「そんな」
敗北者はそれだけをこぼす。降りしきる雨はやがて止み、事切れたように立ち尽くす。事実を飲み込むのに数秒かかった。
「今のバトル、おまえの本気だったか」
頭上に声が降り注ぐ。責めるでもなく、肯定するでもなく、ただ事の是非を問う冷静さが辛かった。トレーナーとしての不始末を叱ってくれた方がまだありがたい。
勝手に焦りを募らせていたのはナルミの方だ。かつては並んで歩いた親友、その憧れの背中を追いかけるために、各地を巡り、七戦全勝という記録を打ち立てて来た。だからナルミにはゴールテープだけが見えていて、後ろから来るランナーの殺気に気付かなかった。
最強のジムリーダーに、ごまかしなど通用しない。たった一度のバトルで弱点を看破され、挙句叩き伏せられた。公式戦で彼女の成績に黒星をつけたのはカグラが初めてだ。
「つ、次こそ……」
デンリュウを労い、モンスターボールに戻したナルミだが、うまく声が出ない。
「次はない」
カグラは険しい顔つきだった。
「言ったろう、シオラジムは閉鎖する」
「じゃ、じゃあ特訓して――」
「特訓しようがなんだろうが、少なくとも勝負を焦る今のおまえでは、何度やってもオレに勝つことは出来ん」
後頭部を殴られたような衝撃を受け、ナルミはそれっきり黙ってしまう。
「頭冷やしな。まずポケモンを休ませろ」
カグラは踵を返し、最後に付け加えた。
ナルミの方を見なかったのは、僅かでも面と向かって言うことに躊躇いが生まれていたからかもしれない。相手の目を見ないで投げつける言葉は叱咤でなくただの凶器だと、臆病で卑怯な真似だと、そのときは知らずに。ジムリーダーとして、トレーナーの先輩としてアドバイスしたつもりでいた。
「約束以前に、おまえは誰と戦っているんだ? リーグは見送ることだな」
カグラは帽子を深く被りながら突き放し、振り返らなかった。
後はサダノリとアブソルが見ていた。ナルミの双眸が固まるのが分かる。
敗者の定めに則り、彼女はきっと背を向けて、走り去って行った。挑戦者をジムから締め出すように、自動ドアが閉まる。
「これで良かったんですか? 彼女、泣いてましたよ」
ナルミを案じてか、サダノリは閉じられたドアの向こうに視線を送る。
「ああ。綺麗さっぱり、清算だ」
カグラは天井を見上げる。
「あとは次のジムリーダーが継げば良い」
「挑戦を受けたのは?」
「義務だ」
即答するも、まだ次の答えを待たれているような煮え切らない沈黙。本心をごまかさずに言えということか。カグラは息を吐く。
「未練が残ったら、たまったもんじゃねえからな」
「そう言って、未練たらたらじゃないですか」
「オレが?」
「はい」
まったく、こんなときだけ人生の先輩面をしてくれる。
「カグラさんは、今のバトルに満足しているようには見えませんでしたよ。いつになく厳しかったですしね」
アブソルが傍らでこくこくと頷く。これは、どうも責められている雰囲気だ。
「バッジ7つ相手に、お世辞も要らねえだろ」
カグラは愚痴まじりに吐き捨てたかと思えば、調子を変え、真剣なまなざしを向ける。
「確かに強いトレーナーであることには間違いない」
もし――仮定の話だ。
ナルミがカグラの提示した課題「時間」について正確な意味を飲み込み、あの場で即興の逆転を作り上げたとしたら、恐らく負けていたのはカグラの方だった。
結果として焦りから大技での勝負に拘った、それが技術面における敗因となった。だが、シザリガーの回避にも動揺せず、慎重に慎重を貫き、エレキフィールドを指示していたら、結末はどうなっていただろう。スタジアム全土に放射される雷撃よりも、スタジアム全土に電流を張る方が、まだデンリュウのエネルギーと負担を抑えられたはずだ。シザリガーは隠れ蓑からスタジアムに出た瞬間、電流の洗礼を浴びる。そうなれば、勝負の行方はゼロから仕切り直しとなる。
雑念を捨て、場にいる相手と状況さえ把握出来ていれば、勝てた。泥をつけられる必要もなかったのだ。あれだけの才能を持ちながら、勿体ない。
しかし、ナルミが仮にエレキフィールドを指示して勝ったからといって満足するかといえば、そうでもない。自分というトレーナーを見ずに、親友との約束に執着し、我を見失ったバトルを演じた。どこかカグラに不満めいたものを残す。
「戦う相手が見えていない。だから負けたんだ」
「ジムリーダーらしい言葉ですね」
「やめてくれよ」
もう忘れてしまいたいというのに。サダノリは意地悪な笑みを浮かべている。
その夜、アパート住まいのカグラは、ひとり台所で大鍋をかき混ぜていた。
ポフィン作りは、緩急が大事だ。
早すぎてもきのみのスープがこぼれてしまうし、かといって遅すぎても焦げ付いてしまう。絶妙な塩梅を何度も練習して、ようやくコツを掴み始めた。ポケモンたちに与える食事なら、見てくれだけでも工夫したいと思い、練習を始めたのがきっかけだった。いつも意外と言われるが、料理は不得手どころか興味関心の対象なのだ。
市販のポケモンフーズでは実現出来ない栄養を摂取しているカグラのポケモンたちは、肌につやがあり、健康状態も良好である。
中でもアブソルは雌としての輝きを搭載していたので、試しにコンテストへと出してみたことがある。同会場出場者の雄ポケモンたちが好奇の視線を投げかけていたが、アブソルはポケモンそっちのけでカグラの衣装を見ていたというオチである。
そんなこんなで仲の良い一人と一匹……のはずなのだが、どうも最近反りが合わない。
「ほら、飯だぞー」
ポケモンとの同居を視野に入れて建築された家は多い。が、それでもアパートにポケモンたちのぎゅうぎゅう詰めは幅を取る。冬だと生き物の温度で温まるが、夏は地獄だ。
幸い、あくタイプのポケモンは小柄な種族が多いのが救いか。彼とてすべてのあくタイプを育成しているわけではない。例えばサザンドラがいたら、家計は今より遥かに圧迫されるだろう。バンギラスだったら家が砂嵐で埋もれてしまうので世話が大変そうだ。そこでカグラはあくタイプのなるべく小柄なポケモンに絞って育成している。
「たくさん食えよー」
まろやかポフィンにがっつくマニューラやミカルゲ、ワルビアルたちの間を通り抜けながら、アブソルにも皿たっぷりのポフィンを差し出した。
「今日は腕によりをかけて作ったポフィンだぞ」
力こぶをつくるふりをしても、相変わらず仏頂面に変化はない。
自分の夕飯を作らなければならないので台所に戻りたいところだが、アブソルはポフィンに口をつけようとしない。そこで彼は皿を少しずつ引く。
「お嬢、食べちゃいますよ」
つーん。反応なし。
「食べちゃいますよ?」
そのとき、ポチエナがおかわりを要求するようにきゃんきゃん鳴くので、カグラはそちらの方に気が行った。
「ちょっと待ってろー」
はっと振り向く。ポフィンの山盛りがひとつ減っているような、気がする。
こいつ食ったな。
「やっぱり食べたいんじゃねえか」
瞼を下げると、アブソルは口を結んでじーっと見つめ返す。弱った。このままでは引退後、アブソルとのコミュニケーションに支障をきたす恐れがある。
とりあえずポチエナにご飯を……と、立ち上がる。
にらめっこをしていたら、なんとなく心につっかえ棒が刺さったままな気がして、尋ねるときの声色が強張ってしまう。思い当たる節はありすぎるぐらいだ。
「ひょっとして、さっきの挑戦者のことか」
アブソルを見やると、無視出来ない眼力で問いかけてくる。
「どいつもこいつも……」
ポチエナの空になった皿を取りながら、溜息をつく。
ならば、自分はどうすれば良かったというのだ。
一チャレンジャーに過ぎない少女との公式戦が、こんなにも尾を引くのは初めてだった。
みな、自分に何かを期待し、求める目ですがり、ある者は突き放す。誰も確然とした答えを教えてはくれない。
カグラは夜道を歩いていた。ポケモンは、別に物騒でもないから連れ歩く必要性もないのだが、念のためレパルダスをモンスターボールに入れて来た。
涼しい風が肌に触る。シオラは静かでいい。
リーグのお祭りみたいな盛り上がりというものは、どうも肌に合わなかった。それでも今のメンバーで決勝まで残ったわけだが、所詮はそこまでだ。話題は沸騰し、ジムリーダーの中で最強の座に輝いた。それから、自分はトレーナーとして少しでも強くなれたのだろうか。
手にしたものは何もかも中途半端だった。現役トレーナーたちのように四天王の城を目指すわけでもなく、飽きる程弱いチャレンジャーを相手する日々を繰り返す内にやがて熱意は薄れ、城は彼から遠ざかって行った。
公園では、ゴールキーパーの構えを取るテッカニンと、テッカニンを抜こうとするエテボースがおり、青年が何やら指示を送っている。ポケモンバッカーの練習か何かだろう。彼らも競技の世界で一番を目指そうと意気込んでいるのだろうか。
尋ねてみたい。ある程度の強さを手に入れ、保証された地位に君臨したとき、それでもまだ自分の先に広がる途方もない渦を見て、絶望せずにいられるかと。
そんなことをぽつぽつと考えながら、通り過ぎた。
街灯に、ふとデンリュウの赤水晶を重ねてしまう。
まずいな。いつになく精神的に来ているようだ。このまま放置しておくと、面倒なことになりかねない。
誰か――サダノリ以外の誰かに、今日の出来事を話したい。
しかし、今更すぎる。ジムリーダーを引退すると発表してからというものの、何人からも労りの電話を貰った。気持ちは嬉しくとも、本心を語るに語れなかった。それは心を許している、いないの問題ではなく、もっとトレーナーの本質的な部分にある。
――あんたっていつもそう。周りを俯瞰して、自分は輪の中にいるくせに、関係ないふりして冷静に澄ましてる。
ふと、キョーコの言葉を思い出す。
オレは自分のことですら他人事のように思っているのかもしれない。だからこんなにも落ち着いていられるんだ。
あれから電話は来ていない。向こうも一度揉めたらなかなか引き下がらないというか、負けを認めない性質であった。
しかし、枯木寸前のジムリーダーに水やりをするどころか、直射日光の射す場所に無理矢理引っ張って行きそうな人物は、彼の交友関係をしらみつぶしに探しても、キョーコしか思い当たらない。
どうも関係者には勘違いされているようだが、我儘にも欲しているものは励ましや同情ではない。という気持ちとは裏腹に、足は人の影を求めて急かす。
帰り道にポケモンセンターでも寄ってみるか、とポケットに手を入れながらふらつく。
夜勤のポケモンセンターはがら空きだった。もう長い付き合いのジョーイとラッキーに軽く手を振る。ナルミと鉢合わせる可能性がひとつの懸念だったが、夜も更けているので宿泊部屋にいるか、街を去ったか、どちらにせよ会わずに済んだ。
「カグラさん、お散歩?」
「ああ、ちょっとね。気分転換」
少なくとも気分転換にはなっていない。
ナルミの容姿を説明して、泊まっているかどうか聞けばいい。それだけのことなのに、決まりが悪いのか、どうしても尋ねようという気は起きなかった。
去り際に残した涙。
あれは、約束を自分に否定されたことへの悔しさと怒りだろうか。
貸出PCの前に立ち、ビデオチャットを立ち上げる。いわゆるテレビ電話を可能とするサービスで、旅のトレーナーも自由に使用していいことになっている。
ログインしつつ、キョーコに回線を繋ごうとする。呼び出しに応じないか、あわよくば出ずにいてくれたら、と祈りつつ、カーソルはキョーコのIDを探す。
本日のジム営業は終了したので、そろそろ自宅にいるはずだ。
彼女もまたポケモンのコンディションチェックに余念がない。前に訪れたときは、水槽のポケモンたちに餌やりをしていた。ジムと同じで深海みたいな場所だった。みずポケモンは水温や内部環境のちょっとした変化でもデリケートに反応するのよ、と聴かされたことは多い。
電話の繋がるまでの間が、長く感じられる。
着信音が八回目に差し掛かった辺りで、これはいないな、と希望に似た諦めが込み上げてきた。しかし、唐突に音が途切れ、モニターに女性の姿が映ると、覚悟を決める。
「もしもし」
自宅の背後に映る水槽と、面倒くさそうに頬杖を突いた顔つきが一緒くたに目に入る。オンのときとギャップが凄まじい。それならば何故出たんだ、と心内で突っ込みを入れたくもなるが、電話している時点でカグラも何故電話したのか、という話である。
カグラはポケットに手を入れて、そのままどう切り出していたものかと思案する。キョーコは真顔で告げた。
「切っていい?」
「待て」
「じゃあなに。手短にどうぞ」
あんな別れ方をしたものだから、やはり根に持っているようだ。
「多分おまえの所にも来たと思うんだが、ナルミというトレーナーが」
「ナルミ?」
カグラは簡単に容姿を説明すると、キョーコは人差し指を口元にあてながら考える。
「ああ、破竹の勢いで勝ち抜いてるって子ね」
「強かったか」
目線を明後日の方向に泳がせながら、記憶を巡らせているようである。なるべく目を合わせないようにしている態度が否めない。
「強かったかな。うん」
「そうか。強かったか……」
「その子が来たんだ。じゃあ、バッジ7つ集めたのね。で?」
ぽりぽりと頭を掻くカグラの煮え切らない態度に、キョーコは嫌気が差したのか語気が若干荒くなる。引っ張っても仕方ない。椅子に座り、洗いざらい一切を打ち明ける。
キョーコはしんみりと肘を突きながら聴いてくれた。
話はナルミが半泣きで去って行き、色々考えた結果、こうして電話しているのだと白状したところで打ち止めになる。
一息つくと、キョーコは思うところありげに尋ねてきた。
「その子泣かせたの?」
「泣かせたというか。泣いてしまった、というか」
キョーコは押し殺した様子で、ばっさりと言い放つ。
「あんたって最低のジムリーダーね」
「なにぃ?」
熱を帯びたような目で、彼を厳しく見据える。
「いくらバトルが強くても、ジムリーダーとして大切なものが備わっていなければ、ジムリーダーである意味もないわ」
「何が言いたい!」
歯軋りし、机に思わず拳を振り降ろしてしまう。
「自力で見つけたら。もうジムリーダーやめるんでしょ? なら関係ないよね」
「関係あるから――」
カグラがむきになって反論しようとすると、キョーコは被せるように激昂した。
「分からないの!? あんたはその子の夢を潰したのよ!」
対話は終わった。キョーコは席を立ち、これ以上話すことはないとばかり、強制的にチャットを遮断する。
「くそが……」
想像していたよりも溝は深い。
間違いなくキョーコはカグラの姿勢を咎めている。しかし、今の彼にはジムリーダーとして大切なもの、という言葉の意味が分からなかった。ナルミに偉そうな御高説をのたまっておきながら、同僚の前ではカグラもナルミのように縮こまるしかなかった。
確かに、ナルミに酷い言葉を投げつけてしまった、とは薄々感じていたから、心の中でずっと引きずっていたのだろう。
彼女を泣かせたからという単純な理由でキョーコが怒っているならまだ救いはある。深刻なのは、最低のジムリーダーという揶揄だ。
ナルミにかけた言葉の数々が、研ぎ澄まされた刃となって自分に跳ね返る。
――あんたって最低のジムリーダーね。
罵声が頭の中で反芻する。
自分でも否定出来ないと分かっているからこそ、言い返せなかった。
オレはなんであんなことを言ってしまったのだろう。挑戦者には等しく夢を見る権利があるはず。それをあろうことか踏みにじるとは。
不完全燃焼の想いが拳を握らせ、壁に打ち付けられた。
虚ろな気分で床に就き、目が覚めてからも辛気臭さは抜けなかった。
ショックを引きずっている。これがいわゆるスランプというやつだろうか。
湿り気の強い雨音が余計にそう感じさせるのかもしれない。少しでも窓を開けっ放しにしていれば窓枠が濡れてしまうから、閉め切っていないといけない。
ジムに入り、整備されたフィールドを見つめながらも、カグラの焦点はどこかそこではない場所にある。シオラジムは役目を終えた。もうスタジアムが使われることもない。
昨日のバトルが蘇る。
それは決して互いに視線を交えようとしない、一方通行の意思疎通だった。
こうしてチャレンジャーのポジションにずっと立ち尽くしていると、自分はまるでジムリーダーではないような錯覚に囚われる。資格も失うのだから、当たり前か。
相棒のアブソルは物言わずカグラの隣に立っている。主人がどれだけ無様な姿を見せようとも、ボールに引き籠る、それだけはしなかった。
「カグラさん、そんなところに立っていないで、お入りなさいな」
スタジアムの奥から、サダノリが顔を覗かせる。
「オレは最低のジムリーダーだ。最低のジムリーダーは挑戦者の気持ちを知るためにここで立ち続けなければならない」
生真面目に口を引き結び、いつになく真剣の調子なカグラの姿が、逆にギャップのツボとしてはまったのか、サダノリは思わず吹き出す。
「何を言い出すのやら。さては何かありましたね」
「サダノリさん。ジムリーダーとして大切なものってなんだと思う」
「それなら、丁度適任者がいらっしゃいますから、尋ねてみたらどうです?」
サダノリの言う意味がわからず、ぽかんとしていると、事務室の中から見知った青年が出て来た。見間違うはずもなく、オオゼリタウンのジムリーダー本人である。遠出用か、いつもより着込んでいる。川のせせらぎを象徴する名前のように爽やかで清涼感ある姿だ。
「久しぶり」
「……セオトか」
ばつが悪そうに目を逸らそうとする。
「アブソル、元気そうだね」
セオトが手を差し出すと、アブソルは飛び跳ねて指をぺろりと舐める。
「セオトくんが顔出してくれたんですよ」
「なんでまた」
「お墓参りしようと思って。ジムもお休み取れたし」
気持ちよさそうな鳴き声をあげ、安心し切ったアブソルを撫でつつ、セオトが言う。
彼はむしタイプのジムリーダーで、オオゼリの谷という場所にしばしば顔を出し、ミツハニーたちの面倒を見ている。新米の頃、その中の一匹が亡くなってしまったのである。
彼にとっては家族も同然だったのだろう、立ち直るまでには歳月を要した。傷の痛みを知るカグラが埋葬の手筈を整えたことから、親交が芽生えた。ふたりはジムリーダーキャリアの違いから、緩やかな師弟に近い関係でもあった。
「カグラさんも心配だし」
「心配、ってなおまえ」
「ジムリーダーとして大切なものを考え込むぐらいだもんね」
言葉に詰まる。普段あまり誰かに弱みを見せないで自分の内に溜め込む分、セオトのように切り込んでくる相手の積極性をどこか苦手としていた。
「さてと。そろそろ行こっかな」
「あれ、もう行くんですか。もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「後でまた顔出します」
にっこり笑って、彼はジムを去ろうとする。
カグラの不調を知りつつも、土足では踏み込まないで放っておくわざとらしさがなんとなく面白くなくて、意地を張ったように止める。
「待て! 墓参りなら、オレも行く」
アブソルが驚いたように目を見開く。
カグラは事務室から傘を持ってくる。そうしなければセオトが今にもいなくなってしまうかのような慌てぶりだった。
シオラシティにはポケモン安息の地となる墓地「スカイロケットタワー」が聳え立つ。
トレーナーはポケモンの存在を心に刻み付けるため、何度も墓石を訪れる。
ふたりのジムリーダーは傘を並べながら、閑静な通りを抜けた。
求められていたかどうかは分からないが、気付けば口から苦悩が堰を切ったように飛び出していた。セオトは相槌を加えながらも、口を挟むことはなかった。
そうしている間に、最上階に天井のない塔へと辿り着く。
カグラとセオト以外にも、ちらほらと、ポケモンを失った人々が集まっていた。
「花、買って行こう」
セオトが花屋を指さし、カグラも花束を購入する。雨に濡れないよう、きもち多めに包装してもらう。
塔内部は芝生と砂利を建造以来そのままにされており、各墓石を円形に並ばせている。螺旋階段を登ると、また円形の霊園が広がる。なるべくポケモンの元いた自然に近付けよう、という市民の願いが反映されている。各階に天井を敷き詰めて、天を遠ざけることもしない。ポケモンの魂が出来る限り遮蔽物に遮られることなく昇天出来るように、という意味合いが込められている。だから入口からでも空模様は見えるし、雨もしとしと降り続いている。これなら墓掃除は要らない。雨が穢れを流れ落としてくれる。
墓石に刻まれたアンノーン文字を見ながら、セオトはしみじみと懐古する。
「タクミとナルミか。なつかしいな」
「知り合いなのか」
「いんや、友達だよ。ふたりは幼馴染なんだって。ジムリーダーの自信なくしてたとき、街にやって来たんだ。ボクはタクミとのジム戦でようやく吹っ切れることが出来た」
「へえ……おまえもスランプ時期あったんだな」
「あるよ、そりゃあるさ。丁度今のカグラさんと似たような感じでね」
何と返すのが適切か分からない。
軽口の後、慣れた調子で花束を添えて、参拝を済ませた。
「次はカグラさんの番だね」
そう、単なる付き添いのために来たのではない。
ここに、自分を取り戻すためのルーツが眠っているはずだと、カグラは考えた。だからこそ、セオトに同伴しなければ、面と向かって顔を合わせる機会を失うと思ったのだ。
スカイロケットタワーの最上階には、かつてカグラのパートナーだったポケモン・アブソルの骨が埋められている。
今、彼の隣にいるのは二代目――すなわち、娘にあたる。
最上階への参拝者はカグラとセオトをおいて他にはなかった。アブソルは湿り気が強いながらも涼しさをもたらす雨に自ら打たれ、親を思い馳せる。
カグラのアブソルは好戦的だった。珍しい能力と希少価値に目を付けられ、ハンターに追われていたのだ。当時、リーグを目指して旅を続けていたカグラの前に突然現れた。切り揃えられた様子のないばらばらな毛並、雑草や泥が付着し、水もろくに浴びていない。頬はこけ、瞳は憂い、血に飢えるように戦いを求めた。深くは語らずも壮絶な生を歩んできたあろうことは容易に想像がつく。だからこそ、命を懸けることだけが戦いではないという想いをもって、カグラは旅に誘った。
彼女はどこのポケモンが親ともつかぬタマゴを身籠っていた。
元々ポケモンを世話して育てるのが好きなカグラは、老いた母と一緒にタマゴから孵ったら大事にするつもりで、ゆくゆくはダブルバトルさせたいとも考えていた。
しかし、アブソルの体力は日に日に衰え、医者の診断では余命僅かを宣告される。度重なる激しい強敵とのバトル、そしてメガシンカがアブソルの身体に負担をもたらしていた。
丁度、タイヨクリーグの決勝戦を控えていた頃である。
それでもアブソルは優勝への道を選んだ。戦いに生きたのだから、この際戦って華々しく散る、と。医者をも黙らせる毅然とした意思が瞳には宿っていた。
カグラもこれで最後のバトルにしよう、と約束する。
現実は酷なもので、アブソルの不調はカグラにも伝播し、決勝は惨敗。当時の対戦相手にチャンピオンリーグ出場権を与える結果となる。
パートナーが息を引き取った代わりに、新たなる命が芽吹いた。
カグラは次のリーグを目指さず、バトルからも距離を置いていた。自分の選択は本当に正しかったのか、分からなくなったのだ。生き急いだ分、残りの時間をもっと戦い以外のことに使ってやるべきではなかったか。自分は未だバトルに執着している。バトルをするたび、アブソルが見ているような気がする――。
無意識の抑圧は、知らない内にカグラから本気を忘れさせていった。
二代目となる娘は、親に似たのか、血の気がやたら強い。幼いところもあり、姫君のように振る舞う。これも血筋の因果か、バトルに興味を示した。
「――そこでジムリーダーを目指すことにしたんだよな」
墓前でカグラがしゃがみこんでしんみりと語る様を、セオトは後ろにさがり、沈黙と共に見守っていた。
ポケモンを荒々しく使役し、高みのためならば妥協を許さないトレーナー世界から一線を引いて、ジムリーダーとしてのんびりポケモンを育てつつ余生を過ごす。
正しい決意をしたと思っていた。
それが今、揺らいでいる。
「オレはどうすればいい?」
手を合わせ、懇願するように、声を絞り出す。
アブソルはカグラの隣で短く咆えた。彼女の胸元が露わになり、カグラとアブソルを繋ぐ宝石がきらめく。
骸からの答えはない。代わりに、今を生きる青年が応えた。
「カグラさんは、ナルミのこと心配だったんでしょ」
「無理に庇ってくれなくていいぞ」
カグラは苦笑を薄めるだけ薄めたような表情で振り返り、やさしく諭す。
「違うよ」
セオトの声色に茶化す響きは全くない。
――約束以前に、おまえは誰と戦っているんだ?
――リーグは見送ることだな。
心配と言えばいかにも聞こえはいい。だが、現実のカグラはもっと臆病で、奥手で、卑怯なだけだ。ずる賢い己を美化したくなかった。
「心配じゃねえ……。自己満足だ」
「ま、どっちでもいいけどさ。そういうところ、根っからジムリーダーらしいってボクは思うけどね」
まるでサダノリのようなことを言う。
「らしい、か。分からん」
気付けば、カグラは既にあの世へ行ってしまったアブソルではなく、生身のセオトと話していた。アブソルの下を訪れれば、何か自分を再生させる手掛かりが見つかるかもしれないと願ったが、既に逝ってしまったポケモンとの対話は叶わない。
遺骨のアブソルは何も伝えない。何かを教わるとしたら、それはカグラ自身に眠っている記憶からだ。向き合うべきは、今、この瞬間。
「不思議なもんだな、オレはジムリーダーを辞めたいと思っていたはずなのに。これが未練ってやつか……」
彼はゆっくりと膝を伸ばし、立ち上がる。脳裏に浮かびゆく像は、はっきりと形をもって現れる。残されたチャンスは一度きり。一度で、お互いの背負うものに決着をつける。容易なことではないだろう。ナルミに自分を見ろと言っておきながら、ナルミの顔をまともに見ようとはしなかった。
「もう一度だ。もう一度、本気でやってみる。ナルミとのバトル」
だから、今度は逃げない。
墓を背に、振り返らず前を向く。セオトとアブソルがゆっくりと頷いた。