滅びゆく貴方に恋をした

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作者:ジェード
読了時間目安:24分
 寒空で薄く青みがかった満月。冷たくて神秘的な色をしていた。その景色を壊すような爛れた悪臭が漂っている。「鼻がひん曲がる」と聞いていたが、私はそうでもなかった。やっぱり、それは「キミ」だからなのかな。
 月明かりの下で行き倒れている貴方を見た時、運命ってあるんだって初めて思ったの。


 ◆


 その夜、一匹のベトベトンは倒れていた。
 理由は何とも明瞭な飢餓であった。彼の生まれたハッコウシティの灯台付近は、大都市として成長した。その暁に、目に見えるゴミなんてものはみるみるうちに清掃されていった。しかしベトベトンにとっての食糧こそが、その人間が投棄した屑ごみ達である。
 ベトベトンにとっての食糧難は続いており、遂にきのみで食いつなぐには限界が来ていた。朦朧とした意識で這っていたベトベトンは、ハッコウシティの光に寄せられるように、再びこの場所に訪れていたのである。
 不定形を特に強調とした暗い紫色の体。周りから遠ざけられる悪臭はそのままに、ベトベトンは溶け出しかけた状態で野ざらしであった。
 
「ねえ、キミ大丈夫?」

 清廉な声がヘドロの塊に降り注いだ。しかしベトベトンからの応答はない。「大丈夫じゃないか」と声の主は身を下す。
 木のふもとに降り立った一匹のサーナイト。白いスカート状のひだは美しくはためいた。
 彼女はどろりと混濁し、流れゆくままなベトベトンに寄り添うと、ヘドロの塊は呻き声を上げる。

「ぐ、なん、だ……?」

 やたらと酸っぱい匂いに目が覚めたのだろう。ベトベトンの小さな瞳がサーナイトを認識した。驚愕し、困惑したように揺れる。
 
「気が付いた!」
「お前は……?」

 いくつかのきのみと、目立つオレンジの物体を白い裾の部分に貯めたサーナイト。人間の使用する、キズぐすりの空き瓶だった。それはベトベトンの求めてやまなかった、ゴミの類である。彼女の手にあったチーゴのみは齧りかけであり、自分が無意識にさっき口にしたとベトベトンは知る。

「倒れてたんでしょ? そんなこと気にしてる場合?」

 サーナイトの言うことは最もで、胡乱な意識は絶えず彼女の持つ、キズぐすりの空き瓶に向かっていた。
 ベトベトンは体裁など全く気にせず、空き瓶にありついた。ベトベトンの体液が飛び散った。途端に辺りには腐敗臭が蔓延する。ドロドロと溶解液がベトベトンの周りに流れ出し、草木がじゅわっと音を立てて、形をなくしていった。
 食べかすまで拭うように平らげたベトベトンが、怪訝な顔をして改めて恩人の顔を見る。
 サーナイトは汚れるのも厭わず、隣で小さく笑っていた。

「ふふ、そんなに美味しかったんだ」
「……ああ。1週間ぶりのごちそうだった」
「それは何より」

 首を垂れるように、ベトベトンは動く。流動体のヘドロはサーナイトの前に「礼を言う」と小さく流れたのだった。「どういたしまして」と、彼女の裾に近い白は紫に染まっていた。

「お前はなぜ、おれを……?」
「あ、覚えてないかー」

 やや不審の目をしたベトベトンが尋ねると、サーナイトは落胆の声色をしつつも苦笑する。
 ベトベトンにこのようなサーナイトの知り合いなどいない。記憶違いではないかと口にしかけたところで、「あ……」とひとひらの記憶が蘇った。次には驚愕しつつ問う。

「キルリア……?」
「そう! よかったあ。キミって相変わらず朴念仁なんだ」

 安堵したように笑う彼女は、ベトベトンの幼馴染だった。
 ベトベトンがこのハッコウシティの灯台で生まれた、ベトベターの時代。同じく不定形のポケモンとして、近くにはラルトスやキルリアが群れで生息していた。目の前にいるサーナイトは、幼馴染だったキルリアが進化した姿だった。確かにそうしてみると、どこか懐かしい雰囲気を覚える。

「そうか、すまない。迷惑をかけたな」
「……迷惑って?」
「それ」

 ベトベトンが申し訳なさそうに指した「それ」とは、サーナイトの身体を汚している、ヘドロ液の水たまりであった。今なお饐えたような悪臭を放つが、当の本人は気にせずそのまま座り込む。

「気にしてないよ」
「いや……しかしだな」
「いいの!」

 妖精であるサーナイト族にとって、ベトベトンの持つ猛毒は大敵である。幸い傷にはなっていないらしいが、明らかに浸かり続けると体には良くない。それは忌み嫌われるベトベトン自身が、よく知っていた。
 首を横に振ったサーナイトは、特に汚れも払わずに続ける。

「私がいいからいいの。気にしないで」
「……そうか」
「それより、大変だったんだ?」

 サーナイトは覗き込むようにしてベトベトンと目線を合わせてみたが、あいにく目線を泳がされてしまった。
 今や、野生のポケモンが行き倒れているというのは珍しい。人間による自然保護活動が行き届いた結果、化石からポケモンは復活し、絶滅寸前と呼ばれたラプラスは大繁殖を遂げた。
 反対に、自分のような種族は淘汰されていく一方であり、皮肉なものだとベトベトンはため息がちに考えていた。

「おれは、滅びゆく生き物だからな」
「滅……確かに、ベトベトンって全然見ないね」
「だろうな」

 種の根絶。あまりにも彼から軽薄に飛び出た言葉。
 これを復唱するのは、流石に躊躇われた。サーナイトが瞳を下げたままでいると、不安に思ったのか、ベトベトンの方から続きを聞かせた。

「ハッコウにいたベトベトンは、皆消えたんだ」
「……なんで?」

 灯台の明かりから背を向けた。サーナイトと大都会を、どちらも見たくないかのようですらあった。
 
「駆除対象だからだ」

 ベトベトンという種の放つ悪臭は、人間並びに一般のポケモンからは忌避される。
 それだけならばまだよかったが、「病原菌を撒き散らす」という理由が彼らに追い打ちをかけた。加えて、ゴミ捨て場には必ずといっていいほど、少ない餌場を求めたベトベター達が群がる。景観を損ねるというのも、大都市・ハッコウシティにはマイナスであった。
 故にこの周辺に生きているベトベターは、ヒトの手持ちとして社会に貢献するか、やがて餓死か駆除されるのをズルズルと待つか。厳しい二択を迫られることになる。

「野生に生きた時点で、死ぬ運命ってこと……?」
 
 そのような暗い背景を淡々と話したところで、サーナイトの青ざめた顔が嫌でも目に入る。

「そうさ。でも、ヒトに媚びるのも嫌だった。おれのくだらない意地だ」
「それでいいの」

 とても純粋で残酷な質問がベトベトンに降りかかった。
 一瞬の静寂。躊躇ったが意味がないと悟る。ベトベトンの中では、とうに眠れぬ夜を明かすまで繰り返した議題。今更考えたところでと思ってしまう。

「いいんだ。もう諦めはついてる」
「本当に?」

 その時、ベトベトンの虚を突いたのは、サーナイトの腕であった。優しく寄り添うようにして、ベトベトンに触れている。
 目を閉じたサーナイト。ベトベトンが口をぱくぱくとして驚いていると。

「嘘。まだ諦めたくないんでしょう?」

 サーナイトの持つ紅いツノが、ほのかに青く光る。
 動揺したが、冷や水を浴びたかのように動揺は冷めていく。彼女の言ったことは事実だった。ベトベトンには諦めたいと言い聞かせたい自分と、まだ足掻いていたい気持ちがわずかだが混在していた。それを突きつけられた時、自分の中に眠る青さが目覚めた。そんな幻想を見てしまった気になる。
 これがラルトスの頃から有する、感情に反応する体質のそれとは後から気づいた。

「一緒に逃げようよ、そんな運命から!」
「……なぜ?」
「いいでしょ。私もついてた方が、キミもきっと助かるから」

 サーナイトはベトベトンを助けたという理由から、半ば押し切るように彼女は「ついて行く!」と言ってきかず。その時の様子は幼児めいてすらいた。
 突飛な行動に長く困惑していたベトベトンだが、そこまで言われると断れもしなかった。

「まあ、好きにすればいいんじゃないか……」
「やった! そうさせてもらうね」

 この日から、もはや生きることを諦めていたベトベトンに同伴者が生まれたのである。
 奇妙な奴だと、未だ隣で毒塗れのままに喜ぶサーナイトを見ていた。放置していれば、飽きて去るかとも考えていた。
 月明かりの下、ベトベトンとサーナイトは再会を果たした。半ば冗談のような勢いで、共に生きていくことになったのだった。


 ◇

 
 ベトベトンが生きるための方法を探し、二匹の運命からの逃避行は始まった。
 食糧となる資源ゴミを探し、出来る限りのきのみも確保した。悪臭を振りまくベトベトンと共に、抱擁ポケモンが傍にいるという状況は、やはり不審がられた。
 とはいえ、その視線にベトベトンが構うことはない。彼からすれば、普段の万倍はマシな扱いであった。
 
「ねえ見て! キミの悪臭を“トレース”したの」
「はあ」
「もっと驚いてもいいのに」
 
 無邪気にも、ベトベトンに腰掛けたままのサーナイトが笑顔を振りまく。こうして不定形をしたベトベトンに埋まるような形で、彼女は座るのがお気に入りのようだった。

「……いい匂いでしょ?」
「おれに匂いはわからん」
「えー、そんなあ」
 
 この変わったアプローチの仕方には、実際ベトベトン自身も少し嬉しかった。
 それを分かっているのか、サーナイトの方も紅いツノをほのかに光らせて喜ぶ。ベトベトンと共に過ごす彼女は、彼の悪臭だとか、嗅覚のなさであるとか、全く違った生態にもまるで嫌悪感を示さなかった。ベトベトンもそのうち、彼女が「サーナイトであるから」という見方を止めるようになる。
 この奇妙な同行者は、ベトベトンにとってもささやかな楽しみになっていった。自分でも不思議な感覚である。

「花の匂いとかも、知らないの?」
「おれ達が通った後に、花なんて咲いてないからな」
「……そうなんだ。花はね、甘くて柔らくて、心が安らぐんだよ」

 サーナイトは時々、ベトベトンのみでは知り得ない世界を間接的に見せてくれた。特に多かったのは、人間と関わっていける世界についてだった。共に生活をするポケモン。仕事のパートナーとして隣で生き続けるポケモン。

「……ニンゲンは優しかったのか?」
「うん。わたしにとっては、そうかな」
「そうか」
 
 生涯野生であったベトベトンからすれば不思議でしかないが、それが彼女の見てきた世界。
 よく見る花の香りすら知らない自分では、見えるものはあまりに小さく歪んでいた。当たり前といえばそれまで。だがこの認知の違いが、どこか切ないのも事実。
 見えなかったままであった方がいい、とまでは思わなかった。それでも、この感傷を手に入れてしまったベトベトンは、改めて自然の残酷さを感じていた。

「おれ達の食うゴミにも、ごちそうとそうでないものがある」
「そうなの?」

 それでも、ベトベトンは自分に違った世界を見せてくれるサーナイトに感謝していた。
 だから時々、自分でもゴミを漁っていた時に得たこと、ベトベトンにしかわからないこと。それらをそっと話していた。

「そうさ。お前の持ってきたようなやつは、つまみ程度。年季の入ったやつが一番美味いんだ。ビール瓶の腐りかけなんて、あったら最高だな」
 
 悪臭はデメリットのみならず、面倒な天敵を追い払ってくれること。雨の日のマンホールが特に好きなこと。夏が来る前には匂いでわかるということ。
 知らず知らずのうちに、ベトベトンは自分自身のことを、たくさんサーナイトに話していた。

「そうなんだ」
 
 そうすると、やはりベトベトンに腰掛けたままの彼女は、またツノを光らせて、にっこりと微笑んだ。
 どんな小さな話でも、サーナイトとベトベトンは互いに頷きあった。そうした小さな確認が、本当に愛しかったのだろう。
 

「……ねえ、平気? 小さくなってない?」
「まだ、大丈夫だ」
「そっか」

 問題はどれだけ彼らが「種の問題」から逃避行したところで、一向に希望は見えないという部分だった。
 彼ら野生ポケモンが、資源ゴミを手に入れる手段はあまりに乏しく、きのみで食いつないでいく日々。これまでは森林地帯や沼地を目指して、彼らは移動してきた。
 サーナイトは日に日にベトベトンの体を気にかけた。また一回り、小さく乾いているように思えて、ずっと不安だった。そうだとしても、ベトベトンは「大丈夫だ」としか言わない。
 頭ではわかっていたが、避けていた一つの選択肢。サーナイトはそれを恐る恐る口にした。

「ねえ、やっぱり……街に行った方がいいと思う」

 人間の暮らす街へ向かうという賭け。
 ベトベトンの好む餌が最も集まるのは、皮肉にもベトベトンが最も生きづらい、人間の世界であった。
 これまでで、何となく彼に人間嫌いの気があるのは、サーナイトにもわかっていた。しかし彼の体力は、日に日に衰弱していくばかり。もうあまり無謀もできないのではと考えていた。

「無駄、だと思うが」
「わからないよ。ポケモンを救護するニンゲンに会えるかもしれない。それに今回は私もいるんだし……」
「そう、だな」

 虚ろな瞳を上げたベトベトン。もとより遅い移動に合わせて、サーナイトは優しく彼に道しるべを指し示す。鬼火が淡く動いていき、後を追うように人型を乗せた汚濁も移動する。
 二匹は再び、近しい人間の町を目指して旅をすることにしたのである。


 ◇


 寒い空気を纏った明け方、月が少し欠けた白い空だった。
 ベトベトンらは体力を消耗しつつも、レンガの目立つ地帯にやってきていた。
 色彩豊かなテラコッタとタイルの建造物たち。自然までも整備され、何も不完全を感じぬ周到な美。それはベトベトンが疎んだ、人間の暮らす街の一つに違いなかった。

『着いた! あるかな食糧……待っててね』

 サーナイトは眠気まなこを擦りながらも、念願だったゴミの発見ができそうな状況には喜ぶ。一足先に街に降り立っていき、サイコパワーでふわりと探索を始めた。
 残されたベトベトンはというと、陰になりそうな場所でじっとしていた。

『はあ、はあ』
 
 誰かの邸宅の裏であった。ここまで足を運ばせたのも久しぶりで、きのみ続きであった体力には限界がきている。サーナイトが無事に食糧を見つけてくれることを願った。最も、先に自分が見つかることも憂慮していた。
 何人かの足音が聞こえる。
 起床し、活動を始めた人間のものだろう。辺りからちらほらと聞こえてくる。耳を澄ませる気にもならなかった。それほどまでに、ベトベトンは疲れ果てていたのだ。

「おお……お前さん、ベトベトンかい?」

 薄ぼけた意識を覚醒させたのは、先の憂慮の方であった。
 目の前には、青いツナギを着た初老の人間が立つ。手に分厚いビニールの手袋をしている。
 思わず臨戦態勢を取ろうとしたが、思うように力が入らない。長旅の疲れが如実に出ていた。どろり、とぶつ切れるようにベトベトンは流れた。最低限の抵抗として、この人間に対して睥睨の目を向けていると。

「珍しいなあ、お前さん野生か。そうか……」
 
 初老の男の反応は、その予想とは反していた。
 駆除を命じられて来た人間の類ではない。彼らの特有の、怒気に迫る様子はなかったからだ。ベトベトンはどこか知りたくもない勝手な感情を覚える。

「いやあ、これくらいしか渡してやれんなあ。すまんなあ」

 そう言うと中腰の男はベトベトンに、ビニール袋に入った生ごみを投げ渡した。
 目を丸くし驚いたベトベトンだが、小さな三角コーナーの中身には、思わず垂涎そそられてしまう。特に疑問なども持たず、ひょいと丸呑みしてしまった。数週間ぶりの美味が細胞いっぱいに広がる。

「おっちゃんも仕事でな、ゴミのグラム数が違うと怒られんの。すまんなあ」

 それからも男は、何度か「すまんなあ」と小さく呟いていた。
 ベトベトンは久々の食事の喜びも失せて、中腰の人間が謝る様を見ていた。
 とても忌み嫌っていた、記憶にある横柄な人間の姿ではなかった。それが言いようもなく苦々しい。わだかまりのような鎖が胸を締め付ける。

「ここはなあ、お前さんがいるとポケセンに連絡せにゃならん。景観だ、なんだってなあ。可哀そうに。おっちゃんは何も見とらんから、早くいきな」

 男が急かすように、二度ほど街の出口へと手を振った。その意味が今まで何度も見た「厄介払い」ではないことは、ベトベトンにもすぐにわかった。
 理解できたからこそ、鉛かのように濁って重たい心が、言葉を紡いでいた。

『お前のようなニンゲンもいる事実が、一番苦しい』

 ベトベトンは人間に向けて、呟いた。
 もちろん意味など通じず、初老の男は一方通行の親切を残して、立ち去って行く。
 初めて人間からもらった優しさは、空虚でやるせない美味しさだった。


 ◇


 サーナイトが気が付いた時には、ベトベトンはもう街にいなかった。
 急いでテレポートし、あの独特の匂いのもとを探した。幸いにして、巨体な彼を見つけることは容易であった。
 小さな空き缶とスナック菓子の袋を持った彼女が見たのは、木陰に小さくなってうずくまる、見た事のないベトベトンの姿。

「……泣いているの?」

 頭ともつかない塊がうごめく。何かを知ってしまったかのような灰色の瞳。遠い空を見つめるばかりの、空っぽな信念だった。
 サーナイトに届くのは、彼のひどく物悲しい感情の螺旋。

「だれも悪くないと、知ってしまった」

 人間や生まれた世界を呪えたら、どれほど楽だっただろうか。ベトベトンにはそれができないとわかってしまった。疎み、眺望した彼らもまた、今を生きるのに必死だと知ってしまった。

「おれはそれが憎い」
「……うん」
 
 ドロドロと溶けだし草木を腐敗させる体。そんなベトベトンに、サーナイトは寄り添った。優しく、包み込むかのように抱きしめていた。白い手足が、たちまち汚濁に塗れていく。
 
「誰かを、悪をそのまま憎めるやつは、幸せだ。おれは……きっと逃げてただけなんだ」

 ベトベトンに待ち受けていたのは、意地なんて甘っちょろいものでは到底敵わない現実。幾重にも重なったヒトとポケモンの歴史が作り上げた問題であった。なおさらに、ならば何故自分達は生まれて、死んでいくのか。それを直視してこなかった者への、厳しい仕打ちであったと知る。

「おれには、生きている意味が」
「そんなことない。私ね」
 
 ひとひらの哀しい言葉に、彼の切実な思いの丈に。サーナイトは一つずつ頷き、最後には優しく毅然と否定していた。気が付けば、彼の代わりに自分が涙を流していた。あふれ出した共感は止まらない。

「“ベトベトン”という種族に誇りを持っているキミが好きだよ。そうずっと……好きだったの」

 自責するヘドロを細い手で掬い上げたサーナイトは、今にも細くちぎれてしまいそうな声で言った。
 聞いていたベトベトンに生まれたのは、やはり感謝よりも先に困惑であった。確かにベトベトンは自分の意思で野生として生きようとした。試みた。しかしその結果が、どっちつかずの現状なのだ。

「私はキミが……ベトベトンだったから、あの時また出会えた。だからそんなこと言わないで?」
 
 慰められた不甲斐なさと自分の浅慮が入り交じる嫌悪感。渦巻く負の感情の鎖は、残る疑問をがんじがらめにした。どうしてもベトベトンには不思議であった。
 
「何故、君はそこまで」

 このサーナイトがここまで自分を慕い、寄り添ってくれる理由は何なのだろうか。
 彼の疑問に対し、サーナイトは既に言われる前から、答えを用意していたのだろう。ベトベトンに寄り添うようにして、瞳を閉じたまま、呟く。

「貴方の感情はね、受け取ると心が安らぐの。賢くて、不器用で、そしてとても優しい感情」
「おれが?」

 彼女がベトベトンに語ったのは、種でもなくただ一匹の彼へ向けてのものだった。サーナイトは続けて「たまにね、疲れてしまうの」と、たくさんの感情を受け取ってしまう心中を、初めて吐露していた。ヒトに好かれる種族が故の苦しみを話していた。
 激しい怒りに深い絶望、そして誰かを恨む気持ち。それらを常に浴びていたとしたら。ベトベトンはこれまで考えもしなかった苦労に、目が覚める思いであった。

「どんなに貴方は見た目が汚れていて、腐っていても。心はとっても綺麗だよ」

 ベトベトンの悲しみを受け取り、そしていつも分かち合ってくれていた彼女が微笑んだ。
 
「だってそれが“貴方”なんでしょう?」
 
 自分を認めてくれる存在。
 ベトベトンとしてではない、この今生きている命。サーナイトはそれを見ていてくれていた。ずっと気が付けるはずであったのに、目を向けることができなかった。
 凍えた心がすっと氷解していくような切なさと愛しさ。その中に、確かにベトベトンの彼は見出した。

「それだけで……良かったんだな」
「そうだよ」

 自分が生きていたその理由。刻むことができていたと知る。
 ベトベトンは納得したのか、あの細く厳しい目を、初めて緩ませて頷いていた。

「そうだな」
 
 途端に共に過ごした短い時間が、さめざめと蘇り、それから寂しさがふっと湧いた。だがこれまでのような後悔や未練はない。
 これから結末を迎える涼やかな心構えが、ベトベトンには広がっていった。

「……おれにも覚悟ができた」

 彼の決心を受け取ったのだろう。
 サーナイトはまた少しだけ寂しそうに笑って、そして声を殺し、ひとしきり泣いていた。ベトベトンの体に水滴が落ちるたびに、じゅっと音がした。
 しばらくすると、気丈にも顔を上げて彼に向き直る。

「そう、だよね。なら……私も泣いていられないや」

 それからベトベトンとサーナイトは、そこから一歩も動かずに見つめ合っていた。
 薄ぼけた月は眠りにつき、やがて代わりに曇天が疎らな日を注ぐ。空っ風が季節を告げ、時折サーナイトの房を揺らしていた。冷風は駆け抜けていく。生き物の終わりを告げる、そのような厳しさをしたままであった。
 
 彼らがゆっくりと話し、時間が経つにつれて、サーナイトを支えていた体は乾燥していく。また一回りと、不定形を維持したまま、小さくなっていく。刻々と迫る死の足音。
 二匹ともそれが分かっていたが、それでもぽつぽつと話し続けた。お互いを確かめ合う。

「おれ達ベトベターは、月の光から生まれたらしい」
「うん」
「不思議な心地がする。あまり怖くない。これも、終わりじゃないんだろうって思えるんだ」

 やがて晴れ渡る空に三日月が昇り、闇夜は目を覚ます。
 月明りは燐光となり、ヘドロの体をてらてらと彩った。不規則な光がベトベトンである彼を表す。波打つヘドロが、またふつふつと臭気を上げていた。
 腰掛けていたサーナイトは、淡く照らされるまま、寂しそうに笑う。

「種としてのおれは……もうすぐ滅びる。それでも個としてのおれは、君に出会えてよかった」

 衰弱したベトベトンは自分の中に埋まる伴侶へ、初めてはっきりと感情を表した。
 月の光を背に、ベトベトンの言葉はサーナイトに届く。

「ありがとう」

 サーナイトの小さな顔に沿うかのようなヘドロは、最期に彼女を包み込んだ。
 小さく微笑んだサーナイトは黙って頷いた。もはや何も言葉は必要ない。彼女は彼を力いっぱいに抱擁していた。できる限りの時間、彼女は腕を寄せ続けた。
 
 それから月が浮かんで、また沈んで。何度か暁が彼らを照らした後に、雲間の隙間から、薄い繊月が浮かんだ時。
 彼らから真っ黒に伸びていた影は、すっきりとした人型になっていた。
 何かと手に、祈るような形を月影が記憶したまま、寒空は晴れ渡っていく。一陣の風が強く吹いていった。冷たい銀月は何も語らない。ただ残った者を、淡く彩るばかりであった。


 ◇

 
 満月の一望できる、港町の丘の上。
 静謐な月下の静けさに、さざ波の音。一匹のサーナイトは、海風の凪く丘の上に腰掛けていた。手にしていたのはガラスの空き瓶。サイコソーダの瓶であった。サーナイトは空き瓶を、月の光へ掲げるようにして持っている。

「おかーさん、なにそれ?」

 サーナイトの膝に座った、小さなラルトスが尋ねた。
 優しい微笑を讃えたまま、海を照らす月を見ていた彼女はラルトスに言う。

「きっとまた、会える気がしてるの」

 彼女が教えてあげると、ラルトスも無邪気に笑った。そうして小さな手を重ねて、一緒に瓶を持ってみたのだった。

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