あの人の低いけれど張りのある声。何もかもを知っているようで急に幼さを見せる表情。ふと虚空を見上げ考えるしぐさ――すべてを愛していた。あの人のすべてこそが、私のすべてだった。
だから、分からなかった。あの人が私の前から消えて、あとに残ったものと一体どう向き合えばよいのか。
私には、未来が少しも分からなかった。
*
黙々と。料理を並べたダイニングテーブルの上に会話は咲かない。と言っても私ひとりの夕食ではなく、はす向かいに座り淡々と箸を口に運んでいるのは、今年高校二年生になった娘。
何があったのか、と。知らない誰かがこの光景を目にしたらそう思うだろう。でもこれは私達の日常だ。食事中のみならず、私と娘――アスミは日常のあらゆる場面において、言葉を交わすことはなかった。
「ごちそうさま」
アスミがそう言ってそそくさと席を立ち、シンクで自分の食器を洗って上階の部屋へと戻ってゆく。私から特段何か声を掛けることもない。これは何でもない当たり前のことだから。何かあったと言うならばそれはもうずっと前、あの子が生まれた時のことだ。
ふとテーブルを見ると、余分にもうひとつ作っておいたオムそばの皿も無くなっている。いつもこうだが、あの子はきっと自分自身の好物がチーズたっぷりのオムそばであることを知らない。
*
「行ってきます」
玄関の扉の閉まる音がした。アスミが毎朝のように学校へ向かう音。私はキッチンでお皿を洗いながらそれを聞く。
洗い物を終えて向かったのは二階へ上がってすぐの部屋。静かにドアを開け、あまり周りを見ないようにしながらベッド上にぽつんと置かれたモンスターボールを手に取る。廊下へ出て真ん中の開閉スイッチを押すとボールがぱかりと開き、光とともにピンク色のずんぐりとしたポケモンが姿を現した。
「おはよう、ゴニョニョ。調子はどう?」
尋ねると、そのポケモン――ゴニョニョは先端の黄色い大きな耳を控えめに揺らして応えた。
このゴニョニョはアスミのポケモンだ。学校のある日はいつも、アスミは自分のベッドの上へこの子の入ったモンスターボールを置いていく。学校であれこれ注目されるのも、私に世話をさせるのも嫌なのだろう。
つまり私は今、勝手に娘の部屋へと入り勝手に娘のポケモンを連れ出したのだ。しかも今日だけではない、これは今や私の平日の日課となっていた。もちろん好ましい行いでないのは重々分かっているが――。
きゅっと、ゴニョニョが私のスカートの裾を掴んだ。こちらの顔を真っ直ぐ見つめて口をもごもご動かしている。何か言っているのだろうが、その声はまるで聞こえない。
「はいはい、どうしたの?」
腰をかがめて顔を近づけると、かすかに耳をくすぐる音がある。ゴニョニョは元々普段きわめて声の小さなポケモンだが、この子は特に小さい。
ただ、このゴニョニョがうちへ来てから、それまでは洗い物の水音にかき消されて聞こえなかったアスミの「行ってきます」が、少し耳に届いてくるようになった。
『ハルミさん。お送りした資料どう思われます?』
「まだこのデータだけじゃ、『たまたま似たような場所で色違いの個体が立て続けに捕獲された』という可能性を打ち消すには弱いと思います。もう少しサンプルが必要ですね」
パソコンの画面を凝視しながらヘッドセット越しに喋り続ける。通話を終えた時、私はどっと疲れを感じて椅子にもたれかかった。自宅での仕事はフィールドワークのようなわかりやすい肉体の疲れは少ないが、今の自分にとっては人と会話をするだけでも決して軽い負担ではない。向こうは私がまるで「その道のベテラン」であるかのように接してくるから、なおさらだ。
背後で物音がした。振り向くと部屋の入口の引き戸が少し開かれ、そこからゴニョニョがそっと覗きこんでいた。リビングで大人しく音楽を聴いていたはずなのだけど。
冷夏の後の九月とはいえ今日は厳しい残暑を感じる日で、戸を開けっ放しでは廊下から重たい熱気が流れこんでくる。
「入ってくるなら入ってきて。クーラー効かなくなっちゃうから」
優しく声を掛けたつもりだった。が、会話に疲れて不快のニュアンスを上手く制御できなかったのだろうか。ゴニョニョはびくりと全身を強ばらせ、ひどく狼狽した様子で辺りをきょろきょろし始めた。
「あっ……」
慌てて席を立ち近寄る。それも良くなかった。ゴニョニョはさらに怯えて半ばパニックになり、リビングのほうへと一目散に逃げ去って行った。がしゃん、と向こうで音がした。
見に行くと、テレビ前のローテーブルが定位置から大きくずれ、上にあったリモコンやティッシュなどがフローリングに散らばっていた。ソファの上ではゴニョニョが突っ伏して震えている。
床に落ちたものの中には、はち切れそうに膨らんだ薬袋もあった。袋に記された自分の名前を見て、私は大きくため息をつく。
ひとたび壊れた心は簡単には戻らないのだ、お互い。
*
夜。入浴を済ませ暫しくつろいだ後、ベッドに寝転がりタブレット端末に向かう。映画でも見ようかとかそういうのではなく、私は毎晩こうして仕事に関する資料や書籍を読みふけり、ネットで丹念に情報収集をしていた。――余りにも長いブランクを埋めるためだ。
アスミを身ごもって一旦職を退いた後、あの子が高校二年生になったついこの前まで私は仕事というもの自体を一切してこなかった。出来なかった、出来る状態ではなかったと言えばよいのかもしれないが、どちらにせよ四捨五入して二十年ぶりに舞い戻ったこの世界は、慣れたフィールドと呼ぶには知らない情報、変化した常識が多すぎた。
だから病み上がりの慣らし運転をさせてもらっている今のうちに、こうしてその空白を埋めておかなければならない。「あの人」から毎月振り込まれてくるお金ではなく、自分のお金できちんと生活してゆけるように。
あの人――アスミの父親と私は幼馴染で、家族ぐるみの付き合いで、ポケモントレーナーとして同じタイミングで旅をして何度も勝負をしたライバルで、揃って同じ仕事に就いた。
フィールドワークを主とする研究所の一員として精力的に世界中を飛び回り、様々な環境に生息するポケモン達をその目で見て調査して――あの人とはいつも二人チームで行動し、時には灼熱の砂漠や極寒の高山地帯のような厳しい場所にも共に足を運んだ。そうするうち、必然のように私はアスミを身ごもった。
小さな頃からずっと彼のことが大好きで、いつしか自分のすべてと思うまでになっていた私にとってはまさに有頂天。出産を控えて調査には付いてゆけなくなったけれど、あの人と私と娘の三人での未来、それを想像するだけでただ幸せに過ごすことができた。
でも、そんな未来は一瞬のことだった。アスミが生まれて間もなく、あの人は私の知らないところで他の同僚と深い仲になり、家を出て行った。
アスミがお腹の中に居た頃から始まった関係だった、そう知った私は「この子さえ宿さなければ変わらずあの人と世界を飛び回り続けていられたのに」と娘の命を憎むようになった。あの人との未来はもう無くなってしまったのに、どうして「明日(あす)」なんて名付けた子がここにいるのか、訳が分からなくなっていた。
自分はもうこの子の母親では居られない。そう感じた私は、なるべく疎遠になった親戚らをあたって、アスミの引き取り手を探した。
『頑張んなさい、母親なんだから』
皆に口を揃えてそう言われ、自棄を起こすと心配だからと手持ちのポケモン達は散り散りに連れて行かれ、私はいよいよ本格的に孤立した。母親になれない私が、あまつさえ自らが産んだ子を憎んですらいる私が、それでも母親であることが正しさだとでもいうのか。
『お前なんか生まれてこなきゃよかった』
そんな呪いの言葉を繰り返し幼い娘にぶつける人間を、それでも母親などと呼ぶのがまっとうな世界なのか。
あの子と過ごして十七年間、私は未だにあの子が生まれてきたことをただの一度も祝えていないというのに――。
ベッドサイドのフォトスタンド。そこで「あの頃」のあの人と私が笑っている。
いよいよ悪い思い出とはさよならだね、と。仕事に戻ることを告げたとき旧い友人に言われた。そうじゃない。私はただ、愛しいあの人をこれ以上私のために惨めにさせたくないだけだ。
すっかり資料を読む手が止まってしまっていた。時計はもう零時を回っている。あとひと頑張りして今夜は休もう。
*
翌日はゴニョニョをボールから出すのがお昼前になった。先に家じゅうの掃除をひととおり終わらせ、換気していた窓や扉をきちんと閉めたのを確認して、それからだった。
「昨日はごめんなさい。怖いこと思い出させちゃったね」
ゴニョニョは木目調の廊下へ降り立つと、すぐにアスミの部屋のドアの陰に身を隠してしまった。私がかがみこんで声を掛けると、おずおずと顔を覗かせる。
アスミがこの子を連れてきたのは数ヶ月ほど前、六月の終わりごろ。人から虐待を受けてきたポケモンだというのはすぐにわかった。ゴニョニョにしても小さすぎる鳴き声、初めて私を見た時のひどく怯えた反応、過剰に人間のように振る舞おうとしている素振り――早くからポケモンと深く関わる道を選び仕事にもした私にとって、それはできれば見たくはない、でも幾度となく目にしてきたものだった。こうして日々ゴニョニョと接する時間、自由にさせる時間を設けているのは、私の生きてきた道がそんな様子を放ってはおけなかったからだ。
ただ、そんなゴニョニョがアスミにはよく懐いている。ひとりでなら怯えてパニックを起こしかねない状況があっても、アスミと一緒に居れば随分ましになるようだった。あの子が野生のポケモンなどの警戒を解いている光景は過去にも何度か目にしていたが、それでも驚かされた。トレーナーライセンスを取るために幾らかの勉強をしたとは思うけれど、きちんとポケモントレーナーとしての経験を積んできたわけではないだろうに。
思えば「あの人」も多くのポケモン――特に心に傷を負ったポケモンによく好かれていた。アスミのそれはまさしく、あの人譲りなのだろう。いつからか、アスミの目に時折あの人と同じものを感じるようになって、それから私はあの子に呪いの言葉を吐かなくなっていったように思う。
「……さすがにジュペッタを連れて帰ってくるとは思わなかったけど」
去年そんなことがあって、アスミから『クレーンゲームで取ったぬいぐるみ』だと紹介された時はうっかり吹き出しそうになった。ああそうか、私はこの子に自分がどんな仕事をしていたか、どう生きてきたかも伝えていなかったのだと、無性に可笑しかった。
ジュペッタがどんなポケモンか、もちろん本当はよく心得ている。あれこそまさに呪いの塊。初めはぎょっとしたが、呪いの言葉を吐きかけ続けてきた私のもとへあの子がそれを連れて来るのはごくごく自然なことにも思えたし、とうとうその時がやって来たかと感じた。でもジュペッタは、私には何ひとつ罰を与える様子もないまま、いつの間にか居なくなってしまっていた。
そこからだ。私は私の知らないアスミが居るということを、心の内で意識するようになった。あの子が普段何を見て何を感じているのかが気になりはじめて――そんななかでアスミは、今度はゴニョニョを連れ帰り、先の夏休みにはどうやら近所のポケモンジムにも通っていたようだった。洗濯に出されたトレーニングウェアを見て、あの子は知ってか知らないでか「知っている」のだと思い知らされた。
「あなたは、今のアスミをそばで見ているんだよね」
ぽつりと呟くと、ゴニョニョは徐に目の前へ来て、まるで何かを懸命に説明するような身振り手振りを始めた。口も動かしているが、私には届かない声。迂闊に撫でようとして手を伸ばしたら、ビクッと身体を縮こめてしまった。
インターホンが鳴った。急いで一階へと下りてモニタを確認すると、見知らぬ男女がふたり。私よりも少し若いくらいだろうか。インターホン越しに応答すると、男性のほうが少し声を被せるように反応して、言った。
そちらに居るはずのゴニョニョの主人です、と。
*
空調を効かせた客間へ案内すると、二人はすぐソファにどっかりと腰を下ろした。
話を聞けば、彼らは隣町に住んでいる夫婦とのこと。曰く冬にホウエンへ来てから「飼っていた」ゴニョニョがふとした拍子に迷子になってしまい、ずっと探していたと。そんな折、この町のポケモンジムのオーナーが隣町まで講演に来るということでジムのSNSアカウントを見てみたら、「すごく声の小さなゴニョニョ」についての投稿があり、それを手掛かりに情報を集めてこの家へたどり着いたということらしい。
「病気の娘が居たんですが、訳あって離ればなれになってしまいまして……。おまけに見知らぬ土地へ来ることになって、自分も妻も心細い思いをしていたんですよ。ゴニョニョはそんな僕らの唯一の支えでね」
彼らが来た用件を端的に言うと、ゴニョニョは自分たちのポケモンなので、返してもらいたいということだ。これが真っ当な流れであれば当然そうするべきところだろう。――しかし、
「で、ゴニョニョはどこに?」
「……さっきまでボールの外に居たんですが、来客に驚いた様子で。今はボールで休ませています」
一見柔和そうに見える男の息は少し酒くさい。ゴニョニョはこの二人の声を聞くなりひどいパニックを起こしたようで、二階の壁にぶつかって伸びていた。その反応が、彼ら夫婦こそが間違いなくゴニョニョの元々の主人であることを何よりも示していた。そして、それはつまり。
「照れてるんですよ」
そんな訳がないだろう。この二人は私が何も知らないと思っているようだけれど、生憎私にはゴニョニョの状態が分かっている。さらに私は知っている。さしづめ都合のいい「次の相手」が見つからなかったからゴニョニョを取り戻しに来た、そんなところだろう。よくあることだ、よくあることなんだ。
吐き気がする。そう感じたとたん、強い眩暈がした。私が言えた義理か? 目の前の彼らと自分、何かが違うとでも私は言いたいのか?
「――すみません。ゴニョニョの世話をしている本人が今居ないので。事情を話して考える時間を貰えませんか」
精一杯、そう搾り出すのがやっとだった。女が身を乗り出して何か言おうとしたが、男はそれを制止して「まあいいですよ」と吐き棄てるように言った。
夫婦がそそくさと席を立とうとした。その時、玄関のほうで物音がした。
嫌な予感に突き動かされるように廊下へ出ると、靴を脱ごうとしているアスミと目が合った。顔色が良くない。調子を崩して早退してきたのか、こんな時に。
「娘さんですか? ちょうど良かった!」
待ち望んだ獲物を見つけたかのような勢いで夫婦がアスミに詰め寄る。状況を何も知らず、体調のせいかうまく頭も回らない様子で戸惑うばかりのアスミ。男はそんなアスミにお構いなしにまくし立て、ただただ目を見開いて困惑を増してゆくアスミの顔。
どたどたという音が上階から聞こえた。猛然と階段を駆け下りてくるピンク色の姿があった。どうやって、どうしてボールから出て来られたのか、ゴニョニョはそのままアスミと夫婦の間に割って入った。身体いっぱいを必死に捻って大きな耳を振り回し、アスミから夫婦を遠ざけようとする。苛立った男が迷う素振りもなくゴニョニョを蹴り飛ばした。アスミが叫ぶ。悲痛な声で娘が叫ぶ――。
「――帰ってください」
言葉が、咄嗟に私の口から出た。
「申し訳ありませんが、貴方がたにゴニョニョは返せません。その子は娘の大事な――未来です。未来を奪うことは許されません。貴方がたにも……私にも、誰にもけして許されない。だから……帰って」
男はそんな私の言葉にしばらく呆然としていたが、ハッと色を取り戻すと「何を訳わからねえことを」と今度は私に詰め寄ろうとした。その肩を女が掴む。
「やめよ! もういいよそんな奴。金出して捕まえてもらったけどさ。なんかもう、面倒くさいよ。それにアタシら今、なんかまたやらかしたら今度こそ――」
「余計なこと言うな! ……ちっ、分かってるよ」
要らねえわ、それ。最低の捨て台詞とともに二人は乱暴に玄関を開け放したまま去って行った。
気が付くとアスミが私を見上げていた。ゴニョニョを抱きかかえて、真っ直ぐに、まんまるな瞳で。
「……馬鹿みたい」
私は堪らず目を逸らして、自室へと篭った。
馬鹿らしい。自分がとても馬鹿らしい。とんだ母親面をしてしまったものだ。あの子が生まれたばかりの頃から呪いを吐き続けてきた私にあの子の母親である資格などあるはずもないのに。
逃げてはいけない、問題ときちんと向き合うべきだ。正しい世間様は決まってそのように言う。母親であれと皆が口を揃える。だけれど本当にそれは正しいのだろうか? 私があの子の母親であることと向き合うには、せっかく時間をかけて蓋をしてきたあの子への感情を、呪いを再び解き放たなければならない。「自分と向き合う」などというエゴでもう一度私はアスミを深く傷つけなければならないのか? そんなのはもう御免だ。
あの子が以前ジュペッタを連れ帰ってきて、ひとつ分かったことがあった。強い“うらみ”を好むはずのジュペッタが、あのとき私の“うらみ”には一切の反応を示さなかった。つまりアスミを、わが子の命を強く憎んでいたはずの私は既に正しくその思いを抑えこむことができている。図らずもそうジュペッタが証明してくれたわけだ。私は正しかったのだ。
だから私が今更――まるで母親がそうするように、自分の力であの子との生活を支えようとしていることをあの子は知らなくていい。未だに何もせず世を儚み続けている情けない存在だと思われていれば、それでいいのだ。私が壊れていた時間に壊したものは、そんなに都合よくどうにかなる安いものではないのだ。
『その子は娘の大事な――未来です』
何が娘の未来だ。本当にあの子の未来が大事なんだったら――。
「生まれてこなきゃよかったのに」
私のもとになんて、来させちゃいけなかったのに。
*
黙々と。料理を並べたダイニングテーブルの上に会話は咲かない。はす向かいに座るアスミが、淡々と箸を口に運び続けている。夕飯の時間には変わらず下りてきて、顔色はもうほとんど戻ったようだった。
「アスミ」
私が声を掛けると、アスミの箸が止まった。
「高校を出たら――ううん、あなたが望めば今すぐにでも、この家から自由になっていいからね」
一度に言ってしまうつもりだった。でもどうしても続かず、ひと呼吸。
「不自由は、させないから」
沈黙。アスミはぼんやりと私のほうを見つめて――すぐにまた、何もなかったかのように箸を動かし始めた。私も何か妙にほっとして、食事を続ける。
が、
「お母さん」
今度は不意にアスミのほうから言葉が来た。私は思わず肩をびくんとさせた。
「オムそば。今度また作って。チーズたっぷりの」
顔を上げると、娘が照れくさそうに微笑んでいる。
「好きなんだ。学食とかでも食べるけど、やっぱりお母さんが作ったのが一番おいしいから」
「……急にどうしたの。そんなの、いくらでも――」
鼻の奥が、ツンとする。
「いくらでも……作ってあげる、から」
視界が滲む。それでも娘の笑顔は変わらずそこにある。当たり前の母娘がするような当たり前の会話に、私は涙がこぼれないよう堪えるので精いっぱいだった。
*
「うーん……」
昼下がり、私は自室のパソコンの前で頭を抱えていた。画面にはネット通販のサイト。無数に同じようなタブが開かれている。
「ねえゴニョニョ、あの子何が喜ぶんだろう。……って、ごめん。無理しなくていいよ」
ゴニョニョは私の脇で一生懸命身振り手振り、何かを伝えようとしてくれているが、内容が分からない。もしかしたらアスミなら何を言っているか理解できたりするのだろうか。
「こればかりは、本人に尋ねるわけにはいかないものねえ」
あの子のことをろくに見ていなかった報いだ、と苦笑する。振り返って、ベッドサイドに伏せられたフォトスタンド――の上のほうに掛けられたカレンダーへと視線を移す。まずい、あの子の十七歳の誕生日までもう三週間もない。
「いっぺん一緒にお買い物とか行かないと駄目かしら……」
馬鹿みたいな独り言に、さらに苦みがこみ上げた。
間違っても今更「私が母親だよ」などと声高に言う気を起こしたわけではない。やはり私にそんな資格はないし、そうすることが正しさだとは到底思わない。今になって誕生日を祝ったから何が許されるという訳でもないのも分かっている。
それでも。そんなこととは無関係にあの子の目の前には未来があって、これからも続いてゆくのだ。だったらあの子の命そのものを呪ってしまった私だからこそ――あの子の未来が輝くよう、私は私として力を注ぎたい。
だから、今こそあの子の命にちゃんとこう伝えよう。
ハッピーバースデイ、アスミと。