【一】
旗がはためいていた。夕風吹き荒ぶ丘の上、何もない荒地の中心に、只一つ。
暮れゆく西日は彼方の稜線を越えようとしている。ぼちぼち町へと着き宿を取り、何日も歩き通した疲れを癒したい頃合いだった。もう野宿は沢山だ、そう私は考えた。
ゆえに、
「もし」
私は問うた。
他でもない、目の前で風にはためく旗に。
「旅の者だが、町まではあとどのくらいある。地図ではもう近い筈なんだが」
旗は返した。
「下ってすぐだ。もっとも貴様の身体でどれほど掛かるかは、おれには知れない」
抑揚に乏しい、存外高い声だった。
「どうも。お前さんも町の住民かい」
「おれはずっとここに居る。ずっとずっと昔から、ここでこうして居るのだ」
「へえ、旗の真似事をずっとかい。ヒトツキさん」
私は知っていた。目の前の旗は旗ではない、剣だ。柄から伸びる布を風になびかせ大地に突き立つ、一本の剣だ。尚且つ只の剣ではない。ものの本で見た覚えのある、ヒトツキというポケモンだ。
「どうしてまたそんな真似事を」
「分からない」
「分からない?」
「分からない。つまりこれは修行だ」
「修行ねえ」
そういうものか。そう思えど納得はし難い。何故ならこのヒトツキの有様に大きな矛盾があったからだ。
渦巻の文様が描かれた青い布はあちこちが無残に綻び、幾何学的な装飾の施された鞘は中の刀身もろとも大きく抉れ欠けている。きっとこれでは残る刃も無事ではないだろう。要は何処もかしこもぼろぼろだった。「ずっとここに居る」というヒトツキの言葉が如何ほど長い間の話であるかを、その全身が物語っていた。
以前見た本によればヒトツキは成長に伴い進化をするポケモンだ。であるのにこのヒトツキはヒトツキのまま。ぼろぼろになるほど生きているのに進化をしていない、成長をしていない。修行とは成長をする行為ではないのか。矛盾している。
「分からないことが修行なのかい」
「分かることこそが修行だ。こうして風とひとつになり、この世とひとつになり、おれはおれと世界を理解するのだ」
「は、殊勝なこった。私には無理だね。旗の真似事ならお前さんより余程得意だが、お前さんの真似事はできそうにない」
理解した。これ以上此処で話していると余計に疲れる。私は風に頼りなくボロ布を曝すヒトツキに背を向けると、夕間暮れの先へと一歩、歩み出した。
「こっちは気ままな根無しの身だ。しばらくは町に留まるつもりだが、まあ、お前さんとはもう会うこともないだろう」
【二】
翌日、朝から一通り町を見て回った私は再び丘の荒地へと赴いた。
「もう会うこともないのではなかったのか」
「また会うこともあるさ。気に入らないかい」
「構わない」
「お構いなく」
何をするでもなくヒトツキに寄り添う。未だ日の高い空を見上げれば一羽の鳥影。町から町へと手紙を運ぶ郵便ハトーボーだ。伝えるべきことを持った誰かがしたためた言の葉を伝わるべき誰かへと届ける、そんな役割を担い真直ぐに空を往くものだ。
――うちのじいさんのじいさんの代からずうっとあそこに突っ立ってるらしいんだけどね。どうにも得体が知れないよ。
ふと、宿屋の女将であるオオタチが今朝言っていたことを思い出した。出掛ける折、何とはなしにヒトツキの話題を出してみた時の反応だ。町のポケモン達にもののついでに尋ねてみても概ね同じ台詞だった。取り憑かれ魂を奪われるから近付かない方がよいとも言われた。
にも拘わらず私が今此処に居るのは、他にすることが無かったからだ。
新しい町できっと何かが見つかる、私は常にそんな期待を胸に旅をしている。が、これまでの所その期待が叶った試しはない。叶った試しがないことがより一層次の町への期待を大きくさせるのだが、残念ながら今回もこの胸の内が満たされることはなかった。私が昨夜辿り着いたのは、一切の過剰も不足もなく私が居ようが居まいが変わらない、のどかで豊かで平凡な町だった。
只、一つだけ。この町外れの丘に立つヒトツキの存在が私の頭に残っていた。ゆえに私は今日も此処へ来たと、そういう訳だ。近付くなと言われたが、することも寄る辺も無い私には別段失って困るものも無い。そも、このヒトツキときたら魂を奪うどころかいつまで経っても布をはためかせているだけだ。
「お前さん、ずっとそうしているつもりなのかい」
風の吹くまま問うてみた。
「ああそうだ」
事もなげに返ってくる。
「何処かへ行きたいとか思わないのかい」
「思うこともある」
少し面食らった。
「思うが、なればこそ修行になる」
大きな溜息が出た。
「融通が利かないな。見た目通り」
「ああ。決まりの形を持たない貴様とは正反対だろう」
「変化も悪くないさ」
興奮して言い返した。返してから、単にヒトツキは私の見てくれについてそのままを言ったのだろうと思い直した。この、昨日の今日対面したばかりの相手に私という命を見透かされたように感じてどきりとしたのだ。
私には、私が無い。
得体が知れないと、ヒトツキは町で口々に言われている。が、このポケモンには実に頑ななまでの己がある。真に得体が知れないのは私の方だ。流れるままの身である私に良くしてくれる町のポケモン達は、みな私のことをよくは知らない。
「なあヒトツキさん。お前さんはお前さんを理解すると言っていた」
私をよく知らないがゆえに、誰も私の得体の知れなさを知らない。
「私には私が全く分からん。なれるものは幾らもあるが、何をすればいいかは皆目分からん」
誰も、私の孤独を知る由もない。
「だから旅をしているんだ」
風が遊ぶ。ややあって、「そうか」と小さく声が返ってくる。落ち着かない沈黙を埋めるように私は、少しばかりの身の上話を始めた。訳も分からず故郷を飛び出しただとか、そんな下らない話。どうして始めたかも判然としない語りのなか、只ヒトツキは何も言わず、黒ずんだ布を風にはためかせていた。
【三】
「よお、見ない顔だな。旅のポケモンさんか」
夜も更けて。スイングドアを潜り薄暗い酒場へと一歩踏み込むと、カウンターから主人と思しきポケモンがしわがれた声を掛けてきた。青い身体に赤い喉袋を持った、二足歩行のポケモンだ。
「というか、あんたみたいな風体の奴を見るのも初めてだぜ」
「お互い様さ。そんなことは珍しくもないだろう。この世界に一体どれほどポケモンが居るかなんて、誰か知っているのかい」
「もっともだ。俺様はドクロッグ。ドクロッグの店へようこそ。その身体じゃこっちの椅子、は無理か」
「問題ないよ」
私は手足を伸ばし、カウンターの席に腰掛ける。主人は驚いた様子だったが、
「へえ。便利なことだな」
と、直に調子を戻した。
「で、何にする」
「おすすめを」
「なら断然あれだな。俺様のスペシャルな毒やら何やらをスペシャルに配合したスペシャルなカクテル。飛ぶぜ」
「飛ばないおすすめを」
「へいへい」
この店、私の他に客が居ないのは偶々ではないかもしれない。そんな風に思案している間に特大の樽型ジョッキが目の前に音を立てて置かれた。なみなみと注がれた液体が景気よく揺れて零れる。この少し苦いような香りはチーゴの実か。
「スペシャルじゃない方のスペシャルだ。折角の一見さんだからな。奢っとくぜ」
この店、私の他に客が居ないのは偶々だろう。
「いい町だろ」
「まあね」
「何もねえって顔しやがって。でもまあ刺激はないわな。他の町にはもっとこう、色々あるんだろ?」
「どっこい、そうでもない」
「そんなもんか」
苦甘いジョッキの中身を楽しみつつ主人であるドクロッグと言葉を交わす。そうしていると、他の客がやってきた。ドクロッグの対応から察するに常連のようだ。
闇色の身体に赤い目で四つ足のポケモン。見覚えある姿だった。今朝、広場の花壇の前に落ちていたブラッキーに違いない。
「ね。マスター聞いてよ。ぼく今日こそエーフィに声掛けようって思ってさあ。朝、例の広場で待ってたの。でもなかなか来なくてさ、そうしてるうちにその場で寝こけちゃってさ。やっちゃったよねえ。親切なポケモンが起こしてくれなかったらまだあそこで寝てたかもね。あはは!」
椅子に乗りカウンターに前脚を投げ出す格好で隣の席についたブラッキーは朝とは打って変わって騒々しい。その親切なポケモンというのは間違いなく私のことだが、ブラッキーがすぐ隣に居る私に気付く様子はない。まあ、道理だろう。
「そういやあんた。この町に来るとき東の丘を通ったか?」
不意にドクロッグに問われて、私は何故か暫し反応を返せなかった。
「ん、ああ」
「じゃあ見ただろ。あのええと、あれだよ、あいつ」
言葉よりも、ドクロッグの苦々しい顔が物語る。私は無言で頷いた。
「気味悪いよなあ、いつまでもあんな所に居やがって。ここだけの話、怖がってこの町に寄り付かないポケモンも居るんだぜ。町の連中は縁起悪いとか何とか言って誰も手出ししないしよ」
「うちのばあちゃんはヒトツキ様って呼んでる。守り神だって」
ブラッキーも話に割り込んできた。ドクロッグは益々険しい表情で吐き捨てる。
「へ、何が守り神だ。祟り神様の間違いだろうが」
「ぼく知ってるよ。あのヒトツキ、元はニンゲンだったんだってさ」
「ニンゲンだって?」
柄にもなく声が裏返った。
「お前さん、今ニンゲンって言ったかい」
「うん。正確にはニンゲンの生まれ変わり。大昔に滅ぼされたニンゲンの王国の騎士で、その魂が古い剣に宿ったんだって。今はもう何も覚えてないんだけど、護れなかった主をずっとあそこで待ってるらしいよ」
「そんな話、お前さんは何処から」
「おいあんた、こんな話本気にするもんじゃないぜ。あれだろ。どうせまたあの、ほら吹きマダムが言ってたんだろ」
「ゴチルゼルさんはほら吹きマダムじゃないってば」
「あの野郎、うちのかみさんが出てくなんて話ひとつも言ってなかったじゃねえか」
「あは、それはマスターが悪いんでしょ」
盛り上がる二匹の会話を余所に、私は思考の内に居た。
ニンゲンという生き物については色々な書物で見かける。が、どれもこれも物語めいた内容だったり物語そのものだったり、大昔に存在したらしいと語られているだけのあやふやな存在だ。なかには大真面目に実在を論じる学者も居るが、大抵のポケモンにはそっぽを向かれている。本当に居たら面白いけれどそんなものは居ないだろう、それが大多数のポケモンが持つ常識かつ良識であり、私とて例外ではなかった。
ゆえに。あのヒトツキはニンゲンの生まれ変わりであるなどと、あやふやにあやふやを重ねた話はドクロッグの言う通り本気にするものではない、ない筈だ。なのに。どうしてかそれを無視できない私が居る。どうしてか、どうしてか――。
「あんた、大丈夫か」
「――ああ。すまない。考え事をしていたんでね」
「眠いなら宿のベッドで寝てくれよ。一応言っとくが、このブラッキーに付き合ってたらきりないぜ」
「そうそう。ぼくとことん夜行性だから、あはは」
「それは今朝思い知ったさ」
そう言うとブラッキーは目を丸くして首を傾げた。これでも気付かないか。
「ごちそうさま。主人、勘定はこれでいいかい」
「奢りって言ったろ」
「常連さんの手前そうもいかんだろ。いいさ、これは私からの気持ちだ」
私は尚もぶつくさ言うドクロッグに金を押し付け席を立った。
去り際、
「でもゴチルゼルさん言ってたよ。あのヒトツキ、きっともう長くないって」
そうドクロッグに話すブラッキーの声が妙に鮮明に響く。
不意に気付いた。
旗だ。旗が立っている。あの丘で風にはためくぼろぼろの青い旗。それが今や、私の心にも確かに深く突き立っている。
【四】
翌朝、日が上ってすぐに私は丘の荒地へと急いだ。
果たしてヒトツキは昨日と変わらずそこに居た。変わらずぼろぼろの身体を大地に突き立て、風にはためいていた。
「なあ。一緒に旅をしないかい」
戯れに問うてみた。
「私と来て、世界を見れば何かお前さんにとって素晴らしいものが見つかるかもしれない。何処かへ行ってみたいんだろう」
自分でも笑わずにはおれないくらい間の抜けた言葉だ。
案の上、
「断る」
そう返ってきた。何故か安心した。
「おれはずっとここに居る。ずっとずっと昔から、ここでこうして居るのだ」
「だが、お前さんはどうして自分がそうしているかも分からないんだろう」
「そうだ」
「何でお前さんは分かりもしないことをやり続けるんだ」
そんな姿になってまで。
「貴様は」
幾度か風が吹き抜けて少し止んで、ヒトツキは静かに言った。
「貴様は自分が何をすればよいか分からず旅をしていると言っていた」
「ああ」
「それを聞いて思った。ある意味ではおれも同じだと。何をすればよいか分からないから、何故しているかも分からないことに縋るのだと」
「……」
「それでも」
陽光滲む眼の向こうで草臥れた旗が揺れる。
「おれはこうすべきと感じている。これはおれにとって確かなことなのだ。辛うじてかもしれないが確かに一つある、他の誰でもないおれの幸せだ。こうし続けることでおれはおれで居られる。だからし続ける、最後までし続けるのだ」
言葉もない。
まったく本当に融通が利かない。
ずっとずっとこんな何もないだだっ広い荒地に居続けて、だから、
「貴様は貴様としておれの身を案じてくれた。ならばおれはおれとして、貴様の旅が良きものとなることをここで祈っている」
だからこうして出会った。
【五】
何もない。風吹く丘の上、本当に何も無くなってしまった荒地の中心に私は立っている。
日の高い空を一羽の郵便ハトーボーが往く。その鳥影へと誇るように、私は風に力強くはためいてみせた。
大地に突き立つ青い旗、それが今の私だ。何処にも綻びのない、陽光に映える鮮やかなブルー。何にでもなれるメタモンの私であるから、この輝かしい姿のまま居続けることだって造作もない。
ずっとという保証はない。ないが、飽きるまではこのままで居ると決めた。そう、飽きるまでずっと。この心に突き立ったぼろぼろの旗が消えるまでは。それは私が私として決めたことだから。