大切だと思ってしまうなら。
もう、その存在はいらない。
そう言って、拾いかけては。
落としてきたものがあった。
だから今度は。
その落としてきたものを。
一つ一つ。
拾い上げていくことを。
始めていこうと思う。
*
「子連れで朝帰り」
カウンター席に腰掛け、頬杖をついたつばさがじとりと睨む。
《意味深に言うな》
その睨みを受け止めるのは。
その隣の椅子へ飛び乗ったブラッキー。
《あいつが勝手についてきただけだ》
「そんなの関係ない。ラテを夜中に連れ歩くのが問題なの」
別に連れ歩いてはいない。
むしろ、気付いてすぐに連れ帰ったくらいだ。
と、ブラッキーは思いかけて。
嫌、少し違うなと。
すぐにそれを打ち消した。
打ち消して、思い出す。
背に乗せた幼子が眠っていたとはいえ。
己が言葉にしたその意味に。
今さらになって、自分の中で熱を帯始めた。
「…………………あんた」
つばさの一言に。
ブラッキーの身体がびくりと跳ねた。
「なに、赤くなってるの…………」
《な、何でもないっ!》
慌ててつばさに背を向けた。
ブラッキーが夜に出て行った。
それはつばさも気付いていたこと。
まさか、白イーブイまで外に出ていたとは思わなかったが。
彼女が外へ飛び出した理由は分かるつもりだ。
彼女は、鋭いところがあるから。
それに、ブラッキーが一緒だったのだから。
それについて怒っているわけではない。
ただ、このように話題を振らないと。
自分がブラッキーと話せなかったから。
彼に拒まれた記憶は。
まだ、新しい。
彼と普通に話せている現状に、そっと安堵する。
ただ、彼のこの様子。
あの彼が頬を染めるなど。
「気持ちわる……」
ぽつりと本音がもれてしまい。
つばさは、慌てて手で口をふさぐ。
聞こえてしまっただろうか。
《………………》
あ。
どうやらそうらしい。
ブラッキーが、肩越しに鋭い視線を向けてきた。
でも、何だかその視線が。
少し照れのようなものを含んでいる気がして。
何だろうかと。
その理由に触れてみたくなるつばさだが。
そこは触れないことにした。
何となくだが、察することもある。
きっと、あの子絡みだ。
お互いの深いところで繋がっている。
つばさとブラッキー。
彼の心の動きには。
敏感な方だと思う。
じゃあ、おしまいだ。
この話は、これでおしまい。
触れられたくないことだってあるのだから。
つばさはそっと目を伏せる。
見つめるのは、カウンターテーブル。
木目を何となく眺めて。
息を吐くように、そっと言葉を紡いだ。
「夢を視たんだ」
《夢……?》
反応を示した声に、うん、と一つ頷いて。
「昔の夢だよ。忘れたくても、忘れられなかった夢。忘れちゃだめな夢」
その言葉だけで。
ブラッキーは分かってしまった。
つばさが、何の話をしようとしているのか。
つばさの方を向こうとして。
身体が強ばっているのに気付く。
軋む音が、逃げてもいいよ、と言っているようで。
それでもブラッキーは。
軋む音に気付かないふりをして。
つばさの方へ向き直る。
「私ね。あの時に、いろいろなものを放しちゃった。放しちゃいけないものも放しちゃって」
その言葉を受けたブラッキーの。
彼の瞳が揺れて、歪む。
つばさが言った。
放してはいけなかったもの。
その中に、きっと。
彼女が追いかけていた夢も、含まれているのだろう。
彼のそんな様子に気付くことなく。
つばさは言葉を続ける。
「たぶん、傷つけた。いろいろなものを。それでも、それが一番だと思った」
そこでつばさは向く。
ブラッキーの方へ。
向いてから、驚きで瞳が瞬いた。
なぜ彼が。
そんな痛そうな瞳を向けているのか。
「なんであんたが、そんなに痛そうなの?」
そっと手を伸ばして。
彼の頬に触れる。
そして、固く閉ざされてしまった左目に触れた。
「私の傍にいるの、辛い?」
ブラッキーの瞳が見開かれる。
それは、自分が一番聞きたくなかった言葉。
そうか。やはりつばさは。
夢を奪ったこの自分を。
そんな自分の傍にいるのは、辛いのか。
そこまで考えて。
つばさの発した言葉に、微妙な違和感を覚えた。
その言葉が持った響きに。
今、彼女は。
自分に、辛いのか、と問うたのか。
なぜ。
むしろ辛いのは、彼女の方ではないか。
《なぜ、お前が聞く?》
「……ん?」
《むしろ、傍にいて辛いのは、お前ではないのか?》
つばさの瞳が驚きで瞬く。
「え……、なんで……?」
《なぜって……》
そして。
つばさとブラッキーは。
同時に口を開いて。
同時に言葉を発する。
「だって。私はあんたに、一生の重荷を背負わせちゃったんだよ。その原因が傍にいるんだよ」
《だって。俺はお前に、夢を諦めさせた。夢を奪ったんだ。その原因は俺で、傍にいる俺で》
と、そこまで言って。
お互いに動きを止めた。
そして、互いの視線が交わり。
暫くの沈黙が、その場を支配する。
降り積もる沈黙を。
先に吹き飛ばしたのは。
「…………あんた、ずっと……」
つばさだった。
そのつばさを、ブラッキーは静かに見る。
「私の夢を奪ったって、気にしてたの?」
つばさの問いに。
ブラッキーは。
小さく、そっと。
静かに、頷いた。
「あんた、ばかだね」
嘆息と共に呟かれた言葉。
《…………なっ!》
反射的に言葉を返しそうになったブラッキーを制して。
つばさは続ける。
「確かにさ。あの頃の夢を諦めたのは、あれがあったからだけど」
瞑目を一つ。
そして息を吸って、吐いて。
目を開いて、真っ直ぐに見る。
ブラッキーを。
「それが理由じゃないよ。理由だけど、理由じゃない」
そう、そうなのだ。
きっかけは確かにそうだった。
けれども。
諦めた本当の理由は。
「あれで初めて知ったの。外にある戦いを、ルールのない戦いがあるってことを。それでね、気づいちゃったんだ」
つばさは苦笑を浮かべる。
「私に、リーグ出場は無理だって。限界があるって」
あの頃のあの日。
あの瞬間。
あれからだと思う。
ルールのない戦いがあると知ってから。
戦うことに、畏怖を感じるようになった。
それが例え。
ルールのある競技としての戦い、ポケモンバトルだったとしても。
そこで気付いてしまった。
自分の力量に。
自分では、傍にいるみんなを護ってやれない。
リーグ出場を夢みてた。
けれども、そこに辿り着くまでの力を持っていなかった。
ああ、なんだ。
始めから無理だったのか。
そう思ったら。
すとん、と。
自分の中で何かが落ちたように。
落ちた何かを受け止めるように。
納得できた。楽になれた。
軽くなった。
そうだったんだ。
その程度のものだったんだ。
こんなに簡単に諦められる夢。
その程度だった。
では、自分が過ごしてきた今までの時間は何だったのか。
両親を説き伏せて。
飛び出したに近い形。
これでは、家にも帰れない。
一気に虚無感に襲われたのを覚えている。
そんなことを。
つばさはゆっくりと、ブラッキーへ語った。
それを彼は、静かに聞いていた。
「でもね。見つけたの、私の夢。自信を持って、胸を張って言える夢」
《それを、聞いてもいいか?》
そっと問う彼の声に。
彼女はこくりと頷いて。
そして。
くしゃりと笑った。
ああ、眩しい。
そう、彼は感じて。
目を細めた。
「りん達と一緒にいること。ずっと一緒。それからここで、喫茶シルベで」
そこでつばさの頬が、淡く朱に染まる。
「あいつの帰りを待つこと、かな」
少し照れ臭そうな彼女の声音に。
ブラッキーは。
ああ、そうか。
自分と同じなのか。
そう思った。
つばさの言う、あいつ。
それは、自分の言うあいつと同じで。
同じ意味を持つ存在で。
つばさにとってのあいつが帰ってくるとき。
自分にとってのあいつも帰ってくる。
なぜなら、つばさのあいつは。
自分にとってのあいつのトレーナー。
共に旅する者達。
「りんと一緒だよ。私もあいつの、すばるの帰ってくる場所になろうって決めたの」
それが。
「それが、私の夢」
というか。
と、口を開いてから。
つばさが軽く首を横に振って。
「それが、私がここにいたい理由。夢は、ううん。夢じゃない、ね。これからも、ずっとりん達と一緒にいることっていうのは、私の願い」
だね、と。
つばさは笑う。
そしてブラッキーは。
なんだ、と。
そうだったのだ、と。
呆れの嘆息を一つ。
自分に対しての呆れだ。
一緒だったのだ。自分とつばさは。
一緒だった。
ここにいたい理由も。
ずっと一緒にいたいと、願うことも。
何をそんなに恐れていたのか。
もう、今となっては分からない。
分かろうとも思わない。
《……一緒、だな》
ふっと、金の瞳が和らいだ。
《なら、おまえも……》
今度は、自分が言葉にする番。
そう思った。
《俺の目に対して、気にする必要はない》
途端に、つばさの瞳に感情がうずまいて。
その感情に歪む。
「でもっ……!」
言い募ろうとする彼女を制して。
《これは、俺の力不足。理由はただそれだけ。それだけだ》
ブラッキーは、はっきりと言葉にする。
「でもっ……」
それでも納得できないのか、つばさが口を再び開く。
「何かが引っ掛かってるんでしょ?そうなんでしょ?あの日から、何か思ってる。私には分かるよっ!」
橙の瞳が揺れる。
自分には分かるよ。
隠しても無駄だよ。
そう訴える彼女に。
確かに想っていた。
確かに隠していた。
そう、彼は思う。
けれども。
つばさの思っていることは、どれも違う。
そうじゃないのだ。
《許せないと思っていた》
彼のそんな一言に、つばさの肩がびくりと跳ねた。
《お前を泣かせた俺を、許せないと思っていた》
「…………え?」
《大丈夫だと。俺がすぐに取り戻してやると。そう思っていたのに、結果として俺は、取り戻せなかった》
そしてさらに。
それだけではなくて。
彼女に夢を諦めさせてしまう、その原因となってしまった。
彼女から夢を奪ったのだ。
そんな自分が、何よりも許せなかった。
それを、今度はブラッキーが語る。
つばさへ語る。
つばさが気にする必要はないのだから。
隻眼となってしまったのは。
自分の力不足。実力不足。
それだけで。
それは、とうの昔に。
自分の中では、納得ができていることなのだから。
ぽつりぽつりと語る、ブラッキーの言葉を。
つばさは静かに、耳を傾ける。
《だから、お前が気にする必要はない》
その時、ブラッキーは思った。
ああ、もし自分が人間だったのならば。
揺れる橙の瞳をこちらへ向ける、この少女へ。
手を伸ばして、頭に乗せて。
そっと優しく、撫でてやれるのに。
それが叶わないのが。
なぜだか無性に悔しかった。
だから代わりに。
ブラッキーがひょいっと、軽く跳躍する。
そのまま、つばさの膝上へと飛び移って。
代わりに、代わりにと。
自身の頬を擦り寄せた。
つばさの頬へ、擦り寄せた。
《俺は、その結果が許せなかっただけで、後悔はしていない》
それに、と。
口端を持ち上げて、にやりと笑う。
《それに、隻眼はイケてるだろ……?》
揺れていた橙の瞳が、その動きを止めた。
きょとん、となり、数度それが瞬く。
そして、つばさが小さく笑い始めた。
「何それ。まあ、確かにイケてるかもだけどね、昔から」
目尻にたまった何かを拭い、つばさは続ける。
「昔からあんたは、図鑑と違って目付きの悪いイーブイだったし」
いたずらっ子のような笑みを向けるつばさに。
ブラッキーは一気に不機嫌になる。
《放っておけ》
ふんっと顔を背けると。
ひらりと、つばさの膝上から飛び降りてしまった。
それに、少しだけ名残り惜しそうにしたつばさが。
そっと自身の膝を撫でて
そっと口を開いた。
「私達ってさ」
ブラッキーの耳が、ぴくりと跳ねた。
「言葉、足らずだったのかもね」
金の瞳がつばさを映して。
《そうかもな》
橙の瞳もブラッキーを映して。
一人と一匹は笑った。
ふわりと笑った。
ただ、それだけだったけれども。
それだけで、十分だった。
*
落としてきたものを。
一つ一つ。
拾い上げていくことを。
始めていこうと思う。