それでも、世界は傾いている【終】

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 湿った風は、嫋々じょうじょうと今日も季節を運んでいた。紺碧の空には、緩やかに時間の流れを感じさせる、白い入道雲。小波音と共に、きゃあきゃあと甲高いキャモメの鳴く声。白群が風を切って行くと、残照が灰色の地面から揺らいでいた。
 波は打ち寄せる。ただ一つ、月の引力によって。
 波は洗い去っていく。貝殻もガラス片も、誰かの哀しみさえも。全てを連れ去り、原初の海へと慈悲の名の元誘う。蒼く深い闇は、静かに世界を見つめている。深淵と見紛うかのような晦冥にて、やはりそこに果てしなく存在している。
「本当に……腹が立つほど青いな、畜生」
 コンクリートの船着場にて、そんな碧海に抗うかのような男は言った。風に煽られ、黒のジャケットは大きくシルエットを変える。ばさばさと、仮面を剥がすかの如く翻っていく。
 足元には、気持ちばかりの百合の花束と、『Peace』なんて言葉の付いた、ニコチンの箱。蹴飛ばしたくもなる名前だが、彼にする気力はなかった。それほどの怒りもなかった。
 エディオン・ドライザーグは、持っていたブラックコーヒーの缶を見つめ、何度か投げては手に持つと。その中身を、コンクリートに染み込ませていく。百合の花が汚れるのも気にせず、洗いざらいに全ての感情を吐いてしまう相談者のように。堰を切って流れていく、純黒の嗜好品。
「……アンタには、これでいい。湿っぽいのなんて、嫌だろう」
 涙は、なかった。あれほどの怒りを発露しておきながら、何かを殴り飛ばすような気にもなれなかった。あるのは、ただ一つの感情を超えた、限界点の受容。
「痛え、痛えな」
 ヒリヒリとした、痛み。火傷なんかよりもずっと後を引く、痛烈な空虚。繽紛ひんぷんに入り乱れる情緒を通り越し、痛みは襲う。それは、喪失と生きる代償。
 代償を払ってまで、得たい人生とは何だろうか。見たい世界とはあるのだろうか。恐らく彼は、それに怖気付いてしまった。未知なる代償が、怖かったから。賢いとは、そういう痛みをも連れてくるから。
 ようやく、彼は兄貴と慕っていた人が、見ていた世界が理解できた。理解させられたとも云うべき横暴さで。世界とはこれほど自分勝手で、そして変わらないものなのか。ひどく無関心で、寛容なのか。そんなことを、汐風に靡かれながら考えていた。海面に出来た、不規則な光のスパンコールを眺めていたのだ。
 彼が熾烈に憎んだ世界は、今日も美しかったのだから。
「なあ、相棒……お前はどうする?」
 やるせない沈黙から、隣のワルビアルに尋ねてみる。破壊を尽くした影はなく。黙って、満ち干きで揺蕩う海面を見つめていた。
 一頻りの感傷の風に吹かれて、彼は顔を上げていた。直情な太陽光が、屹立なる影をまた濃くしていく。その男を真っ直ぐに立たせる。飲み込んだ唾には、静かな意思が染み込む。
「アンタは……最後の最後に教えてくれなかった。だから俺は、俺は。足掻いても生きていくさ。その答えを、探したいしな」
 だからアンタは、そこで休んでいてくれ。
 そんな言葉を最後に、彼は“兄貴”と別れて行った。後ろにはやはり似た者同士が着いてくる。そんな彼らの、痛みが尾を引く永き旅路への一歩へ。
 少し違ったのは、その旅に仲間が増えたことだった。お転婆な彼女は、エディオンの前にフラリと現れると、連れてけと言わんばかりの声を上げていた。
「おいおい……いいのか? まあ、でも一人くらい? べっぴんさんが居た方がいいよな」
 レパルダスは感傷に濡れた瞳を、一瞬だけ思い馳せる女のように瞬かせると。次には、汗臭い彼らを無下にするような素振りで、先頭を往く。正しく“女王”である彼女の、従者らしく。能天気さを取り戻した男とワルビアルは着いて行く。そこには、隠せない悔恨を握り拳に秘めつつ。
 男とすれ違う少年。膝小僧を傷だらけにした彼は、エディオンのこと等気にせず。ただ一つ、モンスターボールを手に、前を駆けていくゲコガシラをリュックサックを揺らして追いかける。涙でボロボロの目には、それでも笑顔が咲いていた。遠のいていく、歓喜の滲む呼び声。
 青空と同じ色の『Peace』の箱は、仰向けに百合の花の上に転がっていた。白い花弁はタバコの健康阻害を喚起する項目を、隠すかのように花開き。
 為すがままに、強い汐風に揺られていた。
 

──END──

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