ミッドナイト・メロウ

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作者:雪椿
読了時間目安:15分
あの歌声が、今も耳の奥から離れない。
 落ち込んだ日には海を眺めたくなる。その日過去最高に自信があったテストに名前を書き忘れる、という色々な意味での大事件を引き起こした俺は、これでもかというくらい激しく落ち込んだ。そして、いつものように海を見に行った。
 太陽に照らされ青く揺らめく海も見惚れるほど美しいが、月の下静かに揺れる海もまた妖しげな魅力がある。今日はどっちも眺めたい気分だった。
 いつもぎりぎり一桁なことが多い俺にしては珍しく、しっかり二桁に乗っていたであろう今回のテスト。それらが全て無で返ってくるのは地獄すぎる。どっちも眺めないと心の荒れが収まらない。
 だからこうして近くの海にやってきたのだが、
「……はあ」
 厚い雲が空を覆い、一筋の光すらも逃さないとばかりにじっとりとした闇が砂浜を包み込む。当然月は雲の向こうにあり、その姿を見ることは叶わない。確か今日は満月のはずだったから、この景色を合わせて見えたらとても綺麗だっただろう。
 ただでさえ日中落ち込むことがあったというのに、それを癒す光景さえ満足に眺められないとは。占いはあまり信じていないのだが、もしかしたら最下位だったのかもしれない。ねばつく闇が首筋を舐めた気がして、一瞬ぞわりと鳥肌が立つ。
 スマホをライト代わりにしないとろくに周囲も見えないのに、どうして来てしまったのやら。癖というものは恐ろしいものだ。何度目かの溜息を零してからさっさと帰ろうと踵を返しかけた時、耳に聞き覚えのない声が入り込んできた。

♪~ ♪~♪~♪~

 声、いやこれは歌だろうか? 歌詞のない歌がどこからか聞こえてくる。声の主を確かめようにも、スマホの明かりでは遠くまで照らせない。聞こえてくる方向から考えると海の近くにはいると思う。だが、少なくとも波打ち際にいない。
 そうなると、岩辺か海の中にいるのか? いや、岩辺はともかく海の中はありえない。あそこには空気がない。空気の振動で伝わる声を、どうやって海中で響かせるというのだろう。ここまで考えたところで、何だか色々と馬鹿らしくなってきた。
 闇に包まれた海。正体のわからない歌声。スマホ片手に突っ立っている俺。どこから見てもおかしなことばかりだし、俺にいたっては不審者のそれだ。俺が警察だったら迷いなく声をかけている。ガーディが突進してくる光景が鮮明に目に浮かんだ。
 声が気にならないと言ったら嘘になるが、今すぐ確かめないといけないわけでもない。スマホの充電も残り少ないのもあるし、いつまで経っても雲が晴れる気配はない。
 歌声に何となく後ろ髪を引かれる思いをしながらも、その日はすぐ家に帰った。

♪ ♪ ♪ ♪

「真夜中の人魚姫?」

 昼休み。世間話ついでにクラスメイトのレナに昨日のことを伝えると、そんな言葉が返ってきた。何だ、その怪談とかに出てきそうな名前は。考えていたことが顔に出ていたのか、真剣な顔をした彼女が「真夜中の人魚姫」について語り始める。
 「真夜中の人魚姫」は文字通り真夜中に現れるポケモンで、誰もいない海に向かって歌詞のない歌を歌う。人によっては歌詞があるというが、本当かどうかはわからない。ポケモンの言葉を理解できれば話は別だが、そうそうそんな人間がいるわけない。
 どこで歌うのかは人魚姫の気分次第で、一度彼女を見つけたからといってまた同じ場所で歌っているとは限らないらしい。そもそも、きちんと彼女の姿を見たものは誰一人としていない。
 もしも人魚姫の姿を見た者がいたのなら、その人物は既に彼女の歌に魅入られている。そうなったらいくら歌を忘れようとしても忘れられず、最終的には全てを投げ出し彼女の元へ行ってしまうらしい。
 一度聞いただけならまだ引き返せるかもしれないが、何度も聞いたら魅入られる危険性が高まる。だから、俺はもう夜の海には行かない方がいい。そう言って話を締めたレナの表情を見て、ただの噂だろと笑い飛ばそうとした声が舌の上で霧散する。
 そういえば、いつだったか忘れたがレナの友達……確かメルだったか? そいつがある噂のせいで行方不明になったと聞いたことがある。今も見つかっていないっていう話だし、彼女としては真剣にならざるを得なかったのだろう。
 またしても噂で人が消えたらもう色々とアレすぎるが、ちらほらと耳にするところ既に何回も噂で人が消えているというから物騒すぎる。どんだけ危ない噂が流れているんだと心の底から言いたい。
 もしもあの噂が原因となっているのなら、一度町全体をお祓いした方がいい気がする。どんどんと脱線していく俺の意識を引き戻すかのように、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

♪ ♪ ♪ ♪

 人魚姫の噂を聞いてから数日後、俺はまた夜の海に来ていた。いや、違う。違うんだ。あの表情を無視してまで海を見に来たわけじゃない。ただちょっと面倒な用事のせいでいつもより長く出かけていて、少しばかり帰るのが遅くなったんだ。
 それが終わったので帰ろうとしたら、ここにいた。迷子になったわけでもよそ見をしていたわけでもないが、気が付いたらここに立っていた。
 ……うん、何を言っているのかわからないな。俺自身も言っていて何でそうなったんだと思っている。というより誰に向かって言い訳しているのだろう。ガーディかな。俺にとって大切なパートナーだし。
 俺の心を読んだかのように、腰に付けたモンスターボールが揺れた。ガーディは炎タイプらしく水が苦手で、海を眺める時は大抵ボールに収まるか家で待機している。ちなみにこれは現実をかなり優しく表現したもので、実際の反応を思い出していたら切りがない。
 ボールの揺れ方は帰りを促すもので、彼が一刻も早く帰りたがっているのがわかる。俺も来ようとして来たわけじゃない。どうしてここに着いたのかは不明だが、クラスメイトの意思を無駄にしないためにも早く帰らないといけない。
 あの日とは違い、今日は天気がいい。スマホの明かりを頼りにしなくても何とかなるだろう。そう思い足を一歩動かそうとしたところで、再びあの声が聞こえてきた。

♪~♪~ ♪~

 歌詞がないからわかりにくいが、どうも以前とは違う曲らしい。こちらを誘うような音色が脳に響き、動かそうとした足を緩やかに地面へと縫い留める。理性が音色に溶かされていく感覚にヤバイと思いつつ、どうしようもならない。
 無意識のうちに視線が誰かを探すように虚空を彷徨い始める。星空がはっきり見えるくらい天気がいいのに、歌声の持ち主らしき姿は見当たらない。どこかに隠れて歌っているのだろうか。
 縫い留められていた足が人魚姫を探そうと動き出した時、ボールの揺れ方が激しさを増した。そっちに行くな、戻ってこいと言うかのようにぐらぐら揺れ続けるそれに迷うことなく手が伸びる。
 俺が開閉ボタンを押すとでも思ったのだろう。揺れは続いているが、さっきまでの激しさはない。俺は開閉ボタンを押す――ことなくボールを掴むと、

「……うるさい」

 そのまま海に向かって放り投げた。残った僅かな理性が叫び声をあげる。だが、叫びは全て歌声にかき消され俺には欠片も届かない。紅白の球体はゆらゆらと海面を漂い、波の力によって遠くに運ばれていく。
 飛び出して脱出を図ろうにも、ガーディにとって海は敵だ。頭ではわかっていても、あと一歩踏み出せないのだろう。ボールが開かれることは一度もなく、静かにその姿を消していった。自分から放り投げておいてアレだが、彼が親切な誰かに拾われるよう祈りたい。
 消えかけの理性が祈りを捧げた直後、脳内が歌声一色に染まった。ガーディへの気持ちは泡のように消え、今はただ歌声に酔いしれている。止まっていた足が今度こそ動き出し、人魚姫の元へと向かい始める。
 俺を止めようとしていた存在は、もうどこにもいない。

♪ ♪ ♪ ♪

 磯の香りが鼻の奥に積み重なる。濡れた服が肌に纏わりつく。背中から這い上がる冷たさに脳のどこかが警報を鳴らすのを感じながら、俺は夜の海を進み続けていた。歌声は少しずつ近づいているようで、まだまだ遠い。あとどれだけ進めばいいのだろう。
 だんだんと動かしにくくなっていく体に、歌声が早くとささやく。その声に答えるべく足に力を込めた時、遠くから声が聞こえたのがわかった。頭の中を支配する歌声ではない、どこかで聞いたことのある声。俺にとって、大切な――。

「がーでぃ?」

 無意識に口を動かすと、それに答えるように声が返ってくる。おい、嘘だろ。消えたか空気と化したはずの理性が欠片を集め完全復活し、呆然とした表情でそう呟いたのがわかった。力の抜けた足は地面へと張り付き、歌声がいくら急かそうとも動く気配を見せない。
 理性が完全復活を遂げたのには驚いたが、起こった出来事を考えればそれもそうかとなる。むしろ当然といってもいい反応だろう。
 だって、あのガーディだ。炎タイプらしく水が苦手で水たまりの水がかかっただけでも大騒ぎして、俺が海を見ている時はボールから意地でも出ないあのガーディが、俺を助けようと泳いでいるんだ! それは誰だって驚くだろう。
 感動が脳に染み渡っていくのを感じながら、声の聞こえた方向を見る。
「ガーディ!」
 するとそこには必死な表情でこちらを見るガーディと、そのガーディを頭に乗せ海水に顔をしかめながら進むオーロットの姿があった。後ろにはレナらしき人影も見える。彼女のパートナーはオーロットだったと記憶しているから間違いない。
 ……ガーディお前、全然泳いでいなかったな。しっかりがっつり他のポケモンに乗っていたな。声は物凄く真剣なんだが、「絶対に離すものか!」といった感じで震えながらオーロットにしがみついている時点で、うん。かなり色々なものをぶち壊している気がする。
 今度は別の意味で力が抜けた足は体を支え続けることができず、体のほとんどが冷たさに包まれる。突然崩れ落ちたように見えたのだろう。ガーディだけでなくオーロットやレナの声もぼんやりと聞こえてきた。海水が鼻に入り込む前に枯れた手が俺を引き上げる。
 自然とかち合う単眼に思わず怯んでいる隙にガーディが顔面に突撃してくる。オーロットの焦るような声とレナの安心したような声が耳に入り込む。顔全体がもふもふに埋もれ、どうにもこうにも上手く呼吸のできない俺の声が漏れ出る。
 歌声はもう、どこからも聞こえてこなかった。

♪ ♪ ♪ ♪

 あれから数日後。俺は親に叱られ先生に叱られ、パートナーのガーディにも叱られるという叱られ三昧な日々を送っていた。俺の身に起こったことは一歩間違えればとんでもないことになっていた。だから相手の言葉はどれも素直に受け止め、心に刻み込んだ。
 こうして叱って貰える未来があるだけ俺は幸せなのだろう。例え頭に漫画のようなたんこぶができてしばらく痛みに苦しんだとしても、それも幸せの一部として捉え……るのは少し難しいが。痛いものは痛い。ガーディが興味を持ってあれこれしてくるから更に痛い。
 休み時間。教室で机に突っ伏し、いつまでこの痛みを付き合うことになるのかを計算していると頭上から心配を含んだ声が降ってくる。顔を上げるとそこには俺を助けてくれたクラスメイト、レナの姿が。
「お、お前か」
 片手を上げて大丈夫だと返すと、レナはほっと安堵の息を吐く。叱られる日々の中唯一泣いてこちらの気持ちをえぐった彼女はあの日、というより噂を話してからずっと俺の様子を観察していたらしい。そのお陰でボールと俺の回収に成功したのだとか。
 助けてくれたことには感謝しているが、さすがにそれは色々とどうなんだ? 話を聞いた時、思わずそうツッコんでしまった。彼女の友達について考えるとそんな行動をしたくなる気持ちもわからなくはない。ただ、それを実際にやるのはどうなんだと思うだけで。
 実際、あの話が聞こえていたらしいクラスメイトの数人が二度見、いや三度見する表情をしていたのを覚えている。彼らは一体どんな気持ちで話を聞いていたのだろう。気にはなるが、結果は目に見えている。今ある平穏のためにもここはスルーしておこう。
 レナは俺の顔を確認して以降、特に話をすることもなく席に戻ってしまった。一体何だったんだ。そう思いながらも、これは彼女が満足するまで続くのだろう。そんな予感があった。俺との簡単なやり取りだけで彼女の気が済むというのなら、俺はいくらでも協力しよう。
 いつもと変わらないようで、ほんの少しだけ変わった日常。そんな平和に感謝しつつ、そっと耳を撫でる。聞かれていないので誰にも言っていなかったが、俺の耳にはあれからずっと歌声が聞こえている。
 あの日、確かに聞こえなくなったはずの声が聞こえる理由はわからない。ここは海でも何でもないんだから、例え条件が揃っていても聞こえるはずがないのに。頭では理解しているのに、耳の奥ではずっとあの歌声が響いている。彼女が、俺を呼んでいる。
「……」
 窓の外に顔を向ける。今日は快晴。夜になれば、俺が助かった日と同じ星空が見えるだろう。あの、宝石を散りばめたかのように美しい空が。同時に星空の下でうねる海を思い出し、自然と体が震える。気持ちから考えるに、この震えは恐怖によるものではない。
 あんなことがあっても変わらない自分に呆れていると、視界が一瞬ぶれたのを感じた。疲れが出たのかと目をこするが、最近特に疲れるようなことをした覚えはない。あるとしたらこの前のテストくらいだが、今更その疲れが出るだろうか。
 いや、もしかしてこれは。ある一つの仮定が頭をよぎった時、耳の傍を歌声がかすめた。

♪~ ♪~♪~ ♪~

 ゆったりとした、心地のいい歌声。聞き惚れている間に空が少しずつ海へと変わり始め、窓枠や壁が視界から消えていく。太陽は月に役目を渡し、青だった海は夜を吸い込み黒に染まっていた。
 海の向こうで一匹のアシレーヌが――真夜中の人魚姫が歌を歌っているのが見える。俺のための、甘く美しい歌を。
 どこかで聞いた覚えのある音が鳴り響く中、俺はここを抜けるため岩――いや、椅子だったか――から立ち上がる。足元で何かが裾を引っ張ったが、下は砂ばかりで何も見えない。

「――?」

 誰かが俺の名前を呼んだ。それはレナだったのかもしれないし、別の誰かだったのかもしれない。既に役目を放棄した脳ではどれだけ考えてもわかるはずがないし、知りたいとも思わない。
「いま、いくからな」
 邪魔な何かを振り払うと、俺はまっすぐに彼女の元へと歩き始めた。

「ミッドナイト・メロウ」 終わり

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