2話 私、記憶が消えてるみたいです

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

  ○

「イーブイ、何があったのか、教えてもらえるかい?」
 その言葉を境に、イブの表情も一気に固くなる。僕はもしかして、イブはまだ、話していいかどうかを決めかねているんじゃないかと思い、ひとつ伝えた。
「大丈夫だよ、ママは警察だから。イブが困ってること、きっと助けてくれるよ」
「えっ、け、警察なんですか?!」
「ああ、言ってなかったね。確かにあたしは警察だよ。手帳もほら、ちゃんとある」
 そう言ってママはポケットから警察手帳を取り出す。それをしまうと、ママは再びイブに向き直った。
「少なくとも、傷害事件の解決のためにも、あんたは話した方がいい」
「……ですよね、ごめんなさい、疑っちゃって……あれ?」
「どうしたの、イブ」
「……言いたくない、のはわかるんだけど、なんでだろ、何を言いたくないのか、わからない……」
「まだとぼけるの?!」
 思わず避難の視線を向けた僕に、しかしイブは首を横に振る。
「違うの。なんというか……記憶が、曖昧というか」
「どういうことだい?」
「厳密に言うと少し違うのかもしれないですけど……私、記憶が消えてるみたいです」
 これには、僕たちともに、唖然した。
「ナマエとか、友達のこととかは覚えてるのに?」
 僕の問いかけに、イブもイブで首を捻る。
「覚えてることもあって、だけど忘れてることもあって……なんだか、不思議な感じで」
「じゃあ」とママが遮る。
「帰る場所も、もしかしたら覚えてないのかい?」
 イブは、おそるおそる頷く。僕はママを見上げた。ママは少し考えるような表情を浮かべ、それから言った。
「わかった。ならイーブイ、イブって呼べばいいのかい? あんたは思い出すまで、うちに居ればいいよ」
「えっ、い、いいんですか?!」
「困ってる市民のために働くのは、あたしたち警察の仕事だからね」
 そう言ってママは、ニコリと笑ってみせた。イブの目はもはや潤んでいて、「本当に、ありがとうございます」と涙混じりにお礼を言っていた。
「大丈夫。その代わりと言ってはなんだけど……言いたくない秘密だろうと、捜査のためには話してもらわないといけなくなるかもしれない。思い出すための努力はしてもらうことになるよ。いいかい?」
「……それしか、できませんからね。わかりました」
 不意に、僕の胸に鋭い痛みが襲ったような、気がした。けれど、その正体は全く掴めないまま消えていく。代わりに僕の胸を満たしたのは、ある事実だった。
「それじゃ、イブがこの家に住むってこと?!」
「そうなるね。それから学校も。見たところリオルと同い年だし、学校には行かなきゃね」
「ホントに?! やったー! よろしくねイブ!」
「うん、よろしく」
 僕の差し出した手に、イブがそっと前脚を重ねた。
「明日辺りにでも、校長先生に掛け合っておくよ」
「わかりました、ありがとうございます――」
「それから!」
 ママを呼ぼうとしたイブを、ママが遮る。
「この家で過ごしている間は、あたしのことをママとかお母さんとか、そういう風に呼んでもらうよ」
 イブが首を傾げる。ママはお腹に手を当てて、悲しげに、けれど笑って言う。
「あたし、前に子どもをなくしてるんだ。警官なんかやってると、危険に巻き込むことも多くてね。だから……これは、あたしの覚悟を揺るがせないためさ」
 イブが黙り込む。ママは自らの頬をパンと張った。
「さ、暗い顔しなさんな。もう失敗はしないよ。あんたのことは、リオルが護ってくれるさ」
 唐突に話の矛先が僕を向いて、僕はほえっと間の抜けた声をあげてしまう。ママはニヤリと笑った。
「油断大敵、だよ。これが戦いだったら、こんな風に笑うだけじゃ済まないんだからね」
「……戦いの時は油断しないよぉ」
「実は、この子は毎朝特訓してるんだ。あたしが毎日見てあげられればいいけど、そうもいかないからね。たまに付き合いはするけど、基本的にはあたしの決めたメニューをこなしてる」
「そうなんだ、凄いねリオル」
「まあね! 凄いでしょ!」
「調子に乗るんじゃないよ」とママは僕の頭を軽く叩いた。僕はてへっと舌を出してみせる。
「それじゃ僕、お風呂沸かして来るね!」
「じゃあ、私もお皿洗いを手伝います」
「お、ありがとうね。さてと、あたしはイブの布団を用意しますか」
 そう言って、僕たちはみんな立ち上がり、別々な方向へと歩いて行った。

「え、い、一緒に……?」
「うん、嫌なの?」
「嫌……って程のことはないけど……」
「ならいいじゃんいいじゃん、一緒に入ろうよ、お風呂」
「まあ、いいけど……」
「決まりね! こっちだよ!」
 お風呂が沸いて、僕はイブを誘って一緒に入ることにした。イブもとたとたと付いて来る。お湯で火を消して、僕はそのまま飛び込んだ。
「えっ、あ、熱くない……?」
「大丈夫だよ。まあ、氷タイプにはキツイかもしれないけど、イーブイだったらノーマルだし」
「まあ、それはそうなんだけど」
 イブは「へえ……かまどに湯船が乗ってる感じか……」と呟きながら、前脚で水をつついた。
「あ、確かに……熱いけど、大丈夫かもしれない」
 もう少しイブは前脚を深く突っ込む。それから意を決したのか、湯船にそのまま入り込んだ。
「ふぅ……確かに、気持ちいいね」
「でしょ! ……なんで顔背けてるの?」
「だって、リオル♂でしょ? は、恥ずかしくないの?」
「恥ずかしい……? なんで?」
「……もういい。知らない」
 イブがそっぽを向いたからだろうか、なぜだか凄く、悲しかった。
「ごめんごめん、そんなに嫌だとは思わなくって」
「まあ、いいけどさ」
 首元のもふもふが水で濡れて小さくなっている。イブはその首の毛を掴み、何やらいじっていた。絞って、水を出している。
「……でも、恥ずかしいって?」
「わからなくていいよ、大丈夫。ごめん、私もちょっときつかったかも」
「まあ……でも大丈夫だよ! 僕はバカだけど強いから!」
 えっへんと胸を張る。イブが小さく笑い、すぐにその笑いは大きくなった。
「ううん、リオルはバカなんかじゃないよ。カンだけど」
「えっ、あ、ありがとう……?」
「そろそろ熱いや、私はあがるね」
 そう言ってイブは湯船から出て、体を震わせた。水を飛ばすためのその動作はしかし、あまりにも下手だった。
「違う違う、もっと早く!」
「えっと……こうかな」
 イブはさっきよりかは上手く水を飛ばす。けれどまだまだ、もふもふは小さいままだ。
「アハハ! もう直接拭いた方が早いんじゃない?」
「だね……そうしよう。タオルは?」
「出て右側だよ」
「ありがとう。それじゃ、お先にね」
 イブが出てからしばらくして、僕もお風呂からあがる。イブはもう体を拭き終えたらしく、既にそこにはいなかった。僕はある程度体を震わせ水気を飛ばし、それからタオルで残りを拭き取る。イブが使ったタオルは、ぐっしょりと濡れて洗濯かごに入れてあった。それを軽く浴室で絞ると、僕はふたつのタオルをかごに入れる。
「ママ、あがったよ」
「ほーい。それじゃ、あたしも入って来るか。リオル、布団は用意しといたから早く寝ちゃいなさい」
「うん……ってあっ! 宿題やってない! どうしよー……」
「て、手伝おうか?」
 イブの声に、僕は飛びついた。
「いいのっ?!」
「もちろん、そのぐらいはさせてよ」
「ありがとうっ!」
「ふふ、いい先生ができたみたいでよかったじゃないか。イブ、よろしくね」
「はい……っと、そうだ、お母さん」
「よろしい」
 ママはニコリと笑って、イブの頭を強く撫でる。それからお風呂に向かった。
「お母さん、じゃないと駄目なんだよね。危ない危ない」
「ママとかでもいいんだよ」
「お母さんでお願い」

 さっきまでイブを寝かせていた僕の部屋に入ると、僕はかばんから宿題を取り出す。机に広げてしばらく眺める。そして僕は……そのまま突っ伏して……
「リオル、起きて」
「はっ! ……もう、わかんないよー! なんで5×4が20になるの!」
「それはもう覚えた方がいいんだけど……とりあえず、リンゴ5個を、4人が持って来たとして、合計リンゴは何個?」
「えっと……5+5+5+5……10、15……20個!」
「正解。それが5×4ってこと」
「……へ?」
「5を4つ集めたら20になるって意味よ」
「えっと、えっと……」
「まあ、意味がわかれば掛け算は覚えた方がいいよ」
「むぅ……」
 5×○っていう計算をイブに教わりながら続け、なんとか埋め終わる。
「イブ、学校行かなくていいんじゃない?」
「いや、そういう問題じゃないからね……ふああっ、もう眠くなって来ちゃったや。おやすみ……」
 そう言ってイブは、少しだけ歩いて布団に倒れ込む。その瞬間、もう寝息が聞こえて来た。はっとする。そりゃそうだ、イブは今日、すっごく疲れているはずだ。
「おやすみ」
 僕も小さく呟くと、電気を消して、布団に入った。なんだか僕まで疲れが噴き出して来て、夢も見ないで朝までぐっすりだった。

 翌朝目を覚ますと、そこにイブの姿はなかった。もう起きたのか、早いな……と思ったところで、ママの怒声が響いた。
「リオル起きな! もう朝の特訓の時間もないよ!」
「ごめーん、今起きた!」
 僕は慌ててリビングに飛び出す。イブはやはりそこにいた。
「あ、おはようリオル。朝ごはんできたよ」
「え、イブが作ったの?」
「いやいや、手伝いだけだよ。あの味は私じゃ勝てないや」
「リオル喋ってないで朝の用意を済ませな!」
「あっ、はーい!」
 かばんに教科書を詰め込んで、僕はママたちの手伝いにかかった。2匹して盛り付けたお皿をテーブルに持って行く。その間、僕はお皿の上のごはんをまじまじと眺める。
 上手いね、見た目。少なくとも盛り付けが違うと、元の色はともかく、雰囲気は違う。いつもはぐちゃぐちゃにまとまりなく盛り付けられているサラダが今日は綺麗にまとまっていたり、違いは数えきれないぐらいある。これだけでいつもよりおいしそうだった。いや、普段から味は絶品なのだけれど。思わず「凄い」と呟いた。イブが自慢げに笑う。
 いつものように絶品朝ごはんを食べていると、ママがいきなり「今日の予定について話すよ」と僕たちに言った。
「とりあえず、リオルはいつも通り学校に行くこと。イブは今日は、あたしと一緒に来てもらうよ。そこからはいろいろ面倒だけど、言われた通りにやってればなんとかなるから」
「はい」
「はーい!」
「さ、わかったならちゃっちゃとする!」
「いや、もう食べ終わった」
「え、リオル速くない?」
「いつものことだよ?」
 ママが小さく笑った。僕たちは揃ってそっちを見る。
「あんたたち、最初と比べて随分打ち解けたじゃない」
 今度はお互いに見合わせ、それから小さく笑った。
「リオルが話しやすいお陰だよ、ありがと」
「どういたしまして! 僕もイブと話して楽しいよ!」
「さて、後20分だよ」
「あっ」
 イブが慌てて食事に戻る。でも今日急がないといけないのは僕だけだ。僕も歯を磨いたり寝癖を整えたりを急いで済ませ、かばんを持ち、「行って来ます!」と叫んで家を飛び出す。送り出す声も聞こえない間に扉は閉ざされた。時間的には全然大丈夫だ。間に合った。

 木の実屋のおじさんたちに挨拶しながら僕は道を歩く。2匹の友達、シシコとミミロルもいつも通り道中で合流し、そしていつも通りおしゃべりを始めた。もちろん僕が話すのはイブのことだ。
「え、マジ?! なら俺らの学年に転校生が来るってことか?!」
「そうなるね」
「そうなんだ。で、性別はどっち?」
 ミミロルの問いに、僕は「♀だよ」と答える。
「イブっていうナマエがあってね」
「ナマエ?」
 2匹の声が揃う。うん、と僕は昨日イブがしてくれた説明を繰り返す。シシコが「すげー、便利だな!」と唸る。
「ナマエかぁ……要するにニックネームみたいなもの?」
「え? まあ言われてみれば確かに……」
「でもなんか違うような気がするんだよなぁ、僕」
「何が?」
 ミミロルの問いにはけれど、首を傾げることしかできなかった。何が違うのか、帰ったらイブに聞いてみよう。
「ったく、ミミロルさあ、そんないちいち固いこと考えるなよ」
「ごめんごめん」
 ミミロルは笑いながらシシコに返す。そんなやり取りをしているうちに、僕らは学校に辿り着いていた。

 学校でももちろんイブの話題で持ち切りだった。ある1匹のポケモンを除いて……。

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