第10話 “ポケモン兵器・ゲノセクト”

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 現在に至るまでの過去を、たったひとつの情報の塊に凝縮すると、情報の中で時は意味を失うだろう。時間の存在意義とはおそらく、全ての事象が同時に起こる事を防ぐためにあるのだ。
 ミュウツーが突き落とされた情報の世界は、時を失っていた。ゲノセクトがこれまでに経験した記憶と感情が一斉に押し寄せ、無秩序にミュウツーの心の部屋を汚していく。だが、不思議とそれは最初ほど嫌な感覚ではなくなっていた。
 慣れたと言えば話は早い。しかし今まで潔癖症だった者が、泥水に突き落とされて、すぐに慣れてしまうだろうか。
 すぐにミュウツーは気付いた。ゲノセクトと自分の歩んできた道が、とても似通っている事に。
 その情報の泥水は、ひどく懐かしい味がした。

「覚……32パーセ……」

 肺の奥まで苦い味が染み渡る薬液のようなものに浸りながら、ミュウツーはその声を確かに聴いた。とても近くから、そして同時に遠くにいるような霞みがかった声。
 声は知らないが、ミュウツーはこの味を覚えている。自分が生まれた時――あの状態を生まれたと定義するのであれば――に味わったものと、まったく同じだった。

「本当に移すのですか?」

 今度は先ほどよりはっきりと聴こえた。若い女性の声だ。とはいえまだ曇りがかっているし、懸命に耳を澄ませなければ意味を拾う事ができない。
 それも自分の生まれた時と同じだった。

「預言者の命令だ」

 歯痒そうに口ごもりながら男が言った。

「何でも、こいつを独自に研究したいんだとか……手柄を横取りする気かもしれん」
「ゲーチス様に進言なされては?」
「その前に、アクロマにやめておけと言われたよ。悔しいが仕方ない」

 そこでピタリと声は止んでしまった。少なくとも、その2人の声は。
 全身を、外部だけでなく内側もくまなく覆う感覚は、依然として内蔵の奥まで浸透している薬液のお陰で、最悪なままだった。目も開く事はできないし、かといって口を開く事もできない。ただ、時折周りの薬液が波打つように揺れているのを感じた。
 時間にして何分、何時間経っただろうか――時間感覚が狂っていて、1秒の単位さえ分からなくなっていた。短いような、長いような、いずれにしても無間地獄に堕ちたような長い精神的苦痛の末に、次の変化は訪れた。

「覚醒率が下がらんな」

 先ほどとは違う、氷のように冷たい男の声が言った。

「ホロウェイ博士の研究記録によれば、これが限界らしい。何らかの因子が鎮静剤を打ち消しているのだろう」
「ゲノセクトは3億年前の古代において、最強のハンターとして恐れられていたという説があります」

 やはり先ほどとは別の、一回り年上らしい冷淡な女性の声が言った。

「獲物の放つ《眠り粉》や《痺れ粉》等に、幾らかの耐性があるのでしょう」
「驚異的だな……完成前にサンプルを入手できて良かった」
「このままロケット団本部に転送します。転送暗号化プロトコル、アルファ・スリー・ナインを起動」

 女が言った途端に、薬液にどっぷりと浸された身体が、一瞬だが宙に浮いているように軽くなった。同じタイミングで胃の奥の奥まで詰まっていた薬液がすっかり引いて、思わず呼吸するために大きく息を吸ったところ、すぐに苦々しい薬液が押しかけてきて、身体中を埋め尽くしてしまった。

『いい加減、この嫌な味には飽きただろう?』

 ゲノセクトの声が、ギシギシと虫が鳴くような独特な音を交えて頭の中に響いてきた。
 黙れ、と頭の中で叫ぼうが、それは無駄な抵抗であった。

『まだまだ元気だな。案の定、お前もこの味を知っていたか……大抵のポケモンなら既に発狂しているところだ。この不快な感覚に耐えきれるのは、俺とお前の種族ぐらいだろうよ』

 ただ不快な目に遭わせるのが目的なら、とんだ茶番だな。

『茶番はこれからさ、ミュウツー』

 何を――。
 そう問おうとした時、目の前を太陽の如く眩いばかりの光が迫り、咄嗟に光を避けようと身を捩らせた。しかしどうしてだか目蓋を下ろす事はできず、硬くて冷たい拘束具に手足を縛られて四肢を動かす事もできず、顔を逸らしても目の前から光は離れようとしなかった。
 やがて光の刺激が目の奥に激痛を与えるようになった頃になって、右腕が自由に動く事に気がついた。咄嗟に手で目を覆うべく顔に持っていくと、不思議とその手が顔をすり抜けてしまった。
 否、すり抜けたのではない。気付いた途端に、ミュウツーの息が荒く乱れ始める。
 まさか、そんな、よせ……!

『腕が!! 右腕が無い!!』

 頭の中で響く声など、もはやどうでも良かった。心を見抜かれている事に怒りもなく、それをおちょくるように叫びまわる声を黙らせようと言い返す事もなく、自由に解放されていく四肢に、ただ声なき声で叫び続けていた。

『腕だけじゃない、足も無い、左腕も無い、ついでに内蔵も無い!! 口も、鼻も、耳も、目も!!』

 声の言う通りだった。
 その通りの順番で、四肢や臓器が失われていくのが肌で感じ取れた。終いには触覚以外の感覚を全て失い、ミュウツーの視界は再び闇に閉ざされてしまった。
 一体、何が起きたのだ……?
 何も感じなくなったままで、ミュウツーはただ無気力にそう思った。

『大丈夫、すぐに戻るさ』

 声は勇気づけようと、まるで寄り添う父のように穏やかだった。途端に、ミュウツーの感情をどす黒い怒りが支配していく。
 何がすぐ戻るだ、いい加減にこのゲームを終わらせろ! モチヅキ博士を殺し、戦争で大勢を殺し、それだけでは飽き足らずに今度は俺を玩具にするつもりか!
 こんな拷問じみた事で俺をコントロールできると思っているなら間違いだ、今にこの貴様の企みを打ち破り、改めて貴様を八つ裂きにしてやる!

『玩具にされたのは、俺だよ。ミュウツー』

 ミュウツーの中でごうごうと燃え盛る炎に、その言葉は一滴の雨粒の如く注いだ。

『実際にこの改造を受けたのは俺だ……この目も、耳も、鼻も、口も、臓器も、四肢でさえも、ことごとく俺は改造され、強化された。兵器としてな』

 久方ぶりに燃え上がった炎は、すぐに鎮火していった。
 いくつもの感情が、どれも似ていたものの、それらが一斉に渦巻いていて、ミュウツーは迷ってしまった。悲しい事に、怒りを覚えた瞬間、かつて復讐を目指した頃のような情熱に満ち溢れていた。久しく忘れていた感覚をくれたのは人間でもビクティニでもなく、敵だったのだ。
 もうひとつ、これは認めたくないが、ゲノセクトに少しばかりの同情の念が生まれてしまった。

『生まれてこの方、共に歩んできた身体を捨てさせられる事が、どれほどの苦痛を伴うか……お前に分かるか? 肉体的な痛みなどではない、そんなものはいくらでも耐えてみせよう。だが俺のアイデンティティーはどこにある? 俺の腕は、キャプチャー・スタイラーや粒子ビームを発射する何かに変わってしまった。俺の足は、鋼さえ容易に砕く脚力を持つ別の足に変わってしまった。古の時代、獲物どもを震え上がらせた俺は、もはやどこにも存在しない!』

 き、来た。
 予想はしていた。しかし、厄介なものが雪崩れ込んで来てしまった。
 ミュウツーは息をより一層荒げながら、心の中でそれを振り払おうとした。でも、無理だ。どうしてこの深い悲しみを拭う事ができよう。先ほど己自身で感じた怒りにも似た炎が燃え上がる。それが他人の怒りであっても、ミュウツーには抗う事はできない。
 ゲノセクトの記憶、それに伴う感情は、1匹の心で抗うには巨大過ぎたのだ。
 唯一できるのは、せめて話す事で感情から気を散らせる程度である。

 お前は、一体、何者なんだ……?

『遥かなる古代の遺物……人間の陰謀によって生み出された、最終兵器だ』

 虫の羽音のように耳障りな声は、笑ってそう答えた。





 セキエイ高原、ポケモンリーグ、第三の部屋。
 通称「霊の間」と呼ばれる、代々ゴーストポケモン使いが鎮座するこの部屋は、元から陰気な装飾で溢れていた。控えめに言ってもそれは煌びやかという意味ではなく、ある時は墓が並び、ある時は骸骨が転がり、最近では十字架がそこら中に立っている。
 おまけに今は普段ならうっすらと点灯している筈の寂しい明かりさえ無く、不気味な赤い非常用ライトだけがこの部屋を床から照らし出していた。おかげで、ここは地獄さながらの景色として仕上がってしまっている。
 ひとつ幸いな事は、床に転がっているゴーストポケモン達を見つけやすかった程度だろう。壁際や部屋の隅で伸びているゲンガーやヤミラミ等を見つけては、ポケモンハンターの男はポケモンを石化させる事ができる光線銃の引き金を引いて回った。

「何でこいつは大丈夫だと言えるんだ?」

 エドウィンの抱きかかえるビクティニに疑わしそうな視線を向けながら、エイハブは顎を撫でて、言った。

「この場にいるポケモンは例外なく殺すか石化かのどっちかだろうが」
「いや、ビクティニは数少ない例外の1匹だ」

 と、エドウィンはエイハブに「べーっ」と舌を出して反抗するビクティニを、まるで赤子をあやすように身体を揺らしながら言った。

「彼女の場合、《催眠術》で眠らせたり、《怪しい光》で混乱させられたりといった瞬間的な攪乱攻撃には普通のポケモンと同じ反応を示すが、催眠念波のような継続作用する効果には、自身の脳波を特性《勝利の星》で強化し、乱されないよう防護する事ができる。この特性の応用のお陰で、ダーク化したミュウツーさえもリライブできたと聞く」
「このチビが!?」

 エイハブは途端に仰天し、目を丸めてビクティニを凝視した。おそらく彼の言った意味を理解しているのだろう、ビクティニは頬を膨らませたままそっぽを向いてしまった。
 一方で、仕事を片付けたポケモンハンターは納得して頷いた。

「幻のポケモン、ビクティニならあり得る話ですね。体内に無限に近いエネルギーを宿し、理論上では1匹いるだけで地方ひとつのエネルギー需要を支える事もできるという。故に、たった1匹で5匹のゴーストポケモン達を蹴散らしたその力。見事です」

 素直に照れるビクティニに、ポケモンハンターは更に続ける。

「しかし妙ですね、何故ビクティニが1匹でこんなところに? 確かビクティニはリベンジャー号に乗っていた筈、救出部隊を連れてきても良さそうなものですが」
「ティニ……」

 言われて、ビクティニは悲しそうに項垂れた。
 それだけで大体何が起こったのかは察しがついた。早い話、全滅したのだ。
 だとしても、大きな謎が残る。何故ビクティニが此処まで来て、まるで閉じ込められたかのように、来た道を引き返そうと強固な扉に体当たりを決めていたのか。
 エドウィンは時折肩を震わせては怯えているビクティニを見下ろし、思考する。
 第一の可能性は、これがビクティニの演技であり、彼女が既に敵の手に堕ちて、我々を罠に陥れようとしている事。とはいえ、非常に考え難い事ではある。たかだか数人の人間達を全滅させるために、そんな回りくどい真似をするだろうか。特にビクティニは戦力としても大きく、外に構えている大勢の軍隊を殲滅する方が、どう考えても優先度は高い。
 第二の可能性は、これはできれば考えたくないが、敵が我々を後回しにして、まずは外の軍隊を殲滅しようと考えている場合だ。そのために救出部隊に加わったビクティニを、まずはここに閉じ込めておき、後で始末する。
 いずれの可能性にせよ、これは紛れもなく「戦略」だ。ポケモンの頭だけで思いついたものとは到底思えない。
 ひょっとすると、この先に何か居るのかもしれない。人間に近い知能を持つ、厄介極まりない何かが。

「とにかくこのドアを開けてもらわなければ、先へ進めんぞ」

 武器を持たない代表者達が、後からおそるおそる部屋に足を踏み入れる中、エイハブは憎らしい寡黙な扉を睨みつけながら言った。
 そう来れば、と、エイハブとポケモンハンターの視線が同時にビクティニに注がれた。エドウィンの視線も一歩遅れて彼女に刺さる。

「《Vジェネレート》、いけるか?」
「クティニ~……」

 ビクティニは「いやいや」と我儘な子供のように首を振るばかりで、それ以上エドウィンの腕から動こうとはしなかった。こころなしか仕草も大儀そうで、ぐったりと腕にもたれる様から疲れも見て取れる。
 ひょっとして、目撃してはいないものの、ゴーストポケモン達を退治するのに使った技は……。

「ダメだな……ただでさえ負荷のかかる技を使い過ぎている」

 と、エドウィン。

「つまり」

 と、エイハブが続ける。

「そいつは希少なポケモンだが役立たずで、わしらは万策尽きたという事か?」

 エドウィンは答えなかったが、それも肯定を意味してしまっていた。
 銃で扉に穴は開かず、たかだか人間数人が集まっても開くようなものではない。おまけに頼りのビクティニも体力切れとあっては、そう言わざるを得ないだろう。

 でも、待てよ。
 エドウィンの頭に何かが閃いた。
 しかしその閃きは悪魔の囁きにも近い。思いついてしまった時点で、エドウィンはひどく憂鬱な気分になってしまった。それほどに、その閃きは厄介で残虐な提案だった。

 だが、これしか手が無いのなら……。

 果たしてこれから先も、そんな妥協を何度繰り返していくのだろう。理想の為に、何度信念に背けば良いのだろう。
 エドウィンは罪悪感に苛まれながらも、「方法がある」と控えめに申し出た。

「爆弾がある」
「どこにだ?」

 と、エイハブ。
 その一方で、部屋の後方から様子を見ていた代表者達、そのうちの1人であるプラズマ団の代表テスラは、ピクリと眉をひくつかせた。
 まさか、それを今言うのではないだろうな。奇跡的にもうまく皆の意思がまとまっている今、不和の種を撒こうというのではないだろうな。
 テスラはしかめっ面でエドウィンに黙って首を横に振る。しかし、こちらを見据える彼の目には、後悔が色濃く映ってはいるものの、その提案を引っ込めようとはしなかった。

「貴方は知っている筈だ、テスラ」

 ああ、言いやがった。ちくしょう。
 テスラは方々から視線が刺さる中、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべて舌打ちをした。
 周りに理解が広がるのに、そう時間はかからなかった。
 テスラはプラズマ団だ。プラズマ団は同盟に反対だった。その彼らが会議中に、秘密裏に仕掛けた爆弾を爆破させればどうなるか。皆一斉に敵の仕業と考え、一致団結した事だろう。今まさにそうなっているように。つまりテスラはプラズマ団さえ裏切って、ロケット団や政府と繋がりを持っている事になる。
 そのことに真っ先に気付いたのは、エイハブだった。鬼のような形相で、しかし怒りを懸命に堪え、罵詈雑言を浴びせたい欲求を飲み込みながら言った。

「お前達は、一体どこまで汚い連中なんだ……だが、今はどうでも良い。その事は後で話すとしよう、まずはその爆弾だ」

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