけでほとんど動かない体に鞭打って、かろうじて起き上がる。視界がボーっとするも、そこはいつもの場所からかなり近い場所にいることがわかった。そうだ、行かなければ。少女が、待ってくれているかもしれない。
 わけのわからない脱力感と痛みに耐え、フラフラとドーブルは歩く。真っ直ぐ歩いているつもりが、右に左にフラフラしてしまい、すぐそこにあるいつもの木の下になかなかつかない。やっとのことで着くと、ドーブルはドサっとその場に倒れこんでしまった。
 少女は、いなかった。きっとまだいろいろと頑張っているのだろう。
「ブ、ル?」
 ふと、木の下に一枚のスケッチブックが立てかけてあることに、ドーブルは気付いた。起き上がる力はすでになく、這ってスケッチブックのところまで行く。一枚の絵が、そこにはあった。どこか見覚えのある絵。それは確かに、素晴らしい絵だった。尻尾が水色のドーブルとお嬢様の格好の少女が手を繋いで、世界中を旅している絵だ。奇しくもそれは、自分が驚かせようとして描いた絵と、一緒だった。
 そっか。あの子も、自分と一緒に旅をしたかったんだ。ドーブルは、小さく微笑んだ。これはあの少女の絵。ということは、きっと足が治って、迎えにきたんだ。もしかしたら、少女も自分を驚かせようとしたのかもしれない。だったら、やっとこれから一緒に旅をすることが出来る。寂しさを忘れさせてくれたあの少女と、大好きなあの少女と。
「ドーブル。私、頑張ったよ」
 ふと、優しく柔らかな少女の声が聞こえたような気がした。
 よかった、治ったんだ。本当によかった。もうこれで、少女が悩むことはない。
「やっと、旅が出来るね」
 また、少女の声。
 嬉しい。一緒に旅を出来ることが、この上なく嬉しい。
「じゃあ、行こうか」
「ブルッ」
 ありがとう。君のおかげで、ボクは寂しくなくなった。
 少女の声に誘われて、ドーブルは歩きだす。見知らぬ世界に向かって、ゆっくり、ゆっくりと。


 〔了〕

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