10杯目 えへへ

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 顔を洗って部屋に戻ってきたつばさは、先に戻っていたブラッキーを見つけた。
 彼もそれに気付き、互いの視線が交差する。
 けれども、すぐに彼の方から視線がそらされてしまった。
 つばさの橙の瞳が揺れる。
 だが、とすっと背中に衝撃を感じて、それもすぐに治まった。
 振り向けば、そこにファイアローの姿があって。
 くるるっとだけ鳴いた。
 大丈夫なのか、と問いかけているのだ。
 それが何だか嬉しくて、返事の変わりに彼の首筋を撫でた。
 大丈夫ではないが、大丈夫だ。

「元気でた」

 そっと呟いた言葉は、ファイアローにだけ届く。
 撫でて気がすんだつばさは、あれから椅子に腰をかけて待っていたお姉さんの元へ向かった。
 まだ、手続きとやらが残っているのだろうか。
 人間のことは、ファイアローにはよく分からない。
 首を捻って考えてみても、分かるのは分からないということだけ。
 つばさのことなのに、その辺りのことはさっぱり分からない。
 けれども、一つ分かるのは。
 戻って来てから、何となく彼女が落ち込んでいるということ。
 否。先程彼女の瞳が揺れた。
 その瞳に、傷ついた色を見た。
 その色をするのは、あれを思い出したときだと、ファイアローは知っている。
 それはまた、彼も同じで。
 ちらりとブラッキーを見る。
 部屋の隅。
 そこで、じっとつばさを見つめている。
 どうして、捨てられた仔犬のような瞳を向けるのか。
 先程、部屋を出ていった。
 その際、彼らに何があったのか。
 すると、ブラッキーがこちらの視線に気付いた。
 しまったと感じ、慌ててそっぽを向くも、すでに遅かったらしく。
 静かに彼が歩み寄ってくるのが、視界の端でみえた。
 やばい。八つ当りされるかも。
 そう、内心のどきどきが昂った頃。

《おい》

 声をかけられた。
 ひえいっ。
 飛び出しそうになった言葉を必死に飲み込んで。
 追撃が来るか。
 すぐに構えたが、予想していた追撃はなく。
 訝しげにブラッキーを見る。
 いやに真剣な瞳を向ける彼がいて。

《お前はなぜ、それほどに強い?》

 そう問われた。けれども。
 質問の意図が掴めず、ファイアローは首を傾げた。

―――どういう意味?

 問い返した。
 真っ直ぐに、ブラッキーへ向けられる無垢な瞳。
 それが、ファイアローの強さの根源だろうか。
 ブラッキーが静かにそう思った。

《いや、何でもない》

 気にするな。
 そう続けようとしたときには、ファイアローはもう、こちらを見ていなかった。
 しゅしゅしゅしゅっ。
 と言いながら蹴りを繰り出しては、強いのかなと首を捻って唸っていた。
 本人に自覚はないようだ。
 実力的な意味でも、彼は十分な強さを持っている。
 けれども、ブラッキーが問うた強さは、精神面のもの。
 それでも。その質問ですら、彼には愚問だったのかもしれない。
 あの頃と比べると、彼の実力は見違える程に上がっている。
 と、ブラッキーは思う。
 あの頃を境に、彼は努力を重ねた。
 まず、身体を大きくしようと、しっかり食べてしっかりと寝た。
 その頃、彼がちょうど成長期だったおかげもあるのだろう。
 今と比べると、その体格は一回り近くも違う。
 体格が大きくなったということは、それだけ筋肉もついたわけで。
 筋肉がつくということは、体力もついたわけで。
 今ならば、つばさを背に乗せ、長距離の移動も苦ではないだろう。
 以前はすぐにバテていたのを思い出す。
 彼がそんな努力を積み上げたのは。
 他でもない。つばさのため。
 それは、はたからみていた自分にも分かった。
 彼でも、あの頃のあの日から。
 何か抱えている。
 けれども、彼は自分のように立ち止まることはなく。
 素直に、すごいと思った。
 どうして、強くいられるのか。
 その問いが、泡となって消える。

―――つばさちゃんが大好きだから、かな

 そんな呟きが聞こえ、顔をあげたら。
 こちらを覗きこむファイアローの顔があった。
 彼の無垢な瞳に、自分が映りこむ。

―――だから僕、頑張ろうって思った

 えへへ。
 そう笑う彼が、とても眩しく思えて。
 そして、ちらり。
 彼は、つばさに視線を向ける。

―――りんくんも、素直に気持ちを伝えればいいと思うよ

 再びこちらに視線を向けて。

―――りんくんは、つばさちゃんの特別だから

 無垢な瞳に、寂しげな光が宿る。

―――羨ましいくらいに

 今度はブラッキーが、ファイアローの言葉の意味を掴みあぐね、怪訝な瞳を向けた。

《どういう…》

 意味だ。
 そう続けようとして、けれども、ファイアローに遮られて。

―――つまり、つばさちゃんにぶつかっていけばいいってことっ!以上っ!

 そうすれば、きっとつばさは受け止めてくれるから。
 あえて、それは言葉にしない。
 二人はもっと、互いにぶつかり合う必要がある、と思うファイアローであった。
 さっさとくっつけコノヤロー。
 ちょっとずれた物言いだが、まさにそんな心境である。
 言いたいことだけ伝えた彼は、そのままブラッキーなど捨て置いて、つばさの元へと駆けていった。
 どれだけ想って手を伸ばしても、届かない場所がある。
 自分がどれほど望んでも、そこにはたどり着けない。
 そんな場所に、ブラッキーがいる。
 なのに。
 そんなことで悩んで。
 全く、羨ましい。
 さっさとくっつけコノヤロー。



   ◇   ◆   ◇



 喫茶シルベに帰った頃には、すでに太陽は沈み始めていた。
 そして。

「これ、何の荷物?」

 つばさの前にでんっと鎮座する荷物。
 ちょうど帰宅した頃、それを待っているかのように呼び鈴が鳴った。
 喫茶シルベとしての扉ではなく、つばさの家としての通用門である裏口だった。
 普段は裏口を使用していないつばさだが、こうして配達物を受取際には、通用門である裏口を使用している。
 そして受け取った荷物が、目の前のこれである。
 大きな白いダンボール箱だ。
 つばさの胸くらいの高さはあるだろうか。
 誰からのものだろうか。
 そう思ったが、伝票を確認してすぐに思い出した。
 そうだ。朝方に受信したメールにあったではないか。
 レモからのメール。
 その文面に、アローラの土産を送ったと。
 てっきり、アローラ特産物とか名物ものの小さなものかと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
 それにしても、でかい。

―――ねねっ!開けてっ!

 その声に顔を向ければ、きらきらと瞳を輝かせたファイアローがいて。
 お土産何かなと、うきうきしていた彼の姿を思い出す。
 ふふっと笑みがこぼれ、手にしたカッターナイフでガムテープに切り込みを入れる始める。
 そんな作業を始めると、何事かと、嬉々として駆けてくるのは白イーブイで。
 その後ろでは、茶イーブイが自身の真新しいボールを転がしては見つめ、ふへへ、と少しだらしない笑みを浮かべていた。

「カッターを使うから、ラテはじっとしててね。危ないから」

 刃物は危ない。
 それはきちんと分かっている白イーブイなので。

―――ラテ、いいこだからじっとしてるもんっ!

 ちょこんとお座り態勢で、ぷくっと両頬を膨らませた。
 ごめんごめん、と苦笑をもらす。
 ふんすっ。
 全くだ、と言わんばかりの鼻息だった。
 気を取り直し、切り込みを入れて行く。
 ダンボール箱に手をかけ開ける。
 開けてから。

「………っ」

 息が詰まった。
 どくんっと、心臓が跳ねた気がして。
 息を吸っているのか、吐いているのかさえ分からない。
 心の奥の。触れたくないところ。
 そこに、何かが手を伸ばして。

―――つばさちゃん?

 ファイアローの声で、はっと我に返る。
 顔を覗きこむ彼に、何でもないよ、と笑う。
 けれども、ファイアローにそれは通用しない。

―――中身がどうかしたの?

 そうして、ファイアローもダンボール箱の中を覗きこんで。

―――あ…

 とだけ、呟いた。
 それだけで、理由が分かってしまったから。
 これは確かに。確かに。

―――ねえーっ!まだなのー?

 だんだんと、尾を叩きつける白イーブイ。
 そんな彼女へ、二対の目が向けらる。
 そろそろ限界らしい。

―――ラテ、いいこでまってたっ!

 じっとして待っていたのに。
 刃物を使い終わっても、中身を取り出してくれる様子がない。
 待ちくたびれてしまうではないか。
 だって自分は。

―――ラテは、にんたいりょくないよっ!

 忍耐力。
 それを聞いて、つばさが笑った。

「ラテから、忍耐力、なんて言葉をきくなんて。どこで覚えたの?」

―――テレビっ!

 どやっ。
 白イーブイの見事などや顔だ。
 近頃みたテレビで聞いた言葉。
 ずっと使ってみたかった。
 けれども、使う機会がなくて。
 やっと、使えた言葉。
 それが嬉しかった。

―――ねえっ!おみやげっ!

「はいはい」

 急かす白イーブイに、つばさはダンボール箱から中身を取り出した。
 それは大きなぬいぐるみだった。
 のりものポケモンと呼ばれる、ラプラスのぬいぐるみ。
 背中には、つばさだって乗ることが出来そうなくらいの大きさ。
 白イーブイにとっては、尚更大きいだろうそれに。
 幼子の瞳はきらきらと輝いて。

―――しゅごーいっ!

 ぽんっと、床に置いた途端に。
 駆け出し、飛びあがり、あっという間にラプラスの頭部へとかけあがる。
 瞳を煌めかせ、とある方角を小さな前足で指し示した。

―――しゅっぱあーつっ!

 白イーブイが指し示す先は、実際には壁しか見えないのだが、彼女の煌めく瞳には、目指すべき何かが映っているらしく。

―――ざっぶうーんっ!

 と、航海を始めた。
 そして、その航海に漂着しようとする毛玉が一つ。
 毛玉こと、茶イーブイだ。
 真新しいボールを眺めていた彼だが、白イーブイの声に誘われたようで。
 ていっ、と跳ねては、ラプラスぬいぐるみの背中に飛び乗ろうとしている。
 けれども。
 ていっ、ていっ。
 何度も繰り返すのだが、その都度。
 ぽてん、ぽす。
 そんな柔らかい音をたてては、落ちている。
 そして、何度目かの。
 ていっ。そして、ぽと、ぽてん。
 今回は一度弾む。

―――ん…………んっ

 言葉にならぬ言葉を発して。
 大きな瞳が揺れる。
 ぽたぽたと、床に染みを作った。
 乗りたいのに。
 自分も航海したいのに。
 漂流する毛玉は、そのまま波にのまれて。
 しまう前に、ひょいっと波から救出された。
 浮き上がった。否、抱き上げられたのだ。
 そう茶イーブイが理解した頃には、彼はラプラスぬいぐるみの背中にいて。
 無事、航海の仲間入りを果たした。
 ラプラスぬいぐるみの首にきゅっとしがみつき、白イーブイと同じ方角を見ている。
 きっと、彼女と同じものを見ているのだろう。
 その姿が微笑ましくて。
 つばさは静かに笑った。
 その横で、ファイアローがダンボール箱に頭を突っ込んでいた。
 がさごそと、何やらつついてるらしくて。

「イチ、何してんの?」

 それに気づき、そう問うと。

―――んー?

 間延びした声と共に、彼が顔を上げた。
 ダンボール箱と一緒に。

―――あれ?見えない??

 頭からダンボール箱を被ったファイアローが、辺りをきょろきょろと見渡す。
 けれども、どこを向いても真っ暗だ。
 彼が必死にそこから脱しようともがく。
 その姿にまた、くすりとつばさは笑う。
 どうしていつも彼らは、これほどあたたかな気持ちにさせてくれるのだろうか。
 あとは、この場にブラッキーも居てくれたら。
 そう思って、思うのをやめた。
 手を弾かれた。
 拒まれたのだ。彼に。
 それが静かに、痛みだす。
 つばさの奥底にあるものが、じくじく痛みだす。
 あ、まずい。
 そう思った。
 呑まれそうになる。あの日に。
 前に進むと決めた。
 向き合うと決めた。
 けれども、独りじゃ。

―――抜けたっ!

 その声にはっとして顔を上げる。
 ダンボールから脱したファイアローが、きらきらとした顔をこちらに向けていて。

―――えへへ

 一つ、きらりと笑った。

―――つばさちゃんは、笑っていた方が可愛いよっ!

「…………っ」

 気付くと、つばさは彼に抱きついていて。

「イチは、あたたかいね」

 いきなりの状況に身を固くしたファイアローだが、抱きつかれたのが嬉しくて。
 くるる、とだけ鳴いた。

「イチは、あったかい」

 つばさは何度も紡ぐ。
 独りじゃなかった。
 自分は独りじゃなくて、一人だ。
 彼が居てくれた。いつだって。

「元気でた」

 そう言って身を離すと、今度は名残惜しそうにして。
 ファイアローが、くるる、と鳴く。
 瞳が揺れて。
 つばさはくすりと笑う。
 笑って、一つの紙切れの存在に気付いた。
 それを拾い上げると。

―――あ、それ。箱の底にあったの

 彼が言った。
 それを見つけ、つばさに渡そうと思い、ダンボールの底をつついていたらしい。
 だとしたら、これはレモからの。

『アローラ、つばさ!
 土産が届いたみたいでよかった!
 どう?驚いたでしょ!
 ライちゃんが選んだのよ』

 並んだ文字の筆跡は、確かにレモのもの。
 けれども。
 ライちゃん。ライちゃんとは、あの子のこと。
 ラプラスの姿を見ると、思い出す名があるのだ。
 それをあの子は、ライラは、自らを模したぬいぐるみを自分へ送った。
 それを意味すること。それは。
 紙を掴んだ手が震えて、はらりと床に落ちる。
 自分を落ち着かせようと、呼吸に努めて。

「あー…。おばさん、タイミング悪いな」

 橙の瞳が揺れる。
 滲み始めた視界はなぜだろう。
 向き合うべき存在はもう一つ。
 自分から遠ざけた、彼女という存在。
 けれども。

「ライラとも」

 海に落ちてしまったらしい茶イーブイを助ける、白イーブイの声が聞こえた。
 ラプラスぬいぐるみで、楽しく遊ぶ二匹。

「向き合わないといけないのは」

 けれども。
 つばさの瞳には、楽しく遊ぶ二匹の姿は映らず。
 ただ。

「分かってるけど」

 ラプラスのぬいぐるみだけが。
 鮮明に映りこむ。
 かつて、共に旅をした。
 ライラという名のラプラス。

「けどね」

 今は、ちょっと。
 その先の言葉は紡げなかった。
 だって、紡いでしまったら。
 きっと。きっと。
 目に溜まったものが、溢れてしまうと思ったから。
 けれども。
 瞬いたら、溢れてしまって。
 あ、もう無理。
 そう思った。
 たまらず、その場を離れた。
 流されてしまったらしい茶イーブイと、それを見捨てたらしい白イーブイの楽しそうな声。
 そんな彼らの邪魔はしたくなくて。
 心配をかけたくなくて。
 静かにそっと、その場を離れた。



*



 階下のカフェスペース。
 真っ暗な中、その端に、つばさは膝を抱えて座り込んでいた。
 階上からは、相変わらず賑やかな物音と声がする。
 膝に顔を埋めて。
 声も殺して、つばさは静かに。
 と、ふわり。
 柔らかな感触が、つばさに触れた。
 あたたかさに顔を上げると。

―――つばさちゃんっ!

 えへへ、と笑う瞳を見つけた。
 つばさに寄り添うに座り込むファイアロー。
 あたたかで、柔らかな彼の羽毛。
 そこに、つばさは顔を埋めた。
 堪えたものが、一気に溢れ始めたのを自覚する。
 ブラッキーのりんと、ラプラスであるライラ。
 どちらも、つばさが今まで背いてきたもの。
 どれも向き合うと決めた。
 決めたけれども。
 それらが一気に立ちふさがると。

「ごめんね、イチ。ちょっと、無理みたい」

 あなたの羽毛、ちょっと借りるね。
 そう紡むぐと、ファイアローは優しげに、くるる、と一つ鳴いて答えた。

―――いいよ、好きなだけ。好きなだけ、貸してあげる

 自分ははつばさが大好きだから。
 笑っていて欲しいから。
 そうなるための手伝いになるなら。
 幾らでも。
 これはきっと、自分の役目だから。
 自分だけの役目だから。
 つばさの特別にはなれないって、始めから知ってた。
 どれほど望んでも。
 手を伸ばしても。
 そこには手が届かない。
 自分と出会うずっと前から、つばさの特別は君だって決まってるから。
 それはきっと、宿命とかそんな。
 運命は変えられるけど、宿命は変えられない。
 そう、誰かが言ってた。
 誰だったかな。忘れちゃった。
 けれども。そうだとしても。
 変わらないことは一つ。
 自分はつばさが大好きだってこと。
 ずっと。ずっと、想ってる。
 だから。

「……りん…」

 泣き疲れて眠るつばさ。
 その彼女が。
 それでも、ぽつりと紡ぐ名が。
 別に、彼の名だとしても。
 自分の奥が少し、ちくりと痛むだけで。
 別に自分は構わない。
 自分のこの役目は、自分にしか出来ないと信じているから。
 だから。
 次に目覚めたときに、またつばさの笑顔が見れたらいいな。
 だから。
 彼も臆せずに、つばさにぶつかっていけばいいのに。
 君は、つばさの特別なのだから。
 きっと、受け止めてくれるよ。
 だから、ね。
 あの日を抱えたまま飛び込んだって。
 きっと、大丈夫だよ。


 そのままファイアローは、過去へとおもいを馳せる。
 思い出すのは。
 あの頃の、あの日のこと。

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