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 マラサダショップを出た後、ぼくはハウに連れられて再び乗船所を訪れた。出入り口の前まで来ると、
「じゃあ、頑張ってねー!外で待ってるからー!」
 そう言って、ハウはどこかへ行ってしまった。一人残されたぼくは、逃げ出してしまいたいという気持ちを抑え込んで、出入り口の自動扉をくぐった。
 心臓の鼓動が嫌にうるさく聞こえた。周りの人に聞こえていないだろうか。歩き方がぎこちなくなっていないだろうか。どんな不安も、知らぬ間に飽和する感情の渦の中へ呑まれて消えていった。一歩一歩近づくたびに、顔が熱くなっていくのがよく分かった。
 何と声を掛けていいのかは分からなかった。ただ、こちらに気付いてもらえなければならないという思いが、最初の一言を絞り出した。
「あのっ……!」
 自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。小さな肩がびくっと跳ね上がった。自分かな、という風に恐る恐るこちらを向いた彼女に、ぼくは次に浮かんできた言葉を告げた。
「急に来てこんな事言うとびっくりするかもしれないんですけど」
 断られるかもしれない。断られても仕方がない。心の中ではそう思いながらも、しかしハウにもらった勇気は確かに、後ろめたい気持ちを押しのけてぼくが前へ進む後押しをしてくれた。スタートを切ってしまえば、後はもう勢いに任せるだけだった。ぎゅっと閉じてしまいそうな目をぱっちり開いて、彼女の顔をしっかり見つめて、はっきりとした声で伝えた。
「一目惚れ、しました」
 彼女の目が驚きに見開かれた。しばらくまじまじとぼくの目を見つめて、やがてその目に涙が浮かび始めた。最初はじわりと滲み出る程度だったのが、徐々に大粒のそれに変わっていった。
「あ、あの、大丈夫……?」
 せっかくハウからもらった勇気が、彼女の涙で湿っていくようだった。そこにいくばくかの申し訳なさも加わって、あれほど大きかったぼくの声はすごすごと萎んでしまっていた。
「ごめんなさい。ちょっと、心の整理がついてなくて……」
 彼女は涙を止めようと必死で涙を拭っていた。それでも、涙は次から次へと溢れてきた。
「こっちこそ、ごめんなさい。いきなり押しかけてこんなこと言ったら困るよね」
 お詫びの意味も込めて、ぼくはポケットからまだ使っていないハンカチを取り出して、彼女に渡した。すると、彼女はハンカチを受け取りながらも、首を横に振った。
「そうじゃないの……私……」
 彼女の喉はひくついて、言葉を紡ぎ出せないようだった。それでも何か言いたげだったから、ぼくは何も言わずに彼女の言葉を待った。少ししてやっと落ち着いた彼女は、おもむろに口を開いた。
「私、24日後の夕方に、船に乗らなきゃいけないの。だから、せっかく声かけてもらったのに、お別れしなきゃいけないの」
 それは、その時のぼくにとってはあまりにも残酷な宣告だった。別れる当日に告げられるのはショックだっただろうけど、離ればなれになるのが分かっているというのは、それはそれで辛い気がした。
「でも、船は怖いからちょっと不安なの。だから……」
沈みかけたぼくを見て、彼女は言った。
「もしよければ、あなたにお見送りしてほしいな」
 断られるかもしれない。断られても仕方がない。そんな雰囲気が、嫌でも伝わってきた。それくらい、彼女は長い間思いつめていたのだろう。見る限り、ずっと一人で出発の日を待ち続けていたんじゃないんだろうか。そうでなくとも、彼女のお願いを断る理由なんて、見当たらなかった。
「もちろん!」
 最初の勢いを一気に取り戻して、ぼくは叫んだ。彼女の肩が、またびくりと跳ねた。それまで泣いていたのが嘘のように、彼女の顔がパッと輝いた。
「嬉しい……!約束ね。24日後の夕方だから!」
「うん……!分かった、約束……!」
 ぼくに詰め寄って、手を取ろうとした――と思ったら、祈るように両手を組んで笑った彼女に、ぼくは右手の小指を差しだした。でも、彼女は何のことか分からないという顔で首を傾げた。地方が違えば約束の方法だって違うのだと思い立って、ぼくは差し出した手をすぐに引っ込めた。じゃあ、と軽く手を振って乗船所の出入り口へ向かって歩き始めたぼくは、相変わらず動きはがちがちで、周りから見てもぎこちなかったのだろうと思った。あと一歩で自動扉が開くというところで、
「それと……!」
 びっくりするくらい大きな声が背中にぶつかってきた。心臓が跳ね上がった。それは、彼女がぼくを引き留めた声だった。ぼくが声を掛けた時もこんな感じだったんじゃないかって思うと、少し申し訳ない気持ちになった。
「もしよかったら、これから毎日、この島で体験したことを聞かせてほしいな」
 その時のぼくは、きっと心底驚いたような顔をしていたんだと思う。彼女の方から誘ってくれるなんて思っていなかったぼくは、どぎまぎしながらも必死に笑顔を作って言った。
「喜んで」
 笑顔が引きつっていないかどうかなんて考えは、頭の中から完全に抜け落ちていた。

「おーい、サンー!」
 乗船所から出ると、辺りはもう暗くなり始めていた。乗船所からちょっと離れたところにある電灯の下でハウが待っていた。大きく手を振るハウのところまで駆けて行って、一緒に歩いて家路についた。
「どうだったー?」
 歩きながら、ハウが訪ねてきた。ぼくは、彼女が24日後に旅立ってしまうこと、その見送りをすること、出発の日まで毎日、彼女と会う約束をしたことを伝えた。肝心な時に限って、ぼくの思考は普段の何倍も遅くなってしまう。上手く言葉が浮かんでこなくて、片言になったり何度か言い直したりしながら話すぼくに、ハウは笑って
「えへへ、よかったじゃん」
と言ってくれた。
 こうしてここまでこれたのは、みんなハウのおかげだった。だからこそ、ちゃんと伝えなければならないと思った。
「ハウ」
「なにー?」
 名前を呼んだはいいのだけれど、次の言葉が喉に突っかかって出てこない。
「その……何というか……」
 喉のつかえを取るように、ゆっくり、大きく深呼吸をして、ぼくはその言葉を告げた。
「ありがと」
 照れくささに顔を背けてポケットに手を突っ込んだぼくに、ハウは白い歯を見せてにかっと笑ってみせた。
「あ」
 思わず素っ頓狂な声が漏れた。ポケットに入れた手が違和感を覚えたのだ。今の今まで完全に忘れていた。
「ハンカチ、返してもらうの忘れてた……」
 どうしよう、と振り向くとハウはまた笑って、頭の後ろで両手を組んで言った。
「また会いに行くんでしょ?次に会う時でも大丈夫だよー」
 そうやって何事も楽観的に考えるのは、ハウのいいところだと思った。過ぎてしまったことを悔いても始まらない。ぼくも見習わないと、と心の中で繰り返した。
 ふと見上げた星空を、一筋の光が流れていった。それはほんの一瞬のことで、まばたきをした次の瞬間には、星空のどこかに消えてなくなっていた。

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