Interlude-1 君の頑張りは、いつだって、ボクが傍で見てるよ

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 おぼろ雲のように天を覆い尽くす程のものはなく、メリープの毛のようにもこもことしたわた雲が青空に浮かぶ。分厚い雲は眩い陽光を遮断する壁とはならず、夜明けと共に照らされ続けた地表は、既に暑いと言えるほどに空気を暖められていた。それでも、熱気を伴わない心地良い風が吹き抜けるお陰で、外は出かけるのにも快適な気候となっている。
 時刻は昼過ぎ。人影のない、町から外れた草原地帯。平生では聞き慣れぬ衝撃音が響き、一帯に砂埃が舞う。激しく荒れるその中央では、体躯の似通った白のポケモンと青と灰色のポケモンが、互いにぶつかり合っていた。それは本気の戦闘にあらず。文字通りぶつかり稽古だった。
 軽やかで高い跳躍と共に、エースバーンは自慢の足で蹴りを見舞う。ルカリオは両腕でガードし、真正面から受け止める。勢いが削がれたところで、続けざまに踵落とし。着地を度外視した連続攻撃にも怯まず受け切ったルカリオ――ソラは、身動きの取れないエースバーン――カケルの足を掴み、大きく投げ飛ばした。カケルも視界が回る中で空中でくるくると回転し、体勢を整えて着地を決める。
「カケル、今のは良い“にどげり”だったよ!」
「ありがとな! その割には軽々と受け止められて、ちょっとばっかり悔しいけどな!」
 悔しい、という割にはからりと笑って見せた。照れ隠しとばかりに、無意識に鼻の辺りを擦る。明るい少年らしい表情を浮かべたかと思えば、修行中なのを思い出してすぐに凛とした顔を見せる。
ダイマックスしたナットレイとの激闘を経て、カケルはさらにポケモンとして強くなり始めていた。それは巡回や悪の組織の手先との戦闘以外の時間を、概ね特訓に充てている成果。最初は傷が治りきる前にカケルが始めたいと申し出てきたが、ソラは無論これを一蹴。焦って治るものも治らない方が危険だと、滔々と言い聞かせた事で何とか押し留めた。
 無事に完治してからは、周りに人のいない空き地や草原などを見繕って、ソラの手解きを受けながら戦いのコツを教わるのが日課になっている。ポケモンの体に変じた当初はあれだけ戸惑っていたカケルも、すっかり今の体に慣れ、ソラとのスパーリングも様になっていた。
「カケルだって、変に手加減されておだてられるよりは、ちゃんと実力を測って欲しいのは否定できないでしょ?」
「さっすが、おれの事をよくわかってんじゃん! そうだよ。特訓とは言え、おれはいつだって本気だぜ。だから、おれの本気、しっかりと見ててくれよっ!」
「いつだって、ちゃんと見てるよ。遠慮なくおいで」
 カケルは足元の小石を蹴り上げ、軽快にリフティングを繰り返す。その都度足の裏から炎を噴き出し、触れる度に小石に少しずつ纏わせていく。やがて石が掌サイズの炎の玉となったところで、カケルは宙に浮いた“かえんボール”を鋭く蹴りだした。太陽を模したような灼熱の速球が奔る中、ソラも迎撃の準備を整えていた。
 掌に篭めていた光を圧縮し、球状に留めた波動を一気に撃ち出す。蒼の“はどうだん”は、寸分違わず迫り来る紅の“かえんボール”と衝突を果たした。二人の中央でぶつかり合い、爆発と共に白煙が立ち込める。覆われた煙を突き破って、蒼の光弾が直進を続ける。カケルは回避行動に移ろうとするが、不可避の“はどうだん”は容赦なくカケルを捉えた。鋭く爆ぜる音が響いた後で、直撃を喰らったカケルの身体が地を滑る。
「しまった、カケルっ! 大丈夫!?」
「ああ、大丈夫だよ! これは本気の稽古なんだって、心配いらないって、の!」
 着弾と衝撃でふらつくも、技同士の衝突で威力は減衰されていた。足もまだまだ動くし、体力も充分。カケルはすかさず跳び上がり、足を突き出しながら降下していく。ソラも“にどげり”を予想して身構えるが、今度は足の裏による蹴りではない。向ける部分は膝――“とびひざげり”の使用に他ならなかった。初見の技に、ソラは目を瞠る。直後、波動で即席の――普段より精度の低い棍を作り、再び正面から受ける。先程の攻防ではなかった衝撃が、互いの武器に走る。速度の乗った重い一撃に押されるも、ソラは何とか凌いで振り払った。
 カケルとしては元より、全身全霊を込めた“とびひざげり”だった。弾き飛ばされた先で着地する事もままならず、カケルの身体は幾度も無様に地面を転がる。ようやく止まって弾かれたように起き上がるが、ソラが棍を消して追撃する様子もないのを見て、その場に尻もちを着く形で座り込んだ。ぶすっとした顔で、ソラに恨みがましそうな視線を投げかける。不機嫌そうにするカケルには悪いと思いつつも、子供っぽい風貌と振る舞いも相まって、ソラとしてはその反応に微笑ましさを感じずにはいられなかった。
「ちぇっ、これも止められるのか。せっかく用意しておいた、秘密も秘密のとっておきだったんだけどなあ」
「そうふてくされないの。正直、“とびひざげり”を実戦で使えるくらいまでなっていたのは驚いたよ。だけど、簡単に倒されちゃ、それこそ戦闘経験の多いボクの面目丸つぶれってもんでしょ?」
「そりゃそうだけどさー。こう、一発くらいソラに当てられたらなあって思って」
「欲張りだなあ。でもさ、カケル。君は本当にどんどん逞しくなっていくね。ボクだって、腕で防ぐのは無理だって判断して、“ボーンラッシュ”で受け止めたんだもん。この前まで炎の扱い方も知らなかったのに、“かえんボール”だってもう難なく使えるようになってる。こうやって特訓しているのがあるとは言え、いつの間にか前より動きが良くなってきたんじゃない?」
「そ、そうかな。おれだって、頑張ればこれくらい成長出来るんだぜっ。へへっ、ソラに褒められると嬉しいな」
 攻撃が決まらなかった不機嫌はどこ吹く風。今度は真っ白な歯を覗かせ、年相応に満面の笑みを咲かせる。褒められると調子に乗るのも少年の性で、カケルは立ち上がってなおも稽古を継続しようとするが、不意に力が抜けてその場に膝を着く形となった。ソラが慌てて駆け寄ると、荒げている息を整えながら笑顔を繕っていた。その顔の全てが嘘ではないが、少なくとも疲労の色が滲んでいる事は、ソラにも容易に見て取れた。
「ちょっと、疲れただけだ。さあ、すぐに再開しようぜ!」
「いいや、今日はこの辺にしておこう。カケルに溜まっている疲労もダメージも少なくない。修行ってのは、無茶をするためのものじゃない。わかるね?」
「無茶なんかしてねーって! ほら、おれは元気だし、まだまだ――うぐっ」
 心で虚勢を張っても、体は正直なもの。いくら意欲があったところで、その思いだけで体は回復などしない。今の不格好な着地で“はどうだん”をもろに喰らった腹部が疼き、立ち上がろうとしたところで顔を顰める。仁王立ちするソラの視線が痛く感じて、痛んだところを饅頭のような白く丸い手で必死で隠した。ここまで来てもなお笑ってごまかそうとするカケルに、ソラはしゃがんで視線の高さを合わせて嘆息を一つ。
「今は大事じゃない怪我でも、悪化したら修行どころの話じゃなくなるよ? 明日も、明後日も、今日みたいにちゃんと修行したいって思うなら、今日はこの辺で止めにする事。そうじゃないなら、君を縛って部屋から出さないようにするしかなくなるけど、良い?」
「う、わかったよ。ソラがそう言うなら、それに従う。いつになく強気と言うか、怖い事言うんだな……」
「こうでもしないと、カケルは聞いてくれないと思ってね。君が頑張る姿は、ボクも嬉しいよ。けど――」
 人間の姿だった時から、目的のために努力を怠らないのがカケルという少年の常であった。正義のヒーローを実質襲名するまでに鍛練を積んだのはもちろんであるが、その後も自分なりに努力は積み重ねていた。学校に行く時間や、町の見回りの時間の合間を縫って、体を鍛えるのに時間を費やしていた。それでも人間であった時は筋トレがせいぜいのもので、一人で出来る事にも限界があって、自ずと制御がかかっていた。
 しかし、ポケモンの、しかもエースバーンという種族の身軽な体を得たせいか、肉体的な成長の意味で伸びしろは増えた。もっと強くなりたいという思いにも拍車がかかり、覚えたての“かえんボール”の練度を上げたり、新しい技の習得に躍起になろうとする節があった。体を動かせば動かす程、その限界の高さも知るようになり、身体能力の高さも徐々に己の身体の感覚として馴染んでいくようになりつつあった。
 殊に最近は今日のように、特訓からは一線を越える無茶が度々見られた。強くなろうとする姿勢自体は、ソラとしては応援したい気持ちに嘘はない。だが同時に、大きな不安も抱えていた。今はまだ、人間の時以上に頑丈な身体を得た事で、多少の無茶は融通が利く。しかしそれが度を超えた時、取り返しのつかない事態になって後悔する気がした。他でもないカケル以上に、それを止められなかった自分自身が。
 無理が祟って自分を壊さぬように止めたい思いと、成長しようとする前向きな姿勢を止めたくない思いがずっとソラの心でせめぎ合っていた。余計なお世話は承知の上で、それでも大事な相手を尊重したくて、ソラはおっかなびっくりに手を伸ばす。きょとんとした顔で、怒られるのではないかと少し引き気味のカケルの頬に、愛玩動物に接するかのごとく優しく触れた。
「あのさ、カケル。さっきも言ったけど、君はびっくりするくらいに成長をしている。それはボクが認めるよ。そうだって言うのに、どうして君はそこまで焦ったりするんだい?」
「焦ってる、のかな、おれ。もっと強くなりたいとは思うんだけど、そのためにあんまり時間を掛けたくねーんだ。早く強くなるなんて虫の良い話だとは思うけど、のんびりしてられなくてさ。強くならなくちゃ、正義のヒーローとしてこの町を守れないし」
 合っていた視線が、不意に遠退く。カケルの方から直視に堪えないと感じたのは、責められるのではと、詰問されているのではと、半ば恐れを抱いていたから。けれど、逃げてはいけないという気持ちもそこには少なからずあって。ソラの温かい手が、頭の方に伸びた時、カケルは再びソラと目を合わせた。いつものソラの優しい赤の瞳の中に、憂いの色が映る。
「強くなりたいって気持ち、もちろんボクにもわかるとも。ボクだって、正義のヒーローとして動く以前に、君のポケモンとして良いところを見せたいってのはあるからね。だけど、君のそれはどこか――死に急いでいるのに近い感じがして、間近で見ていて少しだけ怖いんだよ」
「えっと、そういうつもりはねーんだ。だけど、じっとしてたら、強くなる機会を逃す気がして。おれの今の身体、エースバーンってのが間違いないなら、もう進化する事も大きくなる事もないだろうけど、その間に弱くなる事だってありえなくはないと思ってさ。ほら、長い事離れてたら感覚が鈍るってのは、よくある話だろ? そしたら、ずっと頑張り続けなきゃって。そうじゃなきゃ、おれ、正義のヒーローじゃいられなくなっちまう」
 己の身体を顧みなくなってまでがむしゃらに突き進むのは、立ち止まってしまうのが怖かったから。歩みを止めた時点で、まだ人間で非力だった頃の過去の自分に囚われてしまう気がして。今の自分は過去の自分とは違うのだと、何か確証のようなものを得たい一心で、本能的に頑張り続ける事をカケルは選んでいた。――もっとも、その本心自体は、当の本人にも完全に自覚出来ているわけではないのだが。
「頑張っている自分がいるという実感が、充足感を与えてくれる、とか?」
「わかんない。けど、そうなのかもしれない。少しずつ強くなって、誰かの役に立てるんだってわかると、おれはここにいて良いんだって思えるんだ。この姿になって、もう元の人間と同じ生活が出来ないんだってわかったら、余計にそう感じるようになってさ」
 己の存在価値を、他者の役に立つ事の中に見出す。その発想自体はブレーキの利かない車のようで、在り方はとてつもなく危うい。一つの前向きな在り方として間違ってはいないとしても、いつかは身を滅ぼす危険を孕んでいる。ただ、ソラはカケルを糾弾したいわけでも、咎めたいわけでもない。支えたいという願いはあっても、積極的に後押ししたいとは思えない。それを肯定するのも、否定するのも、望む答えとは違う気がして、ソラは答えに迷って逡巡する。
「カケル、君は本当にこのままでいたいって望んでる? ポケモンの姿になってもなお、正義のヒーローとして戦って、そのために必死に強くなろうとする今の状態をさ」
「……ああ。せっかくこういう機会を得たんだ。もっともっと今のうちに、力を得なきゃって。そうじゃなきゃ、強くもなく頼りない正義のヒーローになったら、おれは――」
 即答には程遠い一拍の間。短いようで長い余白を経て紡ぎ出された言葉に、いつもの自信たっぷりの快活さは窺えず、本心ではない何かがカケルを突き動かしているようだった。根底にある信念がいくらか揺らいでいるようで、表情は依然として明るくない。ソラがどう諭して良いのか迷っているように、カケル自身も自分の在り方について迷っている節がなきにしもあらずだった。ソラは波動で読まずとも、カケルを慮るように微笑みを投げかける。
「君は今のままでも十分強いとも。だから、駆け足で強くなろうとしなくたって良いんだよ」
「そんな事ない! だって、おれ、ソラには遠く及ばないし。努力だけはしてないと、前までのおれらしさすら失っちゃう気がして……」
「大丈夫。例え姿が変わったって、カケルは良いところはそのまま変わってないから。君の頑張りは、いつだって、ボクが傍で見てるよ」
「……っ! ソラ、おれ……」
 不安という名の氷で固まったカケルの心が、優しさで溶かされていく。ソラの柔和な笑みが、強張っていたカケルの顔を綻ばせる。姿が変わった事で、自分を失ったような気になっていた。自身の意志による成長とは別の――ポケモンに変ずるという突然変異のような肉体の変化は、言いようもない不安をカケルに齎していた。今のカケルは、すごく不安定で異質な存在で、自分の在り方を無理矢理こじつけて定着させるために、がむしゃらになって突っ走る事で、大事な何かを忘れようとしていた。その思いは今の自分自身の在り方に自信を持てない事に繋がっていて、自分の心に嘘を吐いて、ごまかして、走り続けなければと暗示をかけ続けていた。
 そうしないと、今のどうにもならない状況に負けてしまいそうで、泣いてしまいそうで、誰の声を信じて良いのかわからなくて。ほんの少し前まで人間だった一人の少年に、ポケモンとしての一生を生きるための覚悟など、到底出来なくて。気が付けば、今の自分を受け入れているようで、その現実から逃げるように、消えてしまいそうな自我を守ろうと、“正義のヒーロー”としての今に必死に縋って生きる事に執着していた。
「おれ、わからないんだ。正義のヒーローに憧れて、頑張らなくちゃって思ってた。だけど、おれ、本当に今、自分が望んでいる自分になれてるのかってわからなくて。自分の心の声すら、正しいかわからなくて。自分らしさってなんだろうって思い始めてさ。……ごめん、かっこ悪い弱音ばっか吐いて」
「ボクを信頼してるからこそ、かっこ悪いって思ってる弱音を吐いてくれてるんでしょ。だったら、カケルが謝る事なんか何もない。むしろ、カケルがそう思ってくれる存在にボクがなれたんだって事が誇らしいくらいなんだからさ。ボクだってずっと、ポケモンとして言葉が通じないのをもどかしく思ってて、どうやったらカケルのためになれるんだろうって思ってたんだからさ」
「……バカ言えよ。お前はいつだって、おれにとって最高の相棒だったじゃんか」
「そういうのは、ちゃんと面と向かって言われないと、本人には伝わらないものなんだよ。でも、うん、ありがと。こうして改めて言ってもらえると、嬉しいよ。ボクだって、君が思うほど完璧な存在じゃないわけだし」
「――って、ボクの事はさておき。カケルが自分らしさを失うって事だけどさ。大きくなると成長するとか、そういうのってたぶん何かを得る事ばかりじゃないと思うんだ。時には何かを失ったり捨てたりして、それでもその喪失感を乗り越える事で、次の段階に進める事だってある。少なくともボクはそう思うよ」
「何かを失う事が成長、なのか? だったらおれ、成長するのが怖い。ずっと、大人になんかなりたくない。もし人間に戻ったら、今みたいなソラとの繋がりを失ってしまうような気がして……いっそこのまま変わらず、ポケモンのままでも――」
「カケル! そんなの、君は――」
「ああ、うん。わかってる。ちゃんと人間に戻りたいって思ってるし、これからもそのために動くのは変わんねーよ。ただ、おれ、わからないんだ。どうしたいのか、どうしたら良いのか。自分を取り巻く世界が、望む世界が、知らない何かに変わるのが怖くてさ。その内の一つでも変わろうとした時、何があろうと自分はどうなっても構わねーんだけど、自分以外の何かを失うのが怖いんだなって、ふと思っちゃってさ」
 時々口を突いて出る、自身を顧みないカケルの考え方。彼自身の在り方という根幹に繋がるその思考は危ういのだと、ソラは釘を刺したくなる。一方で、カケルの本質をわかっている以上、それを頭ごなしに否定する事もしたくない。僅かばかりの葛藤の後に、カケルの意思を尊重する事を選んだソラは、出かけた言葉を喉元でぐっと堪える。
「大丈夫。カケルならきっと、君が正しいと思った道を歩めるはず。その体にこの先の進化は望めなくても、心の進化という意味での成長は出来るから。大丈夫。これから先もボクが手を握って、一緒に歩んでいくから」
「本当にそう思うか? おれも、そうなれたら良いなと思うんだけど……ありがと」
 優しくて温かいソラの手が、不安で冷たくなっていた少年の手に重なる。ほんの少しだけ、白も黒も混ぜこぜになっていた少年の心に、光が戻った。それが、自分に自信のない少年の成長を促す一助になればと思い、ソラはそれ以上告げる事なく微笑んで見せる。
 一方のカケルはと言えば、未だ釈然としない事があるようで。苦笑交じりにはにかんだところで、遠慮気味に視線を落とした。
「あと、大人になるのが嫌ってのは、褒められる事がなくなるのが怖いってのがあってさ」
「どうしてそう思うの?」
「だってさ、大人って何でも出来て当たり前だろ? そうしたら、ソラに褒められる事もなくなっちゃうのかなあって思って……」
 カケルの視線がソラを捉えなくなる。決してやましい気持ちがあるわけではない。おずおずとして、半ば気恥ずかしそうに視線を逸らす様子は、あまりにも子供っぽくて。波動を感じなくても、その言葉に全てが表れている。本心では甘えたがりなカケルの思いの表出に、ソラは一瞬素直さに対して呆気に取られるものの、すぐにくすりと笑って見せた。
「なーんだ、そんな事か」
「そんな事って言うなよぉ! そんで笑うなったら!」
「ごめんごめん。発想が可愛いなって思ってさ。でも、大丈夫。カケルが大人になろうと、お爺ちゃんになろうと、ボクはいつだって君の事を褒めてあげる。君はどこか大人というものを崇高なものと見てるかもしれないけど、大人になったって、なんでもかんでも当たり前に出来るわけじゃないんだ。君のお母さんだって、普段は美味しい料理を作るけど、たまには失敗したりもするでしょ?」
「そりゃ、まあな。けど、いつもありがとうって、おいしいよって、ちゃんと残さず食べるようにはしてるけどな。今はもう、その言葉も交わせないけど」
 カケルはふとした折に寂しそうな色を見せる。ポケモンの姿である事を受け入れ、ソラと一緒に戦える事が嬉しいという気持ちに嘘はない。その一方で、同じくらい人間に戻る――延いては元の生活に戻る事への願望も捨てきれていないのも事実。以前のように母親と言葉を交わせないもどかしさは、ポケモンとなった自分の存在を認知されて相応に優しく受け入れてもらってもなお、埋まる溝ではない。カケルがぽつりと放った一言に、普段はおくびに出さない本心が見え隠れしている気がして、ソラは胸を締め付けられる。
 だからこそ、今は母親や人間の友人の代わりとは行かないまでも、カケルの心を満たさねばとソラは思っていた。根底にある想いは、カケルがどんな姿になっても変わらない。
「嫌な思いを連想させたならごめんね。でも、言いたかった事はそっちじゃなくて。要は、誰だって何でも当たり前に出来るわけじゃない。ついつい忘れがちになっちゃうんだけど、何かを出来る、それ自体がすごいんだ。だからボクくらい、カケルを甘やかしたって別に良いかなって思っててさ」
「甘やかすってそれ、本気で褒めてるのとは違わねーか!? それはそれで傷つくんだけど!」
「そういうんじゃないって。ボクはカケルの良いところをいっぱい知ってるし、頑張ってるところもいっぱい見てる。だから、いつだってその努力をボクは褒めてあげる事は出来る。カケルだって、バトルを頑張ったボクをこれまでずっと、たくさん褒めてくれたじゃない。いつも使ってる技は同じでも、その度にすごいって言ってくれたでしょ? 今度はボクの番ってだけだよ」
「そりゃあ、ソラはいつだって強かったし、頼れるし、かっこよかったしで、自分の目の前で活躍してくれるのが嬉しくて――あっ」
「わかった? ボクも君が輝いているところを見るのが好きなんだ。嬉しいんだ。その頑張ろうとする姿勢が良いんだ。だから、ボクはこれからもカケルを褒めていくからね」
「ありがとな。まあ、いつまでもこの姿だったらずっと大人にならないかもしれないけど、これからも褒めてくれると嬉しいな」
「うん、素直でよろしい」
 ソラが伸ばした手を、カケルはそっと目を閉じて受け入れる。頭と一緒に大きな耳を撫でられて、カケルはこそばゆそうにしながらも笑みで感情を示していた。どこか蕩けたような顔を見れば、もはや言葉など不要だった。
 ソラに褒められたくて、認められたい一心で、少年は背伸びを繰り返す。その全てを相棒は受け入れる。受け入れて、優しく包み込む。そうする事で、カケルという少年は、自分らしく振舞う事が出来た。本当の心を曝け出して、年相応の子供に戻る事が出来た。
 きっとそれは、反抗心と甘えたい思いが交錯する年頃に、甘えられる対象がいない事の反動。本人は自覚していないかもしれないが、少なくともたった一人で大人ぶっていられるほど、カケルは精神的に老成してはいない。ソラという存在がいるからこそ、カケルは強くいられる。いようと努力出来る。その努力を認めて褒めてくれる事で、カケルは前を向いて輝く事が出来るのだ。
 主人とポケモンと言う間柄では絶対に辿り着く事の出来なかった領域に、カケルとソラは足を踏み入れていた。それが決して良い事ばかりではない。主にカケルのこれからに関しては、不安や暗雲が立ち込めるばかり。それでもきっと、未来は暗くないと思えるのは、互いが傍にいるという安心感があるから。甘えても良いのだと、そう思わせてくれるから。
 温もりと心地良さに身を委ね、カケルはうとうととし始める。周りの目も、気後れも気にすることなく、一心にソラの優しさを受け止める。耳に届くのは、そよ風が草を揺らす音だけ。この感覚に溺れてしまいたいとさえ思う。休憩と言う体の、一時の日向ぼっこ。静穏な時が流れる中、その静けさを破ったのは、他でもないカケルの腹の虫が鳴った音だった。
「お腹空いたな。見回りしながら、そろそろ家に帰ろうぜ?」
「それには賛成。たくさん特訓したから、きっと体も休息と栄養を求めてるんだろうしね」
「心の方は、ソラに満たしてもらったから十分だけどな。ありがとな。って、自分で言ってて何だか恥ずかしいな、これ」
「どういたしまして。カケルが素直な分には、どんな言葉だろうとボクは大歓迎だから、気にしない気にしない」
 空き地を離れ、二匹は帰路に着く。その道中に見せるカケルの表情は、偽りの色に彩られた先程までと比べて幾分か柔らかくなった。ほんの少しだけ、自分の中の重荷が取れたようで。だが、カケルの心の奥底に根付く、「ソラの足を引っ張る事への恐怖」という核心に至ってはいない。陰りのある面持ちは、完全に明るくなったとは言い難かった。
 ソラが波動で機微を読めるとは言え、テレパシーを始めとする超能力のように心の内を見透かす力ではない。否、仮にその力があったとして、本心まで覗き見る事が出来たとして、ソラはそれは望まない。あくまでカケル自身の口で、意志で、打ち明けたい時に打ち明けて欲しいと願う。今だけ与えられる安らぎが一時的なものであろうとも、ソラとしてはカケルがいつか本音を吐露する一助になればとの思いだった。それがカケルに届く日は、遠いのかもしれないし、近いのかもしれない。
(おれは、本当の意味で強くなれるんだろうか。ずっとかっこいいと憧れた、ソラと並んで立てるような自分に、いつかなれるんだろうか)
 これはまだ、変わるきっかけを与えられた少年が、自分と向き合うための箸休め――間奏のお話に過ぎないのだから――。

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