Box.79 君の帰る場所

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 冗談ではない。

「何言ってんだお前」
「行くよ、シャモ」

 泣いていたバシャーモが立ち上がった。顔は涙でぐしゃぐしゃで、少年よりも遙かに身長が高いのに縮こまっている。少年の声に呼応し、バシャーモの腕から炎が吹き出した。その事にバシャーモ自身が驚いていた。瞳の奥に炎が揺らめく。少年の体の奥で応えるように火の残渣が蠢いた。
 バシャーモと少年の間に奇妙な繋がりが出来上がっていた。信頼関係とは違う〝呪い〟と称すべき繋がりだった。アカとほのおポケモン達の間にあった〝約束の火〟を介した絶対の主従関係――それが、今は彼らの間にあった。
 少年はすぐさまその事を自覚した。途端、乾いた声で笑った。耳障りな笑い声は少年に似つかわしくなく、大声で泣きわめく声の代わりのようだった。彼に涙はもうない。そら見たことか、全ては裏目に出るのだ! と同じ声が罵った。
 バシャーモは自分に逆らわないし、逆らえない。
 だからといって今更手放す訳にもいかない。最後の自分勝手には彼の力がどうしても必要だった。

「あと少しだけ、付き合ってくれ」

 バシャーモは両腕で顔をごしごしと擦り、自分自身に戸惑っている様子ではあったが頷いた。リクが怒った顔で両手を広げて詰問する。

「質問に答えろよ! ここまでってどういう意味だよ!?」
「リー!」

 チリーンがコクコクと頷き、バシャーモがまごついた。少年は外套のフードを下げようとしたが、食い千切られていて出来なかった。背後に回りこんだエテボースが肩を竦め、逃げ道を塞ぐように尻尾を揺らつかせている。

「言葉の通りだ。ヒールボールを渡せ」
「お前がやるってのか?」
「君にテセウスは捕まえられない」

 生暖かい風が吹く。蒸発した湖の湿気が空気に入り交じっている。
 リクが、もう隠すことの出来ない少年の顔を見つめた。

「やってみなきゃ分かんないだろ!」
「君の無茶は今に始まった事じゃないけど、今回は譲ってあげるわけにはいかないよ」
「オレがいつお前に譲ってもらったって言うんだ」
「いつもだろ?」

 ミナモシティで声をかけられた時から譲らなかった事があっただろうか。「負けてはいない」と譲らないものだから、決定的勝利ではないなとウミも悩み、結局は引き分けだとなるのだ。
 いつもいつも、彼は本当にしつこかった。

「……じゃあお前は、本当はどうしたかったって言うんだよ」

 リクがいささか語気を弱めた。傷ついたのかもしれない。目を逸らして答えた。

「ミナモになんて行かなければ良かったと思うよ」

 そうすればミズゾコから、リーシャンと一緒に一人のトレーナーとして旅立てた。
 10歳の誕生日を終えて、父親の期待を背負った気鬱な顔で。悄然とした自身の姿が目に浮かぶようだ。

「ハンカチなんかに拘ったのも良くなかったな。ただの安物だしね」

 値段なんて分からないが、高価なものではなかっただろうと思う。
 母親が自分の名前とリーシャンの姿を刺繍してくれたハンカチというだけだ。
 死んでしまった人間にしがみついたところで助けてくれる訳でもないのに。どうかしていた。

「一番はミナモシティの洞窟で君を助けた事だ。今でも後悔してるよ」

 もしかしたらマグマ団に入っていたのはリクだったかもしれない。元々アチャモのトレーナーはリクだ。彼が倒れたとき、アチャモが囚われたとき、見捨ててしまえばこんな事にはならなかった。
 考えなかったか?
 リクを見つめて、少年は考えてみた。リクは唇を噛み、広げていた腕は下がり拳を握っていた。傷ついている事は間違いない。1年と少しぶりの彼は髪が伸びていた。輝くような笑顔は陰り、穏やかに微笑んでいたリーシャンは悲しそうで、そんな顔をさせたのは自分だった。
 ミナモシティで声をかけられたあの時、

 ――おいお前! 見ない顔だな。オレ達と勝負しろ!
 ――……良いけど、誰?

「君になんか関わらなきゃ良かった。……だから君も、もう僕なんかに構うな」

 どこからやり直せたとしても、あの瞬間からやり直すことだけはごめんだ。
 どうせ選択は変わらない。絶対に勝たない試合を繰り返す。
 その代償を今払うだけだ。

「もう1度言う。ヒールボールを渡して帰れ。譲らないなら手加減はしない」

 リクが噛んでいた唇を解いた。その口からどんな罵倒が出るか考えると耳を塞ぎたくなった。

「あぁそうかい。そーですか」

 少年は言葉に窮した。
 予想に反し、リクはへっと鼻で笑った。見据える目から光が失われていない。
 にやりと口の端を歪ませた。

「冗談じゃない。こっちはお前のせいで人生めちゃめちゃなんだ。勝手に縁切りしてんじゃねぇよ!」

 リクが腰のモンスターボールを掴んだ。間髪入れず飛び出したトドグラーに少年の顔が強ばる。朗々とリクの鋭い声が場を貫いた。

「冷凍ビームだ!」
「ウォン!」

 避けろ、の言葉は一瞬遅く、トドグラーの冷凍ビームがもたつくバシャーモの片足を捕えた。見る間に凍りつく足に戸惑うバシャーモを叱咤する。続けざまリクがエテボースと視線を交し、直後に2本の尻尾が飛びかかってきた。

「きぃっ!」
「シャン太、サイコキネシスでシャモを抑えろ!」
「リ!」

 サイコキネシスが上からバシャーモにのしかかった。エテボースの尻尾に少年がたたき伏せられ、バシャーモが悲痛な声で叫んだ。反発するバシャーモの力にチリーンが脂汗を掻く。だがバシャーモは炎は出さなかった。炎を出すことをためらっている。噛みつくように少年が指示した。

「シャモ、撥ねのけろ!」

 約束の火の残渣が命じる。バシャーモが全身に炎を纏った。チリーンが全力のサイコキネシスを叩き込むが、膨張する炎が渦を巻き、イメージを逆流してチリーンに襲いかかる。鈴の音の叫喚が高く響いた。
 炎の塊となったバシャーモが弾丸のようにエテボースへと体当たりを喰らわせた。解放された少年は即座に立ち上がり、息を呑んだリクに掴みかかった。ヒールボールがリクの手から飛ぶ。

「シャモ!」
「シャン太!」

 ボールを追いかけようとすると、リクが服を掴んで引き止めた。バシャーモはエテボースを追わず、ヒールボールへ走る。「リ――リゥ!」チリーンがリクの声に正気づき、念力でボールを捕えた。バシャーモがボールを掴み、2匹の力が拮抗する。しかし、轟、とバシャーモが青い炎を吹き出し、目の色を変えるとバチンと一瞬で拮抗が壊れた。

「リー!」

 力比べに負けたチリーンが強く弾かれ、ピンボールのように吹っ飛んだ。バシャーモもまた勢い余ってよたつき、その隙を狙ってスピードスターが襲いかかる。腕を抉った星々に血が出るが、ボールから手は離さない。戦闘の興奮に目の色が変わったバシャーモの瞳に、躍りかかるエテボースが映った。

「シャァッ!」
「キイィーッ!」

 エテボースの尻尾とバシャーモの蹴りが激突した。打ち負けた一本目の尻尾の影から二本目の尻尾が襲いかかる。続けざまの攻撃は塞ぎきれず、長い尻尾が叩き込まれた。渾身の一撃。ぐらりと重心が崩れたバシャーモに、エテボースがヒールボールへ手を伸ばす。

「炎の渦!」
「助けろタマ!」

 いまだリクに手こずる少年が叫び、負けじとリクも声を張り上げた。少年の方が力は強いが、執念でリクがしがみつく。意を決して殴っても離れないどころか頭突きで返す。額から血を流し、それでも手を離さない。バシャーモとそっくりだと少年は苛立った。

「は――離してくれッ!」
「うぐ……っうっせぇバーカ!」

 トレーナー同士の乱闘と並行し、ポケモンバトルも苛烈を極めていた。バシャーモから吹き出す炎が蛇のようにエテボースへ絡みつく。堪らずエテボースが退き離れ、入れ替わりに巨体のトドグラーが回転しながら突っ込んだ。バシャーモを弾き飛ばすが体に炎が纏いつく。火炎が厚い脂肪を灼くが、トドグラーは飛びそうな意識を引き戻した。

「ウォ――ウォオオオオン!」
「シャモッ!?」

 炎を纏ったまま、雄叫びをあげて回転を速める。体勢を直したばかりのバシャーモへとカーブを描いて猛スピードで肉薄した。回転する火炎の巨体とバシャーモが正面から組みつく。ぎゅぎゅぐと奇っ怪な音を立てるトドグラーに、バシャーモの全身から炎ではなく汗が噴き出る。
 リクをぶん殴りながら、それを横目にした少年が瞠目する。

「な――!」
「ま、け、んなタマァアアアアアアアアアアア!」
「ゥオアアアアアアアアアアアアアー!!」

 回転音は既に耳に馴染んでいる。見なくても分かる名前を叫びリクは少年の襟ぐりを掴んだ。呆けた顔がぐんと引かれ、リクの額と斜めに激突する。星が舞った。
 すぐに退き離れたにも関わらず、エテボースは火傷を負っていた。炎の渦を振り払い、チリーンの癒やしの鈴で痛みと火傷が静める。
 サイコキネシスでのバシャーモとの引き合いに負けたことにチリーンは落ち込んでいた。エテボースは火傷が癒えるとチリーンの小さな両手に尻尾を押しつけた。
 ヒールボールだった。
 バシャーモから退くときに盗ったのだ。目を丸くするチリーンの頬にキスを落とすと、エテボースはバトルの最前線へ駆けだした。

「きー!」

 ――預けるよ、レディ。
 振り返らずに鳴いた。

「ウォンンンッ!!」
「シャモッッ!」

 トドグラーの回転がついに止まった。受け止めきったバシャーモの両手から煙が上がっていた。炎は消えたものの、全身に火傷を負ったトドグラーが解け、ふらりとよたつく。ギラギラと興奮しきったバシャーモの目が殺気立っていた。気力を振り絞ったトドグラーが噛みついたが、牙が肉を抉るのも構わず巨体を蹴り飛ばした。
 吹っ飛ぶトドグラーをエテボースが全身で受け止めた。追撃のバシャーモが踊りかかるが、横合いから不可視の力にはじき飛ばされる。チリーンのサイコキネシスだ。受け止めたエテボースは暴走列車のブレーキを踏んだかのような勢いで滑り押されていく。トドグラーがなんとか止まった。気絶している彼女を下ろし、真っ赤になった尻尾を翻してエテボースがスピードスターを放つ。

「シャガァアアアアッ!」

 爆発するようにバシャーモの体から炎が弾けた。トドグラーに食い千切られた傷口から血が噴き出る。
 バトルを視界の端々に捉えながら、少年の膝蹴りがリクの腹部にめり込み、リクの拳が少年の頬を抉った。リクと少年が同時に叫ぶ。

「ぐ――ッブレイズキック!」
「げほッ――シャドークロー!」

 バシャーモの足に青い炎が爆発した。エテボースの尻尾が鋭く影の爪を立つ。

「ア、アアアアアアアアアア!」
「キィアアアアアアアアアア!」

 全力のシャドークローと青いブレイズキックが激突した。シャドークローが押し負け、弾かれた勢いそのままエテボースはひらりと後方へと自ら飛んだ。強い火傷を負った尻尾が焦げつき血もでない。
 チリーンの癒やしの鈴を耳に聞く。トドグラーの火傷の回復をしているのだ。ドカッとリクは少年を蹴り飛ばし――ダメージは薄そうだが――「戻れ!」とトドグラーをボールに収めた。あの火傷は癒しきれない。戻ったところで少年がリクに飛びつき頭突きをした。

「いい加減諦めろ!」
「グッ!?」

 意識が飛びそうだが気合いで飛ばさなかった。苦労しながらモンスターボールを腰に戻すと、少年が苦渋の顔をした。気絶させる狙いがあったらしい。――して堪るか! リクは足を踏ん張り拳を繰り出した。

「手加減してんじゃねぇよ!」
「がッ!」

 右拳が少年の肩を殴った。本来なら彼我の差は大きく、少年はリクが力で敵う相手ではない。だが彼自身の躊躇いにつけいる隙があった。ペッと血を吐き出し、睨み合うエテボースとバシャーモを横目にした。

「ゲイシャ! もう一回シャドークローでぶちかませ!」
「応戦しろシャモ!」

 エテボースとリクの視線が交差した。信じろ、とリクが頷くと火傷を負った尻尾にシャドークローを纏った。相対するバシャーモが応戦した。炎を纏った足が影を纏った尻尾とぶつかった刹那、リクが叫んだ。

「サイコキネシスを加算しろ!」
「リー!」

 シャドークローにサイコキネシスが加わった。巨大化した影爪がブレイズキックの炎を退ける。振り切った鋭い刃が驚くバシャーモの体を切り裂いた。死力を尽くしたエテボースががくりと膝を折り、バシャーモが苦悶の顔で倒れ込んだ。
 少年が腹から声を出して叫んだ。

「立つんだシャモ!」
「シャ――シャモッ!」

 バシャーモが跳ね起きた。炎は出せず、しかし体重を乗せたけたぐりをエテボースに振り下ろす。
 甲高い鈴の音が響いた。
 サイコキネシスを放ったとき、チリーンはリスクを承知でヒールボールを抱きしめて最前線へと飛び込んだ。エテボースを〝守る〟チリーンの技に、けたぐりはエテボースの真横の床に沈んだ。
 2匹の間に間一髪で滑り込んだチリーンとバシャーモの青い瞳がかち合う。殺気を帯びたバシャーモの瞳を見据え、チリーンは顎へ頭突きを喰らわせた。

「リー!!!!」
「ガァッ!!」

 ゴッと脳が揺さぶられ、バシャーモがのけぞり倒れる。今度こそ立てないだろう。そう思えるくらいに綺麗な倒れ方だった。
 唖然とする少年の左頬に、リクの右ストレートが飛んだ。





 少年は気絶こそしなかったが、バシャーモが倒れたことで気力を失ったようだ。リクに殴られて、そのままへたり込んだ。

「……上手くいかないことばっかりだ」

 ぽつりと呟く言葉にリクは鼻を鳴らした。

「オレだってそーだよ」
「君が?」
「だってそうだろ。さっさと旅立ってりゃ、マグマ団にいるお前に会えたんだ」
「……なんでその事を知っているんだ」
「後で聞いたんだよ。お前が会いに来なかった理由も、シャン太を迎えに来なかった理由も聞いた」

 本人は絶対に自分では言わないだろう。大切な事を言わない性格だ。
 それが随分と苛立たしかった。ミナモにいたときも大事なことはギリギリまで言わなかった。

「君とシャン太の乗っていたトラックが事故に遭ったのが、僕の指示だとも知っているか」

 少年の乾いた唇が語った。

「各地をアカ様と一緒に襲ったのも僕だ」

 少年は逸らさずにやってきた事を語る。
 あぁそうだ。出会ったときからそうだったな、とリクは思った。
 素っ気ない返事に気のない態度で、いつだって手を離してもいいんだという顔をしていた。

「君の言うとおり、ホウエン地方ではマグマ団にいた。異常気象が起こっただろう。あれを引き起こしたのはマグマ団とアクア団だ」

 あの日は凄い日照りと豪雨で、母親が雨戸を閉めて回っていた。
 避難勧告が出て、凄まじい風雨に家が揺れて、殴るような雨粒が壁を叩いていて、家が吹っ飛ぶのではないかと思った。
 リーシャンはリクと一緒に部屋に閉じこもっていて、ウミを心配して泣いていた。リクも心配だった。アチャモは水が苦手だ。流されていないだろうか。弱っていないだろうか。
 翌朝のミナモの海は酷かった。
 遠くから流されてきたポケモンが浜辺に流れついてきたり、流木やゴミや家の屋根も転がってて、傷ついた人、ポケモンもたくさんいた。その時ばかりはリクも一緒に浜辺を綺麗にし、いなくなった人とポケモンを探した。

「全て知っているのか」

 リクは頷いた。彼が隠したかったことなんて、全部知っている。
 分かった上でここにいるのだから。
 頷くと少年は肩の荷が下りたような顔をした。そうして、ずっと自身に問いかけてきたであろう言葉を言った。

「……だったら君はどう思う。僕は、生きていてもいいと思うか?」

 傷ついた人。傷ついたポケモン。死んでしまった人。死んでしまったポケモン。惨状たる街々。
 どうやって贖えば許されるのかなんて分からない。
 やってしまったことに息もできないくらいなのに、変わってしまうことも出来ない少年がそこにいた。

 ――生きていると、後悔ばかりが募る。

「……良いも悪いもねぇよ。だけど、そんなこと言うな」

 死ねば許されるわけでも、生き抜けば許されるわけでもない。ふとしたときに、踏みにじられた誰かの憎しみが顔を出す。消えてしまえと心の底から願う誰かもきっといる。腹の底から許して全部忘れるなんて出来やしない。
 壊れたものを直しても、壊れる前には戻らない。
 リクはへたり込んだ少年の前に膝をついた。少年は途方に暮れた顔でリクを見つめていたから、その体を抱きしめた。
 泣きそうだったから顔を見られたくなかった。

「お前がいなくなったら嫌だ。だから、黙っていなくなろうとするのは止めろよ」

 許して欲しいと祈りながら、苦しいと喚きながら、忘れられない痛みを抱えて生きている。
 だから傍にいて欲しい。同じように痛みが分かる誰かにいて欲しい。
 少年が――ウミが、小さな声で返事をした。
 ぼろぼろの腕でしがみつくように抱きしめ返すと、子供のように泣き出した。

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