◇3
木漏れ日の下。
薄く湿り気を含んだやわらかな風が、少女の黒髪を揺らしている。それが尖った耳の先をくすぐって、ひくひくと耳が動いてしまう。着替えた少女は腕の出る服になっていたので、抱かれながらそのやわらかさに直に触れられることが嬉しい。
少女の腕は少しひんやりとして。
彼女の匂いが、その体温が、コロはたまらなく好きだった。
だからこそ、少女の顔を曇らせるものを、コロは許せない。
その接近に、コロは体を固くした。
「よう、どうだこの家の居心地は」
土を踏む音と共に木陰からから現れた青年は、気さくに片手を上げて見せる。
彼が何者か、人間の組織的なことはコロにはよくわからない。けれど彼がここに自分達を連れてきたのがただの親切であるはずはないと、コロは確信を持っていた。
「だいぶ姉さんに遊ばれてたみたいだな。ちょっと面倒見が過ぎるとこがあってさ。疲れたろ」
気遣うようなその言葉さえ、コロは訝しんでしまう。確かにあの女性には好き放題されてしまったが、悪意はなかった。嫌ってもない身内を否定するような人間の言い方を、コロは理解することができない。ホノはそんなことは言わない。
「……どうして、ですか」
囁くようなホノの声。
その疑問の意図を、青年は理解したようだった。
「聞きたいことがあったからさ」
表情や態度に変化は見せない。けれど、青年の纏う空気が変わる。コロにはわかる。
「回りくどいのはなしにしよう。探してるヤツがいる。そいつの情報を知りたい」
青年の目が細くなる。ホノの反応を確かめるように。
「イヌイ・イナ。その名前を知ってるな」
びく、とホノが震えるのがわかった。ホノの表情をみるまでもない。どうしてその名前を知っているのか。コロは青年を威嚇する。
「正直だな。心が読めると、自分も嘘が下手になるのか」
この青年はどこまで気付いてる?
コロは警戒を最大にする。口振りからして、こちらの能力を正確に把握してはいない。けれど、明らかにその一端を知られている。
「おれが密偵として今回の仕事に参加したのは、バラックカンパニーに近づけると思ったからさ。カネギ商会はあの組織との取引があった。けどな、商会のデータベースからはその記録がきれいに消されてた。捕らえたやつらのリーダーからも、今のところ何も聞き出せてないそうだ。まるで取引に関する記憶をごっそり失くしちまったみたいだってな」
ホノのコロを抱く腕が強張る。震えている。
コロは青年に唸りを上げた。こいつがどんな人間でも関係ない。ホノを苦しめるものは敵だ。
けれどコロには何もできない。ホノの意思がない限り、力を使うことはできない。
「きみたちの潜入の目的はそれだった。そうだろ、バラックカンパニーの“ビジョン”」
コロは吠えた。威嚇とは呼べないような高い声。それがたまらなく情けない。
できることなら。今すぐにでも、この人間の心を焼き尽くしてやりたい。自分の無力が堪らない。目元が滲み、鼻の奥がつんとする。
青年は暫し黙っていた。ホノの反応をみているのだ。
そんな視線をホノに向けるな。こっちを見ろ。
コロは精一杯に牙を見せて唸る。
けれど届かない。意に介されてもいない。
悔しい。ホノを守りたいのに。その力がない。
ふと、青年の視線が自分を見た。初めて目が合う。その瞬間、少し頭の血が引いた。
青年は小さくため息をついた。
「悪い、追い詰めるつもりじゃなかったんだ。尋問なんてする気はない。本当に聞きたい言葉は、そんなんじゃ得られないってわかってるのにな」
青年は視線をはずして頭をかく。自分の言動を本当に恥じている。コロにはそれもわかってしまう。
「けど、ひとつだけ覚えといてくれ。きみたちはあいつらを狙ってるんだろ。けど、できるならここで事は起こすな。姉さんがあいつらを気に入ってるんだ」
コロは理解する。この青年と自分は同じだ。
この青年も、だれかのために敵を選ぶのだ。
「きみにも事情はあるんだろ。おれも色々勝手をやったし、そこんとこは理解してるつもりだけどさ。けどだからこそ、その時はおれも介入することになる」
青年の瞳が冷たさを放つ。片目は髪に隠れていても、その鋭さは充分にわかる。
彼は迷わないだろう。コロと同じように。大切な誰かのためであるなら。
けれど。青年の表情から固さが抜け、少しだけ優しげな面を見せる。
「ここで争いたくはないし、きみの敵にはなりたくない。姉さんはきみのことも気に入ってるからな」
それだけ言うと、青年はくるりと踵を返す。片手を上げて「じゃあな」と言うと、木々の向こうへと消えていった。
ホノの腕から緊張が解ける。顔を俯けて、小さく息を吐く。
プレッシャーからの一時の解放。
けれど、これから起こることへの憂い。
それがホノの顔を曇らせ続ける。
『よー、ぶっとい釘を刺されてんなー』
間延びした“声”が落ちてきた。
いつからいたのか、ホノやコロにさえそれを悟らせないのはさすがというべきか。樹上であくびする黒い影が、うっすらと紅い眼を開けた。
◆4
クゥは駆けて距離を詰め、大きく跳躍して拳を突き出す。決まると思った。ハクはわたわたとして咄嗟に反応できていない。しかしその拳がハクの胸元を捉える直前、防御に出されたハクの太い腕がクゥの体を横殴りにした。気付いて片腕で防御はできたが、空中では踏ん張ることも敵わずそのまま弾き飛ばされるしかない。地面に叩きつけられて転がり、無闇に巨大な大顎の角が受け身の邪魔をする。
苦い土の味をじゃらりと噛み締め、ぷっと吐き出す。すぐに起き上がって構えをとる。けれどハクの追撃はなかった。自分が優位に立ったこと、それに動揺するかのようにおろおろと拳をさ迷わせている。その事がクゥを苛立たせる。
クゥはもやもやを溜め息にして、踵を返す。これ以上続けても仕方がない。ただの組手でも本気で闘えないような相手に付き合うのならば、ひとりで技の鍛練をしていた方がいい。
ハクはなにか言いたそうにこちらを見ていたが、ぐっと拳を下ろして押し黙った。クゥはなおさら不機嫌になり、背を向けてその場を歩き去る。
結局ハクはこうなのだ。強くなりたいという意志はみせても、そのための行為に踏み切れない。闘うことも、傷つけることも肯定しきれない、野生を失った甘ったれだ。
あれだけの力を。
闘える体を持っているくせに。
そしてそんなハクを相手に、容易に優位を許してしまう。そんな自分が、クゥは何より許せない。
小さな体。
短い手足。
枷にしかならない重い角。
どれだけ技を磨いても。
自分の体は、自分の目指す闘い方に、どこまでも不向きを突きつける。
間違っているのは自分なのか。
そういうポケモンとして生まれたことに、順応するのが正しい生き方か。
構うものか。
用意されたものなどくそくらえ。
何に逆らうことになろうと。
いかに誤った道であろうと。
必ずこのやり方で強くなる。
どこの誰よりも、何よりも。
「ああ、クゥか」
降ってきた声に顔を上げると、人間としては小柄な少年、ユウトが横切るところだった。小柄といっても、クゥの倍以上の背丈はある。人間というのは嫌な生き物だ。
背中に篭を背負っているので、きのみでも採りに行くのだろう。心なしか顔が赤いのは気のせいだろうか。
「修業してたんだろ。ハクと一緒だったんじゃないのか」
クゥはふんと鼻を鳴らした。人間の会話、その意味もだいぶ理解できるようになってはきたが、いちいち答える義理もない。返したところでどのみち理解はされないだろう。クゥは無駄なことを好まない。
それに。
やはりこいつのことは気にくわない。
しかめ面ばかりして何を考えているかわからない。
どこまでも素直なツバキと違って、人間らしい面倒臭さを抱え込み過ぎる。
そのくせやるべきことをやらない。
今だってそうだ。他人の手伝いになどかまけていないで、片付けるべきことがあるだろう。
おまえがはっきりしないままでは、ツバキは前に進めない。
「クゥはツバキのこと好きだよな」
クゥはぎょっとした。
まさか考えが伝わっていたのか。ただの偶然か。
こいつは突然何を言い出す?
「クゥもいろいろ顔に出るよな。最初の頃より、表情もやわらかくなってきたよ」
そう言ってユウトは少しだけ笑う。
なんだこいつは。そんな顔はここしばらくしていなかったろう。そういう表情を見せるべき相手は、自分なんかより他にいるはずだ。
けれどユウトは、さらにクゥの予想外を続ける。
「クゥはこれからも、ツバキのことを好きでいてやってくれ」
何を言われたのかわからなかった。
クゥは人間の言葉そのものを理解できているわけではない。ただそこに込められた意思を、心を“聞き取って”いるだけだ。
だからそれがうまくいっていないのだと思った。だって、なぜそんなことを言われるのかわからない。
クゥの内心の動揺をよそに、「それじゃ」と言ってユウトは菜園へと去っていく。とっさに追いかけようと足が動きかけたが、やめた。そうしてはいけないような気がした。
彼の背中に、何を読み取っていいのかわからない。
おまえがツバキを迷わせたくせに。
どうして自分にそんなことを言うんだ。
クゥは音を立てて拳を握る。
クゥがツバキと共に来たのは、彼女に自分にはない強さをみたからだ。彼女といれば、新たな強さを得られると、もっと強くなれると思った。それだけのはずだ。
好きか嫌いかといえば嫌いではない。気にくわないことは多々あるが、あの素直さとまっすぐさには好感をもっている。
だからといって。
そんなことに特別な意味などない。ユウトの言うようなことは、人間同士や、ハクのような甘ったれがやっていればいいことだ。クゥは無駄なことを好まない。
そのはずなのに。
今の言葉が、妙に胸をざわつかせるのはなぜなのか。