こうして、ひとつの物語は幕を閉じる。
ながい時間が過ぎて、つかの間の夢はとおく過ぎ去り、残されたのは、私と思い出だけ。でも、いつかきっとまた会える、あなたと、私は、別の場所で、別の時間で……互いに、そうと気づくことはないかも知れないけれど。
知らない扉を開いて、もうひとつの現実に出会う、もうひとつの今日を生きよう。物語は終わっても、人生はつづく。だから、その時までごきげんよう。
――Sana Kid Zeal
〇 〇 〇 〇 〇 〇
――ビッグ・ベン。
イギリスの首都ロンドンにあるウェストミンスター宮殿に共に建てられている巨大な時計塔だ。本来、ビッグ・ベンとはその時計塔内部に設置されている大時鐘のことを指すが、今となっては時計塔そのものの呼称となっている。
「どっからどう見てもロンド・ロゼだねぇ」
「逆でしょ。ロンド・ロゼがこの時計塔ビッグ・ベンをモデルにしてるの」
「佐奈おねえちゃんの言うとおりか。あははは」
普段、着っぱなしの白衣を脱いで、今はラフな格好の佑奈に私は突っ込んだが、確かに似ていると思う。
「佐奈! 決勝トーナメント戦の前座に使うプロモーション用の撮影は終わったぞ。そろそろ次のスケジュールに移らないと間に合わない!」
男勝りな同僚の沙織が珍しく悲鳴のような声をあげている。
確かに最近はちょっと忙しい。その合間を縫ってでも、どうしても来たかった。ここに――ガラル地方のモデルとなったここイギリスに。
私の職場と全く関係ない佑奈はと言うと、勤務先の医療機関の有休をとって、一週間ほど私に付き合ってくれている。
私たちの冒険が終わった後、あの世界を“閉じて”私たちは今日まで日常を送ってきた。
あの世界のことをどうしても忘れられなかった私は、かの大企業に技術職として採用され、その開発部門で働いていた。ひょんなことから凍結していたプロジェクトが再稼働し、私は芳江おばあちゃんの後任として抜擢された。結果、仮想空間を用いた技術で名作ポケットモンスターをリメイクし、世に発表したのだ。もっとも、医師であり同時に優れた技術者である芳江おばあちゃんの拘っていた人工知能は導入せず、オンラインゲームという形ではあったが。
――それが5年前。
発売以降少しずつ拡張を続け、アップデートでガラル地方を追加したのが昨年のことである。次にヒスイ地方、パルデア地方、それからその他の地方と順々に展開していく予定だ。
そういった形で拡がり続ける仮想世界をまるでその世界に居るかのように体験できるオープンワールド形式のゲームとなっている。エンディングの決まっている物語ではなく、あらゆる地方を自由に行き来し、旅をすることが出来る。ポケモン図鑑を集めるだけではなく、ポケモンを育成し、バトルすることも売りのひとつである。
プレイヤー同士の大会も適宜開催されており、通常はオンラインの大会のみであるが、今回はガラル一周年企画として、対面で集まっての全国大会が行われることになった。その決勝本戦の会場で流す演出用の映像撮影のため、ガラル地方のモデルとなったイギリスを訪れる……というのが今回の私のイギリス訪問の名目だった。
本当のところはどうしても来たい理由が出来たのである。
「イギリスに住んでいた頃はあんまり気にしたことなかったけど、こうやって見ると感慨深いものがあるね」
佑奈はしみじみと言う。
医者の佑奈にとっては、大学からレジデント、そして働いていた土地でもあり馴染みがある。しかし、今は、あの世界を体験しているからこそ、より一層の感慨深さがあるのだと思う。
「佐奈! お前が撮影に立ち合うって言い出したんだ。トーナメントの予選が終わったと思ったら、急に思いつきでこんなこと言い出すなよ……」
声をあげるのは沙織だ。同じ職場で働く彼女はスケジュール管理などのサポートもしてくれている。
沙織はあの世界の“サオリ”の元となった人物であったが、その外見は全く異なる。今、私の目の前にいる沙織はもし違う人生を歩んでいたら、あんな屈強な傭兵になっていたのかもしれない。
その整った顔を見ていると、沙織は大きくため息をこぼす。
「何ぼーっとしてるんだよ。榊先生からも言ってやってくださいよ」
「あははは。あたしの方がぼーっとしてるからね。それに榊先生って……あたしを呼ぶなら、ゆ・う・なって呼んで♡」
「榊先生……はあ」
がっくりと沙織は肩を落とす。
「あはははは。あたしも佐奈おねえちゃんも同じ“榊”だから二人揃うとその呼び方は紛らわしいよー。榊っていうのは、奄美大島の一文字姓っていう珍しい苗字なんだよね。ウチの家系は沖縄にも住んでいたけど、ルーツは奄美大島なんだ」
そこまでペラペラと話して佑奈は「ん、待てよ?」と気づく。
「そうなると、ポケモンのロケット団のサカキってさ。あの世界のなかだと、ホウエン地方のルーツってことになるのか。サイユウシティは沖縄だから、サイユウとホウエン本土の間くらいかな?」
職業柄か佑奈は何でも考察、分析したがる。ぶつぶつ呟き出した佑奈に、サオリはがっくりと肩を落とす。
「もう……榊先生も榊先生だ……」
榊先生、と沙織が言うのは、彼女の母親の主治医だったからだ。その名残りで今でもずっとこの調子だ。
「とにかく! 飛行機の帰国の便まで時間無いんだ、大会本戦まで仕事も山積みなんだからな! 帰ったらきっちり仕事してもらうぞ!」
企画した大会は、ガラル地方を生息地にするポケモンのみが参加可能というレギュレーションを持たせている。
大会の名称は“ガラルスタートーナメント”である。あの日、私たちの参加できなかった大会だ。ルールはダブルバトル形式。開催場所は、我らが日本である。
「それに……佐奈と榊先生も油断していて良いのか? いくらシード権を保有する、最強のペアだとしても、今回の本戦に勝ち残ったのは強者ばかり。それこそレトロゲー厶のアドバンスやDS、Switchのポケモンもプレイしたっていうコアな古参ファンばかりだ。果たして勝てるかな?」
「沙織もでしょ。幸太郎と何処まで勝ち抜けるかしら?」
沙織の弟の名前は幸太郎と言う。現役の警察官だ。この姉弟は私と幼馴染で、芳江おばあちゃんのシステム・アルセウスの臨床試験にいち早く協力してくれた経緯がある。だからこそ、あの虚無世界のなかで、特別な役割を担っていたのだ。
「私たち姉弟が簡単に負けるわけない。榊姉妹にも負けるものか! ……と、タクシー拾わなきゃだな」
面白くなってきた、と言わんばかりに沙織は笑みを浮かべる。きっと、この強かな企業戦士の頭の中には、広報にも役立ちそうだとマーケティング戦略が幾つも浮かんでいるのだろう。
「勝ち残った強者たちか〜。最初は驚いたけど、よくよく考えたらありうる話だよね。システム・アルセウスの試験運用の際に芳江おばあちゃんが募ったモニターに参加してた人もかなりのポケモン好きが集ったらしいからさ」
結局システム・アルセウスは芳江おばあちゃんの死と共に日の目を浴びることは無かった。もっとも、事の発端が植物人間だった私に対するアプローチが理由だったから、私が目覚めた後におばあちゃんが何処まで真面目にゲーム制作に取り組むつもりだったのか、今となっては分からない。それに――あの虚無世界は今はもうこの地上に存在しない。
この世界に戻った後、言いつけ通り、私と佑奈がこの世界のネットワークから完全に切り離した。その巨大な情報量を持つビッグデータを保存する媒体は宇宙に浮かぶ人工衛星のひとつで、芳江おばあちゃんの残した記録に寄ると、人工衛星には様々な仕掛けが施してあったらしいが、あまりにも馬鹿げた絵空事だったので、創作が好きなおばあちゃんの悪戯心だろうと思う。いずれにせよ、完全に遮断された人工衛星はその活動を止め、どこか遠い宇宙の果てで燃え尽きてしまったことだろう。
かつてのシステム・アルセウスにモニターとして参加した人たちが、あの虚無世界に住まう人たちの元となったとすれば、今回のトーナメント表に連なった名前は偶然ではなく、必然だ。
「へい、タクシー! ああくそ、またダメだ……」
沙織がタクシーを拾おうと右往左往している間、私は耳につけたホログラム投影装置(まるでいつかのスカウターみたいだ)で、トーナメント表までの過程を改めて振り返ってみる。
スズキとヤマダというトレーナーが改造ポケモンを使用して、反則負けで初戦敗退。不戦勝で勝ったのはナギサとメイというペアだった。他にもニットとレオンというペアは息もピッタリに順調に勝ち進んでおり、マッシュとハルというカップルは3タテを繰り返していた。カイトとシャケは、シャケの手持ちのニャースが足を引っ張ってはいるものの、何故か勝ち進んでいる。そこにはニャースへの愛があった。
コサリとゼニガタ。ナオミにベーコン。クレーンやペル。ハイブリッドとニーダ。ルヒィとノエル。ソロとヨンジ、他にも見知ったトレーナー名で溢れていた。
彼らは予選を勝ち抜き、決勝戦へ進んだ。いよいよ、本戦で相見えることだろう。
現実の彼らと私たちに面識はないが、それでも、その名前を見ると懐かしさのあまり涙がこぼれた。そんな私の肩をそっと佑奈が叩く。
「佐奈おねえちゃん。あたしたち……勝つよ」
「うん、必ずね。意地でも負ける訳にいかないよ」
トレーナー名はサナとユウナ。そしてもちろん使用するポケモンは――言うまでもないだろう。
そして何を思ったのか突然、佑奈はくるくると回り、右手を天高くかかげ、叫んだ。
「チャンピオンタイム!!」
周囲の人たちが何事かと注目する中で、彼女は時計台をバックに、とてもダサいポーズを決めていた。
「ちょっと、佐奈おねえちゃん。黙ってないで何か言ってよ、恥ずかしいじゃん……」
佑奈は照れくさそうに笑った。
どうやら、彼女のガラルチャンピオンとしての役割はまだ終わっていないようだった。
❍ ❍ ❍ ❍ ❍ ❍
5年前。混沌の宇宙の果て、何億光年か先にある惑星にひとつの人工衛星が落下したことは知られていない。
膨大な量のデータが搭載されていたが、それは惑星の存在を感知するとそこに適応させ、予め搭載されていた多様な有機物、果ては遺伝子までをその惑星にばら撒いた。その全てが混ざり合い、中心にひとつの卵のようなものが出現した。そこから最初のものが生まれた。それはすぐにふたつの分身を作り、さらにみっつの生命を生み出した。時間が生まれ、空間は広がり始める。それらは目まぐるしく進化し、増え続けた。その進化スピードは目まぐるしく、あっという間に惑星中を覆い尽くした。
かつて記録されていた仮想データを惑星上に再現すると、最初のものは深い眠りについた。
5年で、世界は世界になっていた。まるで以前からそこにあったかのように。
◒ ◒ ◒ ◒ ◒ ◒
――初めにあったのは、混沌のうねりだけだった。
――全てが混ざり合い、中心に卵が現れた。
――零れ落ちた卵より最初のものが生まれ出た。
――最初のものは二つの分身を造った。
――時間が回り始めた。空間が広がり始めた。
――さらに自分の体から三つの命を生み出した。
――二つの分身が祈ると「物」と言うものが生まれ、三つの命が祈ると「心」と言うものが生まれた。
――世界が造り出されたので最初のものは眠りについた。
「ヒスイ地方とシンオウ地方かあ……シンオウ神話はスケールの大きさが半端なかったねえ。ずっとガラルに居たら、きっと知らないことだらけだったよ」
隣を歩く従妹のユウナが声を弾ませる。
「そうだね、ユウナ。もっと、世界の色んなものを見ていこう。世界はこんなにも広いんだから」
きっとガラルというひとつの場所に収まっていたら、見ることの叶わなかった景色の中に、彼女――ユウナは居た。
「鉄の婦人? だったっけ? サーナイトとエルレイドを足して2で割ったポケモンが居るなんて知らなかったもん」
ユウナは私たちの後ろをついてくるポケモンたちを振り返って言う。
「鉄の武人だよ。図鑑にはテツノブジンと登録されてる。あまりの凶暴さに手を持て余したってマッシュから貰ったの」
「凶暴? この子が?」
ユウナはしげしげと確認する。心がないと称されることが多いと聞いたことがある。そのため、サーナイトやエルレイドの胸にある赤い輝石が空洞になっており、身体を貫く穴になっているのだとか。
私たちの視線を受けた彼女(厳密には性別不詳だ)は、少し照れたように笑顔の形に口元を緩ませ、その電子的な瞳に喜色を滲ませた。お辞儀の仕方も隣にいるサーナイトのサナと同じだった。だから私はこの子を“テツノサナ”と名づけた。
「テツノサナたん。全然そんな凶暴な感じはしないけどなー。この子達をあんまり知らないから、誤解してるだけじゃないのかな? 新種のポケモンだからさ」
ユウナはそう言うが、私は今回マッシュからこの子を預かるよりも前に、どこかでこの子を見たことがある気がして仕方がなかった。しかし、それは遠い記憶の底に眠っているようで、なぜか深く思い出すことは出来ないでいた。
「そうかあ、マッシュかあ。今はパルデア地方に居るんだよね?」
ユウナは話しながら何やら閃いた様子だった。
「そうだよ。あっちにも、マックスレイドのような巣穴があるんだって。それを新たな資源として、お金の匂いをかぎつけたマッシュとその一味は既に向こうに行ってるわ。それとは別にコサリもエーテル財団として向こうに派遣されてるみたいだよ」
ユウナは瞬間、思いついたように叫ぶ。
「そうだ、パルデアへ行こう!」
ユウナは自由だ。何物にも制約されない。
「うん、行こう。私たちは与えられた役割をこなすだけの人生じゃない。この世界のどこにだって歩き出せる」
何故そんなことを口にしたのか分からなかった。普通は自由にどこにだって行けるものなのに。何故か心の中の大切なものがどこかへ行ったような、とてつもない寂しさを感じた。
サーナイトのサナがどこか寂しそうな目で私たちを見つめると、おもむろに私と佑奈を抱き寄せた。
「ちょっと、サナたん! なによー、急に!」
ユウナが笑いながら答える。そんなユウナと私の頭を撫で撫でしてくるので、思わず笑ってしまう。テツノサナはどうしたものかとそんな様子を不思議そうに見つめている。
その鉄の眼に反射して映った私とユウナと、サーナイトのサナ。何故かサナの姿が青い色違いのサーナイトに見え、慌てて目を凝らしてみるが、やはりいつもの緑のサーナイトだった。
「あれ……?」
疲れているのかもしれない、そう思うことにした。サーナイトのサナはそんな私の顔をただ優しく見つめていた。
「でもまあ、そうだよねー、サナおねえちゃんの言うとおりだよね」
ユウナはそんな私の様子には気づかず、さっき私が言ったことに対して、うんうん、と頷く。
「さすがはサナおねえちゃん。この世界のどこにだって歩き出せる……かあ、いいこと言うね! あたしがガラルチャンピオンという役割だけなら、あたしにとっての世界はガラルだけ。ガラルが世界のどまんなか。でも、今は……あたしのいる、ありとあらゆる場所が世界のどまんなかだ!!」
ユウナはサーナイトの手を握り、せーので走り出す。
「どっちに行こうか」
『サーナ』
サーナイトのサナが返事をする。
「どっちでもいいか! じゃあこっちだ、行こう! サナたん!」
ユウナに手を引かれ、置いていかれないように懸命に隣を走るサーナイトはとても幸せそうだった。
その様子をぼうっと眺めていると、気づけば涙が頬をつたっていたらしい。テツノサナが心配そうにおろおろとこちらを見ている。
テツノサナの、テツノブジン特有の不思議な瞳に反射して、どこか私の知らない世界の景色が見えた気がした。何か大事なことを忘れてしまったような気がする。しかし胸の奥深くに残ったこの痛みと共に生じた、どこか暖かな想いはきっと何処かに繋がっているような気がした。
「ごめん、テツノサナ。ちょっと目に砂が入っちゃったみたい。行こうか」
呟き、空を見上げた。
この空の向こう、宇宙を超えた果て。時間と空間を超えた遠い何処かの何かが、誰かが繋がっている。不思議とそんな感覚がした。
「おーい、サナおねえちゃん! 早く次の街に行こうよー! 新しいポケモンとの出会いが待ってるよー!!」
ユウナが声を上げている。
「今いくよー! やれやれ全く騒がしい妹だよね」
従妹ではなく、妹と何故か自然と口に出た。しかし深く考えないことにした。
「私たちも行こっか、テツノサナ。よし……夢と冒険とポケットモンスターの世界へ、レッツゴー!」
そして、テツノサナの手を握り、私たちも、せーので走り出す。
――ポケットモンスター。
これはポケモンマスターを目指すみんなと不思議な生き物ポケモンとの出逢いのお話である。
そしてその旅はまだまだ続く。続くったら続く。
【ポケどま!】
――完。