第100話 ひとつの終わり。

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

※今回、非常にショックの強い描写が含まれます。 苦手な方はご注意を。




 
 ......それは、なんてことない綺麗な思い出だった。

 綺麗な快晴。 春の若々しい草の香りが鼻をなぞる。 草原に寝転がって目を閉じていると、このまま地面に沈んでいけそう......そんな空想すらしてしまう、いい日和だった。
 そうやって夢見心地になっていた眠り姫──ノバラを起こすのは、聞き慣れた友達の声。

 「ノーバラっ」 
 「ん......」

 ぱちりと目を開いてみると、景色が潤んで見えた。 誰かが彼女の顔を覗き込んでいる。 太陽の光がその身体からはみ出していて、眩しさのせいで瞼が中々持ち上がらない。 でも、声を聞けば誰なのかはすぐ予想がついた。

 「ユイ......」
 「ほら、そろそろ時間だって。 腕時計見て?」
 「んにゃあ......って、えっ!?」
 
 時間? どういうことだっけ。 ニャルマーみたいな声を漏らして、ノバラは自分の腕時計を軽く見やった。 そしてそれは効果覿面。 ノバラは突然ポッポにでもつつかれたかのように目を見開き、ガバッと跳ね起きた。 勢いで背中から草がいくつかはらはらと落ちていく。 ノバラの夢見心地も、はらはらと......いや、結構しっかり音を立てて崩れていった。

 「......そうだ、遠足!!」
 「あはは、そっからかぁ......まあ、ぐっすりだったからね。 先生がそろそろ集まれって言うから、起こしに来た」
 「そっ、か......」

 改めて、彼女は腕時計を見る。 時計の針が示していたのは、おやつの時間5分前......否、分けられたプリントに書いてあった集合時間の5分前。
 そう、今日はスクール側が主催する遠足の日。 自分達のクラスは1時間ぐらいバスに揺られながら、少し北の方にある草原へ向かったのだ。 着くやいなやノバラはユイと昼ご飯を食べて、その後電池が切れたように寝て、寝続けて。
 ......そうして今、帰りの時間がやってきたわけで。

 (......あれ、私ずっと寝て......!?)

 ノバラの顔が、不自然にさーっと青ざめる。
 別に昼寝自体は悪いことではないはずだ。 寧ろその心地よさは、多分こういう機会でないと味わえなかったはずだ。 だけど、その代価にクラスメイトと関わる機会だとか、色々なことを無駄にしたような気がした。
 端から見れば些細な、でも子供にとっては大きな罪悪感が、今になってどっと襲いかかってきた。

 「ユイ、もういこっ......」

 ──どうしてだろう、なぜか気持ちがはやる。 はやく、はやく起きないと。
 でも、身体は中々言うことを聞かない。 頭から力が抜ける。 その場で倒れ込もうとする彼女に、横から救いの手が差し伸べられた。

 「......うあっ」
 「あわわノバラしっかり! 起きたてなんだから、無理しちゃだめ! それに、この前具合悪くなったばっかじゃん!」
 「......そっか、ごめん」

 ユイはノバラを支えるだけでなく、その軽率さを叱ってもくれた。 流石にこれにはぐうの音も出ず、ノバラは素直に謝った。
 ......そういえば、最近寝不足気味だったっけ。 この前、春休みが終わった直後に学校で体調を崩して以来、魔狼のことがますます心配になっていって。 そして解決策を見出せない自分が、また嫌になって。
 自己嫌悪に釣られて目も閉じずにぐるぐる考えてしまう内に、いっそ自分が眠らずこのままいなくなれば──なんてことを思いつく、ということもあった。
 .......まあ、1度試してみた結果、寝落ちというあまりにもしょぼい結末を迎えてしまった訳だけれど。

 「ノバラ」
 
 そんなことを考えていると、横からユイの声がした。 別に今は具合が悪いわけでもないのに、彼女はまた手を差し伸べてくれている。
 風が吹き、草の香りがまた鼻を撫でた。 ユイの声が、暖かい春風に乗って流れてきた。

 「無理、しないでね」
 「えっ......」

 ノバラは一瞬きょとんとして、ユイの顔を見る。
 鈴のような声の響きは変わらずそのままだけれど、何故かその声からは溌剌とした元気さだけが剥がれ落ちていた。
 ──何かを見透かしているような、そんな言葉。 でも、そこに隠された真意まではうまく読み取れなかった。 ただ、静かに混乱するだけ。

 「......う、うん」

 ノバラは何気なく頷いて、何気なく手を握り返した。
 ふたり一緒に、バスに向かって歩く。 その間も必死に考えてはみるけれど、やはり寝起きの頭では無理があったようだ。
 ......そしてバスの中でまた寝落ちする頃には、そんな混乱は綺麗に抜け落ちて、いつしか忘れ去られてしまった。











 ......嗚呼、どうして今、こんな些細なことを思い出してしまうのだろう。 まるで、ユイが記憶を引っ張り出してくれたみたいだ。
 だけど、何故か今ならわかってしまう。 春風の中、彼女がそんなことを言った意味が。
 だが気づくには、あまりに遅すぎたのだ。

 自分も、そして、きっと「彼」も。
 
 (......無力感)

 ユズの頭の葉っぱが、強張った。
 記憶の天蓋の下でひとり、金縛りにでも遭ったかのように固まっていた。

 (その先にあるのは、きっと──)

 そしてその心はひたすら、慰めるべき相手を探していた。













 *



 ──ザザッ。
 
 記憶を映す光輝く結晶に、1つ小さなノイズが走った。



 *














 ──あれから、少し時間が経った。 でも、ロアはいつまで経っても見つからなかった。

 ヒョウセツはバドレックスと共に、血眼になってロアのことを探していた。 火の海のダンジョンの中、海辺や川辺、広大すぎる森の中。 塔の跡地を中心として、彼が行くかもしれないあらゆる場所に出来るだけ足を伸ばそうとした。 しかし、今のところは手がかりは無しだ。 そして捜索場所が遠くになればなるほど、時間はかさんでいくばかり。
 何かあの塔のような見つけやすい目印でもあればとも思うけれど、勿論それ自体を期待することなどあってはならないし、そもそも期待したところでという話だろう。
 ......あの塔は、明らかに「ロアの意思」で消えたのだから。

 「......」

 今夜は、綺麗な満月だ。 この月があの惨劇の日の月と同じものだなんて、最早信じられないぐらい。
 ヒョウセツはとぼとぼと、バドレックス達の拠点へと向かっていた。 今日も進展がなかったという報告をする、ただそれだけの空虚な目的のために。
 あまりにもその道のりが空虚だったものだから、彼女は心臓にそっと手を当てた。 自分の脈を感じるのが気持ち悪いと言う者もいるだろうけど、今の彼女には寧ろ丁度よかった。
 それに、今でも、鮮明に覚えている。 心臓の辺りに当てられた、あの大きな手の感触。
 ぎりぎりまで近づかれた顔。
 突き放された時に感じた痛み。
 ......耳元で聞いた、彼の謝罪の言葉。

 (......ごめんなさい、か)

 あの言葉が頭の中で何度も反響して、意識は気づけばそこにばかり向いてしまう。 これではいけないと、彼女は必死に何度も首を横に振った。
 何はともあれ、彼はそう言って自分達の元から離れていった。 帰ろうと言ったのに、一言謝罪しただけで、離れていって。 もう自我は取り戻していたはずなのに。 魔狼の、あの吐き気がするような呻き声はどこにもなかったのに。
 いや、それとも。
 ......彼の声、だったから?

 「......ははは、それはすごいな!」
 「でしょー!?」

 集落の中を歩いて行くと、ポケモン達の笑い声が耳に届いてくる。 死の恐怖や絶望感から救われた余韻が、未だ残っているのだろう。 そういえば昨日、虚無の影の脅威が消えたわけではないからもっと気を引き締めてほしいものだと、バドレックスがぶつくさ愚痴を言っていたような。
 だがヒョウセツ自身は、こういう喧噪は嫌いではなかった。 寧ろいいことじゃないか。 虚無の影だって、希望溢れる世界ではまともな姿を保ちづらいだろう。 別に、彼の不安はそんなに深刻に捉えるような話でもない。 そう思っていた。 そう、全くもって嫌ではないのだ。 嬉しくもあるのだ。

 ......少しだけ、寒気がするだけで。 そして、自分をあちらへと引き寄せてくる、熱を感じるだけで。
 自分だけ置いて行かれたような、疎外感を感じるだけで。

 「......さて」

 しかし、弱音を吐いている暇はない。 誰かが目の前にいる時は、どんな時でも気丈な姫君でいたかったのだ。 それに、バドレックス達が希望を見失っていないのに、自分が先にまた壊れるわけにもいかないだろう。
 そう心に決めて、表情を作って、ヒョウセツが彼らの拠点の扉を叩こうとすると──。

 「おやめ下さい、バドレックス様!!」
 (!?)

 ──鋭い声が、彼女の鼓膜を突いてきた。 軽く握りしめた手が、ぴたりと止まる。
 今の叫びは何なのか。 それを考える間もなく、反論の声がした。 バドレックスの声だ。
 
 「ザシアン、何度も言っているだろう。 もう決めたことだ」
 「いけません、いくらなんでも、そんなことをする義理まではないでしょう!!」
 「義理ならあるさ。 それにお前達も分かっているだろう? 何日も進展が無いのだ。 こうする以外に手段はない」
 「......ですけど......でもわからない。 恩があるとはいえ、あの人間のためにそこまですること......!」
 「......あの」

 バドレックス達の口論が、ぴたりと止まる。 この場の誰でもない、それもこの緊迫した現場にそぐわない低くくぐもった声が聞こえてきたから。 扉の方へと顔を向ける3匹の伝説の顔には、誰も彼も余裕など無かった。
 この人間も、余裕が無いという意味では似たようなものだけれど。

 「......ヒョウセツ」

 名前を呼ばれた人間は、形ばかりの礼をする。 バドレックスはぼうっと彼女を見るばかりだったが、その姿を見たザシアン達は、歓迎と拒絶という2つの感情が入り交じった表情をしていた。

 ......それを見た彼女に分かるのは、ただ1つ。
 目の前のポケモンが、「自分」のために何かを為そうとしていることぐらいだった。

 「何が、あったのです」

 









 



 「ロアを見つけられる!?」

 ヒョウセツは机を両手で叩き、興奮した調子で目の前のバドレックスに詰め寄る。 彼は戸惑うこと無く冷静に頷いた。

 「ああ、余のサイコパワーを最大限解放すれば、ロアの......正確には、魔狼の居場所を突き止められるかもしれない。 水晶の模造品とは言うが、実際は余の力が中心となるものだ。 力同士を強く共鳴させれば、例えどんなに遠い場所でも奴の居場所を察知出来る」
 「......すぐにでも、出来るのですか」
 「ああ。 特別な道具などは必要ない。 余が力を解き放てば、それでいいのだ」
 「そんな.......本当、貴方ってポケモンは......それが出来るのなら、どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか! それが出来れば、なんなら塔が消えたその日にでも......!!」
 「やめなさい、ヒョウセツ!!」

 間髪入れずにザシアンが続く。 その声はヒョウセツとは似ているようで違っていて、どこか焦っている様子だ。 予想外の事態にただ焦燥感ばかりが浮かんでいて、そして。
 ......自分から直接止めてほしいと思っているのかもしれない、あたかもそんな言い方だった。

 「......バドレックス様は、サイコパワーを『最大限』解放すると仰られた。 これが何を意味するか、お前には分からないのですか?」
 「え......?」
 「バドレックス様の身には、尋常でない程のサイコパワーが蓄積されている。 それも、途方もない年月をかけて。 それを後先考えずに解放してしまえば、バドレックス様は己の力の大部分を失うことになる」
 「力って......」

 ヒョウセツは反射的にバドレックスの方を見る。 彼は苦々しい表情で頷き、続けた。

 「......何、死ぬまでのことではない。 前のように戦えなくなるだけだ。 確かにサイコパワーを極限まで出し切れば、技を出せないということはないにしろ、思うような威力は出なくなるだろう。 そして王たる余がその様では、ブリザポスやレイスポスを呼び出すことも出来なくなる。
 時間が経てば解決するだろうが、我の力は元々長い年月をかけてここまで至っているのだ。 それが完全に戻るのはいつになるのか......それは、余にも分からない」
 「そんな......」

 ヒョウセツは言葉を失った。 確かに、これならザシアン達が声を荒らげたのも納得かもしれない。 彼の行動は、いわば自己犠牲だ。 そんな主の無謀な行動を真っ先に止めない忠臣なんていない。 彼らは決して意地悪でもなんでもない。 あの制止は、バドレックスを真に想ってこそなのだ。
 でも、自分より長い間付き従ってきた者の言葉を遮るなんてどうして。 そう問おうとした時には、彼はもう言葉を紡ごうとしていた。
 そもそも、理由なんて分かりきっていたようなものだ。 ザマゼンタ達は、「あの人間のために」と言っていたのだから。

 「──でも、ヒョウセツ。 これはお前のためなのだ。 お前は、我らを先導し続けてくれた。 お前の与えた希望が皆を救い、そして励ましてくれた。 そして、残されたものを守り抜くというその希望は、現実のものとなった。 しかしだ。
 お前はおかしいとは思わないのか? そんなお前の願いだけ、希望だけ......何故、まだ叶えられていないのだ? こんなもの、不公平でしかなかろう?」
 「!!」

 ヒョウセツは目を丸くする。 それに続いて、瞼の辺りが何故か意味もなく潤んだ。
 ......無理もない。 自分の感情を、特に真の願いを理解して貰えれば、誰だって嬉しいものなのだ。 それも、誰にも言えずに半ば押し殺しかけていた思いを。
 目が潤んだせいだろうか。 雫が溢れることはなかったけれど、彼女の声は意図せず震えた。

 「どうして......」
 「どうしてとは何だ。 もしかして隠してでもいたつもりか? それにしては、あまりに分かりやすかったがな」
 「それ、前も言いましたよね......悪口ですか?」
 「そんなことはない。 寧ろ尊敬するよ。 長い間生きてはきたが、お前ほど素直で実直な者を余は見たことがない。 そして、共に戦った者としては、そんな清らかな魂を持った者の願いが叶わないのはあまりにも耐え難い」
 「......バドレックス」
 「何、少し力を失うことぐらい他愛もないことだ。 それに半ば事故とはいえ、余には自分が主体となって魔狼を生み出したことへの責任もある。 こんなことで足りるわけがないだろうが、少しは己への罰にもなるだろう。 ほら、余にもちゃんと利益はあるぞ? 少しの罰ぐらい受けねば気が済まぬ」
 「......」
 「なんだ、急に黙って。 それにその顔。 もしや嫌か?」
 「そんな訳っ!!」

 ヒョウセツは喰い気味に返す。 行動が思考を追い越してしまったようで、彼女は言った途端に自分の口を塞いだ。でも、その指の隙間から、色々な願望があふれ出ている。

 ──会いたい、話をしたい。
 許されるならもう一度だけ、チャンスが欲しい。

 エスパータイプの彼にとっては、そんな心を読むくらい造作もないこと。 彼女の魂の声を聞いたバドレックスは、どこか満足げに微笑んだ。
 なんだ、ちゃんと言えるじゃないか。 ......ならば。

 「だったら、もう文句は無いな。 案ずるよりも、産むが易しだ」
 「えっ......」
 「バドレックス様!!」
 「何、心配するな、お前達。」

 ならばもう、迷うことはない。 彼女はこんなこと望まないかもしれないけれど、でも、自分がこうしたいのだ。 本当に、心の底から。

 「元より、これは余の意思だ」

 ──自分達を助けてくれた「相棒」の望みを、今度は自分が叶えてやるのだ。















 壮観。 恐らく、見た全ての者がそんな感想を抱くだろう、そんな青い光が一瞬で部屋を覆い尽くした。
 それはバドレックスの中から溢れ出しているようで、気づけばそれはバドレックスの頭上の小さな一点に集っていった。 きらきらと瞬くそれはあたかも一等星のようだ。 ヒョウセツは見とれ、ザシアン達は最早止められまいとその顔に小さな覚悟を宿していた。 そうして、暫く経った後。
 光が、弾けるような輝きを放つ。

 「──散らばれっ!!」

 まるで星の断末魔。 文字通り、集まっていた光達は全方位に飛び散っていった。 部屋の壁を勢いよく透過していくそれを、ヒョウセツ達は目で追っては何度も見失う。
 一方バドレックスは、光を放つ最中も目を閉じて感覚を研ぎ澄ましている。 しかしある程度光が頭上から去った後、彼は気でも抜けたのか、その場に崩れ落ちてしまった。
 
 『バドレックス様!!』
 「バドレックス!!」

 それぞれが彼の元に駆け寄る。 ヒョウセツが息も絶え絶えなバドレックスを抱えると、その表情は苦々しく歪んだ。
 ......こんな弱った姿、初めてだ。 確かにあの光からは絶大な力を感じたけれど、力の解放とやらがこんなに身をすり減らすものだったなんて。
 だが、当ポケは自分の不調など折り込み済みだ。 青白い顔をしたまま、ヒョウセツに「今見えたこと」を伝えようとする。

 「北......」
 「えっ?」
 「湿原の、山地......」
 「......なんです、1回落ち着いて! 何を伝えたいのです!?」
 
 そうこうしている間に、ザマゼンタが水を持ってきてくれた。 汗を多くかいて喉も渇いていたようで、バドレックスは勢いよくそれを飲み干し、深呼吸をする。 そして、もう一度。

 「──見えた。 北の湿原の先の山地、そこにロアはいる」
 「えっ......真ですか、それは」
 「余が見た中ではな。 雪山を、ポケモンが歩いていた。 白くて、先が朱色の毛を持つ、大柄のポケモン。 今のロアの特徴と、一致する」
 「......本当に、そんなこと」

 起こりうるのか。 その質問を、ヒョウセツはすんでのところで呑み込んだ。 彼は本当に、自分の力を犠牲にしてまでロアの場所を探し当てようとしてくれたのだ。 そして、現実として、見えたのだ。 彼の姿が。 彼がどこかで生きているという希望が。
 ......それを今更疑うなんて、彼に対する裏切りに他ならないじゃないか。

 「距離は遠いが、アーマーガアに乗れば半日で行ける。 気配の残り滓ぐらいなら探知出来るが、ロアが移動している可能性を考えると、なるべく早いほうがいい。 早朝にでもここを出て、ロアのことを探しに行く。 魔狼のことも、どうにかせねばならぬのだからな。
 ......ヒョウセツ、無論、行くよな?」

 だったら、もう賭けるしかない。 彼が大きな犠牲を払って得たチャンスを、無駄にしてはならない。
 ヒョウセツは迷いなく頷いてみせた。

 













 早朝。 ヒョウセツとバドレックスはアーマーガアに跨がり、北へと向かった。 まだ名前すらもついていないような秘境の地。 湿原を越えて、山の中へと飛び続ける。
 ところが、山の天気が変わりやすいとはよく言ったもので、現地には激しい吹雪が吹き荒れていた。

 「中々の吹雪ですね......」
 「ああ......アーマーガア、もう少し飛ばせるか!?」
 「申し訳ない、これが限界です! それに、これ以上飛び続けるのもっ......!?」
 
 アーマーガアが弱音を吐いた途端、強い風が彼の元を襲う。 限界、その言葉通り彼の鋼の翼はその風に煽られてしまう。 鋼タイプであるが故に氷で傷つくことはないのだが、飛ぶには向かない環境であるのは変わりない。 「すいません、下ります!」という声と共に、アーマーガアはゆっくり降下していく。
 ......しかし。

 「──っ!」
 「なっ、ヒョウセツ!!」

 ある程度の高さになったところで、ヒョウセツはアーマーガアの背から飛び降りる。 下は雪とはいえ、高所から飛び降りるなんてことをすれば、足から背中に痺れるような感覚が走った。 でもそんなものは決して、ここで足を止める理由にはならない。 彼女は怯まず立ち上がり、走り出す。
 その姿を見下ろすバドレックスは、半ば呆れた溜息を漏らした。 だから放って置けないのだ。 この人間は。

 「全く、奴は本当に......済まないアーマーガア、余を下ろしたら、近くの穴蔵にでも隠れていてくれ」
 「えっ......いいのですか、手伝わなくても」
 「ああ」
 
 バドレックスもアーマーガアの背から下り、もう見えなくなってしまったヒョウセツの後をなんとか追おうとする。 それにしても、ロアの、魔狼の気配の名残が近い。 本当に見つけたいと思うのなら、アーマーガアにも手伝ってもらうのが賢明なのだろうけれど。

 「それには及ばないさ」

 ......何故だろう。 それをしては、いけない気がした。














 「ロア、いるんですか、ロア!!」

 そんなバドレックス達をさて置いて、ヒョウセツは自分だけでロアの姿を探し続ける。 悪いことをしたかもしれない。 でも、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。
 荷物は最小限。 魔狼を封じる際に器とするための瓢箪を首に下げ、右手には敵が現れた時のために薙刀を携えている。 しかし、雪国の寒さというものは軽装備で耐えられる程甘くはない。 走るうちに手はかじかみ、感覚が消えていく。 でも、この刃だけはどうしても放す気にはなれなかった。
 この刃がある限り、守ってやれる。
 その希望だけが、彼女を突き動かしていた。

 「......お願い、いるならいるって言って!! ロア、答えて!!」

 分かっている。 吹雪で姿も見えやしないのに、こんな叫び無謀でしかないことぐらい。 でも叫ばずにはいられない。 もうそうすることしか出来ない。
 寒い、寒くて堪らない。 脆い人間が、1人で飛び出すべきではなかったのだ。 薙刀を両手で掴み、彼女はその場でくず折れる。 ぎゅっと目を閉じても、吹雪の音しか聞こえない。

 「......ロア......」

 ここに、何か足音でも混じってくれれば。 そう祈った矢先だった。

 ......サク。

 「?」

 小さな足音が、響く。













 「......?」
 
 顔を上げずに、目だけ見開く。 今のは何だ。 風に紛れて小さい音ではあるけれど、空耳にしてはしっかりしすぎている。 バドレックスのもの......いや、違う。 彼は浮いているから、そもそも雪の上を歩くなどしない。
 では、一体誰の?
 
 ......サク、サク。

 足音が、大きくなっていく。 彼女は静かに顔を上げた。 すると、雪が微かに積もっていた背中が激しく震え出す。

 眼前に見えたのは......白と、朱色と。

 (......まさか!!)

 ヒョウセツは跳ね起きて走り出した。 目の前の影に向かって、全速力で。 雪に足を取られかけても怯まずに。
 バドレックスに、心から感謝した。 自らの力を対価として、こんな希望を、奇跡を、本当に自分に授けてくれたことを。


 ──ああ、今、目の前にいる。

 あの時救えなかったポケモンが、今ここにいる!!
 

 「ロア!!!」















 もし時計を巻き戻せるなら、すぐにでも貴方の手を取るのに。
 自分の胸元に当てたあの手のぬくもりを、逃すまいとつかみ取れるのに。
 貴方のことを、抱きしめてあげられるのに。

 ──塔から落ちながら抱いた、儚くも思えた願い。 それは今、ここで成就した。

 「......お姉ちゃん?」

 ロアは、こちらの姿を見ても襲ってはこなかった。 あの時と同じだ。 自分の意識が残っている。
 ......間に合ったのだ。 なんとか、ぎりぎり。 本当に、バドレックスのお陰だ。

 「っ......ロア!!!」

 ヒョウセツは駆け寄るなり、ぎゅっとロアを抱きしめる。 その身体は氷のように冷たかった。 生きているのかが不安になるぐらい、冷たかった。
 でも、生きている。 体温とは違う、ぬくもりを感じる。 それに今なら、自分が彼を暖めてやることが出来る。それが、何より嬉しくて堪らなかった。

 「......おねえ、ちゃん。 ほんとうに、お姉ちゃん?」

 ロアのか細い声。 進化したのもあり低い声色だったが、その姿に不相応な繊細な雰囲気はまさしく子供としての彼のものだった。
 ヒョウセツはこくこくと頷く。 凍りつくことを知らない熱い涙が、ぼろぼろと溢れ出す。

 「......なんで。 なんで、ここまで」
 「......そんなの、決まってるでしょう。 迎えに来たのですよ」
 「迎え、に?」

 ヒョウセツは頷き、少しだけ身体を離す。 彼の顔を見て、話すために。
 しかし目の前の瞳は、再会の時にも関わらず何故か酷く怯えているように見えた。

 「ええ、一緒に帰りましょう、魔狼を追い出す方法を見つけましょう。 きっと皆も協力してくれるはず」
 「......駄目だよ」
 「え?」

 思いも寄らない答えに、ヒョウセツの身体は強張った。 すぐに連れ帰ることばかり考えていて、彼の方から拒絶されることを想定できていなかったのだ。
 彼女の顔に驚愕が浮かぶ中、ロアは少し悲しげに微笑む。

 「......いきなり来たと思ったら、変なお姉ちゃん」
 「ロア......何故?」
 「だって、駄目じゃなかったら、あの時一緒に帰ってたよ? ......帰れないから、言ったんだよ。 ごめんねって。 なのに、どうして?」
 「っ......!」

 ヒョウセツは、ここでロアの心情を察した。 この子は、自分の行いを心から恥じているのだ。 だから、帰れないと零すのだ。
 でも、その主張は彼女にはとてもおかしく思えた。 だって、彼は巻き込まれただけなのに。 何も悪くないのだから、こちらの手を拒まなくたって良いのに。
 ......そうだ、それをありのまま伝えれば!

 「......ねぇ、ロア。 『貴方』は、何かしました?」
 「......え」
 「違うでしょう? 全部、魔狼が貴方を乗っ取ってやったことですよ? 全部魔狼のせいなんですよ? どうして貴方が責任を感じるんですか? そんなのに、意義なんかどこにもないはずですよ?」
 「えっ......」
 「だから、帰りましょう? 一緒に魔狼を封じましょう? 前みたいに、一緒に頑張って。 頑張ればきっと、未来が──」
 「ちょっ......お姉ちゃん待って!!」
 
 半ば絶叫のような叫びが、ヒョウセツの耳を貫く。 顔を見れば、わなわなと震えている。
 ヒョウセツと再会して少しだけ色味が戻った彼の表情が、元通りどころかますます凍てついていくのが見て取れた。

 「ロア......?」
 「お姉ちゃん......本気で言ってるの?」
 「えっ......本気って」
 「一緒に帰ろうって、本気で言ってるの?」
 「......当たり前じゃないですか」

 ロアの質問が、理解出来ない。 ヒョウセツはあくまで冷静に返すが、何故か彼の表情は更に凍り付くばかり。 すると、返事が返ってくる前に、彼は突然その右腕を振り上げた。
 そして、振り下ろす。 ヒョウセツの頭上に向けて。

 「っ!?」

 避ける暇もない。 頭を切り裂かれることを覚悟して、咄嗟にヒョウセツは目を閉じる。
 だがしかし、その先には何もなかった。 少しの間目を閉じていたのに、頭に痛みが走ることも、頭から温かいものが流れる感覚もしなかった。 
 どういうことだ、と目を開けると。

 「......これでも? 怖くないって、言える?」

 目の前に、爪が見える。 どうやら寸止めされていたようだ。 でも、だからといって危機が去った訳ではない。 彼がそうしたいと思えば、いつでもヒョウセツを殺せる距離だ。
 そのロアの言葉を聞いて、ヒョウセツは猛烈に後悔した。 どうして目を閉じてしまったのか。 そのまま微動だにしなければ、こちらの思いがちゃんと伝わっただろうに。

 「......ロア、違うんです、これは」
 「違わないよ。 怖いでしょ? お姉ちゃんは死にたくないでしょ? バドレックス様とかは分からないけど、少なくともお姉ちゃんはそうでしょ? これで分かったでしょ。 ボクが帰っても、みんなそうやって怖がるよ。 責任とか、そういう話じゃないんだよ。 あの日、みんなの記憶に残ったのは『ボク』なんだよ?」
 「......それでも!! それでも、話せばみんな絶対に分かってくれます! わたくしの言葉なら、信頼してくれる! 貴方のことも、認めてくれる!
 ──それに、死ぬのが怖いのはきっと、貴方だって......!!」
 
 ここに来て、ヒョウセツの魂の言葉が溢れ出す。
 死ぬのが怖いかどうか。 ロアはその問いに対して少し思い迷った後......微かに、でも確かに頷いた。

 「......そうだね。 確かに、怖かった。 怖かったよ。
 お姉ちゃん。 ボク、魔狼に呑まれてから、ずっと暗い場所にいたんだ。 沢山怖い声がした。 憎いって、苦しいって、辛いって。 みんな、本当に苦しそうだった。 みんな、ボクと同じだったんだ」
 「みんな......? 同じ......?」

 その疑問に、ロアはまたこくりと頷く。

 「大事なみんながいなくなっちゃった時に、ボクは何もできなかった。 みんなそうだったんだよ。 何もできなかったせいで、大事なものを守れなくて。 だから、大きな力を求めたんだ。 みんなを守れる、強い力を。 それが『これ』なんだ。 ......でもボク達は、そうやって大事なものを壊した。
 そこまで言ってくれるんだもん、お姉ちゃんは、きっとそれでも受け入れてくれるんだろうね。 ......でもお願い、嘘吐かないで。 みんなは、そんなこと出来ないよね?」
 「......ロア?」
 「ボクは覚えてるよ。 ボクがみんなを殺したんだよ。 大人たちも、友達になろうとしたポケモンも、みんな殺したんだよ。 それなのに、みんなは許してくれるの? ごめんなさいして、いいよって言ってもらって、終わっていいものなの? ......そんな綺麗事、通じる訳ないじゃないか!!
 これに憑かれたのだってボクのせいなわけじゃん、お姉ちゃんはどうしてそんなこと言えるの!? ボクのせいじゃないって、みんなのお墓の前でも言えるの!? 今話してるのが、ボクじゃなくても言えるの!?」
 「......!」

 ヒョウセツは、何も言えなかった。 ボクじゃなくても──その言葉は、彼女にはあまりにも効くものがあった。 何故なら、今まで何匹魔狼に憑かれたポケモンを切り裂いてきたか、そのポケモンがどんな顔をしていたのかも、完全には覚えられていないから。
 目の前の涙に心を揺さぶられ、その隣にもあるであろう悲しみの声も聞き取れてはいない。 かつて自分が悪癖と言った言葉が、そのまま跳ね返ってきてしまった。
 あと、蘇ってしまうのは、もう1つ。

 (お父様、お母様!! なんで、どうしてっ......!!)
 (......大丈夫よ。 わたくしが、あの化け物を倒せれば......)

 親を殺され、恨めしいと思った感情。 泣きわめく弟に対して気丈に振る舞い、慰めた記憶。 そして。

 (......逃がしません!!)

 なんとしてでも葬ってやると、異世界への入口を通り抜けた、あの感覚。
 そうだ、あの時は、その感情をずっと貫き通すものだとばかり考えていたのだ。 そう、考えていたのに。
 ......でも。 人間の感情は、曖昧すぎるから。

 「ロ、ア」

 どうしよう。 言い返すべきなのに、言い返せない。 ヒョウセツは新たに生まれた恐怖に震えることしか出来なかった。 その姿に、先程までの毅然さは見られない。 蘇ったはずの太陽は1つの矛盾を突かれ、そうしてまた沈みかけていた。
 しかし、だからといってロアは安心する素振りなんて見せなかった。 寧ろ、申し訳なさそうに俯いた。

 「......ごめん、お姉ちゃん。 傷つけるつもりは、なかったんだ。
 あんなこと言ったけど、嬉しかったのは、本当なんだ。 ここまで来てくれるなんて、思ってなかったから。......凄いね、お姉ちゃんは」
 「え......?」
 「お姉ちゃんは、いつもボクのことを助けてくれた。 優しくしてくれた。 守ってくれた。 今だって、こうして来てくれた。 ボクの願いを、叶えに来てくれた」
 「......願い」

 ヒョウセツは、ぽかんとした表情で復唱する。 彼が何かしらの願いを抱いていたことなんて、今まで知らなかったのだ。
 だが、ロアはそんな反応には目を向けず、自分の心を吐露し続ける。

 「うん。 前から、思ってたことがあったんだ。 ずっと無理だったけど、これでようやく叶えられる......。 それも、大切なお姉ちゃんの隣で......。
 その薙刀......だっけ。 それを持ってるおねえちゃん、ボク大好きだよ。 それだけじゃない。 どんなお姉ちゃんでも、ボクは本当に大好き」
 「ロア......」
 「お姉ちゃん、ボクの願い、叶えてくれる?」
 「......当然です!」

 ヒョウセツは、ロアを抱く力を強めた。 もう離したくない──彼女の顔は、そんな思いに満ちあふれていた。

 「......貴方が何かを望むなら、絶対ここで叶えてみせる。 ねぇ、ロア。 願いを叶えた後、もし本当に戻れないなら、旅でもしましょう? なんなら、わたくしの世界に連れて行ったって良い。 誰も貴方のことを知らない場所で、生きれば良い。
 わたくしは、貴方のためならどこへだって行くわ。 だから、だから......」

 顔は見えなかったけれど、ロアはにこりと笑ったように優しい息を吐く。 そして。

 「──お姉ちゃん、ありがとう......」

 彼も、ヒョウセツの背中にそっと片腕を回す。 その姿は、まるでワルツを躍ろうとしているかのような落ち着きすらあった。
 そして彼はヒョウセツの細く綺麗な右腕を優しくつかみ、自分の方へそっと引き寄せた──






















 ──その時。

 感覚が消えていたはずの彼女の「右手」に、何かを潰していく感触が伝わった。
















 「......え?」

 始めに感じたのは、既知感だった。 この感覚を共に共有したのは、自らが持っていた武器──。
 ......武器。 自分の「右手」がつかんでいた、薙刀。

 「......ロ、ア?」

 彼女とて、勘がそれほど悪いわけではない。 恐る恐る目線を動かしてみる。 すると、すると──、



 ......どうして、自分の薙刀の刃が。

 彼の背後の方に、突き抜けて──



 「っ......!?」

 思わず、目線を自分の手の方に移す。 現状はあまりに容易に理解出来た。 理解、「してしまった」。  
 彼女の右手には、何やら赤いものがべったりと染みついていた。 そしてそれとは裏腹に、自分の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。
 ──そう、血だ。
 純白の世界を穢す、赤色だ。

 「い、嫌ああああああっ!?!?」

 ヒョウセツは思わずその場でのけぞった。 そかし皮肉なことに、逃げられない現実の全体像はその時やっと彼女の目に映り込んだ。
 ヒョウセツの薙刀が、ロアの身体を貫いてしまった。

 ──否、ロアが、彼女の薙刀をその身に突き刺したのだ。










 「は......がはっ......やった......これで......」

 ロアは笑っていた。 血塗られた、笑みだった。 あまりに異常な状況に、ヒョウセツは何も出来ない。 ただ呆然と、壊れてしまった人形のように、身体を震わせるばかり。
 やったって、何。 どういうこと。
 どうして、どうしてこんなこと......!?

 「あ......あ......!?」
 「お姉ちゃん......ありがとう。 ボク、嬉しかった。 お姉ちゃんの、お陰で、ボク、はっ......」
 「は......!?」

 ロアの膝が、その場で力なく崩れ落ちようとする。
 本能からその身体をヒョウセツは必死で支えようとするが、手遅れだった。 薙刀の柄が地面に当たってつっかえたことで、刀身はロアの腹により深く突き刺さっていく。 じわじわと傷が広がると同時に、血が混じった咳の音がした。
 その咳の音を聴いて、ヒョウセツがロアの表情を見ると、彼がしていたのはやっぱり苦悶の表情ではなかった。 初めて会った時と似たような行き場のない目をしたまま、彼は不気味に笑っていた。
 そして、彼はその表情のまま、嬉々としてその薙刀を引き抜く。

 「ロ、ア......」

 流れ出す、沢山の血。 親を失ったあの赤色の地獄が、彼女の中にオーバーラップする。
 怖い。 遅れてやっとのことでやってきた恐怖が、ヒョウセツの心を包む。 このままではいけない。 このままでは、彼が死んでしまう。 自分の着物を破いて止血しようにも、量が足りなさすぎる。 こんなのじゃ、絶対に駄目だ。
 もしやバドレックスなら──いや、望み薄かもしれない。 彼は今しがた自分の力を失ったばかりなのだ。 死にかけの命を蘇らせるなんてこと、出来るとは思えない。 そもそも、彼はどこにいるのか。 後先考えず飛び出してしまった自分が阿呆だったのか。 もしかしたら、あの時力尽くでバドレックスを止めて別の方法を模索していれば、結末は変わったのか。 そうすれば、彼がロアの傷を塞げたのだろうか。

 ......何処なの。 打つ手は、何処にあるの?
 まさかもう、何も、残って──

 「......ゴフッ」
 「っ!?」

 弱々しい咳。 ヒョウセツの目線は、また彼の顔に向いた。 でも、見たくもない笑みに彩られたその顔を、どうして、どうして冷静になって見つめられるだろうか?

 「......おねえちゃん、嬉しく、ないの?」
 「......」
 「ボクの願い、叶った、んだよ。 駄目、なの?」
 「......やめっ......」

 血に、ぽたりと透明な水が落ちる。 色が滲んで、融けていく。 それを見るロアの表情に、微かな狼狽が宿った。 その狼狽の意味が、ヒョウセツにはどうしても分からなかった。
 何が願いだ、何が嬉しいだ。 こんなの、こんなのどうして、涙がこぼれずに済むというのか? どうして、悔しさで心がかき乱されずに澄むとでもいうのか?

 「......おねえちゃ、なんで......?」
 「やめて」
 「なんで、泣いて......?」
 「〜〜っ!!」

 ふざけるな。 そんなの、そんなの。
 そんなの、出来る訳が──!!
 
 「──お願いやめてっ!!! 」
 「えっ......」
 「ふざけないで、これ以上笑わないで!!」

 歯を食い縛った音。 そこに続いたのは、空間を引き裂く叫び。 そのどちらもが、弱ったロアの鼓膜を鋭く揺らした。
 ......そして、引き裂くという言葉は決して比喩ではない。 ヒョウセツの願い通り、ロアのその顔から笑顔は消えたけれど。

 「......やめて......」
 「......おねえ、ちゃん......」

 けれど、最期に。彼らの間には、あまりに大きすぎる溝が生まれてしまった。
 泣きじゃくる目の前の恩人の思いを、彼は遂に理解出来なかった。 そしてそれは、ヒョウセツも同じこと。彼女は、ロアの願いに隠された闇を、理解出来なかった。 だからこそ、罵るような真似をしてしまったのだ。 ヒョウセツが望んでいた最後のチャンスは瞬く間に凍り付き、最後には、砕け散った。
 そして彼らは諦めた。 理解してもらうことを、諦めた。 無理だった。 気づくのがあまりに遅かった。 もうわかり合えない。 大切な相手だったはずなのに。
 時は戻らない。 あとはもう、崩れるのを待つばかり。 どんな行動を取ったとしても、それらはもう無意味のものとして世界や自分自身から嘲笑われてしまうだろう。
 全てが、終わった。

 「おね......ちゃん」

 ......ああでも、これだけは。 これだけは言い残さないと。 その思いが、最期にロアを突き動かす。
 もう、理解は求めていない。 求められない。 言ったあとは、このまま。

 「おねえ、ちゃん。 あと、少し経てば、魔狼が、ボクから出てくるから。 捕まえて、おね、がい」
 「え」
 「魔狼が、いなく、なれば......みんな、平和に......」
 「っ! ロア、待っt......!!」

 もう、言葉の意味すらつかめない。 目の前がぼやける。 これでいいと、思った。 そのまま、流れに任せればいい。 そう思っていた。 けれど、その矢先。
 ......暗い暗い、黒い霧が、目の前にずあっと溢れだした。 声が聞こえないということは、どうやら彼女には見えていないらしい。 でも、これは絶対に、あの塔で腐るほど見たもの。

 ──無力感が、負の感情が詰まった器。 魔狼、そのもの。

 (......ああ、そっか)

 大事なことを見落としていたことに、彼はやっとのことで気づいた。 魔狼は、死にゆく者の魂も呑み込むのだ。 バドレックスにそのことは聞いていたはずなのに、忘れてしまっていた。 この先に、死による安息などない。 永遠に続く、闇があるだけ。
 でも、彼はもうその結末を拒まなかった。 塔を消した時のように、願いと違うじゃないかと足掻くことももうしなかった。

 だってもう、諦めているのだから。
 
 「......ちゃん......ごめ......さ......」

 これを最期に、声が、出なくなった。
 寒いという苦痛が、大事な人の温もりが、あらゆる感覚が、なくなった。
 
 そうして、魂は呑みこまれた。

 













 微かに、彼の目に黒いもやが映った。 そして何秒か経った後、彼は静かに目を閉じた。 煤がかかったようなあれは、死相と呼ぶのだろうか?
 でも今は、そんなことにばかり目を向けることは出来なかった。

 「......ロア?」

 彼を辛うじて支えていた身体の力が、遂に抜けていくのが分かった。 ヒョウセツはぐったりとしたその身体を、受け止める事しか出来ない。 その感覚が親を葬った時とあまりにも似ていて、彼女の拍動が加速する。 そしてそれとは裏腹に、表情から動きという動きが失せていく。
 目線だけ動かして、ロアの顔を見やる。 せめて、その顔が安らかなものであったなら、少しは救いがあっただろうに。 でも、その笑みは偽物で。 本当は、苦しくてたまらなくて。 でも、この苦しみの中で死ぬことを望んでいたかのよう。
 光にも似た絶望。 それが、彼の最期だとでもいうのか。

 「......やめて、起きて」

 か細い声。 しかし、彼はもう応えない。 応える意思の有無なんかは、今の彼女にはどうでもいいことだった。 どっちであったとしても、同じようなものだ。

 「やめなさい、お願いだから」

 語気を強める。 苛立ちすら湧いて、その身体を揺さぶる。

 「──起きなさい!!」

 どうしようもなくて、声を荒らげてしまった。 でももう彼は動かない。 怯えた目すらも、見せてくれない。
 ここまでしても、彼はもう動かない。 身体は抜け殻のように、彼女の腕の中に収まっている。

 「......っ......」

 もう、声は上げなかった。 これ以上何か声をかけても、ただ虚しいだけだった。
 いや、上げられなかった、という方が正しいかもしれない。 もう既に彼女は、その場で声を詰まらせて泣き出していたから。

 でも、声は出ずとも、心は永遠に叫んでいた。
 何に対してかももう分からないのに、「やめて」と子供のように喚き続ける。
 しかし、その小さな拒絶は叶わない。 彼女を支えていた全てが、ここで崩れ落ちていく。


 ひとつの希望が。

 ひとつの未来が。

 ひとつの決意が。

 ひとつの夢が。

 ──そして、ひとつの命が。


 ひとつの何かが、終わりを告げる。 静かに、そして残酷に。
 残ったのは、降り積もり続ける、真っ白な虚無だけ。


 ずっと嗚咽を漏らしていると、自らの抱く亡骸から黒い霧が溢れ出す。
 死すら想起させる霧の前で、彼女は顔を上げ、目の前で潰れた魂の最期の願いを成就させんと、持っていた瓢箪の蓋を開いた。 すると霧は、今までの苦労が嘘のように、静かにそこに収まっていった。 それ自体が、彼の霊魂であるかのように。
 そして、全てが入りきったところで。 彼女は、全てにかたく蓋をする。

 「...........」

 嗚呼、これで。

 ──これで、終わったのだ。

















 ......嗚呼、やっと。
 やっと、後ろ姿を捉えた!

 「ヒョウセツ! どうだ、ロアは──」

 吹雪に顔をしかめながら、バドレックスは走る。 その先に微かに見えた人間の後ろ姿に向けて声を上げようとした。 見付かったのか、見付かったならどうなったのか、いつものように情報交換をするつもりだった。
 しかし、すんでのところで彼の言葉は止まる。

 「......ヒョウセツ?」

 その人間の体躯は、いつもより小さく見えた。 否、座り込んでいたのだ。 思わず、声も腫れ物を扱うような物に変わる。
 何故だろう。 そんなことはないはずなのに、その後ろ姿には生気を感じない。

 怖い。 力を失ったせいだろうか。 不覚にもそんな言葉が胸に溢れた。

 「......バドレックス、来たんですね」

 静かな返答。 しかし、あの大火の後とは違い、いつも通りの声色。後ろ姿であったが故に表情は分からなかったが、この不安はひとまず杞憂だったらしい。 彼はほっと息をつく。
 しかし、それと同時に、もう1つの不安が顔を出す。

 「──ロアは何処だ?」

 ヒョウセツの背が跳ねる。 一瞬その挙動に違和感を覚えるけれど、でもそれだけだった。 3秒くらい時間を置いた後、彼女はしゃがんだままその場で振り向いた。 分かりやすい彼女のこと、何か隠しているのではと勘繰りもしたが、あったとしても彼女は意地でもそれを見せようとはしなかった。

 「......そうだ、バドレックス、これを」

 質問に答えるより先に、彼女は何かを彼の前に差し出す。 その何かとは、小さく何の変哲もないように見える瓢箪だった。

 「これは」
 「魔狼です。 この中に封じてあります。 これでもう、皆が脅かされることはない。 あとは虚無の影さえ打ち払えればいいでしょう」
 「え」
 「......わたくしの役目は、魔狼を打ち倒し封じること。 それは今果たされたのです。 でも未だ脅威が根強く残るこの世界に、これを残していくのも危険です。 この瓢箪はわたくしの世界に持ち帰り、封じて」
 「待て!」

 淡々と説明するヒョウセツを、バドレックスはたまらず制止する。 そんなことを急に言われたところで、すぐ理解できるわけがない。
 どうしてだ。 魔狼がこうして捕まるのは、願ったり叶ったりなはずなのに。 ずっと、このために頑張ってきたはずなのに。 いざそれが叶った今でさえ、不穏さを感じてならないのは何故だろう?

 「本当に、魔狼なのか?」
 「ええ」
 「今まであんなに苦労してきたというのに、こうもあっさり?」
 「ええ」
 「お前......」

 さっきからずっとそうだ。 彼女の言葉からは、感情を読み取れない。 そして、それは自分がただ疎いだけと片付けるにはあまりに不自然だ。
 分からない。 彼女の今が、分からない。 バドレックスは首を横に振る。 まず、彼女は自分のした質問にまともに答えていない。

 「話を捻じ曲げるな。 もう一度問う。 ロアは何処だ?」
 「終わったのです」
 「は?」

 また、話の要領を得ない答え。 バドレックスは顔をしかめた。

 「......お前、この状況で」
 「終わったのです。 ロアのことも、魔狼のことも、全部。 だから、もういいのです。 ......帰りましょう」
 「ヒョウセツ、余の目を誤魔化せると思うな。 何を隠している? 余が何のために力を使ったか分かっているよな? アーマーガアも、危険を押して我らをここまで運んでくれたのだぞ? お前の希望を、叶えるためだぞ? お前がそれらを意味なく無下にする訳がない。それなのに何故?」
 「......無下にしたと言うのなら、もうそれでいいでしょう。 帰りましょう」
 「お前っ......本当に、何なんだ!!」

 ──ふたりの間に、強い風が吹く。
 バドレックスは肩をわなわなと震わせて、ヒョウセツの目を見つめている。 語りかける方と、語りかけられる方。 図らずも、立場が最初と逆になってしまった。
 ヒョウセツは軽く目を閉じて、立ち上がった。 バドレックスも思わず上を見上げると。

 刹那、絶句した。

 「......お前......?」

 ──腹の辺りに、暗い色が見える。 今までの戦いで何度も見た赤黒い色が、こびりついている。
 バドレックスは立ち尽くした。 恐らく、今までは袖で上手く隠していたのだろう。 しかし一旦表に出てしまえば、それは絶対に無視してはならない概念へと変貌する。
 一瞬怪我かと思ったが、彼女はいたって涼しい顔をしている。 では、彼女の怪我ではないというのなら?

 (まさか)

 頑なに隠していた背後。
 血塗られた彼女の腹部。

 そこから導き出される、答えといえば──。

 「バドレックス」

 はっきりとした制止が、後ろを振り向こうとしたバドレックスに届く。 思わず動きを止めた彼に、ヒョウセツは静かに微笑んだ。
 中身の無い笑み。 虚無の顔。

 「帰りましょう。 ここにはもう、何も無いのだから」
 「......ヒョウセツ......?」

 その言葉は、やけに鮮烈にバドレックスの胸に刺さった。
 ──何も無い。 わざわざそう言うのだから、普通ならば疑うに決まっている。 いつもの彼だったら、王たる者に隠し事とは何事だと言って、警告を破って突き進んでいただろう。
 でも、今の場合は。 その言葉は、彼女にとって真実なのだろう。 そんな風に彼には思えた。 どうせ、全ては、雪に埋もれて消えてしまう。 バドレックスの背後にあるかもしれないものだって。
 見ようが見まいが関係ない。 もう全ては終わった。 残り滓は自然に呑まれ、失せていく。 それだけの運命なのだ。

 「......」

 バドレックスは背後への未練を断ち切り、前へと進む。 霧のように追い縋る吹雪には、敢えて目を向けないようにした。
 風の音しか聞こえない。 しかし、その中でバドレックスは小さな声を聞いた。

 「──そう、終わったの」

 その声は、微かに震えていて、

 「全て、終わったの......」
 
 ──晴れやかな絶望にも似た声だった。












 「......」

 ヒョウセツはそう言った後黙りこくり、前を淡々と進んでいってしまう。 バドレックスはそんな彼女に、何か手を差し伸べようかとも思った。
 どうやらあの人間のせいで、自分は前より他者の感情に対して敏感になってしまったらしい。 絶対に何かがあると、彼の本能は告げていた。

 ......でも、敏感になってしまったからこそ。
 彼女はきっと拒むだろうということが、分かってしまったから。
 そして、予想がついてしまった以上、問うこと自体が彼女の名誉を傷つけると思ったから。

 「............」

 だから、彼は何も言わなかった。
 彼はその絶望の真実を問うのを止めた。

 「──バドレックス様、ヒョウセツ!! よかった、無事で......!!」

 そうして、いつしか吹雪は止んでいた。
 雪原を歩く彼らの前に、焦った顔をしたアーマーガアが慌てて降りてきた──。
















 静寂が包む世界。 ここで、役目を終えた記憶の天蓋はその場で砂のように崩れて消え去った。 一切の光が消え、この場にあるのは最早もの言わぬ宝石と、その周りに佇むポケモン達ばかり。
 こうして、ひとつの物語の幕が閉じた。

 「......これで、終わり。」

 洞窟の中から、誰からともなく、そんな声がした。
誰も守れず、誰も救えない。
悲しい悲しい、自暴自棄。

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