第15話 「あさのひざし」 (5)

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◇11


 戦いの喧騒が遠くに聞こえた。
 クロを追い、戦っているうちは気に留める余裕もなかったが、森の深部は異様な息苦しさに満ちている。
 多くのポケモンたちが町へ向かった。森に残るポケモンたちも、誰もが殺気立っている。射抜くような無数の視線。同胞を傷つけられた怒りが蔓延し、伝染し、増幅されて。まるで森そのものが憤っているようだ。

 きっかけを作ったのは、ここにいるクロ。
 そして、それをけしかけたのは。

 ユウトは、隣を走るクロを見る。クロは極めて不機嫌そうに目を背けた。
 クロの目論みはすでに潰えた。
 けれど、彼女の目的はこれからのはずだ。

 そう、はじめからそうだったのだ。
 ゴクトー島で、黒服たちと遭遇した時も。
 ケットシティを出て、夢をみせられた時も。
 マルーノシティで、リョウシに二匹が攫われた時も。
 狙われていたのは、シロとクロ――

 では、ない。

 クロがユウトたちを裏切り、シロを連れ出そうとしたのは、そうすれば姉と自分の安全を確保できると考えたからだ。
 つまり、自分たち、いや――ツバキと、離れさえすれば。

「くそっ」

 わかっていても、口をついて悪態が出た。
 落ち着け。焦るな。
 知らないものに、全てを知られ操られている。
 わけのわからないものに、命運を握られ続けている。
 ツバキも、家族も、この旅も。そんなものに好きにされたままでたまるか。



◆12


 ツバキはめちゃくちゃに走っていた。
 振り落されないように頭にしがみつくフタバに悪いとは感じつつ、でも足を止めようなんて思えない。

 ハクと、クゥを置き去りにした。
 他のみんなだって、きっと今頃戦っている。
 なんで。どうしてこんなことになった?

 森が怒ってる。ひしひしと感じる。自分の存在を拒絶している。

 サレ
 デテイケ

 涙が出そうで、乱暴に拭った。泣き声がもれそうでぐっとこらえた。

 どうしてだかはわからないけど、自分はこの森の奥へ入ってはいけない。
 なのに、どうしようもなく強く感じる。この森の先に、誰かがいる。
 その存在への想いが、焦がれが、胸をかきむしるように苦しい。

 だから、ひたすらに走るしかなかった。そうしていないと、熱くなる自らの吐息にさえ体を中から焼かれそうだった。
 真っ暗でほとんど視界も効かない。張り出した枝や草が幾度となく顔を、体を掠めて、傷が熱をもっている。靴もぼろぼろで、土や小石が入り込んでいる。
 熱い。熱い。頭が何も考えられない。
 この森に来てから、なにかが変だ。
 なにが? どうして?
 ここは、なんなの?

 突然体がつんのめった。
 大きな木の根に躓いたらしい。
 勢いを殺せず、体が宙に投げ出される。
 その先は坂になっていたらしい。背中を打っても勢いは止まらず、転がって上も下もわからなくなる。落ち葉が体中にまとわりついて、口に土の味が広がる。

 どれぐらい落ちただろうか。ようやく体が止まった時、ツバキはうつ伏せに倒れていた。頬に冷たい土の感触。このまま土に埋もれていって、自分が消えてしまうような錯覚を覚えた。
 心臓が怖いくらいどくどくと脈打っていて、全身ぶわりと汗をかいていた。夜気に晒され、燃えるようだった体から急激に熱が奪われていく。それでも動悸は収まらない。

 起き上がろうとして、一度よろけた。土に手をついていつもより重く感じる体を支える。
 冷たい風が汗ばむ体を撫でていく。なんとか立ち上がると、急に視界が広がった。月明かりがまぶしいくらいだ。

 そこは広場のようだった。木々が避けるように取り巻いて、なにもない空間を作っている。こんなに空が広いのをずいぶん久しぶりに見たような気がした。星が、月が輝いている。

 そうだ、フタバは?
 慌てて見回すと、彼女はすぐ足元にいた。こんな夜中でも花開いたままのチェリムの姿が、おかしなほどにはっきり見える。フタバは心配そうにツバキを見上げ、体に触れてくれていた。小さくてやわらかい手の感触が、なんだかとても心強い。

 そのとき、ひときわ強い風が吹いた。目を開けていられず腕で庇う。フタバはツバキの両足にしがみついて耐えている。
 木々が倒れるんじゃないかと思うほどに揺れ、しなり、暴風に共鳴して轟々と音を立てている。そう、まるで、敬愛する主の登場に沸くかのように。

 風が止んだ時、それはいた。
 正面に見える大樹の天辺。腕を組んで君臨するシルエット。それは宙へと跳び上がり、大きく弧を描くように舞って、ツバキの目前へと舞い降りた。
 鋭く尖る長い鼻。天を衝く耳。巨大なうちわのような腕。月明かりを受け、真っ白にたなびく長いたてがみ。
 よこしまポケモン、ダーテング。彼を畏怖する者たちから与えられたまたの呼び名を。

「“森ノ人”――!」

 先程アイハから聞いた名前。何百年も前からシラヒの森に棲むという、森の守護者。
 そのたてがみが作る影だけで、ツバキを覆って余りある巨躯。しわがれた老樹のような身の放つ威圧。その眼光に射抜かれるだけで、気を失ってしまいそうだった。

 それでもなんとか踏みとどまって、ツバキはその目を睨み返す。
 以前会った時は、怯えてなにもできないまま追い返された。
 今だって、立っていることさえもただの虚勢だ。奥歯はがちがちと震えているし、凍りつくような汗が体中から噴き出している。
 全身が逃げ出したいと訴えている。なのに、目を逸らすこともできない。

 こいつが、親玉だ。
 森で攻撃してきたコノハナや、アイハの家を襲撃したポケモンたちの。
 こいつを倒せば、全部終わる。

 こいつを、倒せば。

 ――どうやって?

 いつのまにか気を失いかけていた。そうだと気付けたのは、フタバがぺしぺしと足を叩いてくれたからだ。ツバキはぶんぶんと頭を振る。
 睨まれただけで、意識が遠くなるほどの威圧。だがそれだけで済ませてくれるはずもなかった。

 ダーテングが腕を振り下ろす。そのうちわのひと扇ぎだけで、突風がツバキに襲いかかった。踏ん張る間もなく足が地を離れ、体が浮き上がる。風は渦を巻き、暴風となって荒れ狂い、無防備な体を弄ぶ。自分の悲鳴さえ耳に入らず、風の音しか聞こえない。上も下もわからない。無限に続くように思われた地獄は、前触れもなく急に終わった。地面にたたきつけられ、息が止まって悲鳴も出ない。一度弾んだ後地面を転がって、再び土を味わった。

「えぐ、げほっ……、うぐ……っ!」

 咳き込んで、起き上がろうとした途端に気持ち悪くなって口を押さえた。酸っぱいものがこみ上げてくる。慌てて顔を伏せた。心臓が早鐘を打っている。
 風の摩擦と地に落ちた衝撃で、体中が痛かった。ようやく落ち着いて擦りむいた箇所を抑えながら起き上がると、フタバが駆け寄ってくれていた。どうやらフタバは風に巻き込まれなかったらしい。すぐ近くにいたのに、正確に自分だけを狙ったというのか。

 ツバキは呼吸を整えながら顔を上げる。ダーテングと目が合った。
 びくりと体が硬直した。息苦しい。動けない。まるで森そのものから、身動き一つさえ禁じられたように。

 サレ
 タチサレ

 拒絶。それが森の意志。ここにいることを許されない自分。
 気付いたら涙がこぼれていた。
 圧倒的な存在に、全てを否定される感覚。

 一時でも、倒そうと考えていたことが恐ろしい。
 相手は普通のポケモンではない。このダーテングは森の守護者。森の代弁者であり、森そのものだ。
 そして自分は、その森に拒絶されている。
 いったい自分に、何ができるというのか。
 シロもいない。クゥも、ハクもいない。この森にきた日、ユウトが言っていた通りだ。今まで戦って傷ついてきたのは自分じゃない。所詮自分ひとりでは何もできない。

 フタバが攻撃されなかったのは、彼女がもともとはこの森の住人だったからか。
 ならせめて彼女だけでも、無事に帰してくれるだろうか。

 自分はもう、どうなっても構わないから。

 平穏を乱しているのは、きっと自分の方なのだ。
 この森にとって自分こそが異物なんだ。
 自分がここでおとなしく排除されさえすれば、それで終わる。
 もう誰も戦わなくて済む――


 ぺし。


 頬をはたかれて、ツバキははっと我に返った。
 胸元までよじ登ってきたフタバの手だった。
 弱い力だった。だけどはっきり、意識を引き戻してくれた。

 どうしてそんな顔するの?

 ツバキはフタバを見つめ返す。フタバは泣きそうな顔を翻すと、ツバキの体から飛び降りた。
 すとんと着地して、前を見る。そのまままっすぐ駆け出した。敵に、向かって。

 どうしてきみが戦うの?

 フタバはダーテングの足元で、ぽかぽかと小さな手を振るった。何度も、何度も。ダーテングはびくともしない。表情すらも変わらない。

 フタバはわずかに距離をとり、花びらを刃に変えて放った。それは老樹の体にほんの微かな傷をつけたが、うちわの一振りでひらひらと無力に散らされた。その風圧でフタバの体も後ろに転げる。

 ダーテングがほんの少しだけ目を細めた。その視界にフタバを映す。
 森の守護者に隷従せず、調和を乱す娘のために戦おうとする小さな命。
 ダーテングは疑問を抱かない。しかし躊躇うこともしなかった。敵となるなら、その花もまた散らすのみ。

 彼の周囲で、ふわりと無数の葉が浮かび上がる。それは鋭利な凶器となって、ダーテングはその葉刃を風にのせて撃ち出した。

「フタバっ!」

 フタバが危ない。
 気付いたら足が動いていた。
 ツバキはフタバに飛びついて、抱えるように転がった。伏せていないと吹き飛ばされそうな風。葉の刃が腕を、頬を、身体中のあちこちを掠めていく。髪留めが切れ、髪が散らばった。服の裂け目から血が流れ出す。傷口が熱い。

 ダーテングの起こした風が止む。
 腕の中に、小さなフタバのぬくもりがある。鼓動を感じる。消えてない。あたたかい。

 どうして、自分なんかのために。
 自分なんか放っておけば、フタバが攻撃させることはなかったのに。
 自分は排除されることを受け入れようとしていたのに。

 フタバと目が合う。怒っているみたいだった。フタバのそんな顔を初めて見た。
 フタバもこの森で生まれたのに。この森がツバキを拒絶しているのに。
 なのにフタバは、ツバキのことを想ってくれる。ツバキのために立ち向かってくれる。

 なのに自分が、黙ってやられていいわけがない。
 こんなわけもわからないまま、諦めてしまっていいはずがない。

 ツバキはフタバを強く抱きしめた。
 彼女の意識を近くに感じる。まるで触れ合い、重なるように。

「許さない」

 それは誰に対しての言葉だったか。
 頭がまっしろになっていく。全身の血が沸騰するみたいだ。
 傷が痛む。血が流れる。鼓動が脈打つ。熱い。熱い。
 そこから先は、曖昧だった。まるで意識が焼き切れるように。


 ダーテングは初めてその身に危険を感じた。否、はじめから感じてはいたのだ。彼女が森に入った時から。
 ダーテングはうちわを振りかざす。一刻も早く、今すぐに、彼女を森から遠ざけなければ。
 しかし、全ては遅かった。

 ダーテングはうちわを振り下ろす。風が風を巻き込み暴風となって、少女たちに襲いかかる。しかしダーテングの生み出した暴風は、少女たちに触れる前に掻き消された。ダーテングは驚愕する。風を消したのは、より巨大で濃密な力をもつ、熱のかたまり。めらめらと熱を発する、光の球体。それが少女たちの前に出現し、ダーテングの力をはねのけていた。

 そんなことができるのは。
 この森においてダーテングの力を上回るものは、ひとつしかない。
 止められなかった。もう手遅れであったことをダーテングは悟った。

 その球体は、あのチェリムが生み出していた。当然、彼女ひとりの力ではない。チェリムが受け取った力そのものの姿を現すように、それは形成されていた。

 それはまさしく太陽だった。
 轟々と燃え盛るように熱を放つ球体が、チェリムの、少女の姿を覆い隠すように膨張していく。
 “ウェザーボール”。人が名付けた理に従えばそう呼ぶものだ。
 しかしこれは、一体のポケモンが扱う力の範疇を超えている。

 気象の力を現出させるその技が、今映し出している力の正体。目覚めさせてはならないもの。
 これはまさしく、王の、シラヒの――

 ダーテングの意識はそこまでだった。
 真夜中に具現した太陽が、森の守護者を焼き尽くす。

 その炎は煌々と闇夜を支配して。
 森を吹き抜ける風が、止んだ。



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