講義録①

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○○○○年ヒウン大学にて 学際的協力~携帯獣学者のための教養講座~


(ハウリング音)
 
えー、ご紹介に預かりましたシュロ・トクジです。普段は神話学というのをやっていて、一応エンジュ大の教授もやっています。
 神話学についての説明は……必要ですかね?え、手元に、パンフレットが、ある。ああ、いらないんですね!ありがとうございます、前の方を見てご存じだと思いますが、実のところ時間があまりないもんですから。客員教授になった時もそうでしたが、ヒウン大学というかイッシュってこういうところがあるんだな。
 あっいや、あのー、褒めてるんですからね。軽い感じでやれと言われたんで、こういうジョークも必要かなと思いまして。
 うーん、どうしますかね。時間?おや、じゃあさっそく話していきましょう。今回はですね、神話学はみなさんご存じという体で『じゃあ、シンオウ神話に固有の面白さってナニ?』という話をしたいと思っています。
 早速ですが、他の神話との違いを考えてみたときに、例えばグラードン・カイオーガというポケモンがいますよね。ホウエン地方の伝説では陸海の象徴みたいに語られているのですが、これは研究対象として見た際に自然の表象をポケモンに与えたのか、ポケモンの能力を自然に還元したのか、あるいは同時に起こったのか、等の検討が結構難しい。前者っぽいけど確定はできないよね、というのが普通の見解です。具体的なものと結びついてしまっていると逆に難しかったりするんですね。表象化、という視点が抱える問題の一つだと思います。
 一方、シンオウ神話を引き合いに出しますと、その核心と思われるような部分ではこういう議論が全然生まれない。これはどうしてかと考えると、時間空間といったかなり抽象的な概念が扱われているんですね。それもそうか、という理由があるのですが、シンオウ神話のポケモンは宇宙のイメージと結びついているんじゃないか、という仮説が結構前からありまして。いえ、どうやって観測したのか、宇宙を見たとすると星々の描写がないのは不思議だ、などの問題は残ってますけども、ここではその仮説を採用します。一定の信憑性があるので。
 儂は、シンオウ神話の驚嘆すべきところは、これによって二つの正反対な世界観、しかもその極北を示してしまったところにあると思っています。極北と言っても、両方ともどこか方角として北にあるわけじゃないですよ。まあ、確かにシンオウ地方は世界の中でも北のほうにありますけど、そこはほら、置いといて。
 ホウエンの伝説は事物―表象兼意味とでも呼ぶべき関係にあって、記述される伝説は表象の側に立ち、そこに意味が与えられています。グラードンは神話においてそのまま大地の化身であり、カイオーガはそのまま海の化身です。しかしシンオウの神話は、言うなれば意味―表象―事物と呼べるような関係にあると、儂はそのように感じるのです。ディアルガは時間の化身ではありますが、グラードン、カイオーガのようなあり方をしていない。そのまま時間の化身って訳にはいかない。これは、先ほど申し上げました通り時間空間といった概念がかなり抽象的な概念であることに由来します。
 意味というのは、一定の意味での神話を超えた普遍性のことだと考えてください。ですから、神話を記述する言葉の、神話と関係ない部分で普遍的に通用する意味というか、そういうものだと思っていただければ。
 えーと、先程の関係を言い換えれば、意味は「海」という言葉の持つ意味、表象は「海」という言葉とかそれを表すもの全般、事物は「海そのもの」ですか。ホウエンの伝説に関する発言は、「海そのもの」とカイオーガ(海を表すものであり、海を意味するもの)の関係だ、と言ってもいいかもしれません。ここでは海と我々は明確に別物で、我々が認識する側、海がされる側ですね。まあ、厳密にはちょっとね、別ではありますけども。
 でもシンオウ神話は違う。ポイントは、表現と意味は厳密に結びついている訳ではないというところで、表現が意味になる為には、その表現を認識しなきゃいけないし、その表現が何を意味するか知らなきゃいけない。神話は意味を作り上げるところから始まるんでまた特殊なんですけど、一般にはそうなんです。
 例えば、イノムーに通行禁止のマークを見せようとしても意味はないですね。それが見えないから普通に通っちゃう。これは表現をそもそも認識してないという可能性ですね。
 それに、コレは流石にとっぴな想像ですけど、ランセ地方の人、これポケモンバトルという風習がないんですが、そういう人がポケモンを連れてこの地方に来るとします。で、トレーナーと目が合う。我々はここで「ポケモンバトルだ!」となりますよね。目を合わせるという表現がポケモンバトルを意味する。
 だけど、ランセ地方の人はたぶんそうならないですよね。おお、なんか目が合ったなあ、で終わりでしょう?表現の意味を認識していないというか。表現自体は認識しているけど、意味の体系が違う。これ以上掘り下げるとこう、他の方が発明した概念、えっと、差延ですか。そういうのに触れなきゃいけなくて面倒なのでやめますけど。
 儂はこれ、シンオウ神話でもこれに似たようなこと、それどころかもっと面白いことが起こってるんじゃないの、と思うわけです。先程認識って事を言いましたけど、我々がものを認識するときに使ってる概念というのがあるんですね。それが何かと考えてみると、究極的にはなんと空間と時間なんですよ。我々が認識する対象であるはずのものを、我々は認識の手段として使っている。これはその、循環してますよね。ディアルガとパルキアは時間と空間の象徴だけど、それを認識するためにまた時間と空間の概念を使っている。ホウエンでは起こらなかった問題ですね。
 それで、身近なところだと、主観的な時間と客観的な時間というものが感じられると思います。ああ、この講義はつまらんからもう一時間は経っているかと思ったのに、まだ十二分しか経ってないや!というような。これ十五分の発表ですから、もうすぐ終わるんですけどもね。
 このとき、我々の認識している時間と、実際に流れている時間との対立が起こっていますよね。なので、暫定的にですけど、客観的な時間を事物に、主観的な時間を意味に振り分けてみることができると思います。
 客観的な時間が意味するのは、まあ宇宙の時間だと思ってください。最近だと特殊相対性理論みたいなのがありますから、この別途で考察を入れる余地はありますよ。
 ああ、もう終わりそうですね。本当はもっとお話ししたいんですが、流石にこの時間だと難しいし、掻い摘んで話しますか。
 つまりですね、何らかの方法で垣間見られた宇宙は、それだけでは神話に表象される事物の側にあるのですが、その事物の側に表象を見出した時――そこから時空を見出した時――宇宙そのものの持つ時空が"ばね"になり、意味が表象の外部へ飛び出してしまったところ、意味の体系が変わってしまったところだと、儂はそう考えています。我々がディアルガやパルキアを時間空間の化身として認識するとき、その認識自体が時間、空間の中で行われざるを得ないんですね。時空、という言葉は、様々な意味がある。それどころか、様々な意味があらざるを得ないのです。
 とどのつまり、時間には理解の仕方がたくさんあるわけですな。ですから、表象化できるものは一部に限られている。さらに面白いのは、それさえも乗り越える世界観が微かに顔を覗かせている面なんですけど、そこまで説明するのは骨が折れるのでね。
 勘違いしてほしくないのは、儂はシンオウ神話の話ばかりしてるからこういうこと言ってますけど、もちろんホウエンや他の地方のの伝説にもそういう面はあるんです。大地も海も豊穣とかを意味しますからね。ここで言うと、イッシュの伝説はホウエンとシンオウの中間に位置しているかなあ、という感じがします。
 だけど、シンオウ神話は事物と意味の狭間に揺蕩っている感が特に強く、その意味も事物も我々の存在理由に深く結びついている。生命の二重螺旋を繋ぐような存在様式、そこは特筆に値するでしょう。
 そういう理由で、儂はそういう神話の解釈やら、研究やらをやっています。講演に関係のない部分でですね、なぜ考古学や宇宙携帯獣物理学ではダメなのか、というご質問等も出ると思いますが、もう時間もないので、そういった質問は後で聞きに来るか昔の論文集をお読みください。どなたでも歓迎です。様々な携帯獣学の見地からご意見を伺えれば、まことに幸いですからね。
 では、以上で講演を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。この後少しだけ質疑応答の時間がありますので、ご質問ある方は挙手していただければ。ただ、先程申し上げたことに注意してくださいね。

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