交わる瞬間は。重なる瞬間は。
すぐそこまで来ていて。
足音が、聞こえる。
*
「それでは、お預かり致します」
赤ふちめがねの奥で、灰白色の瞳が優しく笑んだ。
白桃色の髪が優しげな印象を与える。
この小さな街のポケモンセンターの医者だそうだ。
通称、スマートなお姉さん。
名前は知らない。
そうとしか答えてもらえなかった。
でも、るいとしてはしっかりと治療をしてくれるのならば。
それで構わなかったから、別段、気にすることもなかった。
「大した怪我じゃないんですけど、りんのすけのことお願いします」
そう言って、お姉さんへレントラー入りのモンスターボールを手渡す。
受付カウンターの影。るいの足元で、グレイシアはきょろりと辺りを見渡していた。
耳がそよぐ。
不意に顔を上げれば、受付カウンターから顔を覗かせるお姉さんと目が合う。
めがねの奥で灰白が瞬いた。
グレイシアが小首を傾げる。
「どうかしました?」
るいの声が降ってきたので、グレイシアは顔をそちらへ向ける。
不思議そうにお姉さんを見やるるいに。
「あ、ううん。何でもありません。ごめんなさいね」
お姉さんは曖昧に笑った。
そして。じゃあ、治療が終わったら呼びますね。
と言って、モンスターボールを助手であるパピナスに預けた。
ハピナスが奥へと消えて行く。
それから再度お姉さんを見るも、お姉さんはにこりと笑むだけで。
首を傾げながらロビーへと戻ったるいは、長椅子へ座ると伸びを一つした。
「うーん……。待ってる間何しようか?」
視線を落として問いかける。
が。ふわあとあくびを一つしたグレイシアは、重ねた前足に頭を乗せて丸まっていた。
「あ、そう。オッケー」
勝手にしていなさいってことですか。
そうですか。はいはい。
ちえっと口を尖らせながら、意味もなく足をぶらぶらとさせる。
暇だなあ。そう思う。
ところで。ぶらつかせていた足を止めた。
お姉さんのあの反応はなんだったのだろうか。
もう夢の世界へと旅立ったグレイシアをもう一度見やる。
彼女を見て、一瞬動きを止めた。
考えても答えなど出ない。出ないけれども。
それが何だかひどく気になった。
その時だった。視界の端で金が煌めいたのは。
目線を上げれば、ちょうど外から人が入ってきたところで。
金の髪を持った、きれいな人だった。
少し急いた様子で受付へと向かって。
そのままお姉さんが、奥へと案内していったのを見た。
◇ ◆ ◇
かっかっ、と二つの足音が廊下に響く。
「結果から言うと、健康状態では全く問題ないわよ」
と、受付から奥へ通すなり、お姉さんは紙をつばさへ差し出した。
その間も両者の歩みは止まらない。
それを受け取り、ざっと目を通すつばさ。
確かにお姉さんの言葉の通りだ。
ある意味予想通りだったので、やっぱりかという気持ちの方が大きかった。
手持ち達の健康管理には自負がある。
食べて寝るは普段通りの彼だから、おそらく健康面では問題ないと思っていた。
そこまで思って、つばさは眉をひそめた。
お姉さんの言葉に引っ掛かりを覚えたのだ。
「ん?健康状態ではって……?」
つばさの問いかけに、お姉さんの歩みが止まる。
ちょうど一つの扉の前へたどり着いたところだった。
幾つも存在する診察室の一つ。
そこへお姉さんが手をかけ、開け放つ。
手で先にどうぞとつばさを通してから、お姉さんも診察室へと入る。
入った前で待っていたのは。
―――つばさおねえちゃんっ!
ポケモンセンターのスタッフポケモンである、ラッキーと共に待っていた彼である。
つばさを視界に認めると、すぐに彼女へと飛び付いた。
飛び付いてきた茶の毛玉、茶イーブイを受け止めた彼女に。
彼はぐりぐりと顔をすりよせる。否、それは自分自身を押し付けているようで。
―――ボク、つばさおねえちゃんといるのっ!
「うん、離れてごめんね」
必死な彼の背を、つばさはそっと撫でる。
と、お姉さんが椅子へ座るようにとつばさを促す。
すでにお姉さんは座っていて、その対面した椅子を示していた。
つばさがそこへ座ったのを見れば、お姉さんが口を開く。
「健康状態では問題ないって言った」
橙の瞳がお姉さんをとらえる。
「問題があるのは。たぶん、心の方」
「たぶん……?」
「心の状態なんて、数値じゃ現せないし、計れない」
灰白の瞳が、腕に抱かれた茶イーブイを見る。
先程からずっと顔を押し付けていた彼が視線に気付いたのか。
ゆっくりと振り返ってお姉さんを視界に認める。
お姉さんがそっと手を伸ばして、その頬を撫でようとした。
けれども。彼は拒むように前足でそれを払った。
灰白の瞳が震えた。
拒むようにではなく、拒まれた。
「ほら、カフェちゃん。今とっても不安定」
お姉さんの呟きに等しい言葉に。
茶イーブイはぴくりと身体を震わせて。
またつばさの方を向いて丸くなる。
「つばさちゃん以外に、心が向いてない」
灰白が真っ直ぐにつばさへ向けられる。
「私、どうしたらいいのかな……」
橙が伏せられ、茶イーブイの背に向けられる。
「すばるくん、帰ってきたんだよね?」
お姉さんの言葉に、つばさの身体が僅かに跳ねた。
お姉さんは構わずに続ける。
「たぶん、要因は”親“。ラテちゃんが持ってて、カフェちゃんが持ってないもの」
つばさからの返答はない。
「つばさちゃんは、カフェちゃんの”親“にはなれない」
橙がお姉さんの方へ向く。
「始まりのカタチがそうじゃなかったから」
橙が震えた。震えて、それ、だけだった。
そこに感情の揺らぎはない。
俯く橙に、気づかうようにゆらぐ灰白。
「何となく、分かってた」
ぽつりと言葉を落としたつばさ。
だって、自分に出来るのは。
繋がりのカタチとして、目に見える形として示すこと。そこまでで。
それ以前のことを示してあげることができない。
「何も出来ない自分がもどかしい、な」
ぽつり。言葉を、落とす。
「”親“にはなってあげられない。それでも、私はこの子に会えてよかったよ」
そっと腕の中の幼子の背を撫でる。
親じゃないから、示すことは出来ない。
「じゃあ、教えてあげればいいんじゃない?」
突然紡がれたお姉さんの言葉。
つばさが顔をあげる。
「どういった理由で生まれたのか」
灰白に優しげな色が宿る。
「示すことはできないけど」
お姉さんがふっと笑んだ。
「会えてよかったよって、教えてあげることはできる」
「今の、気持ちを……?」
「そう」
つばさが視線を落とす。
いつの間にか眠っていた幼子。
すーすーと寝息が聞こえる。
親ではないから、どういった想いに包まれていたのか。
それを示すことはできないけど。
それでも。会えてよかった。今、一緒の時間を共にできていて。
その気持ちを教える、伝えることはできる。
橙の瞳が仄かに笑う。
「私にできる、こと」
ぽつりと呟いた言葉に。
「つばさちゃんだから、できることよ」
お姉さんの言葉が続いた。
私だから、できること。
声にはならなかったが、つばさの口がそう紡いだ。
「私、やってみる」
今度は発したつばさの声に。
「うん」
と、お姉さんの声が重なった。
◇ ◆ ◇
つばさが眠る茶イーブイを腕に抱えロビーへと出ると。
一仕事を終えましたとばかりに、自信に満ちた風のファイアローと。
こちらは彼に反して、ぐったりと疲れきった様子のブラッキーが、ソファに転がっていた。
―――あっ!つばさちゃんっ!
つばさに気付いたファイアローが、てってっと近寄ってくる。
―――落としたりんくんを拾ってきたよっ!
だからほめて。と、その彼の笑みが語っていた。
喫茶シルベを飛び出す際に、ブラッキーを忘れ“物”扱いした自分が思うのもあれだが。
ここに来る道中に逃げ出した彼を、落とし“物”扱いするファイアローもどうなのだろうか。
逃げ出した彼を追う時間が惜しく、つばさは一足先にポケモンセンターへ向かったのだが。
どうやら。ファイアローは見事に、逃げ出した彼を捕まえることに成功したらしい。
それが、落とし物。
これはほめるべきなのだろうか。
ぐったりとしたブラッキーの様子から、何となくその話題には触れたくない気がした。
とりあえず。
「ありがとう、イチ」
とだけ、告げておこう。
その一言だけで、彼はきっと満足するだろう。
だって、ほら。
―――えへへ、つばさちゃんにほめられたっ!
えへへ、と声をもらして笑む。
笑んで満足した彼は、弾む足取りでブラッキーの隣へと戻って行く。
つばさもその後に続けば。
気配で察したブラッキーの耳がそよいだ。
閉じていたまぶたを持ち上げて、不機嫌よりも疲労が勝ったような瞳をのぞかせる。
身体を動かすのも億劫そうで、瞳だけをつばさへ向けた。
無言の何かをつばさは感じとる。
「あ。お疲れ、様、なのかな」
そんな言葉が飛び出す。
《…………》
あ。ブラッキーの金の瞳に苛立ちが見えた。
これは。ご機嫌取りが必要かもしれない。
「プリン」
魔法の言葉を呟く。ほら。
《――――》
彼のまとう空気が色を変えた。
「で、どう?」
彼の耳が跳ねる。
《二つだ》
金が鋭くなる。
《二つ、だ》
「ああ、はいはい。了解です」
呆れ気味な息が一つもれた。
この頃の彼の流行りらしいプリン。
自家製なのだが。消費量はおそらく、お客さんに提供している分よりも彼の方が多い。
でも、プリンの一つや二つで彼の機嫌がなおるのならば、幾つでもつくろう。
「んじゃ、帰るよ」
その一言で、彼はがばりと身を起こす。
ほら。プリンは魔法の言葉。
《さっさと帰るぞ》
気がつけば、もう外への出入口にいる。
余程待ちきれないらしい。
こちらを振り向いて、急かすような瞳を向けている。
もう、仕方ないな。と。
眠る茶イーブイを抱えて、ファイアローと共に向かおうと足を踏み出したとき。
「あ」
短い呟きが耳に刺さった。気がして。振り返った。
「お姉さん?」
短い呟きはお姉さんのもので。
振り返ったら、何かを思い出したような素振りをしていた。
「目元が、似てるんだ。さっきいたあの子と」
お姉さんの言葉に首を傾げる。
後ろでは急かす声がする。呼ぶ声がする。
ああ、もう。うるさいな。すぐに行くってば。
そう思って、振り返った身体を戻した頃だった。
それが聞こえたのは。
「ねえ、もし。もし、ね」
身体の動きが止まる。
何かに縫い付けられたように。
「カフェちゃんの母親が見つかったら」
どくんっ。と、鼓動が響いた。
「どうする?」
橙の瞳が見開かれた。
周りの音が遠ざかって。
世界から、音が、消えた。
*
交わろうとする足音が聞こえる。
そして生まれる、一つの淡い想い。
もしかして。その方が、この子のためなのだろうか。
生まれたその想いに。そっと、ふたをした。