僕の彼女は話さない

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作者:絢音
読了時間目安:23分
 小窓から入る清らかな朝日が八畳のワンルームを仄かに照らす。淡い光に包まれるベッドの上で僕の彼女は小さく微笑む。
 その陶器のような白い肌に僕は触れずにはいられない。彼女をそっと抱き寄せ、その小さな桃色の唇に吸い寄せられるようにキスをした。彼女に触れる全ての箇所から伝わる少しひんやりした体温が心地よい。
 僕は名残惜しく彼女の黄金色の髪に指を絡めながらゆるゆると体を離した。僕の手からさらさらと陽の光を受けて輝く絹の髪が零れ落ちてゆく。その一束を落ちる前に捕まえて、今度はそれに口づけた。
 すると彼女は零れそうなほど大きなエメラルドグリーンの瞳を愛おしそうに細め、僕の首に細い腕を回した。ふわりと甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。僕は彼女に応えその細い体を再度抱きしめる。そして鼻が触れる程の距離で顔を見合せ笑みを交わす。
 可憐に微笑む彼女と離れたくない、もっと一緒にいたい。そう思うが、時間がそれを許さない。僕は渋々彼女から体を離し、言い訳じみた事を言う。
「ごめん、もう出ないと。一限遅れちゃ不味いから」
 僕の謝罪に彼女は小さな頭を横に振り、優しくそれでいて少し寂しげに微笑んだ。そんな彼女が堪らなく愛おしくなり、その小さな白い額に触れるだけの口づけを残す。
 そして漸く僕は立ち上がり、服を着替え荷物を纏めて玄関へと向かった。その間彼女は何を言うでもなく穏やかな笑みを湛えて僕を見守り、玄関まで見送りに出てきてくれた。健気な彼女に抱きつきたくなる衝動を抑え、僕は手を振った。
「行ってきます」
 彼女は美しく微笑み、手を振り返してくれた。しかし「行ってらっしゃい」は聞こえない。
 そう僕の彼女は──何があっても絶対話さない。話さないから理由も聞けない。
 名前は僕が15歳の頃に彼女が家に来た時、親から『キラリ』だと聞かされたから知っているが、それ以外の事は何一つ知らない。親は『お家の事情』の一点張りで、どうして彼女が僕の家に来たのか、どうして彼女は何も話さないのか教えてくれない。
 そんな素性が知れない彼女ではあるが、実家で一緒に生活を続けるうちに僕らは惹かれあって、僕が進学で一人暮らしする事になったのをきっかけにこうして同棲する事になった。
 まさかついてくるとは思ってもみず一人暮らし用の狭いワンルームアパートを借りたので、優雅な暮らしとは言えないが、親が居ないので二人であんな事やこんな事もできるようになり俺としては万々歳だった。





「なぁしげぇ〜、ちょっと聞いてくれよぉ〜」
 講義終わりに友人の安達が泣きそうな声で話しかけてきた。ついでに『しげ』というのは僕の苗字『茂』である。僕は情けない顔をした彼にちょっと驚きながら応える。
「どうした?」
「デートすっぽかしたら振られた」
「それはお前が悪い」
「そうだけどよぉ〜。まだ初犯だし? いきなり振るのはちょっと酷くね?」
 反省の色が薄い友人にため息を返すしかない。安達はどうも彼女よりも自分を優先しがちで、こうやって蔑ろにした彼女に振られては僕に泣きついてくる。
 最初は励ましたりしていたが、最近は面倒になって流している。どうせすぐ立ち直って来週辺りにまた新しい彼女を紹介されるだろう。それがいつもの流れだ。
 切り替えが早いのはいい事なのかもしれないが、彼女を大事にできないのはどうかと思う。
 安達の積み重なる言い訳を話半分以下で聞いていた僕は自販機でサイコソーダを二つ買って、片方を彼に手渡した。
「はい、これやるから元気出せ」
「おぉ〜友よ! 優しさ染み入りサシカマス!」
「はいはい」
 くだらないダジャレを添えて大袈裟にお辞儀をする安達を軽くあしらい、僕は近くのベンチに腰かけサイコソーダの蓋を開けた。僕がそれに口を付けると、隣からも同じように蓋を開く音がした。安達はサイコソーダをぐいっと飲むと、大きなため息と共に膝に肘をついて項垂れた。それを横目に僕はちびちびとサイコソーダを口に流し込んでいく。
 やっぱり何回目かも分からないとは言え、振られると傷つくのだろう。何と声をかけようかと思案していると、唐突に安達から質問が飛び出した。
「そういや茂はまだあの彼女と続いてんの?」
 予想だにしない質問だったが、あまりに当たり前の事を聞かれて思わずぽかんとしてしまう。その反応を見てか、彼は返事も聞かずに意を得たようだった。
「あーはいはい、その様子だと円満なわけだな。茂は凄いよなぁ、ずっと彼女一筋で。会話もできないのによくやるよ」
「話さなくても彼女は充分魅力的だから」
「お前の彼女自慢はもう聞き飽きたっつーの。てかさ」
 安達はずいっとこちらに身を乗り出し僕の目を見る。爛々と輝くダークイエローの双眼に映る僕は、嫌な予感を写し出すようにとてつもなく苦い虫を噛み潰したような顔をしていた。そんな僕に気づかないのか、無視しているのか、安達はその予感を的中させた。
「いい加減お前の彼女に会わせてくれよ!」
「無理」
「えぇーなんでだよぉー。ちょっとだけ! ちょっと見るだけでもいいからさー。色恋にドライなお前がそこまで好きになる女の子ってやっぱ気になるじゃん?」
 即答した僕に尚も安達は縋り付く。そんな彼に僕は会わせたくない理由を捲し立て羅列していく。
「だって彼女は家から出られないくらい人と関わるのが苦手だし、そもそも他の男に会わせたくない、そんな事したら彼女が穢れる。あとお前と会わせるメリットがない」
「そんなケチぃ事言わずにさぁ、束縛強いと嫌われるぞ?」
「これくらい普通だよ」
「うへぇ、重症だな……よしこうなったら……」
 僕の言い分に辟易しながら安達は一瞬悪い顔をしたかと思うと、今度はわざとらしい泣き顔と盛大なため息を伴って独り言を零す。
「俺振られたばっかですっごいもう辛いんだよなーなんか楽しみがあればもう少しマシになるのになー? はぁ〜誰かさんが一瞬でもいいから素敵な彼女と会わせてくれたらなぁ、この気持ちも紛れるだろうに……」
 安達はちらちらと上目遣いでこちらを伺う。なかなかに気持ち悪い様相に僕は蔑む顔を作ってみるけど、それに怯むことなく安達はねぇねぇだめぇ〜? と気持ち悪い猫なで声まで出し始めた。
 うざったいことこの上ない。いつまでもこんな事を続けられたら、たまったもんじゃない。僕は盛大なため息を吐いてから、渋々脅すようにこう言った。
「……玄関越しに見るだけだからな。彼女にちょっとでも触れてみろ、会った事後悔させてやる」
「やったね! 茂の彼女初お披露目じゃん?」
 僕の言った事を理解しない傷心中のはずの馬鹿は、了承が出た途端ガッツポーズで喜んでいた。その姿に僕はまたもやため息が口をついて出てしまうのであった。



 それほど嫌々と言いながら、心のどこかでは非の打ち所のない素晴らしい僕の彼女を誰かに自慢したい、そんな思いがあったかもしれない。
 誰にも興味を持たれなかった僕の彼女を、安達は手放しに褒めてくれるからいい気になっていたのかもしれない。そうじゃなきゃ今まで誰にも会わせた事のない彼女を人に見せようなんて思わなかった。
 だって彼女は部屋から出たがらなかったから。
 何も話さない彼女は僕にしか心を開かなかったから。
 誰かに会わせようなんて考えもしなかった。寧ろ誰にも会わせないよう守ってきた。
 なのに、どうしてあんな軽い気持ちで安達を家に連れて行ってしまったのだろう。そんな事しなければ今もまだ彼女は笑ってくれただろうか──壊れずにいられただろうか。




 今日一日全ての講義を終え、安達を連れて僕の住むアパートに着いた頃には日もすっかり沈んでいた。築十年という割には小綺麗なアパートの狭い階段を、男二人が列になって四階まで登る。
 さすがにそれくらいで息が上がる事はないが、毎日これは少し疲れるしエレベーターくらいあってもいいのにな、と思う。それは後ろで歩く安達も同じようで、
「なんでエレベーターないんだよ……」
 と人様の住む家に文句をボヤいている。僕は「安いアパートだし」と答えつつ、自分の部屋のドアに鍵を差した。すると安達のげんなりした顔は瞬時に期待に満ちた顔に一転する。
「あ、ここがお前ん家? うわーなんか緊張してきた! 今更だけど突然お邪魔して彼女さん、怒らない? 大丈夫?」
「ほんと今更だな……まあ、彼女が怒ったところなんて見た事ないからたぶん大丈夫。というか、人が来た事に怖がるかもしれないから変に近づくなよ」
 彼にそう断りながら僕は玄関の扉を開けた。その先には暗闇が続いている。安達が不審そうに僕の肩越しから中を覗いた。
「え? 彼女さん、もしかしてお留守?」
「いや、いつもこうなんだ。暗くなったら電気つけてっていつも言ってるんだけど。暗い方が落ち着くのかな」
「いや、そんなレベルじゃなく真っ暗なんですが?」
 一抹の不安からか敬語になってしまう安達を無視して、僕は玄関の明かりを灯す。
 玄関と廊下を少しだけ照らす仄暗い明かりは少し恐怖心を煽るようで僕は早く部屋の中の電気も点けてもらおうと彼女に声をかけた。
「ただいま、キラリ。 ちょっと悪いけど部屋の電気点けられる?」
 返事はないがガタゴトと物音がするので彼女はいるようだ。暗闇に目を凝らすと2メートルもない廊下の奥に慌てた様子でこちらに向かってくる彼女の姿を捉えた。後ろに立つ安達にもそれが見えたようでヒュッと息を呑む音が聞こえた。
 あまりの可愛さに驚いたのだろうか? 僕が振り返ると、彼は何故か血の気のない顔で目を皿のようにして彼女を不躾に眺めていた。人の彼女を見るような目つきではなく、なんだか信じられないものを見ているような表情に、僕は怪訝に思い安達を肘で小突いた。
「どうしたんだよ、そんな顔して。あまりの美貌に恐れ入ったか?」
 僕の軽口にいつもはすぐ返す安達が黙ったまま僕の方に首だけ動かす。さすがの僕も彼の様子がおかしいと分かった。もう一度、今度は真面目に尋ねる。
「どうしたんだよ、安達? さっきから変だぞ」
「へ、変なのはお前だろ!」
 安達が急に叫んで僕を突き飛ばした。突然の事に対処できず、僕はされるがまま廊下に倒れ込む。するとすぐこちらに駆けてくる軽い足音がした。見上げるとキラリが僕の傍に膝をつき、心配そうに顔を覗き込んでいる。そんな彼女に僕は優しく微笑みかけた。
「大丈夫、心配しないで」
 そう言って僕は手触りの良いブロンドの髪をそっと撫でる。すると彼女は少し安心したのか小さく微笑んだ。その表情に愛おしさが込み上げる。しかしその空気を打ち壊すように、恐ろしいものでも見たような安達の震える叫び声が響いた。
「や、やっぱり! 見間違えじゃない! な、な、なん、で──」

 恐怖に戦く安達の次の言葉に────

「なんで人形が動いてんだよ!?」

 ────────僕の中で何かがプツンと切れた。

 獣の慟哭のような叫びが全身を貫いた後、木材に硬い物が強く叩きつけられる音と共に安達の呻き声が聞こえた。
 カッとなって一瞬で行動したものだから、何が起きたのか、自分が何をしでかしたのか、すぐには分からなかった。
 僕は息を切らして玄関で尻もちをつく安達に跨り、その胸ぐらを掴み木の扉に押し付けていた。彼は苦痛に顔をしかめながら右手で打ち付けられた後頭部を押さえ、左手は自身の腰に回されていた。
 どうやら僕は安達に感情的に掴みかかったようだ──自分でも今の状況を把握するのに数秒かかった。しかしこの状況を客観視しようとしながらも、ふつふつと沸き上がるこの怒りをどうにも抑える事ができそうにない。僕は安達を乱暴に揺さぶりながら荒々しい感情に任せて咆哮を続けた。
「誰が!! 人形だって!? キラリの事か!!? 人の彼女を馬鹿にするのも大概にしろよ!!!」
「馬鹿にしてるのはお前だろ!! どこどう見たってホラーな人形じゃねぇか! お前もその人形もどうかしてるぞ!」
 僕の大声に負けじと安達も必死に言い返してくる。
 人形? キラリが? 安達が何を言っているのか分からない。理解できない。馬鹿にするのも大概にしてくれ。じゃないと僕は……僕はもう、何をしでかすか分からない。
 自分が自分じゃないみたいで、気づけば拳を振り上げていた。大きく振りかぶり勢いに任せて彼に叩きつける──はずが、それは金縛りにでもあったように頭上に掲げたまま動かなくなった。
「……悪いな、茂。ほんとはこんな手荒な真似したくないんだけど」
 安達が安堵と不安が混ぜこぜの疲れきった顔でそう詫びた。彼は動けない僕をそっと引き剥がすと、いつの間にか隣に立っていたスリーパーの手を借り立ち上がった。
 ああ、そうか、これは安達のスリーパーによる金縛りなんだな、とどこか冷静な頭で理解する。頭に血が上っていて安達がスリーパーを繰り出した事にすら気づかなかった。
 スリーパーは壁を背に立つ安達を庇うように前に歩み出る。そして僕に向けて左手の振り子をかざした。
 危険を感じた僕だったがポケモンを前に金縛りをかけられた人間が為す術などなく、顔を背ける事さえ叶わなかった。
「スリーパー、しばらくそいつ眠らせといて」
 安達の小さな呟きが聞こえると、スリーパーの振り子が揺れ始めた。
 目を逸らしたいがまだ金縛りが解けない。このままでは彼女が危ない。どうすればいい、どうすれば──焦るばかりのうちに眠気がやってくる。どんどん強くなる眠気に抗うのもやっとだった。意識朦朧な中で僕は苦し紛れに彼女の名を呼ぶ。
「キラリ…………」
 その時、耳元で鋭い物が風を切る音が通り過ぎる。それがスリーパーに当たり、スリーパーが大きく仰け反った。その後ろで安達が今までで一番大きな叫び声をあげた。彼の目線の先は僕の背後に向いているようだった。
 しかし金縛りも催眠術も解けきらない僕は振り返って確認のしようがない。安達の恐怖が伝播するように僕の背筋もゾワゾワと粟立つ。
 僕の後ろにはキラリがいるはずだ。もしかすると彼女に何かあったのかもしれない。僕はなんとか動かす事ができた唇で必死に彼女を呼んだ。
「キラリ、こっちに来て……」
「うわああぁぁぁ! こっちに来るなぁ! す、スリーパー、何でもいいから助けてくれ!」
 安達の叫びが重なり、僕の声は掻き消える。
 安達は何をそんなに怯えているんだ? キラリが何をしたと言うんだ? そもそもキラリはそこにいるのか?
 キラリがいるはずの見えない背後で何かが蠢く気配を感じ、背筋に悪寒が走る。徐々に近づくその気配を退けようとスリーパーが振り子を持つ手を掲げ、空間を捻じ曲げるような力を放ったその時だった──何かが僕を庇うように、僕の目の前に飛び出した。
 それは真正面からまともにスリーパーの攻撃を受け、人型の形を保てずに足元からバラバラに砕け落ちた。最後に肌色の山の上にどん、と重い物が落ちた。それはあまりにも美しい絹の金糸を床に散りばめ、宝石と見紛うエメラルドグリーンの瞳は僕を映さず虚空を見つめる。







 それが彼女の頭だと理解したのは金縛りが解けるのと同時だった。






「キラリ…………? そんな……嘘だろ……」
 座りこんだままの僕の足元に転がる頭に触れる。シルクのように触り心地の良い金髪が指の間から零れていく。
 それは先程の重そうな音に反して意外と軽く、簡単に持ち上げる事が出来た。頭を持ち上げた反動でその下に積み上がった腕や脚のような部品がころんと床に転がる。
 そう、これは人の腕や脚じゃない。あくまでそれを模した部品だ。見れば分かる。
 じゃあ、残された彼女の首は? これは何だと言うんだ? まさか。そんな。
 嘘だ。そんなの嘘に決まってる。認めない。認めない、そんな事。安達が正しいだなんて、そんな事──必死で真実を拒否する心と裏腹に、頭は徐々に冷静さを取り戻し状況を飲み込もうとする。
 やめろやめろやめろやめろ考えるのは止めろ、目の前の彼女を見ろ。自分が愛する麗しい彼女を。その彼女は今──首だけになっている。声も上げずに。血も流さずに。
 もう叫ぶ事もできなかった。もうすぐ弾き出される答えを知る事すら恐ろしかった。僕は周りに目もくれず、ぼんやりと微笑んだままの彼女に向かって懇願する。
「お願いだ、キラリ。今までの関係は、一緒に過ごした日々は、嘘じゃないと言って。僕と生きてきた事証明してよ……一言でいいから、愛してると言って。じゃないと、僕は……ねえ、キラリ……一生のお願いだ……」

「………………」

 彼女は──────────人形は、何も話さなかった。

「ああああああああああぁぁぁ!!!」
 とうとう現実を理解した僕は膝から崩れ落ちた。手から滑り落ちた人形の頭が長い金の糸を垂れ流しながらごんごんと床を数回跳ねる。僕は自分の頭を抱えて呆然とそれを見つめるしかできなかった。
 僕は、僕は、僕が愛していたのは────人形だった。
 それだけの事実だったが、それを簡単に受け入れる事などできるわけがない。だって彼女は話すことはなかったが、僕にずっと応えてくれていたのだ。
 今朝だってキスをした。ハグもした。確かに僕に笑いかけてくれた。今みたいに空虚な微笑みではなかった。
 彼女は確かに生きていた、動いていたんだ。彼女は、彼女は……ただの人形ではなかったはずだ。
 じゃあ彼女は一体何だったんだ? 定まらない着地点が不安で堪らず、僕は縋るように彼女だった物の部品に手を伸ばす。身体は本物かもしれない、そんな我ながら訳の分からない期待を持って。
 床に広がる部品の中から腕だけになってしまったパーツを手にする。それはやっぱり中身はなく随分と軽いものだった。
 それを知って僕は更に現実を突きつけられる。彼女は正真正銘人形だったのだと。
 人間と思っていた時は分からなかったのに、今では関節にあたる指の繋ぎ目もしっかり見える。本物の人形なんだ……どんどん理解が深まると同時に絶望していく僕は、人形の指に絡まる細い糸に気づく。目を凝らさないと分からないくらい細い糸だが、僕が引っ張ってもちぎれない程の強度があった。
 首を傾げる僕の視界の端に更に似たような糸が垂れ下がるのが見えた。ハッとなって糸の先を見上げると、そこには2mはありそうな巨大なアリアドスが天井に張り付いていた。
「っ…………」
 驚きすぎてその恐怖は声にもならない。わなわな震える唇からはただただ早まる呼吸が喉を通る音が鳴るだけだ。また金縛りにでもあったかのように身体は硬直し動けない。
 しかし今回は金縛りではなく、目の前の恐ろしく大きなアリアドスに睨まれているからだ。恐怖で腰が抜けるとはこういう事なのだろう。
 しゃがみこんで震えるだけの僕に対し、アリアドスは暗闇から鋭い眼光を光らせ何かを飛ばしてきた。僕は反射的に目を強く閉じる。
 しかし、一向に痛みも何もやってこない。恐る恐る目を開くと、目の前には一本の糸が張っていた。それは僕が抱える人形の腕に絡みつき、それを抜き出そうとしているようだった。アリアドスを見ると、僕よりも人形の方に気が行っているようだ。
 これを差し出せば助かるのでは? そう感じた僕はそっと人形の腕を手放した。すると人形の腕は糸に引かれるまま宙に浮き、操られるまま僕に向かって手を差し出した。
 ぎょっとなって後ずさる僕にどんどん近づく腕。そしてとても慣れた手つきで僕の頬に手を添えた。その感覚はあまりに覚えがあり過ぎて。僕もいつものようにその手に自身の手を添えた。そして真上の大きなアリアドスを見上げぽつりと呟く。
「キラリ……?」
 僕の言葉に応えるように片腕が首の後ろに回った。よく知った抱き締められる感覚に、思わず涙が出た。なんだ、彼女はいなくなってなんかいなかった。彼女はここにいる。
 僕は腕だけになってしまった彼女を抱き締めようと腕を伸ばした────しかし僕の手が届く前に、彼女の腕は床に落ちてしまった。
 あれ? と思った次の瞬間、目の前を巨大なアリアドスが落下し、大きな音を立てて床を凹ませた。
「やった……やったぞ! よくやった、スリーパー!」
 安達の歓喜を含んだ興奮した声が沈黙に響く。そちらを振り返ると安心した顔の安達が僕の隣にどかっと腰を下ろした所だった。目が合うと彼は力が抜けた笑みを浮かべた。
「大丈夫かよ、泣く程怖かったのか?……ま、そんな俺も足ガクブルなんだけど。まだ震えとまんねぇ! めっちゃ笑えるわ!
 ま、もう怪物は退治したから安心しろよ!」
 怪物……? 安達の視線の先を追うと、床に突っ伏すアリアドスがいた。そいつはピクリとも動かない。その鋭い毒針や牙、そして毒々しい大きな体は見るも恐ろしい怪物だった。
 こんなものキラリのはずがない。じゃあさっきのは一体……ショックのあまり幻覚を見たのかもしれない。
 やっぱりもう彼女はいない。いや、もともと彼女なんていなかった。全ては人形を人間と思い込み彼女に仕立てあげた痛い僕のデタラメな妄想だったんだ。
 もしかするとこの人形はアリアドスが餌をおびき寄せる為に使っていたのかもしれない。さっきも人形の腕を取り返そうとしていたみたいだし。
 となると僕は食べられていてもおかしくなかった。その事実にゾッとすると同時にもうその心配がなくなりほっとした。僕は安達に向き直り深々と頭を下げる。
「ごめん、僕がおかしかったんだ。お前のおかげで助かった。本当にありがとう」
「正気に戻ったんだな。良かった……まあ、なんだ。正直何が何だか俺もよく分かんねぇんだけど、とにかくよ。今度二人で合コンでも行って一緒に彼女探ししようぜ」
 そう言って安達はキリッと決め顔を作る。こんな状況で今そんな事を言うブレない彼に僕は笑ってしまった。
 普通は警察に連絡とか、病院行くとかが先だろうと思うが、今は考えるのに疲れた僕は彼に同意する事にした。
「そうだな、合コン初めてだからいろいろ教えてよ」
「そっか! 茂、ずっと彼女一筋だったもんな」
「まあ、その彼女は怪物に操られた人形だったんだけどね」
「はは、笑えねー……まあ、元気出せって」
 安達がポンと僕の背中を叩いた。その優しさに思わず止めたはずの涙がもう一度溢れてくる。
 本当に彼女の事を愛していたんだと悟る。それをこんな失い方をしたら泣きたくなるのも仕方ないだろう。安達は黙って僕の背をさすってくれる。僕はそれに甘えて周りの事は一切気にせず大声で泣き喚き続けた。


 こうして僕は話さない彼女を手離したのだった。
カップリング短編『私は少年に届かない』と合わせてお読みいただくとより世界観が分かりやすく楽しめるかと思いますので、良ければぜひお読みください。

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