9.クチナシの写真 後編

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 ヨウの握る細い棒の先で、チラーミィのしっぽみたいな毛束が揺れている。みょんみょんと絶妙なリズムで踊るそれに、一匹のニャースが勢いよく飛びついた。ヨウはさっと棒を動かして避ける。すると別のニャースが「なふぅっ」と興奮した声を上げながら、毛束にねこパンチを繰り出した。逃げるように棒を小刻みに振ると、ニャースたちはますます毛束に夢中になって、にゃんにゃん鳴きながらヨウの周りを跳ねまわった。
「わーヨウ、ポケじゃらしの使い方、上達したねー。」
 ソファの上で寝そべるニャースをブラッシングしながら、ハウが笑った。
 ニャースたちの遊び相手をしてほしい、というのがクチナシの頼みだった。それくらいならお安いご用です、と承諾したヨウとハウに、クチナシはニャース用のおもちゃや毛づくろい道具を渡した後、「じゃよろしく」と言って出かけてしまった。

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 ポー交番にはもうかなりの時間、ヨウとハウとニャースたちの声だけが響いていた。ロトムは部屋の隅ですやすやとお休み中――図鑑の充電中だった。
「クチナシさんどこ行ったんだろうー? けっこう経ったよねー。」
 ハウが言った時だった。交番のドアが開いて、クチナシが戻ってきた。ニャースたちが次々に鳴いて出迎える。その顔を一つずつ見て、クチナシは目尻のしわを深くした。
「おっ、ニャースたち満足そうだな。」
 そしてヨウとハウに「遊んでくれてありがとよ」と感謝を述べながら、カウンターの上に持っていた袋をどさりと置いた。
「こいつは礼だ。晩飯。食ってくだろ?」
 ヨウもハウも、ちょっと目を丸くして、クチナシの顔とカウンターの袋を交互に見つめた。
「ニャースたちと遊ぶのは、手紙への協力とコーヒーのお礼じゃなかったのー?」
「あ? そうだっけか? おじさん年寄りだから忘れちまったなあ。」
 ひょうひょうとのたまうしまキングに、素直に感謝すればいいのかさすがに遠慮するべきかヨウとハウが決めかねているうちに、クチナシはニャースたちの晩飯を用意し始めた。ざらざらと勢いよく大皿に盛られるポケモンフーズに、ニャースたちがわーっと群がって押し合いへし合い。田舎の小さな交番は、にわかにハウオリショッピングモールのバーゲンタイムよろしく賑やかになった。その中で困惑の表情を浮かべてじっと動かない子供らを、クチナシは不思議そうな目で見る。
「ん、腹減ってないのかい。」
「いえ、そういうわけでは……。」
「じゃあ食いな。せっかく買ってきたんだから。いいポケ丼屋があってよ、最近お気に入りなんだ。」
 ヨウとハウは顔を見合わせた。確かに、遠慮したところでクチナシは二人分の夕食の処理に困るだけだろう。特にどこかでディナーの予約をしているわけでもなかったし、二人はクチナシの厚意を受けることに決めた。
「ありがとうございます。」
「いただきます。」
 クチナシは自身の分を取り出して二人に袋を渡すと、立ったまま食べ始めた。交番の主が立ち食いしているのに、自分たちだけソファに座っているのもどうかと思ったのだが、カウンターに寄りかかりニャースたちを眺めているクチナシの様子は、結構満足そうだ。ヨウはあまり心配しすぎないことにして、受け取った容器のふたを開けた。
 一口サイズに切った魚介を、香味野菜や海藻、濃厚な口当たりのきのみ、ヤドンのしっぽの水煮などと共にあえ、白飯に盛りつけたのがポケ丼だ。ポケモンも大好きな味だからとか、ヤドンを使う「ポケモン丼」の略とか、アローラの古い言葉に由来するとか、ネーミングには諸説ある。観光客にも人気の、アローラのロコフードだ。
「わー、美味しそう!」
 だからハウもきっと初めて見る料理ではないだろうが、見た目はとても気に入ったようだ。早速「いただきます!」と手を合わせ、スプーンを手に持っていた。
「この店、下味にこだわっててよ。樹上で熟したリンドの実を発酵させて作ったソースを使ってるんだと。ポニ島産のやつだけを使うのが肝らしい。」
「へーおうなんだー。すごうおいいいでう!」
 半分ぐらい言葉も食べてしまいながら、ハウは実感を込めてもぐもぐうなずいた。ヨウも「いただきます」と手を付けた。
 新鮮な魚の食感。漬けこんだ特製ソースの風味と塩加減が、魚の旨味をぐんと引き出している。絶妙な配分で混ぜられたきのみと野菜がさわやかに味を調えて、いとも簡単に二口目が誘われた。すると先とは異なる種類の魚がやってきて、違う歯ごたえと香りなのに同じ下味によってまとめられているから、全然けんかしない。手がどんどん進んでしまう。ほんのりとした甘味の中に深い旨味が隠れているのは、ヤドンのしっぽだろう。下味の付け方でこんなにも表情を変えるなんて、知らなかった。
「美味しいです、クチナシさん。」
 思わず無言で数口食べてしまった後、はっとしてヨウは感想を述べた。
「そうかい。そりゃ良かった。」
 クチナシはこちらを見もせずに返事をしたが、それが彼なりの上々の答えだった。


 そうして二人が夢中で頬張っていたポケ丼の中身も、ほとんど空に近づいた頃だ。
「あれ、クチナシさんはー?」
 先に容器を空にしたハウが、ふと顔を上げて尋ねた。見渡すと、確かに交番の中にはたくさんのニャース以外、自分たちと、充電を終えてその辺を飛んでいるロトム図鑑しかいない。
「出かけたのかな?」
「もう夜なのにー?」
 納得いかない様子のハウは、ごちそーさま! と言って立ちあがった。
「おれちょっと外見てくるよ。」
「あっ、待ってハウ、ぼくも行く。」
 ヨウも急いで食事を片付け、二人は交番の外へ出た。
「あー、ボクも置いていかないでほしいロトー!」
 と、すっかりお目覚めのロトム図鑑も付いてきた。
 ひやりとした空気が肌を撫でた。涼しい。日はすっかり暮れ、ラッタとかアリアドスとか夜行性のポケモンの鳴き声がちらほらと聞こえる。
 向こうの方にぽつんと立った街灯が寂しく道を照らしていた。その街灯の光も絶えた暗い道路の端に、クチナシはいた。無造作に置かれた木製コンテナをベンチにして、ペルシアンと二人、空を眺めていた。
 今夜は満月だった。
 ヨウとハウはクチナシがすぐに見つかったことにほっとして、彼らに近づいた。
「月が綺麗ですね。」
 ヨウが声をかけると、クチナシは二人の方に視線を下げて薄く笑った。
「そういうのはもっといい人に言うもんだぜ、ヨウ。」
「お月見してたのー?」
「ああ。こいつが満月見るの好きでよ。」
 ペルシアンの満月みたいな丸い頭に、クチナシの骨ばった手が乗った。クチナシの手が左右に揺れると、ペルシアンは心地よさそうに喉をごろごろ言わせた。月光はペルシアンの毛皮によく映え、まぶしすぎない明るさはかえってクチナシの心根をくまなく照らす。二人ともとてもリラックスして見えた。いい画だとヨウは思った。
「……あ。」
 ヨウはロトム図鑑が自分の後ろにいることを確認する。それからクチナシに尋ねた。
「写真、撮ってもいいですか?」
 隣でハウがヨウの意図を理解した。当のクチナシは最初、問いの意味が分からなかったようだ。
「月はおれのもんじゃねえから、ご自由にどうぞ。」
「クチナシさんとペルシアンを撮りたいんですよ。」
 くすくすヨウが笑い、ロトムはもうカメラモードの準備万端だった。クチナシは少し困った顔をする。
「さっき撮ったじゃねえか。」
「念のためです。特に笑顔とか作らなくていいんで、ペルシアンとお月見を続けてください。」
「参ったねえ……。」
 頭をかきながらも、自然体でいいならばと思ったのだろう。お月見続けてろってよ、とペルシアンに話しかけながら、クチナシは月の光に横顔を濡らした。
 ヨウは画面の中にクチナシとペルシアン、そして満月が入っているのを確認して、シャッターボタンを押した。
 撮れた写真をのぞき見て、ハウがにっこりうなずいた。
「オッケーです。ありがとうございました、クチナシさん。」
「へい。どうも。」
「ほら、さっきよりいい構図だと思いません? リーリエに送るの、こっちにしようかと思うんですけど。」
 ロトム図鑑の画面を差しだすと、クチナシとペルシアンはしばらく画面を眺めていた。
「おじさんは写真のことは分かんねえからな。好きなほう使いなよ。」
 そう言って図鑑を返すクチナシは、まんざらでもない雰囲気だった。ペルシアンもクチナシに続けて、低い鳴き声をやわらかく伸ばした。ヨウにペルシアンの言葉は分からないが、少なくとも敵意はない音だと思った。
 静かな夜だった。風は穏やかで、空には雲一つない。雨の多いこの地域には珍しいことだった。満月に誘われて外に出てしまうのも無理はない。きらめく星々は紺布に宝石の粒を撒いたようで、その光景はきっと空と海が混じる水平線まで広がっているのが見えただろう。そびえ立つポータウンの外壁が、空を黒く切り取っていなければ。
 ボスを失ってもなお多くのスカル団員たち――あるいは元スカル団員たちが中に残っているというその町は、今は闇に沈んで眠っていた。
 ふとヨウは、クチナシの赤い瞳が月の光ではなく町の影を映していることに気がついた。
「ポータウン、見てるんですか。」
 ヨウの質問に、クチナシは否定も肯定も返さなかった。ただぽつりと小さな声でつぶやいた。
「壊れるのは一瞬なのになあ。変わるのは、時間がかかるんだよなあ。」
 少しの間。
「でも、」
 口を開いたのはハウだった。交番の中で続かなかったハウの言葉は、今、違う形で音になる。
「月が昨日と同じ形の日は、ないと思う。」
 クチナシがハウを見た。それから、にやっと唇をゆがめた。
「若い子の感性はうらやましいねえ。」
 そうしてヨウたちはそのまましばらく、満月の下で共に時間を過ごした。

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