第6話 下弦の月

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ふいと目が覚めた。

赤い煙はそこにはなく、なんら変哲のない洞窟の天井だった。

脳裏にはまだ、あの暴力的な赤い煙がこびりついていた。

ちょうどあの煙を吸ってしまった時のように、しつこい不快感が離れない。

……あぁ、思い出すだけでまた少し腹が立ってきた。

苛立ちを忘れるには、散歩にでも出ようか。

……そうだな。せっかくだし少し遠くに出ようか。

森の中心部まで、テレポートで。

天井を眺めるのをやめて、私はテレキネシスで起き上がった。

行き先は森の中央部の空。

目を閉じて、テレポートを発動した。

しゅぴんと聴きなれた音と共に、眼下に暗い緑色の木々が広がった。

私の住処周辺とは違って、木々もよく育っているらしかった。

目の前には同じく暗い朝焼け前の空。東の空の端に茜が混ざり始めていても、まだ暗いものは暗い。

そして、吹き付ける上空の風はやはり強く冷たかった。

少し高度を下げて、風除けのリフレクターを展開する。

寒さが幾分か和らぐ。

体の緊張が解けた。

アビスとはこんな早朝の時期に散歩することはまずなかった。

夕暮れ時の散歩は、もっと暖かかったのに。

取り止めもない思考を垂れ流しながら、しばらく意味もなく空中をうろついた。

太陽が空に顔を出してじりじりとその全貌を現していく様子をひたすら眺めていた。

ふとなんの気なしに下界を見る。

雑然と立ち並ぶ木々の中に、ぽっかりと真円が空いて地面が見えている場所があった。

確かあの広場は子供たちがよく遊んでいたはずだ。

じっと眺めていると、木々の下から小さなポケモンたちが点々と姿を現し始めた。

子供たちも起きてくる時間だ。

下界の点の動きをぼんやりと目で追う。

唐突に。

私の目と下界との間に、エメラルドグリーンの塊が発生した。

翡翠の鏃が朝日を受けてギラギラと鋭さを主張している。

気がつけば、周囲全てを同じ矢に取り囲まれていた。

サイコパワーの矢だ。

そう思ったのと同時に、しゅぴんと聞き慣れた音がした。

もちろん私は森よりはるか上空にいる。

にもかかわらずまるで両者が地面にいるのと同じような位置関係で出現したのは、サーナイト。

和解する気など最初からないと言いたげな険しい表情をしていた。

『なにをしているのですか』

聞こえてきたのは、テレパシーだった。

それに対して私は肉声を投げかける。

「あなたこそ突然危なそうな矢なんて向けて、」

目の前の矢を一本、サイコキネシスでぺきりと折った。

「一体いかがいたしましたか」

サーナイトの顔に一瞬動揺が走ったのを私は見逃さなかった。

『……上空にじっと子供達の見つめる影があったので』

なるほど、親か。

……普通の親にしては少し警戒心が強すぎる気もするが。

「私はフーディン。通りすがりですよ」

『通りすがりにしては、あまり見かけない顔ではないですか?』

「ここよりもずっと北……森のあちらの端に住んでいるもので。ここには気まぐれで散歩に来ただけですから」

『わざわざ空中で、ですか』

「あまり他のポケモンには見られたくないものですから」

言いながら、右の肉塊をそっと目の前に持ってくる。

サーナイトはしばらく黙ったままその肉塊を見つめていた。

私を取り囲んでいたエメラルドグリーンの凶器が一斉に消え去る。

『……そうですか。あまりここにいると、他のポケモンにもこうして攻撃されます。特に、ガブリアスさんなんかは私より気性も荒いですから。なるべく早く、ここを去った方がいいでしょう』

「えぇ。そうさせていただきます。ご助言感謝いたします」

疑惑の目を向けたまま、サーナイトはテレポートしていった。

サーナイトに、ガブリアス……。

何か頭に引っかかるものがあったが、思い出せるほど詳細なイメージは湧いてこなかった。

とりあえずは助言の通りに立ち去ることにしようか。

せっかく来たが、この辺りのきのみを拾うのはやめだ。

そう結論をまとめて、私はテレポートを発動した。







あのサーナイトが一体何者なのか。

全く思い出せないが、勘が何かを知らせようとしている気がした。

瞑想していても結局思い出せないまま子供たちがきてしまった。

目の前には4匹がニコニコして並んでいる。

「さぁ、なにを話そうかな」

今日は私の科学の実験についてでも話してやろうか。

はいはーい、とフォッコが前に出る。

「あびすさんはどんな人なんですか?」

「ん、アビスのことが聞きたいのか」

「はい! どんなニンゲンなのか気になります!」

アビスについてか……。

話せることはたくさんあるが、子供たちに伝えるとなると慎重に選ばなければなるまい。

実験の話はまた明日にでもしよう。

「わかった。なら……そうだな、まずは白衣の話をもっとしてあげよう」

「ハクイ!」

「その白いのだよね」

「あぁ。この白衣が『服』だっていうのは覚えているね?」

「覚えてます!」

「いいぞフォッコ。ニンゲンはみんな服を身につけて生活するんだけど、その中でもこの白衣は特別なものなんだ」

「特別?」

「白衣は『研究』をする時だけに身につけるものなんだ。『研究』っていうのは、前に教えてあげた『科学』について知ろうとすることで、すごく難しいんだよ」

「ケンキュー……」

「ケンキューをすると、キカイってやつが作れるのか?」

「よく覚えていたねモノズ。他のみんな、機械のことを話したのは覚えてるかな?」

「はいはーい! いろいろなことを代わりにやってくれるんですよね!」

「そうさ。機械を作るにも研究は必要だし、他にも研究するといろいろなことができるようになるんだ」

「どんなことができるの?」

「そうだな、例えばポケモンが食べるだけで強くなってしまうような食べ物を作ることができるよ」

「食べるだけでいいの⁉︎」

「あぁ。『薬』って言うんだけどね。他にも体の調子が悪いのをすぐに治してしまうものなんかもあって、それらを作るには研究が必要なんだ」

「ケンキューってすごいな!」

「そうさ。アビスもそんな研究をする人だったんだ。もちろん私も手伝っていた」

「フーディンさんすげー!」

「この白衣はアビスが研究をするときにずっと着ていたものでね。すごく大事にしていたんだ。だから、今も私が着ているんだよ」

「大事にしてたのに、どうしてフーディンさんにあげちゃったの?」

「……それは」

言うかどうか、ためらいが生じた。

言うにしてもどう説明したものか。

4匹は彫像のように固まって私の言葉を待っていた。

「……それはね。死んでしまったんだ」

「えぇーー!?」

「どうして死んじゃったんだ?」

「それは……わ、わからない。わからないが、とにかくアビスとはもう会うことはできないんだ」

「そうなんだ……」

フォッコががくりと視線を落とす。

フォッコの頭をぽんぽんと撫でながら言葉を紡いだ。

「でもね。お別れの直前まで、アビスは私のことを心配していてくれたんだ。すごく、すごく優しい人だった」

「ヒト?」

「……あぁ。君たちも……特にモノズ」

「オレ?」

モノズがきょとんと首を傾げる。

「モノズ一族はニンゲンよりもずっと長生きするんだ。多分ニンゲンの方が早く死んでしまう。だから、もしもいいニンゲンと出会ったら、必ず大事にするんだよ。いいね?」

「まかせろ! 絶対なかよくするぜ!」

子供だからこその勢いのある言葉だった。

モノズはその場でぴょんぴょんと跳ねてやる気をアピールする。

「他のみんなもね。ニンゲンたちは私たちポケモンよりも体が弱い。いつお別れになってしまうかわからないから」

「「「はーい!」」」

「フーディンさん!」

「ん、どうしたんだいフォッコ」

聞きたくてうずうずしていた、という声音でフォッコは私を見る。

「その白衣についてるキラキラしたものはなんですか?」

「あぁ、これかい」

視線を落とすと、白衣の袖や裾についた赤い粉が光を反射して輝いていた。

「これは、研究をしているときについた汚れだね。それよりみんな。今日はたくさん言葉が出てきたけれど、何か気になることはあったかい?」

「ケンキュー!」

「もっとケンキューの話聞きたいです!」

「わかった、じゃあいろんな研究の話をしてあげよう」

…………







「そう、だから私たちがやっていたのは——」

「あっ!」

突然リオルが叫んだ。

「どうしたんだい?」

「今日はニンフィアさんから早く帰って来なさいって言われてて……」

「「あ!」」

「そうだった!」

リオル以外の3匹も思い出したようだった。

「そうか、なら帰らないといけないな」

「うー、もっと話聞きたい!」

「大丈夫、また明日にでも話してあげよう」

「はーい……」

4匹はとぼとぼと洞窟を去っていった。

洞窟の中が一気に静かになる。

『ニンフィアさんから早く帰って来なさいって言われてて……』

リオルの言葉を思い出す。

ニンフィアが早く帰れと言わなければいけない理由。

ニンゲンのように、今日をなにかしらで祝ったりするために帰るわけでもないだろう。

一つ、思い当たることがあった。

今朝の一件だ。

あの時いきなり攻撃じみたことを仕掛けて来たサーナイト。

サーナイトがニンフィアと同じく孤児院のメンバーであれば。

恐らく下で遊んでいたポケモンたちは孤児院にいる子たちなのだろう。

子供たちを守るなら上空までをわざわざ警戒するする理由にもなる。

警戒心が強すぎる理由は、孤児というかわいそうな境遇のポケモンをたくさん見てきたから。

全てに納得がいく。

確証が持てるわけではないが、その可能性は少なくないだろう。

サーナイトも、この森の中ではニンゲンのことを知っている方だ。

私の手を見てニンゲンと関わったことがあると考えてもおかしくない。

本来であればあんな不自然な進化はしないのだから。

今後私について警戒が強まるかもしれない。

何か、嫌な予感がした。

ぞわりと背中から、運命が這い寄って来た気がした。

……未来を、視てしまおうか。

未来を視ることは、確かにできる。

実際に未来を視るのと同じ要領で何度も過去を見たから視られないわけではないのだ。

できるが、今までそれをしようと思ったことはなかった。

未来というものは、変えられないもの。

過去も未来も、変えられないから視られるのだ。

だから、もしその未来が悲惨なものだとしても、私には待ち受けている未来を受け入れる以外の選択肢はない。

絶望する時間を少しでも減らしたい。

絶望するのは、もう懲り懲りだ。

だから私は未来を視たことは一度もない。

……今回も、やめておこう。

結局なにもしないまま、この件の蓋を閉じて私は瞑想の時間に入った。








暗い部屋のなかで、電気スタンドだけが机を強く照らしていた。

机に向かっている女が引き出しを開けた。

取り出したのは、小さな薄い紙の入った箱と大きな薬瓶と薬さじ。

それらを目の前に置いて、机の端に置かれていた小さな箱を手にとった。

「cigarette machine」と書かれたその箱を細い指が開ける。

箱の中には小さな白い円筒が入っていた。

続いて女は薬瓶を取って、薬さじを中に突っ込む。

大きなさじいっぱいに深紅にきらめく粉を取り出した。

それを箱の蓋側についたくぼみに流し込み、その横に白の円筒をつまんで置いた。

女が次に手にとったのは先ほど取り出した小さな紙。

紙を手で押し広げ、口元に持っていく。

口元からちょこんと出た薄紅の舌が、紙の端をつーっと舐める。

舐めた紙を、粉と白い円筒と共に箱の裏にセットした。

ぺたんと箱を閉じると、箱の手前の窪みから細い円筒が現れた。

円筒の一端をきゅっとひねって机の横に置いた。

一連の作業を女は何度も何度も繰り返す。

筒が30本になろうかというとき、女は作業の手を止めた。

机に並べられた筒を一つ手にとって、人差し指と中指で挟んだ。

筒の一端を咥え、机に転がっていたライターでもう一端に火をつける。

じりじりと捻られた紙が焼けて、じきに荒々しく真っ赤な煙を立ち登らせた。

自分で巻いたタバコを咥えたまま、女は深く深呼吸した。

女の瞳がゆっくり開く。

その目は何も映していなかった。

「しぃ!」

ケーシィが女の両肩に捕まった。

女はゆっくりと首を振るだけだった。

「しぃ? けー」

ケーシィは何度か女の肩を揺らした。

やはり、女の反応は薄い。

「けしぃ!」

ケーシィは女の後頭部を登って、頭の上に乗った。

女の顔を上から覗き込もうとして——ケーシィは赤い煙を吸い込んだ。

「しぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

突如ケーシィは女の頭を殴って暴れ出す。

髪を引っ張られた痛みに女が我に返った。

「ケーシィ⁉︎ どうしたの? ケーシィ!!」

頭の上のケーシィを抱き上げて目の前に移動させる。

両脇を掴まれたケーシィはなおもジタバタと駄々をこねるように女の手を殴りつけていた。

女は冷静さを取り戻した鋭い眼差しを暴れるケーシィの鼻先に向けた。

鼻先についた赤い粉を見て、女はぶつぶつと何かを呟いた。

両手で抱えたケーシィには目もくれない。

気づけば女の目の前には大量の透明なアメ玉が散らばっていた。

アメの包装を一つずつ解いては目の前の小鍋の中に放り込む。

からん、からん、と虚しい音が幾度も響いた。

透明な粒が小鍋の底を埋め尽くすと、女は小鍋を持ってキッチンへ向かった。

小鍋をガスコンロに置いて、火を灯す。

女はじっと鍋の中を見つめていた。

鍋の中のアメは次第にその輪郭を失っていく。

アメが全てドロドロに溶け合ってしまったのを見て、女はキッチンを離れた。

戻ってきた女の手には薬瓶と薬さじが握られていた。

薬瓶を開け、薬さじ山盛りに取った赤い粉を煮えたぎるアメの中に落とした。

何度も何度も、薬瓶に薬さじを突っ込んでは粉の山を鍋に振りかける。

手を動かす女の横顔は眉一つ動かない。

やがて透明だった液は真っ赤に染まり、ギラギラと暴力的な輝きを放ち始めた。

「……よし」

コンロから鍋をとりあげる。

血のように赤い液体を、同じく赤いシリコンの型に流し込む。

赤く丸い塊が型の中にいくつも作られ、いくつも持ち手の棒が突き立てられる。

型を慎重に冷蔵庫の中に置いて、扉を閉める。

「……これでいいかな」

女は左手の指についた赤い粉を舐めとった。

もう片方の指先は小刻みに震えていた。

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