2012.02.03. 投稿
◆4
ゴクトー島とテツロウたちの過去。話を聞いた後で普段通りでいられるかツバキもユウトも心配だったが、朝同様賑やかなテーブルについたら自然、その中に溶け込むことができた。
まだどのように受け止めていいのかはわからない。けれど今こうして彼らが笑って生活している以上、自分たちが暗くしてしまうわけにはいかない。
いつも通りでいよう。ツバキとユウトは、そう決めていた。
食後、ユウトが後片付けを手伝っていると、セキナが台所にやってきた。きょろきょろと何かを探しているが見つからないようで、ユウトは声をかけた。
「どうしたの?」
「あ……」
テツロウやコウタはもうすっかりユウトたちに慣れていたが、セキナは人見知りなうえに引っ込み思案なようで、まだちゃんと会話ができていない。しかし警戒しているというわけでもないらしく、たどたどしくもユウトの問いかけに答えようとしてくれていた。
「えっと、おべん、とう……」
「お弁当?」
ユウトが聞き返すと、セキナはこくんと頷いた。たった今昼食をとったばかりなのに、セキナは弁当を探しているのか? ユウトが首をかしげていると、アズミが大きめなハンカチに包まれた弁当箱らしきものを持ってきた。
「ほら、セキ。今日も行くんだろう?」
セキナはこくんと頷き、アズミから包みを受け取る。ユウトが疑問符を浮かべているのに気付いて、アズミが説明してくれる。
「ああ、これは、セキナの日課だ。セキナは毎日、とあるポケモンにこうして食事を届けている」
「ポケモンに?」
「ああ。ずっと外にも出ずに閉じこもっているポケモンで、自分では食べ物も取りに行かないらしくてね。このままじゃ可哀そうだと、セキナが自分で言い出したんだ」
ユウトはいまいち話が呑み込めていなかったが、セキナが自分を見上げていることに気付き、彼女の顔を見る。自分のしていることに興味を持ってもらえたのが嬉しいのか、照れくさそうに、はにかんだような表情をしている。
「そうだ、ユウト。もしよかったら、セキナと一緒に行ってやってくれないか? 道はセキナが自分で覚えているからひとりで行けないこともないんだが、坑道の近くを通るから少し心配なんだ。いつもはわたしがついて行くんだが、今日は少し仕事があってね。ほら、昨日また一か所崩れたばかりだろう? きみが一緒に行ってくれると安心なんだけど、どうかな」
アズミの申し出にユウトは少しだけ考え、しかしセキナがまだじっと自分を見上げていることに気づいた。どうも断れそうにない。訓練以外にすることもないし、頼られれば悪い気はしなかった。
「わかりました。おれでよければ」
「そうか、助かるよ」
アズミが微笑み、セキナも安心したように少し顔を赤くする。
「すまないね。その分、きみたちとの訓練の時間を少しでも長くとれるようにするよ。それじゃあ、よろしく頼む」
◇5
ユウトがセキナと一緒に出掛けると言うと、ツバキは「あ、それならあたしも!」とついて来たがったが、コウタに捕まってしまった。
「ツバキはおれと遊ぶんだろー? ひきょーだぞ、逃げんのかよー!?」
そう言われて、背中を向けるツバキではない。「ツバキお姉さまと呼べー!」とかなんとか言いながら、コウタを追いかけまわしてどこかへ行ってしまった。テツロウもどうやら、それに加わったようだ。ユウトは苦笑して、ツバキは放っておくことにした。
ユウトは今、セキナと一緒に住宅街を歩いている。山のそばを通るだけなのでめったに野生ポケモンは出てこないとのことだったが、昨日の落盤と戦闘の影響で野生ポケモンが騒ぎ出していないとも限らないので、念のためこちらもポケモンを連れていくようにとアズミに言われた。クロは午後の訓練が始まるまで休むつもりらしくさっさと寝てしまったし、クゥは不本意そうな顔をしながらもツバキたちと遊んでいたので、シロについて来てもらっている。
住宅街とはいっても、これまでに立ち寄ったタビダタウンやウミベシティとは違い、家も少ないしとても静かで、寂れている印象すらある。そう感じる理由はすぐにわかった。空き家が多いのだ。人の住んでいた気配を残しながらも、今は無人のがらんとした家々。それが、このどことない寂しさを形成している。
次第に建物も減り、山が近くなってくる。木々や草むらは点々とあるくらいだが、足元に石や砂利が増えてきていた。
「目的の場所までは、どれくらいかかるの?」
ユウトが聞くと、セキナは「ええっと」と小さく言って、少し考えてから答える。
「んっと、三十分、くらい」
三十分というのは、おそらくセキナの足でということだろう。実際ユウトは今セキナの歩調に合わせて歩いているので、おそらく目的地はさほど遠くない。しかし、それでも小さい子どもの足で、片道三十分かかる道を毎日だ。食事を届けているのは一日に一回とのことだったが、それでも毎日続けるのには根気を要するだろう。
「えらいんだね、セキナは」
ユウトが言うと、セキナはぽっと顔を赤くする。それから小さく首を振ると、少し俯いてしまった。なるほど、筋金入りの照れ屋さんだ。
「そのポケモンって、セキナの友達なの?」
ユウトの問いかけに、セキナが、少し考えてから答える。
「えっ、と……、ともだち、かな……? よく、わかんない」
「?」
ユウトが不思議そうな顔をすると、セキナはまた少し考えてから、説明を加えてくれる。
「えっとね、わたし、少しだけ、会ったことあるだけだから。近くに住んでた、おじいちゃんのポケモンなの」
近くというのは、ジムに来る以前のセキナの家からということだろうか。
「おじいちゃんっていうのは、セキナのおじいちゃん?」
「ううん。でも、やさしいおじいちゃんだったの。よく、声かけてくれた」
「そのおじいちゃんが飼ってたポケモンなんだ」
「うん。えっとね、ネネっていうんだよ。ネイティっていうポケモン」
セキナはやはり、ユウトが興味を持ってくれたことが嬉しいらしい。たどたどしいながらも、そのポケモンのことについて話してくれた。
半年前の事故が起こる以前、セキナが家族と住んでいた家の近くに、一人暮らしのおじいさんが暮らしていた。セキナの家は住宅地のはずれにあったが、そのおじいさんが住んでいたのは、そこから少し離れた鉱山のふもとの小屋だった。あまり人付き合いを好まない人だったが、煙草を買いに出てくるときセキナの家の前を通るので、セキナとはよく挨拶をかわしたという。
いつもはひとりで歩いてくるおじいさんだったが、あるとき、その肩に小さなポケモンを乗せてきたことがあった。セキナが聞くと、おじいさんは、ケガをしていたネイティの雛をひろったのだと言った。探したが親鳥は見当たらず、ケガが治るまで仕方なくおじいさんが世話することにしたらしい。
しかしネイティの雛はそのままおじいさんに懐いてしまったようで、ネネと名付けられたそのネイティをおじいさんが肩に乗せている姿を、よく見かけるようになった。
それから少しして、あの事故が起こった。セキナの両親と同じく鉱山で働いていたおじいさんは、帰らぬ人となってしまった。
事故の騒ぎから落ち着きを取り戻し始めた頃。おじいさんの遺留品を整理するために近所の人が出向いたところ、奇妙なことに気が付いた。
おじいさんの住んでいた小屋のまわりに、なにか見えない壁のようなものがあって、中に入ることができないというのだ。
それがポケモンの能力によって作り出されるものだということはすぐにわかり、おじいさんの飼っていたネネがまだ中にいて、その壁を作っているのだろうと思われた。すぐに格闘の技を使えるポケモンを持つ人に頼んで、壁を壊す技で攻撃してもらったが、何度壊しても壁はすぐに張り直されてしまう。ネネがどういうつもりでそんなことをしているのかはわからないが、結局どうすることもできず、小屋はそのまま放置された。
アズミに引き取られることが決まったセキナは、島民に頼まれて一度出向いていたアズミの口から、そのことを知った。
事故以来ずっと閉じこもっているネネは、おそらく小屋の中に備蓄されていたものを食べているのだろうが、いつまでもつかわからない。このまま放っておいたら、いずれネネは食べ物が尽きて死んでしまうかもしれない。
「それで、アズミおねえちゃんにおねがいして、ネネにあげるゴハンを用意してもらったの。ネネはわたしのこと覚えてないかもしれないから、いくら呼んでも応えてくれないけど、もっていったゴハンだけは、少しずつ、食べてくれたから」
セキナの話し方は思っていたよりもしっかりしていて、ユウトは大体の事情を理解することができた。
亡くなってしまったおじいさんの小屋で、壁を張って閉じこもり続けるポケモン。
そのポケモンに、食事を届け続けるセキナ。
その気持ちがわかるだなんて、簡単な言葉はユウトには言えない。こんな時ツバキだったら、もっと素直に共感を口に出すことができただろうか。
「あ、あそこ」
幅二メートルもないような小川の橋をごとごと音を立てながら渡ったところで、セキナが、そう言って指をさす。鉱山のふもと。その斜面に食い込むようにして造られた、小さな小屋だ。倉庫らしい一回り小さな納屋が併設されている以外には、周りに他の建物は見当たらない。小屋の二、三倍はありそうな大きな木がすぐ近くに立っていて、知っていれば遠くからでもこの場所がわかりそうだった。
ユウトとセキナ、そしてシロは、小屋の前まで来て立ち止まる。見た限りでは本当にただの木造の小屋で、見えない壁なるものの存在はわからない。
しかし、感じる。見えはしないが、この小屋からは、なんだか心を圧迫されるような、不思議な何かを感じる。これは、見えない壁の存在が無意識に与える圧迫感か。それとも、その中にいる者の心が、漏れ出してきているのか。
「ここに、そのポケモンがいるんだ」
「うん。んっとね、あっちに歩くと、わたしのうちがあるの」
そう言ってセキナは、鉱山とは反対の海側を指さす。なるほど、細い木々が茂る緩い下り坂の向こうに、転々と家が立ち並んでいるのが小さく見える。
おじいさんはその肩にネネをとまらせ、この坂を下って煙草を買いに歩いたのだろう。道の先におじいさんたちの姿を想像して、ユウトは少しだけ目を細める。
「こっちだよ」
セキナが小屋の側面に回り込んで、ユウトを手招いている。ユウトが彼女の後に続くと、小屋の側面には窓があり、そのガラスが割れて小さなポケモンなら通れそうな穴があるのが見えた。その真下あたりの地面にふたの開いた弁当箱が置かれていて、中に食べかけらしい、かじられた跡のある木の実が数個転がっていた。
「また、のこしてる……」
そう呟いて、セキナは悲しそうな顔をする。
ここまで近づくと、かなりはっきりとその「壁」の存在を感じることができた。小屋の板壁の周りに、それとは別の何かがある。手を伸ばしてみると小屋には触れられず、こつんと、透明な何かに阻まれる感覚があった。おそらくこれが、小屋の周囲を隙間なく覆っているのだろう。
セキナは、窓が割れた穴に向けて、そっと手をのばす。しかしやはりその手のひらは窓に届くことなく、ぺたんと何かにぶつかって止まってしまう。
「やっぱりそこにも、壁があるんだ」
ユウトが言うと、セキナはこくんと頷いた。
「たまにこの穴から、ネネが見えるときがあるの。でも、今日はどこかに隠れてるみたい」
セキナは穴を覗き込みながら、少し残念そうに言った。見知らぬユウトやシロが来ていることを、小屋の中から察知しているのかもしれない。さっきユウトが壁に触れたから、気づいていても不思議はない。
この向こうに、ひとりぼっちで壁を張り続けているポケモンがいる。それも、半年もの間ずっと。中にいるネネは、いったいどんな思いで日々を過ごしているのだろうか。毎日木の実を運んでくるセキナが去り、誰もいなくなった後で、少しだけ壁を解いて、少しだけ木の実をついばむ。それはいったい、どんな気持ちなのだろう。
「ユウト……さん?」
「っ」
セキナの声で、ユウトは我に返る。どうやら、深く考え込んでしまっていたらしい。セキナが心配そうにユウトを見ていた。
「ああ、ごめん、セキナ。大丈夫だよ」
ユウトは首を振って、小さく笑って見せる。
セキナはまだ少し心配そうな顔をしていた。優しい子なのだろう。
セキナはやがてしゃがみこむと、持ってきた弁当箱の包みを開いた。それを「壁」ぎりぎりのところに置き、ふたを開ける。中に入っていたのは、食べやすいように小さく切られた木の実。それからセキナは、もとからあったほうの弁当箱のふたを閉じ、片付けようとする。
そのとき、ユウトは気づいてしまった。
弁当箱の中の、食べかけの木の実。かじられたような跡。
ネイティというポケモンを実際に見たことはないが、小さくて丸っこい鳥ポケモンだったと記憶している。そのポケモンが木の実を食べようとすれば、当然、くちばしでついばむ形になる。
「ねえ、セキナ」
ユウトは、疑問を口にする。
「この、木の実の食べられた跡って、いつも、こういう形をしてる? この、歯でかじられたみたいな」
「え? えーっと……うん、たぶん、いつもこうだと思う……」
セキナは不思議そうに、ユウトの顔を見上げる。ユウトがなぜ、苦い顔をしているのかがわからないというように。
「……これは、たぶん、コラッタだ。こっちのちょっと違う形の歯形は……わからないけど、もしかしたらココドラかな。どちらにしても、これは……」
「ユウトさん……?」
セキナの表情に、不安の色がさす。
「あの、これ、ネネが食べたんじゃ、ないの……?」
しまった、とそのときになってユウトは思った。セキナは、気付いていなかった。ネネはちゃんと自分が持ってきた木の実を食べてくれていると、そう信じていたのに。
「他のポケモンに、とられちゃったの? ネネは、食べてないの?」
今さら否定はできなかった。違うと言ったところで、もうセキナは気付いてしまっている。肯定するしか、なかった。
「……少なくとも、このかじられた跡は、ネネが食べたものじゃないと思う。おれは今日のこの木の実しか見ていないから、昨日までがどうだったかまでは、わからないけれど」
「……」
ごめん、と言いそうになって、ユウトは思いとどまった。ここで自分が謝ってしまったら、これまでのセキナの半年を、丸ごと否定することになってしまう。けれど、同じことだ。もう自分は、取り返しのつかないことをしてしまった。
泣き出しそうな顔をしているセキナのためか、自分の過ちを否定したいがためか、ユウトは言葉を紡ぐ。
「今日見ただけじゃ、わからないよ。昨日までは、ちゃんと食べていたのかもしれない。それに、この見えない壁がこうして今もあるってことは、少なくともネネはまだ元気だってことだ。そうだろ。だから、大丈夫。大丈夫だから」
アズミがこのことに気付いていないはずはない。それでも、アズミはそれをセキナには話していなかった。セキナの努力が、想いが、無駄なことだなんて思わせたくなかったから。ユウトはそれを台無しにしてしまった。それもたった一言で。
「どうしたら、いいのかな……」
セキナが、呟くように言う。
「ユウトさん……。ネネを、助けるには、どうしたらいいの」
涙声の混じったその問いに、ユウトは、答えられない。
◆6
その日の午後、ユウトは訓練の続きを受けながらも、常にどこかでネネのことを考えていた。
アズミには、すべてを話した。自分の犯してしまった、取り返しのつかない過ち。アズミは気にしなくていいと言ってくれたが、その言葉だけでは、ユウトは自分を許せない。
それに。
あの壁の前に立った時の感覚。あの壁に手を触れた時の感覚。それらが、どうしても頭から離れない。
その夜。ユウトはテツロウやコウタと一緒に風呂に入り、布団に横になってから、昼間のことを思い出す。
今は女性陣が風呂に入っていて、ツバキは部屋にいない。あまり風呂が好きではないシロは部屋にいて、ユウトの隣で丸くなっている。クゥは一番訓練に集中していただけあって疲れたのか、既に部屋の隅で寝息を立てている。クロの姿は見えないが、いつものように夜の散歩だろう。
ユウトはちらりとシロの顔を見てまだ起きていることを確認すると、起き上がって布団の上に座り、シロに語りかけた。
「ねえ、シロ。シロは覚えてる? さっき、あの壁の前に立った時の感覚を」
シロは目を開けて、ユウトの顔を見る。ユウトもシロの眼をみつめ、意識を集中する。シロから、問いかけの返事が返ってくる。
「やっぱり、シロも感じたよな。シロは、わかった? あのポケモン、ネネの、気持ちとかって」
ユウトは、再びシロに語りかける。
シロやクロとのやり取りは、言語ではない。だから意識さえ澄ませていれば声に出す必要はないのだが、こうした方が伝えたいことを整理しながら語りかけることができる。返答はやはり言語ではなく、心に直接返ってくる。
「……。そう、か。やっぱり、シロも同じこと、感じてたんだな」
ユウトは考える。そう、ユウトは、シロは、知っている。壁を作り、閉じこもってしまう者の気持ち。もちろん、全く同じものではない。しかし、ユウトの考えは、確信に変わりつつある。自分より心の感覚が鋭い、シロの感じたものを確かめることで。
「やっぱり、そうなんだよな」
ネネを、あのままにしてはおけない。そんな思いが、強く固まりつつあった。
ユウトは、自分の手のひらをみつめ、ぐっと拳を握る。
「ほっとけないよな。だって、同じなんだ。あの子は、ネネは、あいつと同じだ」
シロは、そんなユウトの瞳をみつめ続けている。
◇7
翌日。昨日セキナとともに歩いた道を、ユウトはひとりで歩いていた。セキナと親しかったおじいさんの家。おじいさんを失ったネネが、今もひとりぼっちで閉じこもっている家。
今朝ユウトは、アズミに、そしてセキナに、ひとつの提案をした。はじめはユウトの申し出に戸惑っていたアズミも、ユウトが極めて真剣なのと、セキナがうれしそうな顔をしたこともあって、しようとしていることを認めてくれた。面倒だったのはツバキで、自分が事情を知らないことでユウトが訓練を抜けることに、ぶーぶーとむくれていた。
ユウトはひとり、例の家の前に立つ。
今日もやはり、感じる。こうしてそばに立っただけで、なにかが心にのしかかるような、不思議な圧迫感。しかしそれは決してこちらを害するような攻撃的なものではなくて、ただ、抑えきれない何かがあふれ出してきているような、そんな感じ。
ユウトは、いつもシロやクロとやり取りをする時と同じように意識を集中し、語りかける。
「おれは、ユウト。セキナの友達だ」
返答は、ない。届いているのかどうかもわからないが、続ける。
「きみと、話がしたい。近くに行って、いいかな?」
少しだけ。本当に少しだけ、自分を取り巻く何かが、揺れたような気がした。ユウトは、少しの間そのまま待つ。しかしそれ以上の反応は何もなく、ユウトは意を決して、家のそばに近づく。
昨日セキナと食事を置きに来た、側面の壁の穴のところまで来ると、ユウトはそっと壁に触れた。物質的ではない、不思議な硬さ。温かくも冷たくもないそれは、はっきりと視認することはできないものの、光の加減でなんとなくそこにあることがわかる。手を触れても弾き飛ばされるようなことはないから、近づくことそのものを拒否しているわけではないらしい。しかし同時に、力を込めて押してもへこむことすらないそれは、越えることを受け入れない一線があることを確かに感じさせた。
これを無理矢理に破ることは、ユウトの目的ではない。それはアズミがしなかったことだ。先ほどユウトは、アズミに聞いて確かめた。
この壁を破ることができる格闘の技は“かわらわり”というらしい。
まだ小さな雛鳥であるらしいネネが張っているにしてはこの壁は強力なもののようで、アズミ以外の者では部分的に壊すことはできても全体の破壊には至らず、中に踏み込む前にすぐに修復されてしまったそうだ。
壊されてもすぐに壁を張り直す、ネネの意志。
この壁の技は、自分が仕事に出ているときに、山から他のポケモンが下りてきて襲われたりすることがないよう、おじいさんがネネに教えたものらしい。おじいさんが出かけるとこの壁を張って家の留守を預かり、おじいさんが帰ってくると壁を解いて彼を迎える。それがネネの生活だった。
きっとこの壁を張った朝も、ネネは夕方になればおじいさんが帰ってくると信じていただろう。でもその日、彼は帰ってこなかった。それからいくら待ち続けても、彼は帰ってこない。
おじいさんと一緒でなければこの小屋を出ることはなかったというネネが、おじいさんの死を知り、理解しているのかどうかはわからない。ネネは今でもおじいさんが帰ってくることを信じて、彼の言いつけを守って壁を張り続けているのだろうか。
ユウトは、昨日セキナとともに持ってきた弁当箱を見る。穴の前に置かれたそれの中には、昨日来た時と同様、入っていた木の実の半分くらいが残っていた。しかし、そこにネネが口を付けたと思われる形跡は見られない。
「みんな、きみを心配してる」
ユウトは、再び語りかける。
「知ってるだろ? 毎日木の実を運んでくる女の子のこと。あの子は、本当にきみのことを気にかけてる。あの子だけじゃない。前にこの壁を壊しに来た人だって、きみを傷つけようとしてたわけじゃないんだ。みんな、きみに外に出てきてほしいと思ってる」
壁は、しんと静まり返ったままだ。ユウトの言葉に対する手ごたえは、返ってこない。
「ずっと小屋の中に閉じこもってるって聞いた。長い間、壁を張り続けているって。でもそれは、とても大変なことのはずだ。きみの体も、心も、とても疲れているはずだ。できることなら、この壁を解いて、きみの姿を見せてほしい。きみの気持ちを、聞かせてほしい」
ユウトは、壁に手を当てたままそれだけ言うと、少しの間反応を待った。しかしやはり返答はなく、壁は静まり返ったまま。
ユウトは、小さく息をつく。
すぐにどうこうできるとは思っていない。昨日今日関わったばかりの、どこの誰とも知れない自分が、いきなり心を開いてもらえるなんて思っていない。しかし、こちらの意志は伝えた。伝わったはず、だと思う。
時間が必要なことはわかっている。
もし伝わっていないのなら、何度でも伝える。心まで届いていないのなら、届くまで待つ。どうすればいいのか、はっきりとわかっているわけではない。ネネの気持ちを理解しているという明確な自信があるわけでもない。それでも、できることはきっとある。
「まずは、できることからだ」
ユウトはあえて声に出して言うと、その手に持っていた工具箱を地面に置いた。アズミに頼んで借りて来たものだ。道具はある。そして、材料も。
ユウトは小屋に併設されている倉庫の方へ来ると、その裏手の方を覗いてみた。アズミから聞いていた通り、そこには切り出された木材がたくさん積まれている。もう持ち主のいないもの。アズミは勝手に使っても構わないだろうと言っていたが、ユウトはその前で手を合わせ、声に出して言う。
「これ、使わせていただきます。ネネと、ネネのことを想っている子のために。勝手をお許しください」
そうしてユウトは、作業を始める。
◇
「……あの、ユウトさん。ユウトさん!」
ユウトははっとして、声のした方を振り返った。どうやら作業に集中しすぎて、呼ばれていたのに気付かなかったらしい。セキナは、ようやく気付いてもらえたと、ほっとした顔をする。その顔が赤らんでいるのは、珍しく大きな声を出したからだろうか。
「ごめんセキナ、気が付かなくて」
「あ、はい……。えっと、おひるごはん、です」
そう言ってセキナは、三つもっていた包みのうちひとつを、ユウトに差し出す。どうやらお弁当を持ってきてくれたらしい。残りのひとつはセキナの分で、もうひとつはいつものネネのきのみだろう。
「ありがとう。そっか、もうそんな時間か」
見ると、太陽はすっかり空のてっぺんに上りきり、頂点を通り過ぎようとしていた。
「すごい、もうできたの?」
セキナがユウトの作っていたものを見て、感嘆の声を上げる。その瞳はきらきらと輝いているようだった。
「もう少し、かな。でも、今日中にはできるよ。これでネネが、木の実を食べられるようになるといいんだけど」
そう言ってユウトも立ち上がり、セキナの隣に立つ。
ユウトが作っていたのは、一言でいえば「台」だった。高さはユウトの胸の高さ程度。ちょうど小屋の窓に届く高さだ。木材を組んで作られた柱の上に、テーブルのような板が載せられている。そしてその天板とそれぞれの柱の間には、別の板がはみ出すように取り付けられていた。
「このはみ出してるのは、なに?」
「ネズミ返しっていうんだ。これがあると、柱をよじ登ってテーブルに上がろうとしても、阻まれて上まで行けない。コラッタくらいなら、これで対策できると思うんだけど」
そう、ユウトが作っていたものは、ネネがきのみを食べやすくするための台だった。
「すごい。これなら、ネネも食べてくれるかな」
「そうなるといいんだけど。さ、セキナも昼ごはんまだなんだろ。少し休憩して、一緒に食べようか」
「うん」
「でもその前に、まだ未完成だけど、一応試してみよう」
そう言うとユウトは作った台を窓の近くに持っていき、セキナが持ってきた包みを開いて、台の上に置く。さすがにすぐにネネが出てきてくれるわけではない。わかっていてもやはり少しだけ落胆する。焦ってはいけない。時間が必要なことは、わかっている。
それからふたりは、ネネが出てきやすいように少し離れたところに座ると、自分たちの弁当を広げた。食べながら、会話をしながらも、ふたりはずっと割れた窓の方を気にしていた。
◇
次の日も、その次の日も、ユウトは小屋にやって来ていた。
ネネの木の実を置くための台は一日目に無事完成したが、未だネネが小屋から出てくる姿は見ていない。きのみの入った弁当箱は毎日手が付けられていない状態で残っていた。野生のポケモンにとられることはなくなったようだが、ネネもまだ手を付けていないらしい。
二日目からは、ユウトは小屋の周りの掃除や片付けにいそしんでいた。半年もの間誰も手を付けなかった小屋の周りは雑草が大量に茂り、倉庫の方はイトマルが使い捨てたと思われる“クモのす”があちこちに張られていて、とにかく荒れ放題になっていた。
おじいさんとネネが共に暮らしていた頃は、こうではなかったはずだ。
おじいさんはもういない。その事実は、どうあがいても変わりはしない。けれど、せめてその頃の面影だけは取り戻したい。この小屋におじいさんがいた頃の。おじいさんが毎日出かけていき、毎日帰ってきていた頃の姿だけは。
ユウトは雑草を抜き、“クモのす”を払い、庭を掃く。
こんなことがネネの心を開くことになるのかは、わからない。こんなことがネネの慰めになるのかなんて、わからない。
それでも。
できることをやる。
それが、ユウトが心に決めたことだった。
かつて同じように心を閉ざし壁を作ったとある少女を、助けたいと願った時と同じように。