episode1.不安

しおりを挟みました
しおりが挟まっています。続きから読む場合はクリックしてください
読了時間目安:13分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 今まで幾度か同じ不安を感じた経験があるなら、もう慣れっこになるのが普通かもしれないが、しかしこの突如として心臓が身を擦り体が硬直する感覚は、いつまでたっても慣れることはなかった。例え事前にいかなる腹構えを周到に行ったとしても、眼前の事象は自分の予想を超える恐怖を与えてくる。
 後尻から海水を噴射して勢い良く前進。顎を開け真っ赤な舌を見せびらかし、口の中に潜む凶器をギラリと光らせる。その凶器で私の皮膚を無残に噛みちぎろうとしている。
オシャマリである私の天敵であるサメハダー。自分に恐怖と不安を与えてくる存在。
 冷凍ビームを放ち、水を掻く前足の動きを停止させようとしてくる他、アクアジェットを休み休み使って距離を縮めようとしてくるから厄介だ。冷凍ビームが右腕を掠め、近くのサンゴに命中する。冷凍ビームは水中でも対象を長時間氷に閉じ込める。サンゴは見事にガチガチに凍りついており、私の体もああなっていたかもしれないと思うと、不安や恐怖はいよいよ頂点にまで達してしまう。 
 捕食されてたまるものか。私は必死に泳ぎ続ける。オシャマリは四肢がヒレのようになっており、水中を泳ぐのに好都合な体となっているため、それなりのスピードを出すことができる。前足を大きく前後に動かして全身し、後ろ足を曲げて船の如く舵を取る。カーブしたり障害物を避けたりするのは得意だ。
 一方でサメハダーは、オシャマリよりも更に素早く、まるでジェット機のように海の中を突き進むことが可能だ。ではいずれ追いつかれるのでは? と思うかもしれないが、サメハダーには長い距離を泳げないという泣き所がある。諦めず逃げ続ければ、助かる見込みはあるはずだ。
 思惑通りサメハダーは徐々に減速していった。一時は彼の目が充血しているのが分かるぐらい距離が縮まっていたのに、今振り返ったら彼の目はもう体の模様の一部に見える。噴射している海水の勢いも明らかに落ちていた。冷凍ビームもこの距離なら届くことはないだろう。
 ひとまず、絶体絶命という四字熟語が似つかわしい状況からは、脱退できたようだった。
 しかし精神的な面において本当に辛いのは、ここからである。
 今までは「最悪食べられても仕方がない」という、ある種の開き直りにも近い感情でもって精神の安定を多少なりとも図ることができたが、ここからは「絶対に逃げ切らないといけない」という脅迫的な感情が自分を殴り倒してくる。最大の敵は自分自身とは、よく言ったものだ。自分から発せられるプレッシャーは、他者から発せられるものに比べて圧倒的に質量があるから、押し潰されて動けなくならないように注意しなければならない。


 凶悪なサメハダーに襲われてから数分後、私は巨大な岩陰に身を隠していた。
 自分から発せられるプレッシャーに打ち勝つという最後の難関を、私は無事突破できた。
 今もなお続く不安の余韻を鬱陶しく思いつつ、カンスト寸前まで跳ね上がった心拍数を、なんとか減少させようと試みていた。
 心臓のバクバクが少し収まってきた所で、自分が今までに経験したことがないほど空腹なことに気がついた。空腹の要因はあれだけの運動量とプレッシャーによるものだろう。加えて私は、一昨日から何も食べ物を得られていないのだ。
 表情を強張らせつつ岩陰から顔を出してみる。
しばらく間を置いて二匹のヨワシがこっちへ泳いできた。私は密かに不敵な笑みを浮かべた。アシカポケモンの『オシャマリ』である私にとって、小魚は当然美味しく頂けるものである。そんな大好物な獲物が私の存在に気が付かず自ら近寄ってくるのだから、やるべきことはたった一つだけだった。
 食べられる側だった自分は、数分後には食べる側へ。 
 違和感を、欠片も抱かず一回転。
 突如岩陰から水色の怪獣がガオーと襲いかかる。二匹のヨワシは束の間青ざめ、正反対の方角に逃亡する。二兎を追う者は一兎をも得ず。誰もが知っている諺が脳裏によぎった自分は、左側に逃げた方のヨワシのみ集中して追いかけた。
 ヨワシは特段素早くないが如何せん小さいので捕らえにくい。捕まえ損ねた以前の記憶が、さり気なく胸中をかすめた。
 だが今回は運が巡り合わせた。ヨワシが逃げた先は海岸という行き止まり。狼狽している隙に私は獲物を海岸に叩きつけた。
 その仔はなんとか抜け出そうと藻掻いていたが、あまりにも非力で全く私を手こずらせない。挙げ句心が折れてしまったようで、もうプルプルとも体を動かさなくなった。  
 その瞬間を心待ちにしていた私は、再度不敵な笑みを浮かべてみせる。
 この世界には食物連鎖という、誰もが避けては通れない普遍の摂理が存在し、自分もその摂理に則って日々を生きている。それは残酷的ではなく至極当たり前の摂理である。と、思っている風に装う必要があった。
 自分は他者から、「こいつは甘ちゃんだ」等と指差しで嘲笑われたくはない。更にそれ以上に、自分で自分を甘ちゃんだと思いたくない。だから、誰かの命を奪って食べてしまう行為が残酷だとは微塵も思っていない、という様子を、己の記憶に焼き付ける必要があった。
 それだけのために私は、ここで不敵な笑みを浮かべる。冷酷な捕食者を演じてみせる。
 これから私は、ヨワシの息の根を止める。ヨワシの急所はお腹周りなので、その辺りを中心に私は『往復ビンタ』をお見舞いした。
 攻撃を開始した瞬間再びヨワシは藻掻く。私は獲物を壁にめり込ませるつもりできつく固定した。痛くて苦しくて怖いだろうけど、なるべく早く済ませるから我慢して欲しい。
 幾度か往復ビンタを繰り返すとヨワシは 『ひんし』の状態になった。気絶していることを示すように目は閉じられている。急所を狙い撃ちしているのに結構時間を費やしてしまった。
『ひんし』になったヨワシに私は更なる暴力を加える。もう気絶して暴れてこないのでここからは比較的楽ではある。私の左手がそろそろ疲労を貯め始めた所でヨワシは『瀕死』になった。
『瀕死』のヨワシを『死亡』させるまで後少し攻撃を続ける。
 そしてようやく小さな命は幕を閉じたようだ。


 還らぬ存在となったヨワシを見て、私は多少なりとも罪悪感を覚えた。あれだけ食物連鎖は残酷でもなんでもなく当たり前のことであると強がっていても、やはり私は本質的に甘ちゃんであるため、生き物を殺すとき悪く思ってしまう。私はこの世界で生きていくのに向いてないのかもしれない。
 先程使用していた往復ビンタだけど、決して獲物を仕留めるのに最適な技ではない。本来はもっと痛みを感じる時間を短くしてあげたい。けれど水系の技だと余計なぶることになるし、現状の私のスキルではこれしかない。HPが満タンの状態からいきなり『死亡』に向かわせるような大技を習得したいけど、果たしてそんな技はあるのだろうか。
(いただきます……)
 もうヨワシには聞こえてないが、目を閉じてそう感謝の意を唱えた。頭から食べるのは気が引けてしまうのでヨワシの尻尾から口を付ける。ゆっくりと身を歯で引き剥がしていく。
(……)
 私は淡々と咀嚼を繰り返す。
(…………)
 私の脳内には、違和感が駆け巡っていた。
(あれ……おかしいな……)
 自分にとってそれは、あまりにも意外なことだった。
(期待したほど、ヨワシがおいしいとは感じない……)
 いや、決して、不味い訳ではない。あくまで『期待したほどではない』というレベルの話だ。
 現状自分は頗る疲労し、なおかつ絶頂の空腹状態。この状態ならもっとおいしく感じる。そう思っていた。舌がとろけるような思いをしても良いし、(なんだか滑稽な表現だけど)ほっぺたが落ちたって変ではない。
 期待を上回らなかったのは何かしらの理由がある。私は胸中で理由をひたすら探究した。
 なんともおぼろげなままだが、答えを一つ引きずり出せた。
 恐らく核となる原因は、『意識の分散』だ。
 自分は今、ヨワシの味や食感その他もろもろに意識を集中させることができていない。
 自分は今しがたサメハダーに命を狙われ、間一髪で逃げ出したばかりの身だ。実は自分はずっと『不安』に思っていることがある。不意にあのサメハダーが現れたら恐ろしい、と。今このときこの瞬間岩陰に隠れていて、タイミングを見計らって水色の怪獣がガオーと襲いかかってくる。その可能生は限りなく低いけれど決してゼロではない。
 というよりか、別にあのサメハダーのみが脅威なのではなくて、私をおいしい食べ物だと思っている者はいくらかこの海には存在する。私はそれら全てに対し、『不安』のアンテナを立て、日常を過ごしている間ずっと警戒し続けている。
 もちろんヨワシのように「右を見ても左を見ても天敵だらけ」という、絶望的過ぎる状況ではない。ヨワシよりオシャマリは天敵の個体数は遥かに少なく、命を狙われるのは毎日という訳では決してない。何しろ中進化のポケモンなのだ。だから私は、ヨワシよりも恵まれている存在だ。
 いやしかし、それもどうなのだろう。
 ヨワシのように毎日狙われ続けていれば、もはや死の淵に立つことさえ完全に日常の一部として溶け込んでしまうのでは? むしろ慣れっこになって気が楽なのでは?   
 だとすれば、私ぐらいの境遇が最も辛いのかもしれない。
 長々と語ってしまったけれど、詰まる所こうだ。
 私には『不安』が数多く纏わり付いていて、そっちに意識が拡散されてしまう。だから眼の前にあるご馳走の味に意識を集中できず、結果心の底からおいしいとは感じない。
 心からおいしいと感じるにはまず、幾多の『不安』を片付けていく必要がある。不安を片付けるにはどうする? 
 天敵から狙われなければ良い。天敵に狙われる心配がなければ、もっとおいしく食べられる。舌は液状と化すぐらいまでとろけて、ほっぺたは連続で落ち続けることだろう。
 けれど、自分は天敵から狙われないくせに、自分は獲物を狩ることができるなんて、そんな虫の良い話がある訳ない。あったとしてもそれは、自然の摂理に対する反逆と言うべきものだ。


 水流に従って流れていく骨だけになったヨワシを私はぼんやりと見つめていた。期待したほどおいしくなかったことが引き金となり、何もかも空虚だと感じるようになってしまう。
(私はいつまで、こんな毎日を繰り返すの?)
 家族と友達。みんな逸れるか食べられるかしてしまった。独りぼっちの私は、もう楽しいことが一切ない。ごはんもおいしいと感じない。
 では、なんのために生きているのだろう?
 今の私は死ぬときまで暇潰しをしているだけだ。いや、暇を潰せてすらいない。日々『不安』を抱えながら、時間が過ぎ去るのを待っているだけだ。
 これでは自分の命を繋ぐために犠牲になってもらったヨワシにも、申し訳ない。ただでさえおいしくないと感じて凄く失礼なのに。私が生き続けるよりも、あのヨワシが生き続けた方が、この世の生物の総合幸福量が増えたのではないだろうか。
(あっ……)
 ここでふと、私のお母さんが言っていたことを思い出す。アシレーヌだったお母さんは、私に対して何度も強めの口調でこんなことを話していた。
「良く聞いて。赤と白のボールを持っている人間がいたら、四の五の考えず近づきなさい。ゲットして貰っちゃいなさい。人間に守られるようになればもう安全だから。食べられちゃうことなんてないし、食事の心配だってしなくて良くなるの! ゲットして貰う人間は誰でもいいから。旅してるトレーナーさんでも良いし、普通に家で生活している人でも大丈夫。とにかく人間を見つけたら手当たり次第近づいて。海の中で暮らすよりも遥かに安全だから。選り好みはしないこと! うん、本当そう、とにかく誰でもいいから」
(そうだ、そういう選択肢もあったんだ……!)
 野生であることのメリットなんてもはや皆無だ。自分でご飯を調達し、ワイルドに生きることに魅力を感じない。私が捕まった所でもう誰も悲しまない。
 食物連鎖の『不安』から逃れるためにはどうすれば良いか。
 これに対するアンサーは、至極単純だった。
 私は今日この日、今後の自分の進路を完全に決定させた。
 野生で生きることを止め、人のポケモンになるのだ。

読了報告

 この作品を読了した記録ができるとともに、作者に読了したことを匿名で伝えます。

 ログインすると読了報告できます。

感想フォーム

 ログインすると感想を書くことができます。

感想