暴食の死神

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作者:きとら
読了時間目安:38分
 6月下旬
 午前10時42分
 ホウエン地方北部
 120番道路
 天気、雨



 伝えなければ! 早く、一刻も早く!

 体格のしっかりしたアブソルは、ぬかるんだ地面を蹴って崖を跳躍(ちょうやく)した。体を少しでも前に推し進めようと全身を使って、彼は出しうる最高の速さで走り続けた。
 しかし時折、速さをゆるめて振り返る。昨日から降り続ける雨は、2匹の距離を簡単に離していく。大人のアブソルが走れば走るほど、後ろの小さなアブソルは泥の地面に足を滑らせ、木の根っこに引っかかり、体をどんどん傷だらけにしていた。
 もう少し速度を落とすべきか。大人のアブソルは迷っていた。とにかく時間がない、急いでこの事を誰かに知らせなければならない。できれば力を持った存在に。人間、伝説のポケモン、とにかく何でもいい! 私の役目は、この先起こりうるかつてないほどの厄災を世界に知らせることだ!

 大人のアブソルは再び速度を上げながら、空に向かって吠えた。
 こっちだ、しっかりついて来い!
 走り始めてから何度かこれを繰り返しているが、返答がきた試しはない。しかし大人のアブソルには分かっていた。自分の娘はとても無口で、ほとんど声を聴いたことがない。だが彼女はとても賢く、(しん)の強い頑張り屋なのだ。これくらいの悪天候の森に負けるはずがない。

 やがて距離の離れた2匹は、やや下り坂の森に差しかかった。それが最も人里に近づくためのルートだ。だが、泥で滑りやすくなった地面を下ることは大人のアブソルでも簡単ではなかった。必然的に速度を落とさなければならなくなる。
 足の速さと反比例して、焦りがつのる。気がつけば、溜まりに溜まった疲労と不安感で足がこわばっている。それらを荒い息でごまかしながら、大人のアブソルは下り坂を走った。

 視界は相変わらず雨と森のせいで悪かったが、それでも遠くに目を見据(みす)えると、木々のない開けた場所がかすかに映った。
 道路だ! 大人のアブソルは確信した。希望が湧いてきて、自然と笑みがこぼれた。
 森を抜けて道路に出られれば、人里(ひとざと)はもうすぐだ。人間たちに厄災を知らせることができる。たとえ言葉は通じなくとも、必死さは伝わるはずだ。願わくば、最初に出会う人間が心の曇った(やから)でなければいいのだが。

 あの厄災はポケモンだけで防ぐことはできない。人間だけで防ぐこともできない。そもそも、私がこれまで見てきたどの厄災ともスケールが違う。
 どうして未来を見通す目を持つネイティオが寡黙(かもく)に空を見つめ続けるのか。その理由も分かった。彼らはそれ(・・)を運命として最初から受け入れているようだが、私は違う!
 必ず、厄災を防いでみせるぞ! 娘のためにも……!

 大人のアブソルは必死だった。視えた絶望が大きすぎて、彼はいてもたってもいられなくなったのだ。だから彼は走り出した。
 飛び出した道路で、長時間の運転にうんざりして眠そうにあくびをしている運転手が乗る大型トレーラーが待ち受けているとも知らずに。
 世界に降りかかる巨大な厄災に囚われすぎて、己に降りかかる厄災に気づいたときは、もう手遅れだった。




 *




 黒のトレンチコートとハンチングをかぶり、丸眼鏡をかけた、薄毛でやや小太りの男――アルバートは、しとしとと降り続ける雨と、それをもたらす灰色の空を呪った。
 少しは期待していた。雨の多いこの地域の晴れた姿は、特に虹がかかるとそれはそれは美しい景色だと言われている。無駄足とも呼べたこのホウエン地方への出張も、それで少しは気が晴れると思っていた。
 ホウエン地方の珍しいポケモンを仕入れるルートを開発しようとして、なぜ交渉相手を殺す羽目になるんだ。アルバートは自問して、自答する。簡単だ、相手も我々ロケット団と同様のマフィアで、自分に有利な交渉がしたかったからだ。
 とはいえ我々の頭にいきなり銃を突きつけ、言いなりにならないと知るや否や、ブーピッグを繰り出して、サイコパワーで我々の脳みそをかき回そうとするだろうか。普通そこまでしないだろう。強引すぎるし、何よりスマートさに欠ける。まったく田舎のマフィアは、交渉の意味もよく理解していない。すぐに武器を取りたがる、頭に血がのぼった連中ばかりだ。

 (なげ)いていてもしょうがない。アルバートは今ある景色に満足することにして、雨粒だらけの窓を見つめた。そしてすべての不満をこめて呟いた。

「嫌な天気だ」
「音楽でもかけますか?」

 運転手の男が親しげに言った。
 彼のことはよく知っていた。経歴はもちろん、配偶者のことまで。下っ端の末端に過ぎなかった彼を――まっとうな仕事の給料では返済できないほどの借金を抱えた果てに悪の道に走ってしまった彼を、わざわざお抱えの運転手に引き入れたのは、彼がこういう気づかいのできる控えめで気のいい男だったからだ。
 アルバートは首を背もたれに預けて目を閉じながら、リクエストを頼んだ。

「穏やかな奴を」

 しばらくの間、アルバートの意識は格調高いクラシックに包まれた。豊かな湖にハクリューが舞い、ラプラスが歌う。幻想的なイメージに身を(ひた)す。これがたまらなく心地よくて、目尻に涙が浮かんできた。
 なんと(はかな)いのだろう。そしてなんと美しいのだろう。感情の底の底を深く刺激してくる音の連鎖。穏やかに流れる曲調は悲しくもあるが、これが至高(しこう)の喜びを感じさせてくれる。

 彼のお楽しみが終わったのは、感情の高ぶりが最高潮に達するまさに曲の終盤だった。
 突然車が止まって、前に押し出されそうな衝撃が走った。アルバートはとっさにシートポケットに入っている銃に手を伸ばしながら、運転手に訊ねた。

「おい、どうした?」
「すみません、ボス。道路にポケモンが……」
「なに?」

 右側の窓から道路を見やると、二車線の道路をまたいで横たわっている白い四足のポケモンが目にとまった。
 その姿には見覚えがあった。先の交渉で見た、ホウエン地方の珍しいポケモンのリストに()っていた奴だ。名前はなんと言ったか……そう、アブソルだ。
 たとえ珍しいポケモンでも死体では戦えない。ましてや道ばたで死んでいるポケモンだ、毛皮を()いで売る気にもならない。

「死体に用はない、避けて走れ。タイヤを汚すなよ」
「いえ、ですが……」

 運転手は困り顔を浮かべながら、後ろのアルバートに振り返り、前方を指さした。
 まだ何かあるのか。アルバートは度重なる不運にうんざりしつつも、身を乗り出してフロントガラスの向こうを見やった。

「これは……驚いたな」

 車のちょうど真正面に、死体よりもひとまわり小さな体格のアブソルが鎮座(ちんざ)していた。ヘッドライトに照らされてうとましそうに顔をそむけてはいるが、運転手が短くクラクションを鳴らしても、いっこうに動く気配を見せない。
 自殺願望のあるポケモンだろうか、それともわざと邪魔しているのか。いずれにしても、それはアルバートの好奇心を強く()きつけた。

「少し待っていろ」
「ぼ、ボス?」


挿絵画像



 運転手が止める間もなく、アルバートは傘を差して車から降りた。
 小さなアブソルは近づいても逃げる様子を見せなかった。しかし相変わらず眩しそうにしていたので、アルバートは運転手に手で合図を送り、ヘッドライトを消した。
 すると、小さなアブソルはやっと顔を上げてアルバートの目を見つめた。しばらく互いに動かず見つめ合った後、アブソルは鳴きもせずに立ち上がり、横たわる死体のそばに歩み寄って、再びアルバートに振り返った。

 見たところ、2匹は親子らしいな。倒れた親を助けてくれと言いたいのか。
 アルバートは小さなアブソルを見つめたまま、目を細めた。
 それ(・・)を理解できないとは、哀れなものだ。まだ親が生きていると思っている。死体の辺りに血はわずかに残っているが、ほとんど雨で洗い流された後だ。もはや体からは出血すらしていない。死後数時間といったところか、どちらにせよ助ける術はない。
 だが、アルバートの興味を惹いたのはそのことではなかった。

「お前……どうして鳴かないんだ? 死は理解できずとも、親や仲間が傷を負えばうるさく(わめ)き散らすはずだ。助けてくれ、助けてくれと哀れに懇願(こんがん)してくるはずだ。なのにお前は、何も言わない……ずっと静かだ。冷静な性格にしても、常軌(じょうき)(いっ)している」

 言葉はおそらく通じていないであろう。だが、アルバートはアブソルに問うた。
 もちろん返事はない。ざあざあと道路を打つ雨の音だけが辺りを支配する。再び彼らは視線を交わし続けた。アブソルの目はくりっと丸く小動物のような……ではない。確かに子供らしくやや丸みを帯びているが、赤い瞳の奥は暗く深く、そして冷たい。何故だろう、私はこの目に見覚えがあるぞ……。
 しばらく見つめ合った末に、アルバートは息を()んだ。これは、なんということだ! ポケモンにもそういうこと(・・・・・・)があるのか!

 驚きのあまり、傘の柄を握る手に力がこもった。こんなポケモンに出会ったのは初めてだ。正体を知ったとたん、このアブソルが欲しくなってしまった。
 だがアルバートはすぐに力を解いて、車の運転席の窓をノックした。

「おい、車にポケモンフーズは積んであるか?」
「ボスのポケモン用にいくつか。何故です?」

 窓を開けながら訝しげに訊ね返してきた運転手に、アルバートは薄笑いを浮かべて言った。

「通りがかったのも(えん)だ、奴に与えてやろう」
「無駄ですよ、親が死んだんです。きっとすぐにのたれ死にますよ」
「ああ、たぶんな」

 それでも催促(さいそく)してくるボスには逆らえない。運転手は「お好きに」と返しながら、助手席のグローブボックスからカラフルな箱と器を取り出して、アルバートに手渡した。
 アルバートは道路の脇に傘を置いて、その下に器を置いてポケモンフーズを注ぎ入れた。山盛りになったそれは、小さなアブソルと同じぐらいの大きさだった。

「4、5日はこれでもつだろう。その先はお前次第だ」

 きょとんとしているままのアブソルを置いて、アルバートは次に死体の処理にかかった。
 処理、と言っても埋める訳ではない。死体を抱え上げて、反対側のガードレールの向こう――崖のような急勾配(きゅうこうばい)めがけて放り投げた。
 その作業を見たとたん、先ほどまで大人しかったアブソルが、突然アルバートに牙をむいた。威嚇(いかく)の声をあげる訳でもなく、跳躍(ちょうやく)して、頭部の黒い鎌で斬りかかったのだ。

「ボス、危ない!」

 運転手が叫ぶと同時に、アルバートは落ち着いた様子で少し立ち位置をずらした。目標を誤り、アスファルトの道に無様に転がるアブソルを見下ろしながら、アルバートは言い放った。

「あれはもうただの死骸だ、お前の親は死んだ。探しに行くなよ、そのうち死肉をつつきに野生ポケモンが来る。お前もつつかれたくはないだろう」

 ポケモンに人間の言葉が通じるのか、通じないのか。そういう論争は今でも学会を賑わせているらしい。
 ふと、アルバートはその議論を思い出した。なるほど、どうやらこいつは前者らしい。たった一言聞かせただけで、アブソルは起き上がり、再び大人しくなった。

「死が理解できるのか、それとも……ますます哀れだな」

 言葉とは裏腹に、アルバートの口角は吊り上がっていた。
 おそろしく賢いポケモンだ。ぜひとも捕まえてみたかった。野生として生涯を終わらせるにはあまりに惜しい逸材(いつざい)だ。本当に惜しい……。
 車に戻ったアルバートは、運転手からタオルを受け取りながら言った。

「もういい、用は済んだ。出せ」
「了解、ボス」

 車に再びヘッドライトが灯り、走り出した。
 顔や手を拭きながら、バックミラーを見上げると、傘の下にとぼとぼ歩いていくアブソルが映っていた。どんどん遠のいて、小さくなって、すぐに見えなくなった。残念だが、これでお別れだ。

 ふたりきりの車内は再び静かになった。クラシックの曲はとっくに止まっている。
 やや気落ちしているアルバートを気づかって、運転手は訊ねた。

「何で捕獲しなかったんですか?」
「ああ、さっきの奴か。しようとした。それはそれは(あらが)いがたい魅力の持ち主だったよ……だができなかった」

 聞いてくれたことに感謝しながら、アルバートは続けた。

「奴は特に珍しいポケモンだった。単に種族が珍しいというだけじゃない、あれには感情が無かった」
「どうして分かるんです?」
「目を見れば分かる。ああいう目は今まで幾度(いくど)となく見てきた。人が誰かを、もしくは何かを殺すときの目だ。相手を殺しても罪悪感にさいなまれないよう、自分の心を閉ざしている目だ。ぞっとしたよ、親の死を理解した時も奴はすぐに落ち着いた。その前に怒りだけは感じていたようだがな……親に愛着を持っていたらしい、感情を失った原因は虐待の類ではあるまい。あれはおそらく先天的な要素だ」
「生まれつき怒り以外の感情を持っていないんですね……だから親の死に悲しみもせず、迫る車に恐れもしなかった。ポケモンにもそういうのがいるんですね」
「だから驚いた。あれは何も感じない、まさに最強の兵士になりうる。しかし同時にリスク(・・・)も大きい。感情を持たないだけに、そのコントロールがあまりに難しすぎる。果たして苦痛や拘束具なんかで、心を持たない奴を屈服させられるかどうか……しかし本当に、惜しかった」

 アルバートは窓の外の変化のない景色を眺めながら、ため息を吐いた。
 捕獲を見送ったのは残念だったが、不思議と満足感があった。ホウエン地方に来て、面白いものに巡りあえた。手土産こそないが、わざわざ足を運んだかいがあったものだ。

 ひょっとしたら、また何か面白いものが見つかったりしないだろうか。そんなことばかり考えているアルバートの目に、ふと傾斜の森――ある木の天辺(てっぺん)付近できらめく何かが映った。
 また野生のポケモンか? 好奇心のままに目を細めて見つめる。
 窓にはりつく雨粒のせいで判別が難しかったが、色と形と大きさからして、おそらくあれはキルリアだ。野生の、それもエスパーポケモンがあんな高い木の上に登っているとは珍しい。こっちを見下ろしているのか?

 何故?

 神妙(しんみょう)そうにして探り始めたとたん、車のすぐそばで何かの炸裂音が響き、車体が揺れに揺れた。
 これは考えるまでもない、タイヤが破裂したのだ!

「止まれ!!」

 アルバートが叫んで運転手は急ブレーキを踏んだが、これがまずかった。
 木の上のキルリアは《サイコキネシス》で車体の後部を全力で持ち上げた。車が重くてキルリア自身のサイコパワーでは足りない分、急ブレーキによる前方への衝撃を利用したのだ。
 車は派手な音を立てて前にひっくり返った。もちろん、車内にアルバートと運転手を乗せたまま。

 それが立てた轟音(ごうおん)は、傘の下で湿ったポケモンフーズを(かじ)っていたアブソルの耳に届いた。




 *




 いつか死ぬとは思っていた。こういう裏の稼業(かぎょう)をしているのだ、いつ何時、誰に殺されるかは分からない。どういう死に方をするにしても、悲惨な最期を迎えるだろうということは分かっていた。

 若くしてホウエン地方のマフィアに入った少年は、マフィアのボスに気に入られ、養子に迎えられてとてもかわいがられていた。組織が手に入れた強いポケモンを与えられ、部下を持ち、今ではオールバックの髪型を整え、立派なスーツを着て、マフィアの若頭(わかがしら)としてホウエン地方の裏社会に名を馳せていた。
 裏の人生としては、まさに順風満帆(じゅんぷうまんぱん)だった。
 だが新たにアクア団やマグマ団といった妙な集団が台頭してきてから、組織は衰退の道をたどり始める。ポケモンの仕入れルートを奪われ、第二の拠点としていたトクサネシティの支配権をも手放すことになった。資金と人材の流出にも歯止めがかからず、もはや組織の崩壊も時間の問題であった。

 そんなとき、組織はカントー地方のロケット団からとある取引を持ちかけられた。
 ホウエン地方に支部を持たないロケット団にかわって、ホウエン地方でのポケモンの乱獲と流通経路の確保を(にな)ってくれないか、というものだった。実質、ロケット団の傘下に入れということだ。組織にとっては屈辱的だったが、アクア団とマグマ団に敗北寸前である現状をかんがみると、それを受け入れる他はなかった。

 組織のボスは考えた。
 受け入れるしかないのなら、少しでも組織に有利な条件に持っていくことはできないだろうか。
 案の定それを相手に言ったところで足元を見られ、却下されるだろう。結局はロケット団の言うことを鵜呑(うの)みにするしかない。
 であれば、最後の賭けに出るしかなかった。

 (わし)のポケモン、ブーピッグでロケット団の幹部を洗脳し、こちらの要求を全て呑ませる!
 たとえ後から洗脳が発覚しても、幹部が同意した条件を後から反故にすることなど、巨大勢力のやることではあるまい。奴らは一大組織としての体裁(ていさい)を守るため、いかに不利な条件であろうと決まったことはただ受け入れるしかないのだ。

 事は、組織の若頭が出払っている時に行われた。
 組織のボスは案じていた。もしも失敗すれば、その場の全員が皆殺しにされる。老い先短い自分の命ならば惜しくはない。だが、今まで手塩にかけて育ててきた我が子にまでその運命を背負わせるのはあまりに酷だ。
 まだ若い彼はまだ生きるべきだ。組織を首の皮一枚で存続させるためにも。なにより、生きていてほしかった。
 若頭を何かしら理由をつけて外に回し、その間に決着をつけてしまいたかった。

 外回りから帰ってきた若頭は、交渉のテーブルの上に乗ったそれらを見て絶望した。
 ずらりと並んだ同志たちの、父であったボスの、ブーピッグの、首。

 アルバートは一足先にカントー地方に戻るべく離れたが、他のロケット団員たちは残党を処分するべく残っていた。
 愛する家族の死を悲しむ暇も、憎む暇もなかった。何かを感じる前に、襲いかかってきたロケット団員とそのポケモンたちを前にして、怪物(・・)は解き放たれた。若頭はモンスターボールからノクタスとキルリアを繰り出し、戦い、そして目に映った敵を片っ端から殺した。
 敵の返り血を全身に浴びながら、若頭は飢えていた。殺しても殺してもまだ足りない。これは父上の仇などではない、その手先に過ぎない。
 戦いが終わっても晴れない憎悪のままに、若頭は喉が裂けて血が出るほど叫んだ。

 必ずお前を殺してやる、アルバート!!

 若頭はキルリアの《テレポート》で先回りをし、森の中にノクタスを、木の上にキルリアを配置する。そしてアルバートの乗った車が通りがかった瞬間、ノクタスの《ミサイル針》でタイヤをパンクさせ、急ブレーキをかけたところにキルリアに《サイコキネシス》を命じた。
 アルバートを殺す。そのために若頭は銃を抜いて、ひっくり返った車に歩み寄りながら、これから行われることを想像して嗤笑(ししょう)した。




 *




 世界が回った瞬間、頭が真っ白になった。
 ひどい耳鳴りと頭痛に叩き起こされ、気がつけば、アルバートはひっくり返った車の中にいた。
 とにかく外に出て状況を確かめなければ。逆さまになっていた体をよじって、()いつくばり、割れた窓を目指す。その途中、シートポケットに入ったままの銃を引き抜く(かたわ)ら、座席の裏から運転手の後ろ姿が見えた。アルバートは声をかけようと口を開いたが、すぐにやめた。天井に押されて、彼の首が直角に曲がっている。先ほどまで親しく話していた男は、もう死んでいた。
 こんなとき、経験が幸いした。アルバートは悲しむでもなく、とにかく脱出を優先した。先ほどまで仲間だったその亡骸(なきがら)を置いて、彼は車の外に這い出た。

「い、いけ、ゴルバット!」

 アルバートはモンスターボールからポケモンを繰り出した。
 だがゴルバットが威勢よく灰色の空に羽ばたいたとたん、銃声が響いた。その青い顔の額にぽっかりと穴が開いて、二度と羽ばたくことなく道路に落ちた。
 一瞬で死骸と化した相方を見下ろしたまま、アルバートは握った銃を振り回すわけでもなく、雨に打たれながら突っ立っていた。我々が迎える最期とは、なるほど、こんなものか。

「やあ、アルバート、さっきは俺の親父たちが世話になったな」

 ノクタスとキルリアを脇に構えさせて、黒いスーツの男――若頭は銃を構えて、彼を嘲笑(あざわら)いながら言った。
 アルバートはゴルバットを見つめながら淡々と返した。

「なるほど報復か。いつか来ると思っていたが、まさかこんなに早いとは思わなかった。私を処刑するなら今ここでやってくれ、その方が手間がかからなくていい」
(いさぎよ)いな、さすがだよ。だがお前は簡単には殺さない。お前には、ありとあらゆる苦しみを味わった上で死んでもらう……まずはお前の大事な奴を殺す。この世でお前が独りぼっちになったとき、それが処刑の日となるんだ」
「私の大事な存在? お前が今ここで殺したゴルバットのことか?」

 アルバートは肩で笑いながら続けた。

「こいつはなかなか面白い奴でな、飛ぶときに左にそれる(くせ)があるんだ。いくらまっすぐ飛べと言っても聞きゃあしない。周りは欠陥品だと決めつけたが、私は違う。こいつは、左旋回(せんかい)においては最も優れていた。機敏に動くだけじゃない、臨機応変(りんきおうへん)にコースと速度を変えることができた。私はそれを見抜いて、こいつを拾った。左旋回を見た奴で生き残った奴はいない、何故だか分かるか? すべて殺してきたからだ……その伝説も、ここで終わった。終わったものに興味はない、残念だとは思うが、そういう運命だ」
「ふっふっ……上手いな、騙されるところだ。でも知ってるぞ、そいつは嘘つきの台詞だ。本心をごまかすために御託(ごたく)を並べ立てても無駄だぞ」

 アルバートは目を閉じた。
 若頭が得意げになって続ける。

「親父はあんたのことを事細かに調べ上げるよう皆に指示していた。交渉を有利に進めるためにな。そして俺は見つけたぞ、あんたには生まれて間もない娘がいる。おおかたどこかで作った愛人が生んだ子供だろう。親父にそのことを話しても、バカな親父はこう言ったんだ。子供には手を出すな、ってな。昔の道義だか何だかを律儀に守ったばかりに、親父はお前に――卑劣なお前に殺された! 償うには、お前の命では足りない……お前に娘の死を見せつけてやる。さあ、分かったらその銃を地面に捨てろ!」

 アルバートの表情に変化はない。だが、すぐには銃を手放そうとはしなかった。しばらく力をこめて銃を握りしめた末に、ようやくそれを地面に落とした。
 苛立ちと、怒りと、それから深い悲しみ。感情の波が次から次へと押し寄せてくる。自分の命はとっくに諦めている。だが、これは、どうしても許しがたい……!

「お前は……なんて愚かなんだ」

 アルバートは声を震わせながら言った。

「私を殺すのは良い。親の仇だからな、お前には私を殺す道義がある。だが無関係の娘を引き合いに出して、事もあろうに、殺すだと? よくそんなことが平気で言えたものだ、まったく反吐(へど)が出る。お前の父親が命を捨ててまで守った道義を、その息子が破ることになるとは、敵ながらも本当に彼が哀れでならない」
「黙れ!! 黙れ黙れ黙れ、お前が親父を語るな!!」

 若頭は引き金にかかった人差し指に力をこめた。このまま引いてしまいたい、いや待つんだ、娘の死に顔が先だ。それを奴に見せたとき、俺は最も安らかになれるだろう。
 自分を落ちつけるために、若頭は鼻で息を吸って、口から大きく息を吐いた。

「……今は殺さない。何をほざいても自由だが、俺を怒らせれば怒らせるほど娘が惨たらしく死ぬだけだ。手足を切って、それからヘソに銃弾をぶち込んでやろうか?」

 どんなおぞましいことでも、今のうちに好きなだけ言っていればいい。アルバートは若頭を見据えたまま、口を閉ざした。彼が一瞬でも隙を見せれば、それが彼の最期になる。おそらく直後に両脇の2匹に殺されることになるが、覚悟の上だ。
 だが若頭はアルバートと一定の距離を保ったまま、もはや話すことはないと悟った。

「さあ、そろそろ行こうか。お前の娘の最期だ、よく見ておけよ……キルリア、《テレポート》!」

 彼が命じた瞬間、アルバートは自分の目を疑った。
 若頭とそのポケモンたちの背後に、黒い鎌を振り上げる白い死神が見えたのだ。比喩(ひゆ)ではない、白いマントを羽織った本物の死神だ。

 黒い鎌がキルリアの脳天を割り、バリバリと骨が砕ける音が聞こえた瞬間、アルバートは我に返った。それは死神ではなかった。だが、頭部の鎌をキルリアの後頭部にめり込ませ、返り血を浴びた小さなアブソルは、死神と呼ぶにふさわしく見えた。
 まだ体格が小さく、勢いも切れ味も弱いばかりに、きれいに切り裂くことはできないらしい。アブソルは道路に倒れたキルリアから赤黒い糸を引いて鎌を引き抜いた。

「おっお前、何だ!?」

 若頭とノクタスの注意が一斉にアブソルに向いた。
 その隙を、アルバートは見逃さなかった。落とした銃を拾い上げて、即座に若頭の利き手である右手を正確に撃ち抜いた。
 同時に、アブソルは高く跳躍してノクタスの《ニードルアーム》をかわし、宙で体を捻って、うなじ(・・・)めがけて鎌を振り下ろした。やはり威力が半端で、首を切り落とすまでには至らず、骨に達したところで鎌の勢いは止まった。だが、首を通る神経をずたずたにされて、ノクタスは体を動かすことができなくなってしまった。そしてゆっくりと前に倒れこんだ。
 まさに地獄の苦しみだろう、傷口を押さえることも、のたうち回ることもままならず、壊れた機械のようにぎしぎしと体を(きし)ませて、ノクタスはゆっくりと死に向かっていった。

 刹那(・・)のコンビネーションは上手くいったらしい。
 アルバートは銃を下ろして、アブソルを見やり、互いに視線を交わした。聞きたいこと、言いたいことは山ほどあったが、それらを全部呑みこんだ。
 残る問題は、こいつだ。

「はぁっ、はぁっ、くそったれ!!」

 血があふれ出る右手を押さえながら、若頭は叫んだ。後悔と怒りに支配されて、気が狂う寸前だった。
 そんな彼を、アルバートは哀れみの気持ちをこめて見つめていた。もはや彼に戦う術もなく、先を生きていても敗北感と喪失感(そうしつかん)で無意味な日々を過ごすだけだ。あるいは、絶えず私と娘の命を狙ってくるかもしれない。
 このままロケット団として捕まえ、カントー地方に連れ帰れば、見せしめのために拷問の挙句、この上なく惨たらしい死を与えることもできるだろう。そういう死に方をさせることは、やろうと思えばできた。だが、そうはしたくなかった。

 彼の父親は道義を守った。ならばその父親に免じて、私もそれを守ろう。

「アルバート!! 必ず、必ずお前を殺してや」

 銃声と共に眉間に穴が開いた彼は、それ以上続けることができなかった。
 倒れた若頭たちから流れる血を、雨が平等に洗い流していく。今は汚れた死体も、いずれはきれいになるだろう。そう祈るばかりだ。




 *




 聞きたいことはたくさんあった。
 どうして助けに来たのか。何故離れようとしないのか。どこまでついてくる気なのか。
 ミナモシティまで歩いていく道中、ようやく雨が上がって、雲の隙間から日差しが注いできた。少し期待して見上げても、空に虹はかかっていない。
 ポケモンフーズの恩返しも済んだのだから帰ればいいのに、アブソルはひょこひょこついてくる。感情が無いばかりに、銃で(おど)しても、威嚇射撃をしても、アブソルはまったく怯まずにアルバートの後ろから離れようとしなかった。
 まさか懐いたのか? あの餌だけで? 感情を持たない死神が? 後ろの存在を(うと)ましげに思っていたが、考えてみると、少しばかり思い違いをしていたのかもしれない。

 きっとこのアブソルにも感情はあるのだろう。ただ、感情が発する声が限りなく小さいのだ。一番際立った感情だけが表に出てくるだけで、他の感情はアブソルの耳に届いていないのだ。
 それにしても、まあずいぶんと安い餌で懐いたものだ。とはいえこのまま無下(むげ)にするのも惜しい。意図せずとも懐いてくれたのなら、最大限利用してみようじゃないか。

 アルバートの考えは、カントー地方へ帰る船の中で少しばかり修正された。
 ルームサービスでステーキを届けてもらった時のことだ。肉汁したたるそれにナイフで切り込みを入れていく最中、傍らでアブソルがしきりに鼻をひくひくさせている。

「欲しいのか? 少しだけだぞ」

 そう言って分けようとする前に、アブソルはテーブルに飛び乗って、事もあろうにアルバートが手をつけるよりも先にステーキに嚙みついたのだ。
 あっという間に胃袋に放り込んだ暴食を目の前で見せつけられて、アルバートは呆然とした。そして、気がついた。

 アブソルは私に懐いた訳じゃない。目ざとく、そして合理的に、私の意図を察してついてきたのだ!
 もっとたくさんうまい食い物をよこせ、かわりに誰でも殺してやる。アルバートに振り返ったアブソルの冷たい目つきが、そう語っていた。
 なんと興味深いことか! 親の死に目に遭ったばかりなのに、このアブソルは早々に見切りをつけてしぶとく生きる道を歩き出している!
 こんな面白い奴を手放そうと考えた最初の私が、バカだったな。アルバートはにんまりと笑みを浮かべた。

「いいだろう、お前がそう望むのなら、私が死ぬまでついて来い。ステーキでも何でも、好きなものをいくらでもくれてやる」

 やがて数日のうちに、アブソルはセツナという名を与えられ、アルバートの相棒として共に裏社会に名を馳せることとなる。
 だがそれもまだ彼らを待ち受ける出来事の前には、ほんのプロローグに過ぎない。彼らが歴史を揺るがす大事件の中心的存在になるのは、まだ遠い先のページのお話である……。
(『Future Sight』に続く……)

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