第30話:左手の焔――その2
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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください
「ホノオ……?」
目の前にいる者は、セナの知っているホノオではない。燃えるように赤く光る身体は、離れた者もひりひりと焦がす熱を放っている。
「なっ、何なのよ……」
一歩後退しながら、アチャモは震えた声で言う。チコリータもミズゴロウも、身を寄せ合って怯えた表情を見せた。
「死ね。跡形もなく焼き尽くしてやる」
ホノオは左手を前にのばし、手のひらをチコリータたちに向けた。憎悪のエネルギーが全身から漏れ出し、とうとう大地に影響を与え始める。地面が低くうなる。波が荒立つ。崖の上の岩が振動し擦れ合う。ホノオの激情に合わせて、大地もどんどん暴れ狂ってゆく。
「ホノオ、やめろよ。落ち着けって!」
このままでは、崖が崩れてしまうかもしれない。セナは慌ててホノオの攻撃動作を解除しようとする。伸ばした左手にしがみついたのだが、振り払うように高熱が噴出される。セナは反射的にホノオから離れるものの、焼け付く痛みに突き刺される。
「ぐあぁっ……!」
セナの痛々しい悲鳴は、今のホノオには届かなかった。思わずセナとホノオから目をそらすチコリータたちを、ホノオは冷酷な眼差しで突き刺した。
フッと鼻で笑うと、とうとうホノオは技の発動にかかる。体力も限界のセナは、呼吸を荒げつつホノオに祈るような眼差しを向けるしかできなかった。
「“破壊の――」
と、言いかけたときだった。とうとう崖が振動に耐えられなくなったようだ。セナたちの上方で、崖の先端が大胆に削ぎ取られるように崩れたのだ。巨大な岩の塊が、小さな5人のポケモンたちを押しつぶそうとする。あっという間に影が濃くなると、恐怖も色濃くなってゆく。こんなものが降ってきたら、みんなおしまいだ。
「わあぁーっ!」
ホノオ以外の4人の叫び声が重なる。誰もがもうダメだと思ったが。
「――焔”」
ホノオは手のひらを上に向け、落ちてくる岩に攻撃をぶつけた。その瞬間を、セナは忘れはしない。
小さなホノオの手のひらから、命のエネルギーを遥かに凌駕する、途方もなく巨大な焔の塊が発射された。それは容易く岩を飲み込み、一瞬で粉々に砕いてしまった。もはや岩ではなく、石ですらなく、砂と呼ぶのがふさわしいほどに。
「なん……だ、これ……」
毒やダメージでボロボロの身体が、恐怖でわなわなと震える。あんなものが、もしチコリータたちに当たっていたら――。
――焔が尽きると、落石などなかったかのように、サラサラとわずかな砂が降りかかった。波の音も、徐々に落ち着きを取り戻す。ホノオに宿っていた赤い光は、ホノオが負っていたダメージと共にきれいさっぱりと消えていった。
「……あ……」
見られた。セナに、あの技を。
ホノオは我に返る。状況を悟ると、小さな左手が大きく震えた。
「ホノオ?」
真っ白な頭に、セナの声が投げかけられる。その声に含まれた感情を悠長に読み取る余裕など、ホノオにはない。それでも確信してしまった。きっと振り返ると、自分を冷ややかな目で蔑むセナがいるのだろう。もう二度と“友達”とは呼べないセナが、そこにいるのだろう。
「……ごめん」
今生の別れの言葉のつもりだったのに、この3文字が限界だった。生気のない声で告げると、ホノオは地面を強く蹴って走り出した。持ち前の俊足を最大に活かし、あっという間に洞窟の反対側へと姿を消してしまう。
「まっ、待て、ホノオ!」
セナは慌てて後を追おうとするが、全身の切り傷が激しく疼く。足に力が入らず崩れ落ち、そのままうつ伏せに倒れてしまう。中身を放り投げた、しぼんだ青いバッグですら、今は邪魔くさい。バッグを投げ捨てると、セナは再び立ち上がった。――まずい。頭が凍り付いてゆく。毒や体力の回復など脳裏によぎらぬほど、セナは焦っていた。まずい。何がまずいのか、論理的に説明はできないのだが、とにかく。このままホノオを失うと、二度と戻ってこないような、そんな気がした。
「なんだか分からないけれど、今がチャンスかしら。あれだけ急いでいるのなら、すぐに白状しそうね」
まだわずかに声が震えているものの、徐々に冷静さを取り戻したアチャモが言う。しかし、「待って、スザク」とチコリータが止めた。
「あのゼニガメとヒコザル、本当に悪いポケモンなのかな。あたしたちの村を襲ったポケモンなのかな」
「悪いポケモンに決まってるでしょう。グリーンビレッジを壊したのは、2人組のゼニガメとヒコザル。どう見てもアイツら。そもそも、ウチらは今、ヒコザルに殺されそうになったじゃない」
アチャモはため息をつき、ミズゴロウを睨む。
「アンタはどう思うのよ? ウォータ」
「えぇっ!? オラはぁ~……。オラは、えと、ポプリに賛成だ」
と答え、ミズゴロウは視線をセナに移した。何度も転び、時間と共に毒に体力が削られ、もはや立ち上がることを諦めている。それでも、這いつくばるようにじりじりと前進していたが、とうとう力尽きて手足を動かせなくなってしまった。
「あっ、大変!」
自分たちが負わせた傷で弱るセナを黙って見ていられなくなり、チコリータはセナに駆け寄っていった。
「なぁ、スザク。オラたちの村を襲った奴らは、不気味なほどに感情がない奴らだった気がするだ。だども、今日のゼニガメとヒコザルには、ちゃんと感情があるだぁよ。何より、オラ、なんだかゼニガメを見捨てられないだよ!」
ミズゴロウはアチャモにそう言うと、セナに駆け寄っていった。
「……全く。そういう甘さが、この先命取りにならなければいいけれど」
呆れつつも、アチャモもチコリータとミズゴロウについて行くのだった。
「ホノオ……」
身体が重くて持ち上げることができない。それでも、危機感がセナを突き動かそうとする。動かそうとするが、もはや身体は動かない。ただホノオの名を呼び、身を案ずることしかできない。
「大丈夫?」
セナの頭上から、チコリータの心配そうな声が降ってくる。――大丈夫、な訳がない。傷を負わせたのは、お前たちだろう。セナは苛立つ。ムキになって立ち上がろうとするが、身体がピクリとも動かず体力を消耗するだけだった。
チコリータはオレンの実とモモンの実をつるで持ち、セナにきのみを差し出した。
「怪我をさせちゃって、本当にごめんね。はい、このきのみで治して」
近くで見ると、セナが全身に負った傷は酷いものだった。葉っぱカッターで水色の皮膚が深く傷つき、表層で毒と血液が入り混じっている。探しに探して、やっと敵を見つけた。そう舞い上がって、全力で攻撃を仕掛けた結果が、これだ。冷静さに欠いた酷い仕打ちを深く反省し、チコリータは涙を流す。
「どうせ、きのみも、毒入り、なんだろ……。邪魔。どいて、くれ……」
体力を回復すべき状況で、便利なきのみが目の前にあるにも関わらず、セナは不信感からきのみを跳ね返す。セナとホノオの言い分を微塵も信じなかった自分たちへの当然の仕打ちだと、チコリータは理解する。しかし。本気で助けようとする思いが跳ね返されたのは、思った以上に辛いことだった。
「悪かった。許してけろ! オラたち――」
「あぁもう、さっさと食べなさい」
ミズゴロウがセナに弁明をしようとするが、アチャモが途中で行動に出る。きのみを無理やりセナの口に押し込んだ。
「むぐっ……!」
食べるものかと思ったが、口がふさがり苦しくなる。窒息してしまいそうになり、仕方なしにセナはきのみを噛み砕いて飲み込んだ。毒の苦しみは抜け、身体の痛みも消えた。痺れや眠気などの状態異常も引き起こされず、どうやら普通のきのみだったらしいと、セナは理解する。
両腕も両足も、重力に抗う力を取り戻したようだ。セナはまっすぐに立ち上がる。
「……どうも」
チコリータたちを信用しきれていない上に、そもそも相手に付けられた傷を治したに過ぎない。例を言うのも癪だと思いつつも、つい癖でセナは一言添えてしまう。視線を伏せて、不信感はめいいっぱいに伝えたが。
「ううん。一方的にキミたちを傷つけちゃって、ごめんね」
「ごめんだよ」
チコリータとミズゴロウは頭を下げてセナに謝罪した。アチャモは反省した素振りを見せなかったが、今のセナには些末なことだった。こんなところで時間を浪費している場合ではない。
「分かった、じゃあな」
「あっ……」
適当な相づちを粗末に添えて、セナは駆けだした。ホノオに比べてだいぶ遅いのだが、精一杯地面を蹴る。
海沿いの岩場の細い道を可能な限り早く走りながらも、頭を働かせてホノオの居場所に見当をつける。
(最近のホノオ、引っかかる発言が多かったな。すぐにごめんって謝るし、“オレはお前と一緒に居ちゃいけない”みたいな、らしくない卑屈なことを言っていたし……。もしかして、あのヤバそうな力が、ホノオをずっと悩ませていたのかもしれないな)
それだけの情報では、ホノオの居場所に見当がつかない。もっと、ホノオのことを考えなくては――。
時には凹むけど、基本的には自信に満ちていて元気がある奴で。前向きで、何度もオイラのことを励ましてくれて。オイラのことを何でも見通すところはちょっと怖かったし、大喧嘩でお互いに追い詰め合ってしまったけれど。そういう悪い思い出も全てひっくるめて、仲直りして、友達になったんだ。――後腐れなく、思い出は浄化されたはずなのに。なぜその後も、ホノオはどこかよそよそしい態度だったのか。
――後腐れなく? 本当に、そうだろうか。そう思っているのは、オイラだけなのではないか。
ここまで考えると、セナはひとつ、ちくりと痛い記憶を思い出した。
銀の針。ホノオはあの日、銀の針で自ら命を絶とうとしていた。独りで罪を背負って、世界から消えようとしていた。後腐れがない、なんて、都合の良いところだけ切り取った捏造だ。ホノオは――そして、原因の一端を担ったオイラも、その後味の悪さを、命への後ろめたさを引きずったまま、生きていくしかないのだ。
銀の針。まさか。
なんとなくだが、ホノオの居場所に見当がついた。分岐路に出くわし、片方が崖のてっぺんへと向かって伸びていくのを見ると、セナは確信する。急がなくては。ゼニガメの甲羅を疎ましく思いつつも、さらに速度を上げた。
洞窟を抜けたばかりの場所は、ただの細い一本道だった。次第に道は広くなり、枝分かれし、上り坂と下り坂ができて……。ひたすらに上に向かう分かれ道を選択し、ホノオは崖の頂上にたどり着いた。さすがに息が切れ、ため息をついて崖に腰をかけた。
危険な高さの崖から、遠い遠い海を見下ろす。荒波。尖った岩の群れ。今、ここで海に飛び降りたら、確実に、命は――。
ほんの一瞬だけ、ホノオに飛び降りる“勇気”が湧いた。しかし、行動に移す前に、勇気は消え失せた。
「ごめんなさい」
焦点の合わぬ目で左手を見つめてポツリ。波の音も遠く、小さな声もはっきりと爪痕を残しながら拡散していく。
ホノオが目を閉じると、エレキブル、レントラー、サンダース――救助隊ボルトの姿が思い出される。私利私欲に目がくらんだ汚い笑みを、あれほど憎んだはずだったのに。記憶が焔に焦がされたように、もう顔を思い出せなくなっていた。
それこそが、いっそうホノオの罪悪感を駆り立てる。――ああ。オレは。命を奪った痛みを忘れてしまうのか。そうして罪を積み重ねながら、手を汚して生きていくのだろうか。
――そもそも、ホーリークリスタの後押しを受けずとも、オレの中には破壊的な衝動が眠っていたのかもしれない。セナが止めてくれなければ、きっとギャロップとドードリオを殺していた。
――隠し通せるはずもない本性なのに。ボルトを殺したことを、オレはセナに隠してしまった。ずっと隠し通せたらいいな、なんて、都合のいいこと考えてしまった。
――今日、とうとうオレの本性がバレてしまった。セナの前で、ポケモンを殺そうとしてしまった。もうセナに合わせる顔がない。それはとても悲しいことだけど、ほんの少しだけ安心してしまった。嘘をつき続けるのは、オレには難しいことだから。
命を狙われて虐げられる過酷な旅の中で正気を保つには、ホノオの心はあまりにも脆く幼かった。そんな言い訳を、ホノオは一切許さずに罪を咀嚼していく。
涙が、止まらなくなった。
スイクンの、ポケモンたちの言う通り。きっと自分こそが災いを引き起こす人間であり、ガイアに生きるべきではない存在なのだろう。そう確信している。死んでしまえばいい。でも……怖い。誰かを殺した人間に、怯える権利はないと分かっていながらも、ホノオは崖の高さに震えていた。気の迷いですぐにでも死ねるこの場所は、不思議と心が安らぐ。そんな安らぎなど、自分には得る権利などないのに。
気持ちがぐちゃぐちゃになる。苦しい。死んでしまいたい。でも、死んでしまって楽になるのなら、罪の意識もなくなってしまうのならば――それはそれで、許されないことのように感じてしまう。
で、あるならば。
「はじめから、生まれてこなきゃ、よかったな……」
涙は眩しく輝きながら、次々と海に飛び込む。どんな罰でも受けるから、自分の存在をなかったことにしてしまいたい。願っても無駄だと分かっているのに、それでも願うしかなかった。
そんなときだった。今いちばん、聞きたいような、聞きたくないような声が聞こえたのは。
「よぉ、ホノオ。ここにいたのか」