昼休み終わりのチャイムが鳴り、教室は次第に静寂となった。
こつこつ、と廊下から聞こえる足音が大きくなるにつれ、神田サトルの憂鬱は増していく。
3時間目は国語。退屈で、つまらない授業だ。教科書に載っている物語は全部読んだし、これから覚える漢字もすべて塾で習得済み。それ以外に習う要素は、サトルにとって全く必要のないことだった。
本を読むのは嫌いじゃないが、国語でまじめに習うべきことなんて、漢字くらいじゃないだろうか。
教室の扉が開き、中年の男性教員が気だるそうに姿を現すと、今日の号令当番が席を立った。
「起立、気を付け、礼」
クラスメイトたちが着席をするよりも早く、サトルは自分の椅子に座っていた。
と言うよりも、サトルは初めから号令に参加していなかった。する意味がないと思ったからだ。現に、たった今悟が号令を無視したというのに、男性教員は教科書を開き授業を始めようとしている。
いくらやる気のない教員とは言え、窓際の最前列に座るサトルの様子に気づかなかったはずがない。
こいつは、こういう男なのだ。授業が終わるまで、ただただ、だらだらと黒板に文字を書き続けるだけで、この国の未来を担う少年少女たちのことなんて、これっぽっちも気にしちゃいない。自分の授業に邪魔さえ入らなければ、この教員から何か言ってくることはない。
だから、サトルはあえて席を立たなかった。
号令をする意味がないと思ったからだ。
「せんせーい」
教室の誰かが手を挙げた。
教員は黒板の手を止めると、あからさまに嫌な表情を浮かべながら、手を挙げた生徒の方を向いた。
「どうかしましたか?」
「まだ、ケンジ君が戻って来ていません」
「ケンジ君?」
教員はその場から教室を見渡すと、確かに最後列の席の一つが空いていた。
「今日は欠席じゃないのかね?」
「朝は一緒に授業を受けていました」
「なら、早退したんだろ」
教員はそう吐き捨てると、また黒板に文字を書き始める。
生徒はまだ何か言いたげな表情をしていたが、しぶしぶ手を下ろすと、悲しげな表情を浮べながらノートを開いた。
手を挙げた生徒の名は、小林エリ。
早退したと勝手に決めつけられてしまったイシダケンジとは、たしか家が隣で毎朝一緒に通学している筈だ。
ケンジは臆病でいつもうじうじしているから、クラスの誰から相手にされていない。基本いつも独りぼっちだ。
それでもケンジが学校に通えているのは、毎朝一緒に通学してくれているエリと、時々サトルが暇つぶしで話しかけるお陰だろう。
一見暗そうなやつだが、話してみると意外と普通で、しっかりと自分の意見を持っている。サトルにしてみれば、学校で唯一まともに会話ができる相手だった。
あと、通ってる塾も同じだ。
サトルもケンジが不在なことは気付いていたが、あの教員に話しかけるのが嫌で、何も言うつもりはなかった。それに、こんなくだらない授業、俺たちが受ける必要ないと思っていたからだ。
しかし・・・
「早退なら、先生は何か聞いていないんですか?」
教員は再び手を止めると、声を上げた生徒の方を振り向いた。
今の発言は、サトルがしたものだ。
「・・・知らん。わしは何も聞いておらんぞ」
「なら、早退ではないんじゃないんですか?イシダ君は給食を食べ終わった後、職員室に呼び出されていたと思います」
後ろの方から、エリがうんうんと激しく頷く。
やれやれ、サトルは内心ため息を吐きながら、このやる気のない教員と対峙しなければならなくなったことに憂鬱する。
教員は、面倒くさそうにサトルの方を見つめていた。
「なぜお前がそんなことを知っているんだ?」
寧ろ教員のお前がなぜ知らないんだと言ってやりたいが、ここで変に波風を立ててしまうと、こいつは授業を止めて終わりまで延々と説教を始めるだろう。
クラスメイトたちは、皆それが怖くて口を開けないでいた。
「昼休みに、イシダ君に今日行く塾の話をしようとしたら、彼にそう言われたんです」
本当は担任の先生に呼ばれるところを偶々見かけただけだったが、なんとなく、嘘を付いてみた。
教員はケンジの席を眺めながら、少し考え込んだのち、またサトルの方へ視線を向けると、
「そうか、あいつに同じ塾に通う友達がいたのか。それはよかったな」
そういって、再び黒板へと文字を書き始めた。
開いた口が塞がらなかった。こんな強引な会話の終わらせ方があってもいいのか。
サトルが適当な嘘を付いたことが見抜かれたのだろうか。だとしても、ケンジが不在であることには変わりない。
恐らく、こいつはこれ以上会話を続けると、自分がケンジのことを確認しに職員室に戻らなくてはならない事を面倒に思い、強引に会話を打ち切ったに違いない。終わってる。
ここは監獄だ。
大人たちが勝手に作ったルールを、子どもたちに無理やり押し付けて、自分たちに都合の悪いことがあればルールを捻じ曲げてでも押し通す。
こんな人間になりたくない。こんな世界を生きていきたくはない。
ケンジも学校が嫌になって逃げだしたんじゃないだろうか。
きっと、今頃どこかの公園で俯いている。
窓から見える外の世界を、たまらなく渇望してしまう。
早く、自由になりたい。
気づけばサトルは手を挙げていた。
「先生、トイレに行ってきます」
教員は一瞬だけ手を止めるが何も言わなかった。
サトルはそれを承諾と捉え、そのまま教室を立ち去った。